2026年9月9日水曜日

島津忠直

 二 寺院

633 ~ 636

 観海寺(かんかいじ) 真宗東派 赤沼大割 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 陽柳軒(ようりゅうけん) ③由緒 江戸末期に僧観海が千曲の水害からの民衆救済を立願して建立し、明治初年豊野出身、浅野正見寺で修業した慈教が再興した。

 浅慶院(せんけいいん) 曹洞宗 赤沼西宮配 ①本尊 薬師瑠璃光如来(るりこうにょらい) ②山号 東光(とうこう)山 ③由緒 昔宮配の薬師堂に長秀院二世角応が住んでいたが、寛保(かんぽう)二年(一七四二)堂宇を流失。天明(てんめい)七年(一七八七)長秀院九世雲峰禅瑞の弟子、古天一燈が堂宇を再建東光山浅慶寺と改称。明治二十四年全焼、現堂宇は芋川分教場を移築改造した。

 妙願寺(みょうがんじ) 真宗東派 赤沼東通(ひがしどおり) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 至心(ししん)山 ③由緒 寺伝によると、現鳥取県熊野の城主が出家し比叡山で修行、林学といい天台宗であった。のち常陸(ひたち)国(茨城県)平谷村に寺を創建、のち真宗に転じた。永享(えいきょう)二年(一四三〇)安茂里小市(あもりこいち)に移り、永禄(えいろく)九年(一五六六)津野に移り、元和(げんな)六年(一六二〇)将軍秀忠から朱印を賜る。宝暦(ほうれき)元年(一七五一)現在地に移り本堂、庫裏(くり)を造営した。

 玅笑寺(みょうしょうじ) 曹洞宗 津野鶴野 ①本尊 釈迦如来(しゃかにょらい) ②山号 洞雲(とううん)山 ③由緒 寺伝によると鎌倉円覚寺の源為義の末男、一庵覚仙が建久(けんきゅう)八年(一一九七)六月善光寺参詣の折、叔父源頼朝の叔母、美濃局法名「拈華院顔相妙笑大禅尼」菩提のために、毛野村(上水内郡三水村)に一宇を建立した。明応(めいおう)二年(一四九三)四月、上野(こうずけ)国(群馬県)上後閑長源寺四世天英祥貞が堂宇を再建、曹洞宗に改め中興開山した。玅笑寺は佐久郡岩村田龍雲寺の二世如麟から四世徳昌まではその四ヵ道場(正眼院・興禅寺・玅笑寺・興国寺)の一つであり、五、六世までは輪住の道場であった。天正(てんしょう)八年(一五八〇)七世揚天宗幡のとき、長沼城主島津忠直(中興開基)の招きにより現在地に移り、永一〇〇貫文が寄進された。観音堂に祀られてい准胝(じゅんでい)観音には、美濃局の念持仏が内蔵されているともいわれている。直末一三ヵ寺・孫寺四ヵ寺の小本寺である。寺には長沼城の表門が保存されている。

 正覚寺(しょうがくじ) 真宗東派 津野八幡 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 若槻(わかつき)山 ③由緒 寺伝によると、建長八年(康元(こうげん)元年・一二五六)四月若槻東条に後鳥羽天皇の皇子善性房覚蓮が創建した。永禄年間(一五五八~七〇)川中島合戦の兵火で焼かれ、越後長岡に移り、のち元和(げんな)年中(一六一五~二四)現在地に移ったという。徳川家光より境内地を賜ったともいう。

 貞心寺(ていしんじ) 曹洞宗 穂保表町 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 大龍(だいりゅう)山 ③由緒 北石村(豊野町)の真言宗神宮寺が無住となっていたこの寺を寛永(かんえい)七年(一六三〇)長沼城主佐久間勝年が城下に移して開基し、曹洞宗に改め、玅笑寺九代慶祝和尚の弟子林鷟(りんざく)が開山した。同年九月勝年が亡くなり葬られて菩提寺となった。寛文(かんぶん)五年(一六六五)六月勝年の妹が亡くなり、法雲院殿清泰貞心大姉の法名から大龍山貞心寺と改称した。

