tag:blogger.com,1999:blog-76949414984775106992024-02-09T01:45:01.248+09:00林檎の花、龍の爪波間に浮かぶ士魂。ある士族のルーツを訪ねます。Unknownnoreply@blogger.comBlogger945125tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-707894452922728712024-01-05T19:22:00.002+09:002024-01-05T19:22:14.404+09:00秋月 胤永<p> あきづき かずひさ、文政7(1824)年7月2日~明治33(1900)年1月5日</p><p> 幕末まで:悌次郎。 号:韋軒。 字:子錫。</p><p> 藩士/丸山四郎右衛門胤道の次男として下米代二之丁西 (秋月梯次郎生誕之地) で誕生、秋月姓を継ぐ。</p><p> 日新館で成績優秀により19歳で江戸留学、23歳からは昌平坂学問所(昌平黌)で学び、27歳で書生寮助役、30歳で舎長となる。</p><p> 安政3(1856)年、33歳で昌平黌を卒業すると藩命により九州などの西国諸藩を遊歴、途中で長岡藩/河井継之助と行動をともにしている。</p><p> 帰国後、「観光集/七巻」「列藩名君賢臣事実」を著し藩主に献上。</p><p> 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用方・諸藩周旋方 (外交官) に抜擢され、会薩同盟の切っ掛けをつくる。</p><p> 慶応元(1865)年に蝦夷地代官となるが、翌年には京に召喚される。</p><p> 軍事奉行添役として越後方面に出陣したが裏方に徹する。</p><p> 開城を取り仕切り、戦争責任を問われ終身禁固刑となる。</p><p> 明治5(1972)年1月6日、幽囚が解かれ招聘され左院少議、文部省御用掛、東京大学予備門の教諭、第一高等中学の教諭などを歴任する。</p><p> 明治21(1888)年、妻/美枝子が死去。</p><p> 明治23(1890)年、67歳で招聘され熊本第五高等学校の教授となる。</p><p> 同僚であったラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、秋月を</p><p> 「神のような人、神が姿を表すとしたら秋月先生のような姿だろう」</p><p>と崇敬していたことは良く知られている。</p><p> 晩年は東京に戻り、享年77歳で死去、墓は青山霊園にある。</p><p> 市内にも、墓碑/善龍寺や詩碑などがある。</p><p> http://www.aizue.net/siryou/tyomeijin-a.html#akizuki-kazuhisa</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-780877162264158962024-01-05T19:18:00.002+09:002024-01-05T19:18:20.423+09:00 夏目漱石<p> 夏 目 漱 石 / 会 津 へ の 想 い</p><p> 夏目漱石が、明治動乱期においての偉大な国民的作家であることに異論はあるまい。</p><p> 数多くの優れた作品を残しているが、なんといっても代表的な作品はファンが多い「坊ちゃん」であろう。</p><p><br /></p><p> 作品の中に、舞台である地名すら「不浄な地」としか記されていないのに、なぜか「山嵐 (堀田)」という「会津っぽ」が登場するのである。</p><p> 明治39(1906)年発刊なのだから、卑劣な西軍から着せられた故なき汚名の返上は叶っておらす、会津について語ることすら憚れる時代である。</p><p> 強いて言えば、結末の「赤シャツ」と「野だ」に天誅を下す役割だろうが、会津人が出てくる必要性など まったく見当らない。</p><p> 出身が明らかなのは、東京出身の「坊ちゃん」と「野だ」、会津出身の「山嵐」の3人だけで、「坊ちゃん」は江戸っ子と答えている。</p><p> なお、愛媛県尋常中学校へ赴任していた体験から小説「坊っちゃん」は書かれたのだが、「不浄な地」とは赴任地の「愛媛県ではない」ことが定説である。</p><p>「君は一体どこの産だ」</p><p>「おれは江戸っ子だ」</p><p>「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」</p><p>「きみはどこだ」</p><p>「僕は会津だ」</p><p>「会津っぽか、強情な訳だ。 ~ 」</p><p> その夜 おれと山嵐は この不浄な地を離れた。 船が岸を去れば去るほど いい心持ちがした。 神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。 山嵐とは すぐ分れたぎり 今日まで逢う機会がない。</p><p> 出会いは、</p><p> 「礼儀を心得ぬ奴」</p><p>であった。</p><p> 漱石自身も、当時の詩西園寺首相からの園遊会招待をハガキ1枚で辞退し、博士号授与も断っている。</p><p> 漱石の反骨精神を、山嵐を通して表現しているとも言われている。</p><p> 「叡山の悪僧と云うべき面構」とあるが、織田信長が焼き打ちした比叡山を再興し、後に東叡山を開山したのは、会津出身の天海大僧正である。</p><p> 会津藩士/志田貞二郎の3男で家老/西郷頼母の養子となり、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の得意技が「山嵐」である。</p><p><br /></p><p> やがて、</p><p> 「悪い男ではなさそうだ」</p><p>へと変わり、</p><p> 「一番生徒に人望があるのだそうだ」</p><p>と教師の理想像として描かれている。</p><p> 山嵐は数学教師であるのに、</p><p> 「might is right ~ 強者の権利」</p><p>という英語を使って説諭を加えている。</p><p> 文学にも精通している教養人としても描かれているのだ。</p><p> 出典はプラトン「国家」で、通常「力は正義なり」と訳される。</p><p> 「正義は必ず勝つ」「強者こそ正義である」なのだが、「善悪と勝敗とは別」と言う意味で西軍を揶揄した「勝てば官軍」とは根本的に異なる。</p><p> それから おれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。 これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。 人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。 何がアハハハだ。 そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。 おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。</p><p> 帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。 学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。 ただおれと同じようにせっかちで肝癪持らしい。 あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。</p><p> 山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。 一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。 山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。</p><p> 「坊ちゃん」の兄が卑怯な待駒をした時にケンカした時、初めて教壇に立った時にも「おれは卑怯な人間ではない」とある。</p><p> 「卑怯」の言葉は、作品の中に10回も出てくる。</p><p> 会津では、「卑怯」な行動を忌み嫌う。</p><p> 西軍が行なった偽勅や錦の御旗の偽造などは、恥ずべきこととして想像すらしない。</p><p> 幼き頃に受けた教育「什の掟」にある「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」は、今なお綿々と引き継がれている。</p><p> 兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。 元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。 十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。 ある時 将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。 あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。 眉間が割れて少々血が出た。 兄がおやじに言付けた。 おやじがおれを勘当すると言い出した。</p><p> いよいよ学校へ出た。 初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。 講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。 生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。 先生には応えた。 今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。 何だか足の裏がむずむずする。 おれは卑怯な人間ではない。 臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。</p><p> その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。</p><p> 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。 おれの顔を見てみんなわあと笑った。 ~ ~ ~ おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。 君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。 やな奴だ。 わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。</p><p> おれだって中学に居た時分は少しは いたずらもしたもんだ。 しかし だれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯な事は ただの一度もなかった。 したものはしたので、しないものはしないに極ってる。 おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。 嘘を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めから いたずらなんかやるものか。 いたずらと罰はつきもんだ。 罰があるから いたずらも心持ちよく出来る。 いたずらだけで罰は ご免蒙るなんて下劣な根性が どこの国に流行ると思ってるんだ。 金は借りるが、返す事は ご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。 全体中学校へ何しに はいってるんだ。 学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。 話せない雑兵だ。</p><p><br /></p><p> こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。 気はせくが、足だけは云う事を利かない。 じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。 いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。 まるで豚だ。 こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。 錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。 ~ ~ ~</p><p> 正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。 こんな時には どうしていいか さっぱりわからない。 わからないけれども、決して負けるつもりはない。 このままに済ましては おれの顔にかかわる。 江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。 宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。 これでも元は旗本だ。 旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。 こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。 ただ智慧のないところが惜しいだけだ。 </p><p><br /></p><p> 「何でもいいでさあ、―― 全く赤シャツの作略だね。 よくない仕打だ。 まるで欺撃ですね。 それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。 