矢筒(やづつ)城は飯綱病院の裏の小山にありました。
訪問日は2013年7月31日です。
▲図
登城口の説明板にあった図です。
堀と土塁の色がソックリなので、凡例を切り取って右下に貼ってます。
こうやって見ると、病院一帯が居館で背後の小山が詰めの城だったんですね。
しかし、病院の背後は堀の病院側に土塁があるようです。
転落防止とか山から流れてくる雨水を避けるためだったのでしょうか?
▲石碑
その病院にこの石碑があります。
石碑は「城跡」ではなく「館跡」です。
▲登城口
城跡へは病院からちょっと離れた民家の脇から登ります。
ココがその登城口です。
ちゃんと入口であることを示す案内があります^-^
▲城域の入口
道はうっそうと木々が繁る山の中へ続きます。
尻込みする城キチを誘うかのように説明板があります。
やっぱりこの奥かぁ・・・
真夏なので少し躊躇いはありましたが、ここまで来て引き返す訳には行きません。
▲堀と土塁
説明板の所から歩くこと1分で堀と土塁がありました。
案内図でもかなり下の方に描かれていましたからネ!
これ見たらもう真夏に山?なんてネガティブな発想はぶっ飛びます。
前進あるのみw
▲主郭
そして、説明板から5分で主郭に到着!
意外とあっさり登れたので、Uターンしなくて良かったです。
石碑がいくつも並んでいますが、城址碑ではありませんでした。
城址碑だったらバシバシ撮りまくりますからw
▲腰郭
主郭は特にこれといった造作も見当たらない平坦地でした。
山上に平坦地があるだけでもスゴイ事なんですけどね・・・
周りを見ていたら腰郭っぽい平場がありました。
◆歴史◆別名は牟礼城、黒川城とも呼ばれています。
築城年代は不明です。
わからない事だらけなので、島津氏の動向を中心に書きます。
永正年間(1504~21年の間)、福王寺氏の城だったようです。福王寺氏がどのような氏族なのかわからず
後に島津氏の城となったようです。
島津氏は薩摩が本家であり、一族が1221年の承久の乱後に太田荘の地頭になっています。
その後徐々に勢力を拡大しており、福王寺氏から城を奪ったのでしょうか。
それとも、福王寺氏が途絶える際に近在の島津氏に譲ったのでしょうか。
そこらへんはサッパリわかりませんでした。
1553年、武田軍により島津権六郎が滅ぼされました。武田軍が葛尾城の村上義清を一時越後へ追いました。
この時に矢筒城も武田軍に攻められ、城主・島津権六郎の家系は滅ぼされました。
長沼城主・島津忠直は長尾景虎を頼り、武田軍への抵抗を続けていました。
1555年、第二次川中島合戦後、長沼城に島津氏が復帰したと見られます。
善光寺別当・栗田寛安が長尾方から武田方に寝返り、第二次川中島合戦が起きました。
この時は今川義元が仲介して和議を結んでおり、武田方の旭山城が破却されています。
1557年、第三次川中島合戦がありました
市河氏ら川中島周辺の国人衆を調略した武田軍は、長尾軍の拠点・葛山城を急襲しました。
そのため、島津忠直は長沼城から大倉城、更に戸屋城へ移っています。
この戦いの後、島津忠直は越後へ移り、長尾家臣となっています。
一族の赤沼島津氏(島津尾張守)が武田軍に降伏したのは、この時と考えられています。
1561年、第四次川中島合戦
1564年、第五次川中島合戦
善光寺平は武田領に確定し、武田方の最前線は長沼城、上杉方の最前線は飯山城となりました。
来るべき決戦に備え、両城ともそれぞれ大改修されました。
1582年、武田勝頼の援軍要請を受けた上杉軍が一時駐屯しました。織田信長に攻められた武田勝頼が、同盟相手である上杉景勝に援軍を要請しました。
要請を受けた上杉軍はココ矢筒城で体勢を整え、長沼城へ向かっています。
矢筒城が歴史に登場するのはココまでです。
同年3月、武田勝頼が滅ぼされた後、北信濃で武田旧臣の芋川親正が織田軍に抵抗しています。
この時に芋川親正が拠点としたのは、長沼城と大倉城です。
大倉城は近くで敗れた芋川軍が、「近い」というだけで立て篭もったようです。
この時、矢筒城はどうだったんでしょうか?
芋川親正は上杉家臣・島津忠直と連携しましたが、森長可軍に敗れています。
戦いにより領地を失った芋川親正は越後へ逃れ、上杉家臣となりました。
同年6月、本能寺の変で織田信長が斃れると、北信濃一帯は上杉景勝が占領しました。
この時に島津忠直は念願の本領復帰を果たしています。
1598年、島津忠直が信濃を離れました。
主君である上杉景勝が会津へ移されたため、島津忠直も従いました。
新しい領地で与えられた城も「長沼城」(福島県須賀川市)です。
景勝さん、ニクイことしますねw
出典
http://ameblo.jp/napo-jou/entry-12024491841.html