林檎の花、龍の爪

波間に浮かぶ士魂。ある士族のルーツを訪ねます。

2017年8月18日金曜日

秀康・忠直家臣団履歴

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秀康・忠直家臣団履歴 ※出典の略称 ・「諸士」(「諸士先祖之記」『福井市史』資料編4、1988) ・「寛政譜」(『新訂 寛政重修諸家譜』) ・「叢記」(福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961) 赤垣甚左衛門 信濃生れ。秀康...
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清野氏

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清野氏の出自については諸説あり明らかではないが、1440年(永享12)の「 結城陣番帳 」に雨宮・漆田・生仁氏と共にその名が見える。武田氏北信濃侵入前には 鞍骨城 を本城とし、東に 竹山城 、西は 唐崎城 、南西は 鷲尾城 を外郭としこの地一帯に勢力を持っていたと見られる。 ...

『吾妻鏡』

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信濃の荘園は、京から遠く離れており年貢米輸送も不便であったところから初期には発達せず、院政時代に入ってから寄進型荘園として成立する。 文治2年(1182)3月に年貢未済として書き上げられた荘園のうち、小県地方に、皇室領として塩田荘・常田荘・依田荘、寺社領として浦野荘、諸家領と...

『大塔物語』

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南北朝時代、鎌倉での北條氏敗北が、北條勢力の一掃を意味するわけではなく、全国各地にはなお北條氏に心寄せる武士もいた。 ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1...

真田家系図

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だが、江戸時代になって軍記物の流行や講談本などの流布により、真田家は圧倒的な人気を博しております。なかでも徳川家康を相手に二度にわたって戦いをいどんで苦杯をのませた父の昌幸とともに、信繁は「真田幸村」の名で大坂冬・夏の陣で天下の軍勢を向こうにまわして大活躍を演じて、一躍英雄とな...

結城陣番帳

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10)結城合戦と信濃武士  大井持光は、「永享の乱」後の永享11(1439)年、自害した鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸・後の古河公方足利成氏(しげうじ)を信濃で庇護した。永寿王丸は持氏の末子で、当時5才であった。初代鎌倉公方足利基氏が中興開基した鎌倉の瑞泉寺の僧が、2人の被官に庇...
2017年7月4日火曜日

陰陽師・赤沼内膳

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富田漏祐 土豪・新領主つながり 会津の大名蘆名氏の重臣の内、松本・平田・佐瀬・富田の四氏は「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は、古代の安積臣の後胤・直継の子孫など諸説があり、いずれも未詳。『伊東家譜』に、享禄三年秋に富田郷に拠った伊東大和守祐盛が「富田伊東氏」とし、藤原南...
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