上げてやるったって、誰が上がってやるものか」</p><p> 「先生は月給がお上りるのかなもし」</p><p> 「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」</p><p> 「何で、お断わりるのぞなもし」</p><p> 「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑怯でさあ」</p><p> 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。 若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。 腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」</p><p> 「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。 おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」</p><p> 卑怯な赤シャツの陰謀を知り天誅を加えたが、山嵐とともに辞職に追い込まれることになってしまう。</p><p> しかし、二人とも清々しい気持ちで、「不浄の地」を離れている。</p><p> この名作の根底には、一貫した漱石の会津に対する想い入れを感じるのは、考え過ぎであろうか。</p><p> ややもすると、一介の老人の戯言なのかも知れない。</p><p> 「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。 赤シャツは よろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。 理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」</p><p> 「無法で たくさんだ」とまたぽかりと撲なぐる。 「貴様のような奸物は なぐらなくっちゃ、答えないんだ」と ぽかぽかなぐる。 おれも同時に野だを散々に擲き据えた。 しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。</p><p> 「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。 野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。</p><p> 「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。 これに懲りて以来つつしむがいい。 いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。 ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。</p><p> 「おれは逃げも隠れもせん。 今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。 堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴うったえたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。</p><p> 汽船は夜六時の出帆である。 山嵐も おれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。 下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。</p><p> 「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。</p><p>http://www.aizue.net/siryou/natume-botyan.html#honmon</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-64826088337378086392024-01-05T19:17:00.000+09:002024-01-05T19:17:50.194+09:00東海散士<p> <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="会津藩">会津</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の遺臣である東海散士が</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="アメリカ合衆国">アメリカ</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">にわたり、</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="フィラデルフィア">フィラデルフィア</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の独立閣で</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="アイルランド">アイルランド</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の美女紅蓮、</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="スペイン">スペイン</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で後に</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="中国">中国</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="明">明朝</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の遺臣も加わる。いずれも亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進もうとするかれらの交情が描かれる。なお、この話の中で</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="ハンガリー">ハンガリー</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">の</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%A5" style="background-attachment: initial; background-clip: initial; background-image: none; background-origin: initial; background-position: initial; background-repeat: initial; background-size: initial; color: #3366cc; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="コシュート・ラヨシュ">コシュート</a><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">が亡国の代表として各編に登場する。</span></p><p style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; margin: 0.5em 0px 1em;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="東アジア">東アジア</a>経営にかんする意見、世界の地誌、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="世界の歴史">世界史</a>への注釈などが加わり、前半では小国が大国に依存した状態では民族的解放ができないこと、小国の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="国民">国民</a>は国を守る気力を持たなければならないこと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説かれている。</p><p style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; margin: 0.5em 0px 1em;">後半になると、作者自身が<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="谷干城">谷干城</a>に随行して<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="ヨーロッパ">ヨーロッパ</a>を視察したときの体験が混ざり、また<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%8E%89%E5%9D%87" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="金玉均">金玉均</a>との交友から<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="朝鮮半島">朝鮮半島</a>をめぐる議論や日清戦争後の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%B9%B2%E6%B8%89" style="background: none; color: #3366cc; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="三国干渉">三国干渉</a>をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人の面影は作品からは遠ざかっていく。</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-56636172506358655602024-01-05T19:14:00.002+09:002024-01-05T19:14:24.948+09:00護国寺<p> 朱雀寄合四番隊/千賀良が謹慎・監禁中、著書「暗涙之一滴」をまとめている。 </p><p>間もなく朱雀寄合四番隊は、蝦夷地 (北海道) /防備のため余市辺りに移送。</p><p> 後にベストセラー「佳人之奇遇」を著す東海散士こと柴四朗も、収容されている。</p><p> 収容された宿坊などは建て替わったり無くなっており、昔の面影は何一つ残っていない。</p><p><br /></p><p>護国寺/会津藩士の謹慎地/東京都</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-60227699426385240462024-01-05T19:13:00.002+09:002024-01-05T19:13:48.579+09:00乞食駕籠<p> 東京での会津藩士/幽閉地</p><p> 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。</p><p> 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。</p><p> 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。</p><p> その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。</p><p> 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 飯田元火消屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>330名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 小川講武所<span style="white-space: pre;"> </span>700名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 一橋御門内御搗屋<span style="white-space: pre;"> </span>250名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>700名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 神田橋御門外騎兵屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>250名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 護国寺<span style="white-space: pre;"> </span>314名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 芝増上寺 (徳水院)<span style="white-space: pre;"> </span>350名</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 麻布真田屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>若干名</p><p>に、2,870余名が分散して収容・監禁された。