2026年9月8日火曜日

井深 宅右衛門

 いぶか たくえもん (たくうえもん)、


 文政13(1830)年1月26日~明治30(1897)年3月19日 (38歳)

 父/井深清大夫重保と母/リツ子 (柴太一郎の次女) の嫡男。

 幼名:梶之助、名:重義。

 妻/八代子は西郷頼母の妹、長男が井深梶之助、3男が井深彦三郎。

 文武両道に秀でており、特に漢籍に深い造詣を持ち、会津怡渓派茶道の皆伝書も受けている。

 物頭、組頭、町奉行、奏者番上席、日新館/学頭などを歴任。

 文久2(1862)年、江戸常詰の聞番に就任。

 文久3(1863)年、京都守護職/松平容保の軍事奉行仮役として上洛。

 慶応2(1866)年、学校奉行として帰城。

 戊辰の役では第二遊撃隊/隊頭として飛び藩領/小出島などで奮戦。

 敵兵城下乱入の報で鶴ヶ城に入り、用人として籠城戦を戦い抜く。

 開城後は松平喜徳公に付き添い、滝沢村、東京/有馬邸へ幽閉。

 明治2(1869)年、戦争責任を一身に背負い切腹した萱野権兵衛は、一刀流溝口派の途絶を惜しみ、奥義を伝授した相手が宅右衛門である。

 明治3(1870)年、家族と共に斗南藩/五戸へ移住する。

 明治6(1873)年、若松に帰り、小学校の教員となる。

 その後、若松区長、大沼郡書記、南会津郡書記、田島村戸長を歴任し、晩年に東京へ転居する。

 墓は青山霊園。


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井深九郞兵衞

「Blog鬼火~日々の迷走」より

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「井深九郞兵衞」先に誰の家臣かを考証する。当時の初期の高遠城主は、武田信玄の実弟武田信廉、武田勝頼異母弟仁科盛信(信盛)。天正一〇(一五八二)年二月の織田信長の本格的な武田攻め(甲州征伐)で盛信は戦死し、城は落城、直後に武田氏は滅亡した。その後の信濃伊那郡は織田家臣毛利長秀が支配したが、織田氏時代の城主は不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかどうかさえ疑問視されている。同年六月に「本能寺の変」が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生する。上伊那郡にあっては、諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(現在の長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰したが、藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子の頼広とともに自害した。その後は徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年七月十五日までに高遠城を奪還しえいる。その後は家康方の保科正直保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方に寝返った小笠原貞慶が攻めたが、撃退されている(以上は主にウィキの「高遠城」を参考にした)。天正後期の戦乱の最中に大蛇退治もあるまいから、武田時代の話という設定であろうなどと思っていたが、以下に示す原拠(そこで『信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時』と始まる)から、保科正光(彼は後に初代高遠藩主となり、従五位下で肥後守を叙されているからである)の家士(という設定)であることが判明した。保科正光(永禄四(一五六一)年~寛永八(一六三一)年)は甲斐武田氏の元家臣で家康に寝返った保科正直(後述する)の長男として生まれ、天正十年の武田氏滅亡後は、武田勝頼の人質になっていたのを、井深重吉(後注する)によって救出され、家康に従い、高遠城を預かった。天正十二年の「小牧・長久手の戦い」や、天正十八年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東移封に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。天正十九年の「九戸政実の乱」の鎮圧にも参加し、天正二十年からの「文禄・慶長の役」においても家康に従って、肥前名護屋城に在陣した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、東軍に属して遠江浜松城を守備し、戦後二ヶ月ほどは越前北之庄城に城番して派遣されていたが、同年十一月に旧領に戻され、高遠藩二万五千石を立藩し初代高遠藩主となった(ここはウィキの「保科正光」に拠った)。父の保科正直(天文一一(一五四二)年~慶長六(一六〇一)年)についても簡単に述べておくと。信濃の国衆の一人で、もとは甲斐武田氏の家臣であったが、後に家康の家臣となった。天正一〇(一五八二)年の織田・徳川連合軍の「甲州征伐」に際しては、武田方として飯田城に籠城し、二月十四日に織田信忠による攻勢を受け、坂西織部亮・小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡し、そこで仁科盛信とともに籠城していたが、結局、高遠城を退去し、実弟内藤昌月(まさあき)を頼って、上野箕輪城へ逃れた。「本能寺の変」以後の「天正壬午の乱」にあっては、昌月とともに後北条氏に組みし、正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。しかし、その後、甲斐に於ける「黒駒合戦」で家康が優勢に経つと、依田信蕃・木曾義昌ら、他の信濃国衆とともに徳川方に転じた。北信濃を除く武田遺領を家康が確保すると、二万五千石を領した。天正一二(一五八四)年に「小牧・長久手の戦い」が起きると、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は、正直・諏訪頼忠・小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したものの、充分な戦果を上げられず、正直を抑えに残して撤退した。天正一三(一五八五)年には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る「上田城攻め」(第一次上田合戦)に従軍して活躍、その後、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となることで、力を伸ばした。天正一七(一五八九)年に秀吉が京都大仏を造営するに当たっては、家康の命で、富士山の木材伐採を務めている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。慶長六(一六〇一)年九月二十九日、高遠城で死去。享年六十であった(以上はウィキの「保科正直」に拠った)。さすれば、本篇の時制設定は天正(二十年まである)の十年以降の後半ということになる。