 善導寺(ぜんどうじ) 浄土宗 大町町屋敷 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 終南(しゅうなん)山 ③由緒 寺伝によると、鎌倉光明寺の記主禅師良忠は大町に堂宇を創立し、浄林寺と名づけたが、間もなく帰山し無住寺であった。明応四年光明寺の徒弟祖観が住職となり開山した。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月二日の大満水時に諸堂を流失、明治六年火災で鐘楼を残しただけとなったが、同七年に再建した。

 林光院(りんこういん) 曹洞宗 大町町屋敷 ①本尊 薬師如来 ②山号 医王山 ③由緒 慶長(けいちょう)十一年(一六〇六)玅笑寺八世のときの分寺。

 西厳寺(さいごんじ) 真宗東派 大町町屋敷 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 成田(なりた)山 ③由緒 寺伝によると開基は空晴。空晴は平維茂(たいらのこれもち)九代の孫で、俗名成田政晴。下総国(しもうさのくに)(千葉県)飯野の領主となったが、建保(けんぽう)五年(一二一七)親鸞(しんらん)を常陸国(茨城県)稲田の草庵に訪れ弟子となり、空晴の法名を賜った。のち下総国礒部郷(いそべごう)に一宇を建て西厳寺と称した。三世空念のとき南北朝争乱の戦火を避けて、暦応(りゃくおう)元年(一三三八)長沼に移り寺を建てた。七世空因のときには二〇の坊寺があった。宝徳(ほうとく)元年(一四四九)本願寺八世蓮如が北国経回のおりに逗留、八世に対し蓮空の名を授けた。現行の西厳寺縁日はこれにより始まったものという。蓮如が文明(ぶんめい)四年(一四七二)越前(えちぜん)国(福井県)吉崎(よしざき)から上野(こうずけ)国(群馬県)草津入湯の途中、同年四月二日から五月十九日まで同寺に逗留したときの別殿が蓮如堂だという。永禄(えいろく)十一年十月二日信玄から安堵状を受けた。慶長(けいちょう)三年上杉景勝の会津国替えにいったん随従したが、長沼領が秀吉の蔵入地になったので還住(げんじゅう)を願い、同年九月二十八日、改めて寺地があてがわれ長沼へ帰った。徳川になってから寺領一〇石をあたえられた。明治六年浮浪者の失火で全焼。現存の蓮如堂は須坂の勝善寺から見舞いとして贈られた。寺宝としては、市指定文化財の絹本著色蓮如上人絵伝(四幅)・紙本著色鬼女紅葉狩りの図と、蓮如上人作と伝えられる親鸞上人木造、同書と伝えられる六字名号がある。

2026年9月8日火曜日

伴百悦

 会津藩上級藩士伴佐太郎宗忠(500石)の長男として郭内本四ノ丁三日町口郭門西で生まれる。伴家は代々藩の鷹番頭であった。

戊辰戦争で、萱野右兵衛隊組頭として越後口で奮戦、のち朱雀隊(18-35歳まで)寄合二番隊中隊頭を務める。長岡城陥落後会津に戻り、篭城戦で活躍。国内史上最大の内戦となった同戦争では東軍死者は4,680人、うち会津の死者は2,557人(女194人)に上った[1]

曲折の埋葬作業

明治元年(1868年)9月22日の開城後、10月1日に民政局が設置される。2000余の会津藩士の遺体は賊軍という汚名のもと埋葬することも許されず、腐乱するがままになったと巷間言われているが、同月4日には郭外に放置されている遺体を城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた「遺体埋葬令」が出された(会津若松史6巻)ものの、降雪と12月までに頻発した一揆のため作業が中断されたとするのが実情で、この間「『彼我』の戦死者一切に対して決して何等の処置をも為すべからず、もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との会津若松での明治新政府通達が出され、会津側だけでなく、新政府側兵士の遺体も野ざらしにされたという。

当時若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ[2]、「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など16ヶ所に総数1634 の遺体が、2ヶ月にわたり埋葬されたという。

束松事件

満足して滝沢村に帰ってきた伴らであったが、待っていたのは民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。当時全国的に横行していたニセ金ニセ札つくりは会津でも例外ではなく、容疑者を捕らえると久保村はろくに調べもせず斬首する圧政者として若松城下では誰知らぬ者はなかった。 その久保村は、明治2年民生局の廃止で職を免ぜられ、7月に故郷越前に帰藩することになる。久保村出発の日を探り出した 伴は高津仲三郎思案橋事件で刑死)ら同志とともに束松峠会津坂下町)で待ち伏せして斬殺、越後方面に逃亡、大安寺村(現・新潟県新津市)の坂口津右衛門のもとに身を寄せた。翌3年6月22日、伴の潜伏する大安寺村の慶雲庵に村松藩の捕吏が殺到、伴は捕吏の一人を板戸越しに刺した後相手方の怯んだ隙に自刃して果てたという。