</p><p> その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。</p><p> 手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。</p><p> 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。</p><p> 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。</p><p> 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。</p><p> 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。</p><p> 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。</p><p> 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。</p><p> 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。</p><p> やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。</p><p> 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。</p><p><br /></p><p>http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto.html#kinsinti</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-21500286565298101362024-01-05T18:59:00.005+09:002024-01-05T18:59:43.639+09:00青山霊園<p> </p><p><br /></p><p>池上元子 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ11号4側<span style="white-space: pre;"> </span>春暁院釋梅含清香大姉 藩士/池上四郎の正妻</p><p>池上小四郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>四郎の長男</p><p>湯浅竹次郎<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ16号5側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/湯浅牧五郎の次男 日露戦争で戦死 [略歴]</p><p>湯浅次郎 妻/栄子<span style="white-space: pre;"> </span>大審院長</p><p>楡井次郎</p><p>楡井泉 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ22号9側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士、後に日本郵船船長、瑞光院大道徳善居士</p><p>楡井次郎の倅、端雲院永泉壽昌居士</p><p>佐川直諒 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ4号6-7側<span style="white-space: pre;"> </span>佐川官兵衛の嫡男 日露戦争で戦死</p><p>妻は高木盛之輔の次女/泰子</p><p>清水慶寿 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ6号7側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 明治十三年五月十二日歿 伊東家墓域にある</p><p>片桐嘉會 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ7号14側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/片桐藤八嘉會 養子(蘆名氏) 妻は大窪山</p><p>片桐家墓域<span style="white-space: pre;"> </span>墓碑「会津若松市大窪山史跡旧会津藩士墓地ヨリ一族初代長嘉九代与八郎ニ至ル片桐家遺土ヲ合葬」</p><p>荒木三郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ8号1側</p><p><br /></p><p> (警視庁墓地)<span style="white-space: pre;"> </span>荒木重義の3男、巡査 西南戦争に従軍 [略歴]</p><p>明治十五年七月四日歿</p><p>石山八治郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 巡査 明治二十年五月十二日歿 享年三十又五</p><p>斉藤外三郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>一等警視 新宿警察署勤務中に殉職</p><p>清水志一郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 別働第三旅団第三中隊一番小隊 警部試</p><p>鈴木武夫 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 一等巡査 明治十三年六月二日歿 享年二十六</p><p>木村省二郎茂忠 .<span style="white-space: pre;"> </span>青森県士族 舊會津藩士 安政元年二月十七日生 明治十五年五月二十日歿 少し離れた所にある</p><p>戦死士招魂之碑 .<span style="white-space: pre;"> </span>警視 第六方面 第一分署 28名</p><p>会津藩士は、禰津金治と山口左五郎を合祀とのこと</p><p>林権助 室/竹子 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 林又三郎の子、駐英大使、枢密顧問官 [略歴]</p><p>松平恒雄</p><p>室/信子 .<span style="white-space: pre;"> </span>容保の4男 長女は秩父宮家に嫁した節子妃殿下</p><p>妻/信子は佐賀藩11代藩主/鍋島直大の5女</p><p>秋月胤永 (悌次郎) .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ12号26側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/丸山胤道の次男 開城時は手代木と降伏の使者</p><p>教育者 小泉八雲は「まるで神の様な人」と記す [略歴]</p><p>遠藤美枝 .<span style="white-space: pre;"> </span>秋月胤永の妻</p><p>保科正益 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ12号30側<span style="white-space: pre;"> </span>飯野藩/10代藩主 (会津藩を本家とする親戚藩)</p><p>角田秀松 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ16号20側<span style="white-space: pre;"> </span>藩医/角田良智の次男、朱雀隊/隊士 海軍中将 [略歴]</p><p>室/勇子<span style="white-space: pre;"> </span>大正六年三月十七日歿 享年五十九歳</p><p>出羽重遠<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ17号9側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/出羽佐太郎の長男、海軍大将 [略歴]</p><p>赤羽秀子 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ17号17側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/蘆澤寛治の長女</p><p>藩士/赤羽友春 (市之丞 青龍足軽一番隊頭) の妻</p><p>山川浩 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ18号5側<span style="white-space: pre;"> </span>大蔵、国家老、東京高等師範学校長、 [略歴]</p><p>山川健次郎</p><p>山川二葉 .<span style="white-space: pre;"> </span>東京帝国大学総長、京都帝国大学総長など [略歴]</p><p>女子高等師範学校(お茶の水女子大学)舎監 [略歴]</p><p>山川唐衣 .<span style="white-space: pre;"> </span>艶 藩士/山川尚江の妻、浩・健次郎・捨松の母 [略歴]</p><p>樋口伊都羽 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ19号5側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/樋口真彦の次男。 明太子の生みの親 [略歴]</p><p>井深宅右衛門 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ20号8側<span style="white-space: pre;"> </span>第二遊撃隊/隊頭として越後小出島で奮戦 [略歴]</p><p>井深八代子 .<span style="white-space: pre;"> </span>井深宅右衛門の妻、西郷頼母の妹</p><p>井深梶之助 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/井深宅右衛門の長男 彦三郎の兄 [略歴]</p><p>越後で奮戦、後に明治学院/総理 「花」は後妻</p><p>井深勢喜子 .<span style="white-space: pre;"> </span>井深梶之助の先妻</p><p>野口坤之 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ21号3側<span style="white-space: pre;"> </span>陸軍中将 [略歴]</p><p>小川亮 (傳八郎) .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ22号10側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士/小川清流 (伝吾) の長男</p><p>白虎寄合一番隊士、後に陸軍大佐 [略歴]</p><p>小川悦 .<span style="white-space: pre;"> </span>小川亮の妻</p><p>井深彦三郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ23号9側<span style="white-space: pre;"> </span>宅右衛門の3男 衆議院議員 井深八重の父 [略歴]</p><p>生駒遊水 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ25号10側<span style="white-space: pre;"> </span>生駒八郎真静、藩士/生駒左衛門真諒の次男</p><p>佐々木泰邦 .<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ3号1-9側<span style="white-space: pre;"> </span>藩士 西南戦争にも従軍</p><p>後に教育者として多くの俊才を輩出</p><p>赤羽治平友温 .<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ3号3側<span style="white-space: pre;"> </span>温彦神霊之墓 藩士・斗南士族</p><p>赤羽治平室美恵 .<span style="white-space: pre;"> </span>明治丗七年六月二日歿</p><p>赤羽源治 .<span style="white-space: pre;"> </span>赤羽治平の長男 斗南士族</p><p>入江惟一郎<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ3号1~9側<span style="white-space: pre;"> </span>斗南士族、西南戦争では陸軍中尉兼権大警部</p><p>浅草警察署長</p><p>樋口光 .