2014年10月31日金曜日


(1)『新潟県史 資料編』3 中世1(新潟県 1982)p532~537「永禄2(1559) 越後侍衆・馬廻衆・信濃関東大名衆等祝儀太刀次第写」
(2)『新潟県史 資料編』3 中世1(新潟県 1982)p547~570「天正3(1575) 上杉家軍役帳」
(3)『上越市史 別編』1(上越市 2003)p567~589「天正3(1575) 上杉家軍役帳」
(4)『新潟県史 資料編』3 中世1(新潟県 1982)p625~627「天正5(1577) 上杉家家中名字尽手本」
(5)『新潟県史 別編』3 人物編(新潟県 1987)p1~62「文禄3(1594) 文禄三年定納員数目録」

また、これらの資料を分析研究したものに、以下の論文があります。
(6)「家臣団の編制」藤木久志
・『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』(吉川弘文館 1963 に収録)
・『上杉氏の研究』(吉川弘文館 1984 p356~393に一部削除し再録)
(7)「家臣団の形成」池享(『新潟県史 通史編』2 新潟県 1987 p582~591に収録)
(8)「謙信と家臣団」広井造(『定本上杉謙信』高志書院 2000 p99~122に収録)
(9)「上杉謙信と家臣」広井造、「家臣団の分裂」木村康裕、「景勝の家臣」片桐昭彦(『上越市史 通史編』2 上越市 2004 に収録)

なお、一般的な資料として以下のものがあります。
(10)「越軍驍将列伝」百瀬明治(『疾風上杉謙信』学研 2001 p146~151に収録)
(11)『越後の竜謙信と上杉一族』(新人物往来社 2008)
(12)「上杉謙信家臣団」(『図説上杉謙信と上杉鷹山』河出書房新社 1999 p23~25に収録)
(13)「上杉謙信家臣団人名事典」(『上杉謙信のすべて』新人物往来社 1987 p177~191に収録)
(14)「上杉景勝関係人名事典」(『上杉景勝のすべて』新人物往来社 1995 p237~275に収録)

[出典]
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000102029



清野長範( ?~寛永11・1634年)
通称:周防守、助次郎
長範は会津葦名義広の家臣、平田尾張守常広の次男で初め平田助次郎を称した。
天正17(1589)年、伊達政宗に葦名氏は滅ぼされ、浪人となるが、越後の木戸元斎という者を頼って移住する。
のち景勝に拝謁し、近侍となる。
一方彼の養父となる清野清入軒康祐は信州の清野城主であり武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後の天正10(1582)年6月に景勝を頼り、家臣となる。
康祐は文禄元(1592)年5月28日に嗣子がないまま没したので、長範が家督を相続することになった。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、4177石を知行し、軍役250人半であった。
慶長3(1598)年の景勝の会津移封に従い、伊南城1万3200石の城代となった。
同6年の米沢転封後は彼は米沢城下に移り、3333石を知行した。寛永10(1633)年5月17日奉行職となる。
翌11年(1634)年9月4日没した。