 さて。問題は主人公である。先の記した正光を救った人物に保科家重臣であった井深茂右衛門重吉がいた。その子茂右衛門重光は高遠藩第二代藩主保科正之(第二代徳川幕府将軍徳川秀忠の四男で正光の養子となった)の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっており、他に参加を許されたのは山崎闇斎・吉川惟足・服部安休(森蘭丸の孫)など僅か七名であった。まずは、この保科家重臣の井深家の誰かであると考えるべきであろう。ウィキの「井深宅右衛門」(幕末から明治にかけての元会津藩士で地方官吏・教育者であった井深家の末裔)の「井深家」の項によれば、『室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により』、『主家の小笠原氏が出奔したため』、『隣接地の武田側領主である大日方氏に仲介を依頼して武田氏に従属した』とある。因みに、この井深家の末裔には、「SONY」の創業者の一人である井深大(まさる)もいる。


「小澤の阪」大萱の南方直近の長野県伊那市小沢であろうが、「阪」(坂)は判らぬが、貫流する小沢川の直近の左岸部分は丘陵地になっているから、そこへの登り口ということであろうか。


「今は、かうぞ。」「今は、これまで!」「最早、最期ぞ!」の意。


「新著聞集」俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勇烈篇第七」の「信州高遠大蛇を斬害す」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本(PDF。同書の第七・八・九巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。踊り字「〱」は正字化した。標題には訓読文を添えた。


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 ○信州高遠斬二害大蛇一(信州高遠 大蛇を斬害(ざんがい)す)


信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時、伊奈郡(いなこをり[やぶちゃん注:ママ。])蓑輪の中、大茅原(かやはら)に、大蛇、幡居(わだかまり)けるよし、鷹匠頭井深九郞兵衞に、組下くみした)より告(つげ)ければ、「さるもの、見とゞけ置(をく[やぶちゃん注:ママ。])べし」とて、草むら深く、わけ入りしに、大蛇、眠(ねむ)り入り、劓(いびき)[やぶちゃん注:漢字はママ。これでは「鼻削ぎ」の刑である。]の音は、臼(うす)をひくがごとく、ちかぢかと忍びより、雜作(ざうさ)なく、首(くび)をうち落しければ、頸(くび)、たちまち、地にかぶりつき、胴のうごく事、地震(ぢしん)のごとくにて、切口(きりくち)より、白き氣(き)の立けるが、俄かに天かき曇り、雷電(らいでん)四方にひらめき、雨、大河をうつすがごとし。九郞兵衞も、『すはや、身の大事ぞ』とおもひ、急ぎ立かへり、小澤(こさは)の坂を下る所に、大虵(じや)、跡より、一さんに追かけ來れり。『今は、遁(のが)れじ』とおもひ、拔設(ぬきまうけ)たる刀を以て、ひらひて、切倒す。その身も絕死(ぜつじ)しけるを、人〻、あつまり、漸くに連(つれ)かへれり。百日ばかりやみて、快氣しけり。雨、晝(ひる)、やみ、間もなく、三日、ふりしかば、信州一國は洪水にて、所所、損亡せり[やぶちゃん注:ここはシークエンスが大蛇退治の直後に戻っている。]。晴(はれ)てのち、かの地に徃〔ゆき〕てみれば、頸(くび)は茅原(かやはら)にあり、胴は小澤にありし。見る人ごとに、身の毛竪(けよ)だちて、恐れり。


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「梨木村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市西箕輪梨木』とある。梨ノ木(なしのき)と表示する。ここ。地区の北西が経ヶ岳の山麓になっている。