<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ6号33側<span style="white-space: pre;"> </span></p><p>∬藩士・斗南士族 小石川区第六天 松平家家令</p><p>樋口光映 .<span style="white-space: pre;"> </span>藩士・斗南士族 明治六年十二月十四日六十四歳</p><p>山内道行 .<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ13号8側<span style="white-space: pre;"> </span>旧会藩青森県士族 山内道則長男道行墓</p><p>明治七年甲戌四月七日 行年十九 香雲院釈明曜居士</p><p>山内道則・妻次子 .<span style="white-space: pre;"> </span>旧会藩青森県士族 明治廿三年二月廿八日</p><p>小野権之丞 .<span style="white-space: pre;"> </span>2種イ13号9-15側<span style="white-space: pre;"> </span>小野権之丞義行の長男 公用人 [略歴]</p><p>五稜郭/箱館病院事務長として敵味方の別無く治療</p><p>中田喜直 .<span style="white-space: pre;"> </span> ∴<span style="white-space: pre;"> </span>“童謡の父”と称賛される作曲家 [略歴]</p><p>簗瀬三左衛門 .<span style="white-space: pre;"> </span> ∴<span style="white-space: pre;"> </span>名:真粹 「会津六家」の1つ/家老職を務める [略歴]</p><p>雑賀阿佐子</p><p>簗瀬多美子 .<span style="white-space: pre;"> </span>真粹の妻 明治四十年五月十一日永眠</p><p>真粹の妹 明治四十一年十一月十五日永眠</p><p><br /></p><p>大鳥圭介<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ1号3側<span style="white-space: pre;"> </span>北関東を経て会津入りし、藩境近くの母成峠に布陣</p><p>瓜生繁子 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ22号5側<span style="white-space: pre;"> </span>山川(大山)捨松の米国留学による親友</p><p>瓜生武雄 .<span style="white-space: pre;"> </span>捨松と繁子の長男が奇しくも同じ巡洋艦で殉職</p><p>西周<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ8号19側<span style="white-space: pre;"> </span>幕府の沼津兵学校/初代校長 藩士/山本覚馬の親友</p><p>安部井寿太郎たちが仏語・仏式練兵・築城法を学ぶ</p><p>望月光蔵<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ16号5側<span style="white-space: pre;"> </span>幕臣/神奈川奉行所勤 会津藩を救おうと会津入りし奮戦</p><p><br /></p><p>《立川地区》</p><p>西川鉄次郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ4号5側<span style="white-space: pre;"> </span>西川鐵次郎 昭和七年六月一日 行年八十歳 [略歴]</p><p>騎西(浅羽)五三郎<span style="white-space: pre;"> </span>1種ロ4号1-9側 .<span style="white-space: pre;"> </span>誠心院仁岳良忠袴居士 藩士/浅羽忠之助の3男</p><p>騎西一斎 妻/律子<span style="white-space: pre;"> </span>鏡心院光譽義雲居士 心鏡院全室妙安大姉</p><p>祐太郎 八重 春<span style="white-space: pre;"> </span>短夢童子 蓮乘院全譽妙仙信女 清光院求譽迎蓮大姉</p><p><br /></p><p>立見尚文<span style="white-space: pre;"> </span>1種イ8号1-5側<span style="white-space: pre;"> </span>桑名藩士 会津入りし桑名藩/雷神隊隊長として奮戦</p><p><br /></p><p>http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto-sison.html</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-1905503516897379472024-01-05T18:59:00.000+09:002024-01-05T18:59:19.360+09:00長谷寺<p> </p><p>≪保科 ・ 西郷家之墓≫ 戊辰の役後は保科家を名乗る</p><p>西郷近光 .<span style="white-space: pre;"> </span>家老/西郷頼母近思の父 會津藩大老西郷君○矣孤子近思件繋其羣行~</p><p>保科有鄰 .<span style="white-space: pre;"> </span>初名:西郷吉十郎 父/頼母の墓は善龍寺にある [略歴]</p><p>一瀬幾與子 .<span style="white-space: pre;"> </span>西郷頼母の妹 家老で唯一の戦死者/一之瀬要人の妻</p><p>一瀬志のふ 満里 .<span style="white-space: pre;"> </span>一瀬幾與子の娘</p><p>[某] .<span style="white-space: pre;"> </span>無縁とのことであるが、一瀬と鈴木の墓の間にあるので、かつては何某か所縁の人ではなかろうか</p><p>[某] .</p><p>鈴木重蔵重常<span style="white-space: pre;"> </span>會津</p><p><br /></p><p>≪無縁墓所≫</p><p>標柱 .<span style="white-space: pre;"> </span>境内墓地に散在せる旧会津藩士の空墓をここに集む</p><p>池上當可 .<span style="white-space: pre;"> </span>池上當恒二男 襲見高章禄 享和三癸亥 六月二十五日卒</p><p>樋口光明 .<span style="white-space: pre;"> </span>會津臣 普請奉行 66歳</p><p>樋口久左衛門光央 .<span style="white-space: pre;"> </span>會津家臣 秋宗院蘭風涼庭居士</p><p>澗底院殿長屋壽松大姉墓前 .</p><p>樋口光富の妻 .<span style="white-space: pre;"> </span>會津家臣 八重</p><p>樋口光寛の娘 .<span style="white-space: pre;"> </span>會津家臣 孝正院暁山明心大姉</p><p>池上高章 .<span style="white-space: pre;"> </span>會津世臣 池上仙之進 池上當恒の長男 ○義山良忠居士</p><p>佐藤族孝道 .<span style="white-space: pre;"> </span>奥州會津家臣 徹宗院心岳淨高居士</p><p>井深重郎左衛門重矩<span style="white-space: pre;"> </span>. 會津世臣 寛通院透雲○達居士</p><p>横たわっている墓碑 .<span style="white-space: pre;"> </span>當地底十九許有慈妣○底院殿之漆柩且埋誌石漆柩嫡子日向徳達當至~</p><p><br /></p><p>≪小森家墓所≫</p><p>小森駿馬 .<span style="white-space: pre;"> </span>小森一貫斎の長男 家族は自刃 直伝院坦道英駿居士 [略歴]</p><p>小森美壽子 .<span style="white-space: pre;"> </span>〇〇〇〇〇七月十八日逝</p><p>小森一峰 峰子 .<span style="white-space: pre;"> </span>〇〇〇〇〇日歿 昭和二年十月三十一日歿</p><p>小森一貫斎 .<span style="white-space: pre;"> </span>朱雀士中一番隊/中隊頭として奮戦するも、東京/幽閉中に死去 [略歴]</p><p>小森秀子 .<span style="white-space: pre;"> </span>明治十四年十二月十四日</p><p><br /></p><p>≪一柳家墓所≫ 藩士/一柳直行家の菩提寺。 宗家/直照家は金地院、直信家は龍光寺。</p><p>一柳伊右衛門<span style="white-space: pre;"> </span>清鑑院直心淳行居士 ~奥州會津之産也~</p><p>一柳家<span style="white-space: pre;"> </span>堆顔院白法○霊居士 見流院一○○逝居士 ○○院一山○寶大姉</p><p>見性院直應○得居士 真性院寶應貞操大姉</p><p>一柳直良の妻<span style="white-space: pre;"> </span>會津家士 荻野氏寛義の娘</p><p>一柳鎗三郎の3女<span style="white-space: pre;"> </span>一柳鎗三郎の3女 山崎圭四郎の妻 直心妙江大姉</p><p>吉野家累代<span style="white-space: pre;"> </span>吉野氏 一柳鎗三郎建立</p><p><br /></p><p>≪樋口家墓所≫</p><p>樋口光寛(勘次) .<span style="white-space: pre;"> </span>∬會津世臣 君姓中原氏樋口名光寛稱勘次陸奥州會津人也歳甫十四以~</p><p>樋口光寛の妻 .<span style="white-space: pre;"> </span>井深重郎左衛門重矩の妹 會津世臣 是春院梅英貞如大姉</p><p>墓所内に、樋口光寛と妻の2基以外に13基ある</p><p><br /></p><p>樋口彦四郎 .<span style="white-space: pre;"> </span>勘次光武の4男 白虎士中隊 軍馬の畜産や電圧碍子工場を設立 [略歴]</p><p><br /></p><p>http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto-sison.html</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-57606023883593079502023-12-30T21:21:00.001+09:002023-12-30T21:30:39.353+09:00乞食大名<p> 東京での会津藩士/幽閉地</p><p> 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。</p><p> 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。</p><p> 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。</p><p> その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。</p><p> 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 飯田元火消屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>330名</p><p><span> <span> </span></span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-ogawakoubu.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 小川講武所<span style="white-space: pre;"> </span>700名</p><p><span> </span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-ogawakoubu.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 一橋御門内御搗屋<span style="white-space: pre;"> </span>250名</p><p><span> </span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-otukiya.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>700名</p><p><span> </span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-zoujyouji.