墓地

伴の遺体は村人の手により慶雲庵に埋葬され自然石の墓標が建てられたが、その後慶雲庵もなくなり荒れるにまかされていた墓地は昭和41年(1966年)3月、越後交通社長柏村毅会津会会長)の手によって整備改修され、墓碑も設けられた。同62年(1987年)4月、元国鉄会津線管理所長伴亨一郎は、当初の墓碑が腐朽したため仙台石に墓誌を刻み建立した。平成11年(1999年)10月、茶道表千家流教授伴京悦(悦子)と、弟で国鉄塩釜駅長伴和郎が祖霊追善供養のため慶雲庵より百悦の遺骨を分骨、会津若松市大窪山麓に佇む祥雲山善龍寺に墓碑とともに墓石を建立。法名修功院殿百法勇悦居士。釈迦と渾名された剣の達人であった。

日ユ同祖論

 古代イスラエルの歴史

聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀?)がメソポタミアウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が諸部族をエジプトから連れ出し紀元前13世紀?)、シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。200年程かけて一帯を征服して行く。

ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。次のソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)は、安定した政治基盤を背景に強権的となり、『列王記』や『歴代誌』によると彼の代で厳しい苦役や重いくびきが強いられたとされる。ソロモンの死後、息子のレハブアムが王位についたとき、民はそれらの軽減を訴えたところレハブアムは断り、さらに厳しくすると答えたため北部の部族は離反し、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とし、元の王国名を引き継いだ北王国(イスラエル)を立て、シェケムを再興して都とした。都は後にシェケムからティルツァサマリアと移り変わった[1]

これによってイスラエルは北王国と、王を輩出してきたユダ族ならびにダビデの王権樹立に協力したベニヤミン族の南王国(ユダ王国)に分裂した。北王国では南中部のベテルと最北部のダンに、金の子牛の像をおいて王国の祭祀の拠り所としていたとされる。これは子牛を崇拝したのではなくエロヒム(ヤハウェ)の台座として置かれたものであるとされる[2]。一方、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった。

当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。ソロモン王も特に晩年になるほど、『列王記上』11:4-8 にあるアスタルテミルコムケモシュモロクなどへの信仰を顕わにしたとされている(ただし、列王記にはダビデは熱心な一神教崇拝だったとある)。学問的には北王国のエロヒム信仰のみならず、エルサレムのヤハウェ信仰も多神教の一種(拝一神教単一神教)だったと考えられている。

北王国は紀元前722年に同じセム語系民族であるアッシリアにより滅ぼされ、10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚[3]サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されているが、その行方が文書に残されていないため、南王国の二部族によって「失われた十部族」と呼ばれた。広義には捕囚とならなかった北王国の住民を含んでいう場合がある。

捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に十部族としてのアイデンティティを失ったといわれ[4]、周辺の異民族や、アッシリアによって他地域から逆に旧北王国に強制移住させられてきた異民族と通婚し混血することもあった[5]サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部の祭祀を同じくする古来の信仰が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。

南王国のユダは、紀元前586年にセム語系民族の新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌う声も強くなり[6]、異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった[7]

彼らは新バビロニアを滅ぼしたイラン語系民族のアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した[8]。解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、エルサレム神殿も復興された[9]。ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、北王国の末裔と認めず、祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった[10]

ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ヘレニズム時代が開幕すると、ユダヤ人アレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、宗教としてのユダヤ教が確立した。

ハスモン朝の時代にかけてはローマと同盟を結んだこともあり、ユダ王国の領土は拡大し、エドム地方なども含まれるようになり、制圧地域のエドム人もユダヤ教の布教が行われてユダヤ人に同化され[11]、後にそこからヘロデ大王がユダヤの王の座に就くほどまでになったが、彼の死後王位の後継者が定まらず、一度は息子達によって分割統治するも、サマリア・ユダヤ・イドメア地区では領主のヘロデ・アルケオラスが統治を失敗しローマ帝国の直轄支配によるユダヤ属州が置かれた。[12]「ユダヤ」の名はユダ(綴りは英語などではJudaだがラテン語ではIuda)にラテン語の地名としての語尾変化「ea」がつき「ユダエア(Iudaea)」となったもの、同様に「エドム(Edom)→イドメア(Edomea)」となった[13]