『梨木村に「大蛇洞」と唱ふる地あり』確認出来ない。


『小平内記が、天龍川にて、大蛇切〔きり〕し事、「小平物語」に見ゆ』「小平物語」は「河童」で既出既注であるが、再掲する。向山氏の補註に『小平向右衛門』(慶長一〇(一六〇五)年~元禄(一六九六)年)『が、天文以来の甲信戦乱の有様や、その一族の動静を物語風に筆録したもの。向右衛門は』『兄、伊太夫の養子となり、長じて漆戸向右衛門正清と改め、江戸に出て幕府に仕え、致仕後、小河内(現、長野県上伊那郡箕輪町小河内)に住み、貞享三(一六八六)年』に『この物語を書』いたとある。本書が続編に含まれている信濃地誌「蕗原拾葉」の正編にこの「小平物語」は含まれており、幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている昭和一〇(一九三五)年長野県上伊那郡教育会編の「蕗原拾葉」第一輯のここから次のページにかけてで当該談を視認出来る。この話は、同書の「第三十一 天流川[やぶちゃん注:ママ。]由來柴太兵衞河童ヲ捕フル事 附タリ漆戶右門大蛇ヲ殺ス事」に含まれている。その部分だけを電子化しておく。原文は漢字・カタカナ・ひらがな交じりであるが、カタカナはひらがなに直し、さらに一部の助詞・助動詞相当の漢字をひらがなにして(対象さされば判る)、句読点・濁点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で附した。なお、既にお判りの通り、元恒の謂いには誤りがある。大蛇退治をしたのは漆戸右門(うるしどうもん)という武士であり、以下の最後にある通り、小平内記は漆戸の家の近くの住人であったというだけのことで登場しているに過ぎない。


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去る程に、「羽場の淵」[やぶちゃん注:先の「河童」の話の舞台。]より十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]計り河下に「同善淵」迚(とて)、凄冷敷(すさまじき)淵、水上(みなかみ)靑く、あたかも身の毛も悪寒するがごときなり。七月下旬、家士に鵜(う)を遣はせて、漆戶右門、見物して居(を)る處に、折節、小雨降り、鵜、一圓に進まず。兎角、河原へ飛上りける。家來共(ども)、言ふ、「淵の内に大木の樣なるもの見へ[やぶちゃん注:ママ。]候」と。鵜遣ひの者、陸(をか)へ上りければ、右門、怪敷(あやしく)思ふて、陸には、大炬火(おほたいまつ)を燈させ、自身も炬火をもち、鵜繩を取(とり)て、淵岸(ふちぎし)へ出(いで)、鵜を追入(おひいれ)けれども、是れにても、一圓、進まず。暴(にはか)に、風、吹き、漣(さざなみ)、頻りに打ち入るなり。右門、不思議におもひ、松明(たいまつ)を振り立て見れば、何とも知らず、獅子の頭(かしら)の如くなるに、兩眼、日月の如くにて、口をあき、沖の方より、右門を目懸け、間近く來りければ、左の手に松明をふり立て、二尺二寸の大脇差を拔きければ、口をあひて、掛りける處を、左の手に持ちたる松明串(たいまつぐし)を口え[やぶちゃん注:「へ」であろう。]火共(とも)に突込(つつこみ)ければ、水をはたき、淵、鳴動して、見へざるなり[やぶちゃん注:ママ。]。夫(それ)より、右門、下々(しもじも)、召し連れ歸りけり。明朝、彼(かの)淵を見れども、何事、なし。三里許り下(しも)の「眼田河原」[やぶちゃん注:頭書があり、『眼田河原は澤渡村下の河原を言(いふ)』とある。]といふ處に流れ上(あが)る。其の長さ十間[やぶちゃん注:十八メートル二十センチメートル弱。]計りの大蛇なり。鬣(たてがみ)[やぶちゃん注:鱗が逆立っていたものか。]の長さ四尺、左右に六本の牙、上下に四枚、牛の齒の如く小齒あり。首、半分、切れ、炬火串を嚙(かみ)、死(しし)たりける。「前代未聞の見物」と、貴賤、群集(ぐんじゆ)せり。扨、右門主從、蛇毒(じやどく)に當り、煩ひぬ。小平内記、上(かみ)[やぶちゃん注:昔。]、漆戶の家舗(やしき)より、六、七丁、河上なり。天正年中の事なり。