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 神田橋御門外騎兵屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>250名</p><p><span> <span> </span></span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-yamasitagomon.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 護国寺<span style="white-space: pre;"> </span>314名</p><p><span> <span> </span></span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-gokokuji.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 芝増上寺 (徳水院)<span style="white-space: pre;"> </span>350名</p><p><span> <span> </span></span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-zoujyouji.html</p><p> <span style="white-space: pre;"> </span>◇ 麻布真田屋敷<span style="white-space: pre;"> </span>若干名</p><p><span> <span> </span></span>http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-sanadayasiki.html</p><p>に、2,870余名が分散して収容・監禁された。</p><p> その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。</p><p> 手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。</p><p> 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。</p><p> 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。</p><p> 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。</p><p> 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。</p><p> 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。</p><p> 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。</p><p> 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。</p><p> やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。</p><p> 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。</p><p>http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto.html#kinsinti</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-25916486202414160042023-12-30T21:17:00.001+09:002023-12-30T21:17:08.135+09:00小林平格<p> 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。</p><p> 学海先生は林三郎の近況について小林平格に問うた。林三郎は主君松平容保に従って会津に入ったが、その後新政府軍との戦いを経て降伏、いまは護国寺の謹慎所に収容されているという。このたび会津戦争の首謀者が詮議されるにつき、佐倉藩に預け置かれた者たちにも連絡したく思っておりましたところ、林三郎より貴殿を紹介されて参ったとのことであった。</p><p> 四月七日に訪ねて来た時には、一枚の絵を持参していた。それは会津藩士少年十七名が集団で自殺する場面を描いたものであった。飯岡山における白虎隊員の割腹自殺の絵である。それを見た学海先生は、あたら若き命がと同情したのであった。</p><p> この日の用件は借金の申し入れであった。会津藩では藩主松平容保が謹慎を命じられた後その跡継ぎがどうなるか最大の懸案だったが、幸いに嗣子容大に家督相続が許され御家は断絶せずに済んだ。ついては近日参内して天子にお礼を申し上げねばならぬが、費用が乏しくその用意をすることができない。ここは貴藩から一千両を借用したいと思うので、まげてお貸し願いたい、ということであった。佐倉藩と会津藩とは特別の関係にあるわけでもなかったが、学海先生には会津藩の窮状に大いに同情するところがあり、ここはひと肌ぬいでやりたいという気持ちになった。そこで参事ら藩の幹部と合議してしかるべく取り計らうと答えた。</p><p> 学海先生は西村大参事と相談して、七百両を貸してやることにした。この当時の七百両がどれほどの価値なのか。ちなみにこの年の学海先生の所得は、年末の日記によれば四百三十両である。これは俸米を売却して得たものであるが、この四百三十両のうち八十両を来年の塩薪の費用つまり生活費、六十両を書籍購入費、三十両を借金返済、残りの百両を予備費に宛てると記している。とまれ学海先生の年収と比較しても、七百両という金がそう膨大な金額でないことは明らかである。つまり会津藩はそれほど窮迫していたということであろう。</p><p> 佐倉藩はなかなか気前がよくて、駿河藩からも借財を申しこまれて貸している。徳川氏の家臣団も主君が一大名に格下げされた後、俄かに窮乏に見舞われていたのである。</p><p> なお会津藩は容大が家督相続した後、陸奥の下北半島に領地を与えられて斗南藩となった。この措置を会津藩主たちは当初は大いに喜んだ。藩の取りつぶしと藩士たちへの厳罰を予期していたところが、減封されたとはいえ一藩を与えられたからである。だがこの喜びはいくばくもなく絶望に変わる。その事情は学海先生とは全く関係がないのであるが、小生の父方の祖先にもかかわることなので、ここで簡単に触れておきたい。</p><p> 会津戦争終了後、藩主松平容保は東京へ護送されて監禁され、会津藩士四千名は東京各地の謹慎所に収容された。新政府は藩主及び藩士の処分をどうするか色々検討し、その結果盛岡藩から下北半島の領地を割譲させ、そこに会津藩を移封することとした。そのため生まれたばかりの容保の子容大に家督を相続させ、その子を新しくできる斗南藩主とした。斗南藩は三万石と言われたが、実質的には七千石しかなかった。</p><p> この小藩で四千名の家臣団を養うことは到底できない。そこで藩では、北海道の開拓を斡旋したり、また藩士にそれぞれ自由な身の振る舞い方を許したが、かなりの規模の家臣団が新領地に移動した。</p><p> その辺の様子は柴五郎の書「ある明治人の記録」に詳しい。会津藩士らは明治三年五月に斗南に入った。船で行くものと徒歩で行くものとに分かれ、順次斗南入りしたようだ。斗南の地は佐幕派の盛岡藩に対する懲罰として二戸、三戸、北の三郡を割譲させてこれを旧会津藩に与えたもので、斗南という名称は「北斗以南皆帝州」からとられたという。</p><p> 現地入りした者は田名部と野辺地に分割宿泊し、田名部に藩庁を置き、大参事山川大蔵を中心にして藩務を行った。</p><p> 藩務と言っても、現地は痩せた台地で、冬は雪に覆われる。そこを開拓しようにも見返りが期待できないし、藩の領民たちも貧しい暮らしをしている。そんななかでどうしたら藩士たちの生活が成り立つか、あまり明るい見込はなかった。藩務どころかみな自分が生きるのに精いっぱいだったのだ。</p><p> 柴五郎自身は、父親と共に現地の商人から借りた掘立小屋に住んでその年の冬を過ごした。この冬は餓死と凍死をのがれるだけで精いっぱいだったと柴五郎は言っている。栄養不良のために痩せ衰え、脚気の傾向が出てきて寒さが身に染みたという。空腹のあまり死んだ犬の肉を食ったこともある。その際に五郎はおもわず吐きそうになった。するとそれを見た父親が、</p><p>「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言って、いさめられた。</p><p> この苦しさは会津から斗南に移って来たすべての人が味わった。その窮状を自ら体験し、また人の苦しむさまを見た柴五郎少年の目には、これは新政府による残酷な仕打ちに映った。彼は言う、</p><p>「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて喜びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」</p><p> 柴五郎の少年時代のこの怨念が、西南戦争のときに西郷を相手に戦う情熱を支え、西郷が死んだときには泣いて喜ばしめたのである。もっとも西郷自身は会津戦争には直接かかわっていない。西郷は王政復古のあとすぐ薩摩に引き上げ、政治的にも軍事的にも表立った活動をしていない。会津戦争を直接指揮したのは土佐の板垣退助である。にもかかわらず会津人は、西郷を自分たちの仇敵と思い込んでいたのである。</p><p> とまれ藩主の容大がまだ生まれたばかりの嬰児だったので、藩務は大参事山川大蔵が中心となった。その山川にも学海先生は小林平格の仲介で会ったことがある。その際に、金を貸してやったことに対する感謝を言われた。この金は戻ってくることはなかったようだ。また学海先生もそれを期待してはいなかったようである。</p><p> 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は、田名部で山川大蔵の直属の下僚となって、藩士たちの生活の面倒を見ていた。とはいっても自分自身も天涯孤独の身になって、頼るべきものがない状態で、他人のためにできることなどほとんどない。そんな状態で、ほうぼうに掛け合って米の買い付けとか借用に奔走した。また荒廃地の開拓を試みたりした。しかし米の買い取りに際して仲介人に騙されたり、荒廃地の開拓はほとんど絶望的な試みだとわかったり、全く意のようにならぬのに苦しんだ。</p><p> だから脱落して江戸や会津に移り住むものも多かった。斗南では全く未来の展望が切り開けないような気がしたからだろう。しかしそのうちに藩そのものが消滅し、藩士としてここにいる動機がなくなった。廃藩置県が行われて、従来の藩が全く意義を失ってしまうのである。</p><p> 山川や藩の首脳は、廃藩置県で藩がなくなったことで、斗南にいる理由がなくなったので、続々と斗南を脱出し、江戸に移り住んだり会津に戻ったりした。小林平格は会津に戻って帰農した。この小林と学海先生は明治六年に最後に会っている。小林が東京に出てきて先生を訪ねてきたのだった。その折に小林は会津藩を襲った運命について感慨深く語った。学海先生はそれを聞いて、やはり深い感慨に打たれるのを禁じえなかった。佐倉藩と比較しても会津藩の運命があまりに過酷に感じられたのである。</p><p> 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は山川大蔵と行動をともにして東京に移住し、やがて設立されたばかりの陸軍に奉職した。彼はやがて陸軍兵士として鹿児島に赴き、憎き西郷と戦うのである。その戦いにはあの柴五郎も、また山川大蔵も加わった。</p><p>https://hix05.com/gakkai/gakkai46.html</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-73173454335046677602023-12-30T21:13:00.003+09:002023-12-30T21:13:33.882+09:00御搗屋<p> </p><p style="font-family: "MS PGothic", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", Osaka, sans-serif; font-size: small; line-height: 19.5px; margin: 0px; padding: 0px 0px 8px;">戊辰戦争で敗れた会津藩は領地没収、藩士は捕虜として<strong>越後高田</strong>や東京に送られることになった。柴家の三男・<strong>五三郎</strong>ら一行が「戸の口原」まで来ると白虎隊少年の死骸があった。村人が埋葬しかけたが新政府軍につかまった話を聞いて、五三郎は一命にかけてもと埋葬の交渉に向かうが通行切手がなく捕まった。しかし岡山藩の<strong>三宮耕庵</strong>が見過ごしてくれた。<br /> 五三郎らは費用を出し村役に頼むと夜の闇に紛れて埋葬してくれた。戦に負けると野ざらしの死骸を憐れみ埋葬しても処罰されるのだ。<br /><br /> いっぽう五男の<strong>五郎少年</strong>は「乞食の大名行列としか思われず」の惨めな行列に従い、負傷した長男・<strong>太一郎</strong>が乗る戸輿の後ろを猪苗代から東京まで歩いた。