研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱ローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。

元祖古代イスラエル十二部族

イスラエルの12部族英語版に参照。
  1. ルベン族
  2. シメオン族
  3. レビ族
  4. ユダ族
  5. ダン族
  6. ナフタリ族
  7. ガド族
  8. アシェル族
  9. イッサカル族
  10. ゼブルン族
  11. ヨセフ族
    1. マナセ族
    2. エフライム族
  12. ベニヤミン族

『聖書』の記述では、イスラエル12部族とは、以下のヤコブの妻子や孫らを祖とする部族のことである。

ヨセフを父、アセテナエジプトの祭司ポティ・フェラの娘)を母とした2子(ヤコブの孫)

以上を合計すると13部族となってしまうが、これについては特に対処せず13部族すべてを数え上げる場合[14] と、切れの良い12に直すため以下の4通りの処理の仕方がある。

レビ族を数えない場合
一番よく見られる方法で、民数記冒頭の人口調査でも「イスラエルの各部族の長12人(=部族数は12)は人口調査をした」とした後に「レビ人は調べられなかった」とあり[15]、「各部族」にレビ族が入っていないと分かる。
ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については領土が無く各地に分散して暮らしていたため、これを数えず他の部族で12とする。
マナセ族とエフライム族をまとめて「ヨセフ族」と数える場合
例として申命記のゲリジム・エバルの両山に祝福と呪いをする際にそれぞれの担当の部族名が列挙されているが、エフライムマナセも呼ばれずヨセフの名が呼ばれている[16]
両族はヨシュア記でも「ヨセフの家」とまとめて呼ばれるなど、結びつきが強いものとされた。
なお、後述のヨハネの黙示録ではエフライム族の事をヨセフ族と呼んでいる(マナセ族の名前は別に出てくる)。
シメオン族を数えない場合
申命記最後の各部族へのモーゼの祝福でシメオン族が名前を呼ばれていない[17]
シメオン族は領土自体はあったがユダ族の中で飛び地状態で、次第にユダ族に吸収され[18] 早いうちに消滅したため、これを数えずにレビを入れて12とした。
ダン族を数えない場合
ヨハネの黙示録に見られるもので、「イスラエルの子らのすべての部族」として列挙される中にダン族の名前がない[19]
理由ははっきりしないが、現在は偽典とされている『十二族長の遺訓』にダン族は反キリストを生むものとされていたためという説がある。

古代イスラエルの失われた十部族

失われた十部族とは、古代イスラエル十二部族のうちユダヤ民族の直系の祖のユダ族ベニヤミン族レビ族[20] を除いたものをいう。南王国ユダの二部族とはユダ族ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた三部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には二部族でなく三部族が存在したわけだが、上記の通りレビ族は数えないのが慣例であるため「二部族」と呼び習わしている。

ただし『歴代誌』によるとバビロン捕囚から帰還の時点でエフライムマナッセの各部族は残存しており、エルサレムに住み着いたという[21]。彼らの系譜は書かれていないが、同書の下巻にユダがアサ王統治下の頃、「ユダベニヤミンのすべて、および彼らとともに住んでいたエフライムマナセシメオンの人々」というくだりがあるので、この頃にはすでにユダに上記の二部族とシメオン族もいたということになる。[22] なお、バビロン捕囚から帰還後は、多数派のユダ族と祭司としての役目を任されたレビ族以外は各部族としてのアイデンティティを失い、ユダ族に同化されたらしく[要出典]、これ以後は「ユダヤ人」、「レビ人」という言い方は残っているが他の部族の呼称が出てこなくなる。

なお、『列王記』では南北分裂のきっかけになったとされる預言者アヒヤの「あなた(ヤロブアム)に10部族を与えよう。彼は(中略)1つの部族をもつであろう[23]。」「その十部族をあなた(ヤロブアム)に与える。その子には一つの部族を与えて[24]」という説明や、同書の第12章第20行でも「ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった」という説明のくだりから、そもそも分裂は「10と2」ではなく「10と1」であったことが分かる。