井深家

 室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁ー守護所の出先機関)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため隣接地の武田側領主である大日方氏に仲介を依頼して武田氏に従属した。

井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。他に許されたのは山崎闇斎吉川惟足服部安休森蘭丸の孫)など7名である[2]。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。

重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡碧海郡の郡長などを務め、曽孫に井深大がいる。

宅右衛門の井深家は三男・清大夫重堅に始まり、宅右衛門の子が井深梶之助井深彦三郎である。

一族には白虎隊士として自刃した井深茂太郎戊辰戦争後に民政局員を斬殺し(束松事件)獄死した井深元治らがいる。

井深宅右衛門

 井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日1830年2月19日) - 明治30年(1897年3月19日)は、日本の幕末から明治にかけての武士会津藩士)、地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。


父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。越後方面の会津藩飛び地の守備にあたった。この時15歳であった長男・梶之助は同行を許されなかったが、後を追い宅右衛門と同陣している。町野主水らと共同して戦ったが、新政府軍が会津若松城城下へ侵攻したことに伴い撤退。宅右衛門は入城に成功して籠城戦に加わり、用人として松平容保父子の側で仕えた。しかし藩は降服することとなり、宅右衛門は藩主・松平喜徳に従って、江戸で謹慎生活を送った。

会津藩は斗南藩として再興されることとなり、宅右衛門は五戸に移住するが、明治6年(1873年)に会津へ戻り、若松区長、小学校教員、南会津郡書記、田島村戸長を勤めた。


2024年4月24日水曜日

斯蘆国

日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。

そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。

紀元前57年のことだ。 

農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。


支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。

それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。

その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。


「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、

支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。


紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。

彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。

この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。

(赫居世も倭人と言う説があった。)


西暦101年。婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。

(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。

そうすると100年の誤差が出て来る。)

西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。


さて、倭人の伝承を見てみましょう。

稲飯命

『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。

アメノヒボコ (ウィキペディアより)

アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。

(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)


大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)

仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。

国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。

(王の名前がハサムキムではない事に注目)


三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、

新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。

新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。

『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、

さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。

人々の暮らし

さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。

これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので

その一部を抜粋してみましょう。

韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。

人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。

死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。

珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。

韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。

毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。

10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。

また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。

辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。

「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」

辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。

『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より


面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。

秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。

この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。

(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)

以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、

それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。

その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。


https://lunabura.exblog.jp/17931953/ 

2024年4月19日金曜日

斗南藩ゆかりの地

 

【出典】

佐藤 史隆

季刊あおもりのき発行人

https://shimokita-tabi.jp/himitsu/shirabetemita_13


会津若松市の木「アカマツ」とむつ市の花「ハマナス」が碑を包む

1870(明治3)年春、斗南藩の人々約1万7千人は、会津をはじめ東京や越後高田など各地から陸路や海路など複数のルートで藩領にやってきました。廃藩からの復活。石高は低くとも、新天地での再出発という淡い期待もあったかもしれません。しかし、待っていたのは、寒冷で、痩せた土地での厳しい生活でした。

むつ市大湊には斗南藩士上陸の地の記念碑があります。ここは、主に新潟からの海路で来た斗南藩士たちが上陸した場所です。

石碑は、会津鶴ヶ城の石垣に使用されている慶山石で造られ、碑文は会津松平家13代当主松平保定(もりさだ)による揮ごうです。斗南藩の人々のふるさと会津若松市の方角に向けて建てられています。


移住した人々の生活は困窮を極めました。

食料は、政府から米が支給されたものの、ひどい品質のものでした。人々は草や木の根もあさり、飢えをしのごうとしました。冬になると炉に焚火をしても寒風が部屋を吹き抜け、部屋は氷点下10度から20度という寒さ。食べ物も布団も満足なものはなく、弱者である子供や老人が次々と息を引き取ったといいます。


≪柴五郎一家居住跡≫むつ市中央2-32-52


自慢記事で紹介した柴五郎一家の住居跡です。斗南藩士上陸の地から車で約5分のところにあります。むつ運動公園テニスコートのすぐ近くです。2020(令和2)年に建てられた記念碑が、ひっそりと林の緑に包まれていました。

会津で、敵軍に攻め込まれた際に命を絶った祖母、母、姉、妹。家族を失った深い悲しみの中、父・柴佐多蔵と兄嫁・すみ子と共にここにたどり着いた若干12歳の五郎少年は、どんな気持ちで生活したのでしょう。