時には雨に濡れ十日あまりの苦しい旅の末、蒸暑い東京に着くと一橋門内の<strong>御搗屋</strong>(おつきや)に収容された。<br /><br /> この御搗屋は幕府糧食倉庫で江戸城中ご用の米や餅をつくためのもの、250人が押し込められた。現在の毎日新聞本社(<strong>千代田区一ツ橋</strong>)地下鉄<strong>竹橋駅</strong>を降りてすぐの所。<br /><br /> 会津藩士は東京七カ所に分けて収容され、柴家も父佐多蔵は講武所、五三郎は真田邸、四男・四朗(<strong>東海散士</strong>)は護国寺に送られた。それでも監視つきながら外出でき、家族ばらばらに収容された柴家の五人は互いに行き来した。皮肉なことに、父子は収容されたこの時だけ近くで顔を合わせられたのである。<br /><br /> 佐多蔵ら700名が収容された<strong>小川町講武所</strong>は、JR<strong>水道橋駅</strong>から<strong>三崎神社</strong>、<strong>日本大学</strong>一帯にあった。講武所は幕末に軍政改革のため、旗本や御家人の武術修練のため講武場として設置され、教授には男谷精一郎、榊原健吉、桃井春蔵らがいた。<br /><br /> <strong>護国寺</strong>(<strong>文京区大塚</strong>)には<strong>柴四朗</strong>ら314人が収容された。 護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院によって建立され、三条実美、大隈重信、山縣有朋、河野広中らの墓がある。<br /><br /> 山川大蔵(浩)もいた<strong>飯田橋火消屋敷</strong>は330名ほど。<br /> やがて会津藩事務所の新設を許され、旧藩の役員などで連絡統制に当ることになった。下北半島・斗南藩庁の前身とも。歩けるようになった太一郎はこの藩事務所に移り、松島翠庵と名を変え医者の姿になって行動した。京都・江戸詰時代の他藩の友人知人を訪ねて回り、会津藩の措置について助力を求めて歩いた。<br /><br /> この火消屋敷跡(千代田区富士見町)はJR<strong>飯田橋駅</strong>から徒歩10分、<strong>靖国神社</strong>にほど近い九段高校や日本歯科医大などに囲まれた文教地区の辺り。<br /><br /> ほかに山下門内<strong>松平豊前守屋敷</strong>(<strong>日比谷公園</strong>内)700人、神田橋門外騎兵屋敷(<strong>錦町</strong>)250人、<strong>芝増上寺</strong>350人、<strong>麻布真田屋敷</strong>など総勢2800人ほどであった。</p><p style="font-family: "MS PGothic", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", Osaka, sans-serif; font-size: small; line-height: 19.5px; margin: 0px; padding: 0px 0px 8px;">参考: 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』2008年(中井けやき)/ 『紙碑・東京の中の会津』1980年 牧野登(日本経済評論社)</p><p style="font-family: "MS PGothic", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", Osaka, sans-serif; font-size: small; line-height: 19.5px; margin: 0px; padding: 0px 0px 8px;"><br /></p><p style="line-height: 19.5px; margin: 0px; padding: 0px 0px 8px;"><span style="font-family: MS PGothic, Hiragino Kaku Gothic Pro W3, Osaka, sans-serif; font-size: x-small;">https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/12/post-c82d.html</span></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-64694583781752466072023-12-28T22:50:00.004+09:002023-12-28T22:50:58.224+09:00三浦義連随身の像<p> 神社</p><p>稲荷神社</p><p>祭神<span style="white-space: pre;"> </span>稲荷神?</p><p>創設<span style="white-space: pre;"> </span>建久2年(1191年)~?</p><p>この町の西頬にあり。</p><p>神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。</p><p>https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/240.html</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-50076905312163066072023-12-10T22:12:00.003+09:002023-12-10T22:12:22.680+09:00神武天皇<p> 神武天皇が、幼少時を過ごしたと言われる宮崎県高原町に鎮座する「狭野(さの)神社」。</p><p>「狭野尊」は神武天皇の幼名だが、稲作ができる貴重な土地という意味だと、当社の宮司さんが説明されている。</p><p>(『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞出版)</p><p>実際に、えびの市や都城市の遺跡からは国内最古級の水田跡が見つかってるそうで、北九州とは別ルートで稲作が伝来した可能性も考えられているという。これは興味深い。</p><p>それにしても狭野神社、やけにカッコいい社殿だなーと感心していたところ、いただいたパンフレットに「明治40年に宮崎神宮の旧社殿を移築した」と書いてあり、一瞬にして全てを完全に理解した。</p><p>日南市の「駒宮神社」。</p><p>神武天皇が、最初に娶った吾平津媛(あひらつひめ)と暮らした宮の跡だと伝えられる。 </p><p>伝説では、神武天皇には「龍石(たついし)」という愛馬がいたとされるが、大陸から馬が伝わったのは4世紀末の応神天皇の御世とのことで、それはさすがに後世の作り話だろう。</p><p>ビックリしたのが社殿の裏手にある「御鉾の窟跡」という巨石だ。神武天皇が鉾を納めた場所として信仰の対象になってるそうだが、南九州で巨石の祭祀を見るとは思わなかった(他にもあるのかも知れないが・・・)。</p><p>福岡県北九州市の「岡田神社」。</p><p>「古事記」が、東征中の神武天皇が一年滞在したと書く「岡田宮」の候補地だ。</p><p>「日本書紀」だと「岡水門」に約50日滞在とのことで、神武天皇が船団で移動した点から見れば書紀のほうが妥当という気もするが、まぁどっちでもいい話か。</p><p>肝心なことは、なぜ神武天皇は瀬戸内海を離れて、わざわざ日本海側に回ってきたのか、だろう。</p><p>そもそも神武天皇が東征を決意した要因の一つには、饒速日命(ニギハヤヒ)なる人物が「この国の中心地」に降臨していることを、塩土老翁(シオツチ)から聞かされたことにあった。</p><p><br /></p><p><br /></p><p>日本書紀によると、ニギハヤヒは古代からの有力豪族「物部氏」の先祖にあたり、畿内に降臨すると土豪の「長髄彦(ナガスネヒコ)」の妹を娶って、君主の座におさまっていた。</p><p>しかし、ニギハヤヒは神武天皇の畿内入りを知ると、抵抗を続けるナガスネヒコを殺害して、皇軍に帰順した。</p><p>ニギハヤヒは、神武天皇と同じ「天つ神の表(しるし)」を持つ人物だった。</p><p>皇室の正史が、皇室と物部氏は同じシンボルを持つグループの一員だと言ってるわけだ。その上で、はじめから両者の上下関係は決まっていたのだと。</p><p>北九州の物部氏</p><p>剣神社</p><p>福岡県直方市で、そのニギハヤヒを祀る「劔(つるぎ)神社」。</p><p>社伝によると、成務天皇のとき筑紫国造の「田道命」が、筑紫物部を率いて神々を祀らせたことが創建の由来だという。</p><p>「田道命」は、皇族で四道将軍の「大彦命」の5世孫にあたり、初代の筑紫国造だ。</p><p>『日本の神々 神社と聖地 1 九州』によると、劒神社が鎮座する遠賀川(おんががわ)一帯には「剣神社」や「八剣神社」など剣霊を祀る神社が多数あって、現在では揃ってヤマトタケルと草薙剣を主祭神としているものの、元々は物部氏が一族の「兵仗」を祀っていた地域だろうということだ。</p><p>北九州の物部系神社</p><p>上はその『日本の神々』で、北九州の物部系神社としてあげられている、「剣神社」「八剣神社」「六ヶ嶽神社」「古物神社」「天照神社」「高倉神社」などを、赤でマークしてみたGoogleマップ。</p><p>「古事記」の岡田宮(緑のマーク)にしても、「日本書紀」の岡水門(河口)にしても、物部のエリアにかなり近い。</p><p>物部氏といえば、のちに朝廷の武器庫を管理した軍事氏族で、鉄器製造にも長けていたという。</p><p>東征に当たって神武天皇が、総帥のニギハヤヒが同じシンボルを持つ物部一族に、協力を要請しに行った可能性はないんだろうか。</p><p>河内の物部氏</p><p>石切劔箭神社</p><p>こちらは東大阪市でニギハヤヒを祀る、式内社の「石切劔箭神社」。</p><p>ここ旧河内国の一帯も、物部氏の一大拠点として知られる地域だ。あまり語られないことだが、安芸に2ヶ月、吉備に3年滞在した神武天皇は、河内にも2ヶ月のあいだ留まっている。</p><p>そして、いよいよと生駒山からの奈良入りを目指したところで、待ち構えてたナガスネヒコの反撃を受けて、敗退。退却の憂き目に遭われたのだった。</p><p>熊野の物部氏</p><p>熊野速玉大社</p><p>(熊野速玉大社)</p><p>生駒ルートを断念した皇軍は、南下して和歌山の紀の川ルートを利用するかと思いきや、危険極まりない熊野灘に進む。で、案の定というか、ここでは神武天皇の二人の兄が溺死してしまうという大惨事に。</p><p>そうまでして皇軍が目指した熊野にも、やはり物部氏がいた。</p><p>まず、高天原の聖剣「ふつのみたま」で皇軍の窮地を救った「高倉下(たかくらじ)」なる人物は、物部氏の史書といわれる『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの実の息子だ。</p><p>後の時代になるが、初代の熊野国造はニギハヤヒの5世孫だ。</p><p>何だか、物部氏が皇室に協力するのは最初から決められていることで、神武天皇も当然のようにそれを利用した。</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-82283871632774842382023-12-10T21:59:00.003+09:002023-12-10T21:59:53.568+09:00日向神話<p> 南九州では「日向神話」にまつわる史跡も回ってきた。</p><p>「国譲り神話」と「神武東征」の間に位置し、天上界と人間界を繋ぐのが「日向神話」だ。</p><p>皇室の正史、日本書紀「正伝(本文)」によれば、「日向の襲の高千穂峰」に天降った天孫ニニギは「荒れてやせた不毛の国(空国)」を丘続きに進み、「吾田の長屋の笠狭の碕」に到着したという。</p><p>上の写真は、その地でニニギが娶った大山祇神(おおやまつみ)の娘、鹿葦津姫(かしつひめ)の像。</p><p>ところが鹿葦津姫は一夜で懐妊したので、当然のことながら、ニニギは子供の父親に疑念を抱く。</p><p>すると鹿葦津姫は、天孫の子なら火でも死なないと言って、産屋に火を付けて出産する。</p><p>この時生まれたのが、海幸彦(隼人の祖)、山幸彦(皇室の祖)、火明命(尾張氏の祖)の三兄弟だ。</p><p>長じて、山幸彦は海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまい、「海神(わたつみ)の宮殿」に探しに行く。</p><p>上の写真は、そのとき山幸彦と豊玉姫が出会った場所とされる、指宿市の「玉の井」。</p><p>日本最古の井戸、との伝承だが、ホントかどうかはもちろん不明。</p><p><br /></p><p>青島神社</p><p>宮崎市の「青島神社」は、海神の宮殿に3年住んだ山幸彦が帰還した場所に建てた宮の跡とされる。</p><p>亀石</p><p>鵜戸神宮</p><p>出産のため、豊玉姫が乗ってきたカメが石になったといわれる「亀石」。</p><p>断崖絶壁に空いた岩窟の中にある「鵜戸神宮」は、豊玉姫の産屋の跡なんだとか。</p><p>豊玉姫はここで神武天皇の父、ウガヤフキアエズを出産したとされるが、本来の竜に戻った姿を山幸彦に覗かれて激怒、赤ちゃんを海辺に捨てて海の道を閉じて帰ってしまった。</p><p>宮浦神社</p><p>結局、赤ちゃんは出産に同行してきた妹の玉依姫が育てることになる。そして成人したウガヤフキアエズは叔母の玉依姫と結婚して、4人の息子を持つ。</p><p>その末っ子が、のちの神武天皇だ。</p><p>写真は、玉依姫の住居跡に建つという日南市の「宮浦神社」。