諏訪神社
- 国分、旧舞鶴城城下の東方に
諏訪神社が鎮座する。
なぜここに「諏訪」を勧請したのだろうか。
- 「諏訪」と言えば「龍神」、水害・水難からだろうか。
海岸縁で且つ河川もある。洪水や津波の被害を推察するが。
当時は、入江で、中洲が七島、あったそうだ。
- 一説では、鎌倉武家集団の間で「諏訪詣で」が盛んだったと伝う。
鎌倉下向武士団の島津が奨励したのだろうか。
吾妻鏡 巻六 では、諏訪大社に神馬を奉納している。
- 旧島津藩に諏訪神社が多数鎮座されているのには
それなりの背景がある。
- 島津の祖「忠久」は、
当初、この諏訪神社(諏訪大社)が
鎮座する信濃國の地頭職にあった。
===>>三国名勝図会・鹿児島・正一位諏方大明神社、
「諏訪御符礼之古書」「信濃国太田庄相伝系図」
■信濃國塩田庄:現在の上田市塩田(産川流域)
===>>工藤能綱譲状案(工藤文書・石川文書)
■大田庄:
豊野町南郷から長野市赤沼・津野にかけて
太田という地名が残っている
===>>古来、近衛家領、
養和元年(1181):木曽義仲の領地となる
元暦元年(1184):義仲滅亡後、島津忠久が地頭拝命
- 前出の「正一位諏訪大明神社」の由緒にもあるように
五年己酉
右大将源公
陸奥國押領使蓁衡を
征伐し給ひし時
得佛公御年十一歳
命を蒙りて副将軍となり
前軍に都督たり
此時深く信濃國諏訪大明神神に
斎祷し給ひて軍利あり
功成りて凱旋し給ひけり
陸奥国に出陣のおり
戦勝祈願をし軍功を挙げた。
それ以後崇拝するようになった。
- 藤原定家の「明月記」や「吾妻鏡」に登場する「承久の乱」
この合戦に出陣するに際し、諏訪神社詣でをし武勲を挙げた。
以後、島津の氏神「稲荷」と同様、崇拝し勧請した。
- 諏訪大社に関しての初見は次のようだ。
『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)八月辛酉《廿三》◆辛酉。
遣使者祭龍田風神。信濃須波。水内等神。
- また、当地の諏訪神社には「諏訪上下」とか
「諏訪上」「諏訪下」と
あるので、不思議に思って、諏訪大社を少々。。
- この「諏訪上下」に関しては、
諏訪上社と諏訪下社とで確執があったようです。
- 鎌倉時代は、上社の大祝・諏訪氏が、源氏と密接な関係を持ち
諏訪は「軍神」として 崇拝・加護を受けて
また、諏訪市は武士団を結成し隆盛を、。
===>>吾妻鏡等参照
嶋津氏もこの後の承久の乱ではかなりの報奨を
- しかし鎌倉幕府が滅亡すると
代わって、下社が武士団を形成し勢いを増し
抗争が展開される
- この後武田軍が支配するようになる
- 欽明の頃の出自は・・・はここでしょうか。
『日本書紀』巻十九
欽明天皇元年(五四〇)七月己丑《十四》◆秋七月丙子朔己丑。
遷都倭國磯城郡磯城嶋。
仍號爲磯城嶋金刺宮。
- また、下社の大祝の「金刺」はここ
『続日本紀』巻卅二
宝亀三年(七七二)正月乙巳《廿四》◆乙巳。
信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連。
- 諏訪大社の大祝
○上社の大祝は祭神の子孫で諏訪氏
○下社の大祝は外来神の子孫で多氏(おおし)と同祖の皇別氏で
新撰姓氏録では右京皇別氏族
多氏の末裔には、阿蘇氏・金刺氏がある。
「金刺氏」の後は武居氏
例のお舟神事はこの下社です。
- また、神長官「守矢」によると
御柱は「ミシャグジを降ろす依り代」であるそうな。
- 守矢(守屋)は物部氏を祖とする。守屋神社が鎮座する。
- http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html
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