五郎の父は、犬の肉を食べられなかった五郎に対して、「ここは戦場なるぞ、会津の国辱を雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と叱ったといいます。気持ちを強く持ち、歯を食いしばって極貧を耐えたことを伝えるエピソードです。


徳玄寺の山門

柴五郎一家居住跡から田名部方面へ車で約10分。むつ市中心街の一角に浄土真宗の徳玄寺があります。ここは、まだ乳幼児だった斗南藩藩主・松平容大の生活の場であり、重臣たちが会議を行った場所です。


斗南藩主だった松平容大の揮ごうによる石碑

徳玄寺から歩いてすぐのところに曹洞宗の円通寺があります。円通寺は、恐山菩提寺の本坊です。(下北のヒミツでは特別編として恐山菩提寺院代の南直哉さんのインタビューを公開していますので、ぜひご覧ください。)

円通寺には、斗南藩の仮館として藩庁が置かれました。これは、重臣たちが、現在のむつ市を拠点にまちづくりをしようと考えていたことを示しています。

また円通寺は、藩主・容大と父・容保がわずかひと月ながら、一緒に過ごした場所です。境内には、1900(明治33)年に建てられた会津藩士の招魂碑があります。容大の揮ごうによるものです。

訪ねた日、白くもやがかかっていた白亜の尻屋埼灯台

斗南藩士たちが下北に移住を開始したのは1870(明治3)年4月からですが、翌年7月には廃藩置県により斗南藩は突然終わりを迎えます。1年あまりの短い期間の中でしたが、それでも彼らは産業基盤、生活基盤を整えようと行動していました。


1876(明治9)年に建設された尻屋埼灯台。第2回深掘り記事でも触れていますが、建設に際し、斗南藩士が深くかかわっています。


明治政府は、国策として国際的な貿易を活発化させることを目的に、日本各地で灯台の整備を進め、尻屋崎も選ばれました。そこには、1871(明治4)年の斗南藩士による熱心な設置運動があったからだといわれています。航行の安全が図られることで、港が活性化し、厳しい生活からの脱却につながると考えたのです。

斗南藩の市街設計計画などを解説する案内板

田名部市街と尻屋を結ぶ県道6号沿いに、斗南藩史跡地があります。

斗南藩は政策として、丘陵地帯を開拓し、街を建設しようとしました。街は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割をし、東西には門を配置、1戸建約30棟、2戸建約80棟、深井戸18か所などが建設されました。現在もこの場所には、井戸跡や土塀跡が残されています。

斗南藩の人々はここを「斗南ヶ丘」と呼び、開拓を推し進めようとしましたが、自然条件が過酷だったことと、廃藩置県による藩の終焉により頓挫しました。


斗南藩史跡地には、秩父宮両殿下が1936(昭和11)年にこの地を訪れたことを記念し、1943(昭和18)年に会津相携会(現・斗南會津会)によって記念碑が建てられています。


小高い丘と墓石を包むように立つ木々が印象的

斗南藩史跡地から車で1分のところに旧斗南藩墳墓の地があります。

小さな丘の上にあり、歩いてのぼると木々が墓碑を守るように生い茂っています。

斗南藩廃止後、藩主・容大は政府の命令により東京に行くことになり田名部を去ります。1873(明治6)年には、米の配給の打ち切り、転業資金の交付があったことから、斗南藩士の多くが下北からふるさと会津や東京などへと転出し、残った斗南藩士は50戸ほどだったそうです。

この斗南藩墳墓の地には、わずかに残った斗南藩の人々の墓碑があり、また会津ゆかりの人々が碑を建立しています。


いつか報われることを信じ、艱難に耐え抜いた斗南藩の人々。藩の廃止後も各地で活躍しており、柴五郎や広沢安任などが特に知られています。その力強い姿は、今を生きる私たちをも勇気づけてくれます。


斗南藩上陸



会津から新しい藩庁が置かれた田名部を目指し、新潟港から新政府借り上げのアメリカ蒸気船ヤンシー号に乗り、日本海回りに海路をとって移住してきた藩士とその家族の一団1,800名が明治3年6月10日に大平浦(現 大湊新町)に上陸しました。斗南藩移住の経路を後世に伝えるため平成2年に建てられた記念碑は、会津鶴ヶ城の石垣と同じ物が使われ、会津若松市を望む方向に設置されています。碑文の揮ごうは会津松平家13代当主松平保定氏によるものです。

 

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