</p><p>https://www.bokushoki.com/home/jinmu/hyuuga_jinmu</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-26863660808899414102023-12-10T21:30:00.004+09:002023-12-10T21:30:56.156+09:00方士<p> ウィキペディアの情報によれば、古代中国には「祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術などの神仙方術を行って禍を除き、福を招き入れる能力を持ったヒト」がいたという。</p><p>彼らのことを「方士」と呼ぶが、その中でぼくら日本人でも知ってる人物はといえば、まぁ徐福だろう(笑)。</p><p>ぶっちゃけた話、徐福の少年少女たちから、のちの皇室と物部氏が出たというのが、現時点でのぼくの想像だ。</p><p>そしてきっと彼らには、何らかのヒエラルキーとか役割分担とかがあったんじゃないだろうか。</p><p>なに!それじゃお前は、神武天皇のルーツは大陸にあるというのか!</p><p>安心していいのは、言語やDNAから考えても少年少女は現地の縄文系と結婚していっただろうから、仮に、神武天皇やニギハヤヒがその末裔だとしても、もはや大陸に祖国があるというような発想もなければ、中国語も漢字も知らんという状態だろう。</p><p>まだ日本には、国家も国境もない時代だ。</p><p>それに、ざっと計算してみても、長浜浩明さんの計算だと神武天皇はBC96年の生まれで、昔のことなので平均20才で子供が生まれるとしたら、父「ウガヤフキアエズ」はBC116年生まれ。</p><p>その父の「山幸彦」はBC136年生まれ。</p><p>「ニニギ」はBC156年生まれ。</p><p>「天忍穂耳」はBC176年生まれ。</p><p>「天照大神」はBC196年生まれ。</p><p>そして「イザナギ」はBC216年生まれと、だいたい徐福団が日本に着いたBC210年ごろに、皇室の祖となる赤ちゃんイザナギが誕生した計算になるわけで、かなりの時間が流れている。</p><p>仮に今日、日本で生まれた赤ちゃんの7代前が大陸系だったとして、帰化後ずーっと日本で暮らして、日本人と結婚して、日本語しか話せない一族を、あいつらは大陸系だとかいう人はいないだろう。</p><p>ぼく自身、平民の出なので、7代前の爺さんなんて顔も名前も知らないし、出身地も知らない。</p><p>ま、以上はあくまでも「実在する文献」に残された「文字記録」から想像した、「可能性の一つ」としての話。</p><p><br /></p><p>https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-27614229668548342582023-12-10T21:26:00.004+09:002023-12-10T21:26:29.414+09:00 全国徐福伝説地<p>ここで思い出したいのが、彼らを渡来させた安曇族の行動様式だ。 </p><p>一つは、入植は「多点分散型」だったこと。 </p><p>もう一つが、彼らの始祖(太伯)のモットー「入郷而従郷(郷に入っては郷に従え)」だ。</p><p>少年少女たちは安曇族の方針に従って、少人数に分かれて日本各地に散ったんじゃないだろうか。</p><p>もちろん、百工から受け継いだ技術を携えてだ。</p><p>上の「図3 」は亀山さんの『安曇族と徐福』から引用した「全国徐福伝説地」。</p><p>だが、徐福は一人しかいないんだから、実際には少年少女たちが「徐福」として入植していった先が、それらの伝説地だったんじゃないだろうか。</p><p>聞けばそれらの地域では今も地場産業として、弥生時代に伝わったという金属加工や機織り、陶工、造船などが盛んなんだという。</p><p>ニギハヤヒと神武天皇</p><p>物部氏の氏神・石上神宮</p><p>石上神宮</p><p>ところで、全国に分散した特殊技術をもつ一族というアイデアは、ぼくに日本古代史上に実在したある氏族の名前を思い起こさせる。</p><p>「八十物部」とか「物部百八十氏」とかいわれて日本中に分布した割りに、そのルーツがよく分からない「物部氏」だ。</p><p>この物部氏の始祖と言われる人物が、「日本書紀」で神武天皇の大和入りを助けたと記録される「ニギハヤヒ(饒速日)」だ。</p><p>ニギハヤヒは、神武天皇がもつ「天つ表(しるし)」と同じものを持っていて、神武天皇より先に畿内に入って土豪ナガスネヒコの「君主」になっていたが、執拗に「天孫」に逆らうナガスネヒコに業を煮やすとこれを殺害。</p><p><br /></p><p>神武天皇の軍門に降ったのだった。</p><p>興味深い記述が二点ある。まず、「天つ神の子」は神武天皇以外にもたくさんいること。 </p><p>ただしその中でも、神武天皇だけは「天孫」という特別な存在であること。</p><p>十種神宝</p><p>ところで物部氏といえば、各方面の技術に通じた軍事氏族として名高いが、それ以外にも「祭祀」や「呪術」の方面でも、特別な技能を発揮したという話だ。</p><p>上の図はニギハヤヒが降臨にあたって与えられたという「十種神宝(とくさのかんだから)」で、物部氏はこれを使って、生き返りの呪法まで可能だったというから凄い。</p><p>https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-45836467375490155152023-12-10T21:21:00.003+09:002023-12-10T21:21:45.764+09:00風浪宮<p> 徐福がはじめ、有明海北岸を拠点にした可能性は、風浪宮の北にある「吉野ヶ里遺跡」にも窺えるという。</p><p>そこには漢の武帝が行った祭祀と類似した遺構を持つ墳丘墓があるらしく、徐福とは年代はズレているものの、大陸の「方士」が関与していた可能性は十分に考えられるという。</p><p>少年少女のなかに、徐福の「方士」の能力を受け継いだ人がいたのかも知れない。</p><p>それに、そもそも弥生中期にはじまったという青銅器の製造なども、一連の工程は「完パケ」として導入しなければ意味がないわけで、徐福の百工とその後継者たちの存在は、ハナっから否定してしまっては勿体ない話のような気がする。</p><p><br /></p><p>徐福の3000人の少年少女</p><p>でもそうなると疑問として湧いてくるのが、そんな先端技術をもつ集団が、なぜ今に名を残すような国を建てて、弥生時代の日本を支配しなかったのか、だろう。</p><p>まだ邪馬台国すらない時代なんだし、現地の縄文系弥生人に中国語を覚えさせ、中国式の生活をさせれば、「もう一つの中国」の出来あがりじゃないか。</p><p>だが、現代の日本人の言語にもDNAにも、その痕跡は残されていない。 </p><p>彼らは日本の支配層にはならなかった。 </p><p>ならば徐福の連れてきた3000人(実際には130〜200人ほどか)の少年少女たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。</p><p>https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-26600449063771710722023-12-10T21:18:00.008+09:002023-12-10T21:18:56.939+09:00安曇族と徐福<p> 海洋学を専門にする歴史作家の亀山勝さんが書いた『安曇族と徐福』 (2009年)の中で、亀山さんが弥生時代の海人族「安曇氏」が、北(玄界灘)の「志賀島」と合わせて、南(有明海)の拠点にしたのではないかといわれるのが、福岡県大川市の「風浪宮(ふうろうぐう)」だ。</p><p>その「風浪宮」に、安曇族の案内で訪れた大陸からの亡命者の中には、歴史好きなら誰もが知るビッグネームも考えられるという。</p><p>秦の方士「徐福(じょふく)」のご一行様だ。 </p><p>紀元前210年、始皇帝に東方に長生不老の薬ありとプレゼンして資金をゲットした徐福は、「百工」という技術者集団と3000人の少年少女を船に乗せて、出航したという。</p><p>もちろん、徐福の行き先は公式の記録(史記)には残っていない。</p><p>ただ、『三国志』の「呉書」には、孫権が諸葛直らに徐福を探させたという記事があり、捜索先の「亶洲」は台湾の先にある人口の多い島ということなので、そりゃー日本列島だろうという説がある。</p><p>また、5世紀に書かれた『後漢書』でも、徐福の記事は「倭」の条の中にあるので、その著者も徐福の行き先は日本だと思っていたようだ。</p><p>https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-52887226181333496882023-12-09T22:41:00.002+09:002023-12-09T22:41:14.927+09:00イザナギ・イザナミ<p> ところで鹿島神宮はなぜ、鹿島の地にあるのだろう。てか、タケミカヅチはなぜ、鹿島で祀られているんだろう。</p><p>宮司さんにとっての問題は、こっちだ。</p><p>まず宮司さんは、『万葉集』には「朋神の貴き山」と歌われ、『香取群書集成』には「わらかおやくに(祖国)」と謳われる「筑波山」こそ、イザナギ・イザナミの住む山だったんじゃないかと考えた。</p><p>さらに宮司さんは、「天降り」とは想像の産物ではなく、古代に実際に起こった事件だと考え、ならば移動は水平に行われたのではないか、すなわち「天降り」は「海降り」なのではないかと思考する。</p><p> しかも天(あま)と海(あま)は、古代では同一に神聖視され、同じ言葉で発音されるその縁由は同一視された名残でもあろうか。</p><p>ちなみに、海にいって水平線を望めば、空と海とは一線上に合体して見え、科学知識の少ない古代人が、天と海を同一視した心がよみがえってくるような気がする。(76p)</p><p>天孫ニニギは天(あま)ではなく、海(あま)を降ったのではないか。 </p><p>そういえば、「日本書紀」には東征に出る前の神武天皇の述懐として、「(ニニギは)天の関を闢き」とあるが、その「関」とはどこのことなのか。</p><p>https://www.bokushoki.com/home/ryokouki/ibaraki</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-28565406408012192242023-12-09T22:37:00.001+09:002023-12-09T22:37:00.922+09:00鹿島神宮<p> 鹿島神宮の東実(とうみのる)宮司が、昭和43年に書かれた名著に『鹿島神宮』(学生社)がある。</p><p>宮司さんはこの中で大変ユニークな古代史論を展開されていて、ちょっと紹介すると、まず高天原は東国にあったと始まり、イザナギ・イザナミの「おのころ島」は筑波山のことで、そこから霞ヶ浦を通って「海(あま)降り」した天孫ニニギは、鹿児島の地に降臨(渡海)したのだそうだ。</p><p>と、聞けば誰でも荒唐無稽だと感じるだろうが、執筆当時の宮司さんには、世間を席巻する「騎馬民族征服王朝」説へのカウンターの意識があったようで、なるほど暴論には暴論だったのか!と理解すれば、宮司さんを笑うことは誰にもできない。</p><p><br /></p><p>https://www.bokushoki.com/home/sujin/hidakamikoku</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-53673406515224522702023-12-09T22:34:00.004+09:002023-12-09T22:34:40.570+09:00日高見<p> <span style="color: #212121; font-family: "Open Sans"; font-size: 13pt; font-variant-ligatures: none; text-decoration-line: inherit;">日高見はヒノカミ(日ノ上)に由来するという松村武雄の説がもっとも納得がいく。すなわち日高見(日の上)は太陽の出る方向で、東方の地を指す。</span></p><p class="zfr3Q CDt4Ke " dir="ltr" style="box-sizing: border-box; color: #212121; font-family: "Open Sans"; font-size: 13pt; font-variant-ligatures: none; line-height: 1.6; margin: 15px 0px 0px; outline: none; position: relative; text-decoration-line: inherit;"><span class="C9DxTc " style="box-sizing: border-box;">天孫の降臨した日向からみて東方にあたる大和の国をほめたたえて、大倭日高見国と称したのである。</span></p><p class="zfr3Q CDt4Ke " dir="ltr" style="box-sizing: border-box; color: #212121; font-family: "Open Sans"; font-size: 13pt; font-variant-ligatures: none; line-height: 1.6; margin: 15px 0px 0px; outline: none; position: relative; text-decoration-line: inherit;"><span class="C9DxTc " style="box-sizing: border-box;">日高見はいつしか大和よりさらに東方に移動し、常陸信太郡の別称となり、さいごには陸奥国の北上川の流域の呼称となったのである。</span></p><p class="zfr3Q CDt4Ke " dir="ltr" style="box-sizing: border-box; color: #212121; font-family: "Open Sans"; font-size: 13pt; font-variant-ligatures: none; line-height: 1.6; margin: 15px 0px 0px; outline: none; padding-bottom: 0px; position: relative; text-decoration-line: inherit;"><span class="C9DxTc " style="box-sizing: border-box;">(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)</span></p><p class="zfr3Q CDt4Ke " dir="ltr" style="box-sizing: border-box; line-height: 1.6; margin: 15px 0px 0px; outline: none; padding-bottom: 0px; position: relative;"><span class="C9DxTc " style="box-sizing: border-box; font-size: 17.3333px; font-variant-ligatures: none;"><span style="color: #212121; font-family: Open Sans;">https://www.bokushoki.com/home/sujin/hidakamikoku</span></span></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-22721156323521093252023-12-03T18:26:00.001+09:002023-12-03T18:26:04.877+09:00会津藩士墓地 九代藩主・松平容保<p> 会津藩士墓地 九代藩主・松平容保の墓</p><p><br /></p><p>会津藩、九代目の藩主。岐阜県高須藩松平義建の子で会津藩八代目・松平容敬(かたたか)の養子となりました。</p><p> 京都守護職として、京都の治安と公武合体に尽力し、孝明天皇の厚い信頼を得ました。</p><p> 新選組も会津藩の預かりとなり活躍します。</p><p> その後、統幕派は形勢を逆転し、戊辰戦争に突入します。鶴ヶ城での1ヶ月にわたる壮絶な籠城戦の末に降伏しました。</p><p> 会津落城後は妙国寺(みょうこくじ)に謹慎、のちに和歌山藩に移されました。明治5年に謹慎をとかれ、東照宮の宮司に任ぜられました。失意と沈黙の日々を過ごし、58歳の生涯を閉じました。</p><p><br /></p><p>https://www.bekonon.com/inisie/keitai/02.htm</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-90212973213711295942023-12-03T18:23:00.003+09:002023-12-03T18:23:32.954+09:00 会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地<p> 会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地</p><p><br /></p><p>会津藩殉難者墓地には352人が祀られている。文久2年(1862)の入洛から慶応3年(1867)の6年間に京の地で亡くなった237霊、そして鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀るために明治40年(1907)建立された慰霊碑がある。なお禁門の変の戦死者は22霊を除いても6年間に200人以上の人が亡くなっていることは異常な状況であるように感じる。大佗坊さんのHP 会津いん東京 の中にある 黒谷会津藩墓地では、この墓地に祀られている方々を詳しく記している。興味のある方は是非ご参照ください。ここには、産寧坂・二寧坂・一念坂の項で触れたように、明保野亭事件で切腹した柴司の墓もある。元治元年6月5日(1864)新選組による池田屋襲撃事件が発生する。 この事件に関係した者の掃討作戦中の6月10日、明保野亭を探索していた新選組と会津藩は不審者を認め、槍で刺して捕えている。それが土佐藩家老・福岡宮内家臣の麻田時太郎であった。新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を含む隊士15名と会津藩士5名が動員されていたので、現場の指揮権は新選組にあったと思われる。しかし土佐藩士・麻田時太郎を刺したのが会津藩士柴司であったため、問題は複雑化することとなる。結局、池田屋事件後の殺伐とした雰囲気の中で生じた些細な過ちが会津藩と土佐藩の間の外交事件にまで発展し、2人の藩士が命を落とすこととなっている。</p><p><br /></p><p>この墓地は上記のように明治40年(1907)に鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑を建立すると共に、墓地の整備と入口の位置の変更、門柱の建設、そして墓所の参道に道標を設けている。そのための募金趣意書が大佗坊さんのHPに残されている。その中に下記のような文がある。</p><p> 茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。</p><p><br /></p><p> 上坂仙吉こと会津小鉄の出自についてはいろいろな説があり定かでない。会津小鉄と呼ばれるようになったのは、会津出身ではなく会津の印半纏を着ていたためと言われている。文久2年(1862)松平容保が京都守護職として入洛すると、小鉄は会津藩中間部屋の元締・大沢清八と懇意になり、会津屋敷の出入りを許されている。侠客の小鉄の表家業は口入れ屋であり多くの配下を抱えていたため、会津藩や新選組の市内警護の支援を行っていたと思われる。鳥羽伏見の戦いでも会津藩のために軍夫を用立て、幕府軍が敗れると、置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を埋葬している。</p><p><br /></p><p>小鉄は明治維新以後も黒谷の会津墓地を守り、明治18年(1885)白川の自宅で亡くなっている。小鉄の墓は会津墓地を管理している西雲院の境内にある。また小鉄の遺志を継いだ矢ッ車大西松之助氏とは、会津小鉄一家に属する侠客で、この墓地整備が行われた後、明治43年(1910)に亡くなっている。</p><p><br /></p><p> なお、金戒光明寺の境内に多くの道標があり、これが会津墓地へ導いてくれる。これらの碑は昭和33年(1958)に元越後交通社長であった柏村毅が建立したものである。金戒光明寺の奥に位置する会津藩殉難者墓地は、人通りも少なく静謐さを保ち、手入れが行き届いている。</p><p><br /></p><p>https://visual.information.jp/blog/2010/02/27/201002-article_28/</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-71476386253961924432023-12-03T18:20:00.004+09:002023-12-03T18:20:36.241+09:00会津藩士墓地 焼尻島<p> 会津藩士墓地 焼尻島</p><p>苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。</p><p>羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。</p><p>焼尻の由来は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)。</p><p>東浜の由来は、焼尻島の東海岸に位置することから。</p><p>羽幌町役場焼尻支所の横から遊歩道があり、入口左手に碑があるので焼尻支所を目指すのがいいだろう。</p><p>会津藩は、1808(文化5)年10月から翌年にかけて樺太から帰還した記述がある。会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけ、江戸幕府によって会津藩が樺太への出兵を命じられることにはじまり、総勢1558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留したともいい、会津藩の樺太出兵とも呼ばれている。</p><p>しかし、1808年(文化5年)樺太出兵から帰還中の会津藩士が嵐に遭い船が難破、一部は天売島、焼尻島へ避難するも、51名の死者を出した。焼尻島に多数の遺体が漂着したことから島民が手厚く埋葬し墓を立てたそうだ。また別な資料では、警備のため出陣したが、船中にて病没したため焼尻島に寄港し埋葬したとの記述もあるそうで詳細は定かではないらしい。</p><p>一基には「会津小原内匠忠貫」「文化五年戊辰七月十一日」、他の一基には「会津山内一学豊忠」「文化五年戊辰七月十六日」の刻がある。 他にも、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられていて、利尻島にも会津藩士の墓がある。</p><p>https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12642576034.html</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-55340061442575891302023-12-03T18:17:00.005+09:002023-12-03T18:17:49.646+09:00 会津藩士墓地 野付半島<p> 会津藩士墓地 野付半島</p><p>会津藩は西別から紋別までの領地を与えられ、1860(万延元)年、標津に藩士を派遣。</p><p>1868(慶応4)年まで開拓と北方警備にあたりました。</p><p>会津藩は1862(文久2)年、ホニコイに本営となる陣屋を建築。</p><p>函館で材木を製材し、切組をつくって、船で運んび組み立てるというもの。</p><p>『蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記』によれば、11隻の船で物資や人員を運び(予定では17棟建設)、1863(文久3)年の秋までになんとか陣屋が整ったことがわかります。</p><p>そのホニコイ陣屋には代官以下200余名の藩士が北方警備に就いています。</p><p>この陣屋があったホニコイは、現在ホテル楠(標津町南8条西1−4−1)が建つあたりと推測されています。</p><p>ロシアの南下政策に対抗し、寒さに強いという理由で北方警備を命じられた会津藩などの東北諸藩ですが、越冬など過酷の警備で多くの藩士が命を落としています。</p><p>野付半島にある会津藩士の墓は、1863(文久3)年に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓。</p><p>右の墓には「稲村兼久之墓 同孫女之墓」と刻まれ、左の墓は半分から下の部分が欠損しているので全部は読み取れませんが、「會津 佐藤」と刻まれている部分が残されています。</p><p><br /></p><p>https://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho1157/</p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7694941498477510699.post-29079281205519446202023-12-03T18:14:00.005+09:002023-12-03T18:14:53.047+09:00 会津藩士墓地 白坂観音寺<p> 会津藩士墓地 白坂観音寺</p><p>この辺りは、白河口の戦いの激戦地で、東軍はいったん西軍を退けましたが、ふたたび来襲、西郷頼母、横山主税らが稲荷山に陣して迎え撃ちました。</p><p>しかし、約700名ともいわれてる死者を出して敗退し白河城は落城。戦後、この墓城は有志により管理され、毎年6月第1日曜日には長寿院住職の読経のもと慰霊祭をおこない、会津藩のご子孫も参列されています。</p><p>戦死墓</p><p>戦後、地元新町の人々が建立し戦死者の霊を弔ったものです。文字は阿部藩の重臣・阿部秋風の書です。</p><p>銷魂碑</p><p>松平容保が書した銷魂碑には、白河口副総督の横山主税をはじめとする304名の名前が刻まれています。</p><p>田辺軍次墓</p><p>田辺軍次は、東軍が敗れたのは、大平八郎が西軍の道案内をしたからだと信じ、白坂宿鶴屋で、大平を斬殺しました。田辺はその場で自決しましたが、八郎の養子直之助が養父の仇である田辺の墓を建て、白坂観音寺に葬りました。のち白河会津会によりこの地に改葬されました。</p><p><br /></p><p>https://shirakawa.welcome-fukushima.com/co/kankou-aizuhanbosyo</p>Unknownnoreply@blogger.com0