[出典]
http://kenshin.sengoku-jidai.com/kashindan121.htm#kiyono




飯山、長沼付近の所領について
安政、勝之が拝領した北信濃の地の多くは、越後・高田藩(新潟県上越市)四十五万石で家康の六男であった松平忠輝の領地であったが、素行が悪いという理由で改易になり、それに伴う大名の配置替えで二人には千曲川の左岸の地が与えられた。 
 信 州水内郡の内、一万二千五百十八石余りが長沼藩領になった。寛永十一年十一月十二日、駿府城番を務めていた勝之が病死し、嫡男勝年はすでに早世していたた め次男勝友が二代藩主になり、同時に勝年の子勝盛に五千石を分地して長沼居館に住まわせ長沼知行所とした。寛永十九年に勝友が二十七歳の若さで亡くなり、 幕府は長男勝豊(八歳)に家督相続を許し、次男勝興(七歳)に三千石を分地させ旗本として赤沼村(長野県豊野町)の新館に住まわせ赤沼知行所とした。
  正保三年(1646)九月、勝盛が嗣子がないまま二十三歳で病死したため改易され、長沼知行所は収公された。その際長沼藩領との部分的な差し替えが行なわ れたようである。正保郷村帳では長沼知行所に属していた三才村・石村・神代村が長沼藩領に組み替えられている。その反面、長沼藩領から現在の信濃町、牟礼 村の多くの村々がはずされている。この事は後の寛文七年(1667)十一月の松代・長沼領五十八カ村の黒姫山入会山論の訴状にも書かれている。「佐久間大 膳殿(勝之のことであるが、実際は勝豊の代)御 知行の内十五か村、二十一年以前替地に成られ、御領所に罷りなり候」この二十一年前というのが正保四年にあたる。同時に赤沼知行所の村々も差し替えられた らしく寛文十年(1670)の訴状に正保郷村帳と異なる千七百石余りの村々が出てくる。一万石になった長沼藩は、三代藩主勝豊が貞享二年(1685)八月 に死去、次男勝茲(かつちか・十七歳)が四代目藩主となる。しかし、元禄元年(1688)五月十四日将軍綱吉の御側小姓となったが、翌日綱吉の気色にふれ る言動があって逼塞させられ、十八日病と偽り役を辞そうとした事がさらに逆鱗にふれ、改易を申し渡され領地は幕府領に編入され長沼城は破却された。
 一方赤沼知行所も、勝興が寛文四年五月に死去し、実子がなかったため、長沼藩二代藩主勝友の弟で旗本になっていた佐久間勝種の次男盛遠を養子として後を継がした。しかし、天和二年(1682)八月、勝種が罪科に問われ改易
され遠流になった。これに連座して盛遠も改易され赤沼知行所は廃絶されたのである。後に小禄の旗本として残ることになるのだが、長沼藩系の佐久間一族は七十年余りで大名から姿を消すのである。
  そのような長沼藩領は現在の長野県内に比定すると、長野市内の長沼地区を中心にして信濃町、三水村、牟礼村などの千曲川左岸で、防御上長沼城に千曲川の流 れを引き込む改修工事も行なったようで、現在の流れにその痕跡が見られる。新田開発にも熱心で、北国街道周辺に特に多くの新田が開発されたようである。現 在の野尻湖畔にある黒姫山の入会をめぐり、飯山藩との間に度々論争があったようで、特に飯山・佐久間家断絶後にはその回数も増え、幕府をも巻き込む入会山 論を展開したようである。また、赤沼知行所における佐久間勝種、盛遠親子の過酷な治世に対する寛文十年(1670)の「信州水内郡赤沼領惣百姓中訴状」は 有名である。十七か条に渡り領主の非道ぶりを幕府に訴えたもので、その為か後の天和二年(1682)、勝種の遠流と盛遠の改易という結果をもたらす事にな る。
こ こで、当時の過酷な大名の改易(とりつぶし)について述べる。改易は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の大規模な戦後処理に始まり、幕末までのおよそ二百 六十年間に三百六十余家がとりつぶしあるいは減封処分されている。   とくに家康・秀忠・家光の三代のあいだに処分された大名は二百二十四家、没収総高 は一千二百十四万八千九百五十石にものぼり、そのうち百七十五家は外様大名で多くは豊臣系の外様大名である。没収された諸大名の所領は、そのほとんどが徳 川一門の親藩や譜代大名に与えられ、幕府直轄地(天領)や旗本領となったのである。飯山佐久間家の場合も、最期の藩主となった安次がわずか九歳でまさかの 急死、それを生前の家督相続者の届出義務を怠ったとの理由で容赦なく処断したものだった。長沼佐久間家の場合は、徹底的な「賞罰厳明」政策で知られる五代 将軍綱吉の時で、藩主勝茲の将軍に対する不敬との理由だが、綱吉の短気・偏執狂的性格から難癖を付けられたのかもしれず、不運としか言いようがない。播州 赤穂浅野家に対する処置の仕方からも想像が付くようである。改易とは、幕府領への収公目的を第一とする政治的な手段であった気がする。この長沼藩改易の様 子は詳しく史料に残っている。元禄元年五月二十一日城地請取役として飯山城主・松平遠江守忠親が仰せ付けられ、江戸より御徒士目付阿部四郎五郎、井上新左 衛門の二人が出張した。五月二十五日飯山を出立した松平忠親は、途中病気のため神代村にて三夜逗留、二十八日全快して長沼に至り、城地を受け取った。領地 は高井郡新野村御領所陣屋代官・滝野重右衛門へ預けられた。城主・勝玆は丹羽若狭守長次に預けられ、奥州二本松の城中に蟄居させられた。元禄四年正月二 日、二十三歳の生涯をそこで閉じたのである。この時江戸より検視として御徒士目付石崎甚兵衛、畦柳弥一兵衛の両人が二本松まで出張した。勝玆の妻は母方の 叔父、本多備前守忠将(母の兄)へ預けられ、江戸八丁堀屋敷に移り住み女子を出産、公式の手続きを経て家名仰せ付けられ佐久間左京と称し百五十石賜り、次 の代には江戸駿河台坂口にて屋敷を拝領、三百石に加増された。その後幾多の変遷を経て、秋月長門守麻布屋敷内に居住し、甲府在番を勤め二百石にて維新を迎 えたのである。
  次に前後するが、安政、勝之が近江より信濃の地に移封された経緯をもう一度詳しく述べる。元和二年、松平忠輝の除封処分によって、高井郡の堀直重、小笠原 忠知、幕府直轄地を除いた川中島四郡が空き、ここが新たに入封した松平忠昌、佐久間安政、同勝之、近藤高政、河野氏勝などの所領と井上新左衛門、酒井忠 利、稲垣忠左衛門などが管轄する幕府直轄領とに分割された。
飯山藩佐久間安政領は現在の長野県飯山市と下水内郡全郡(栄村)、上水内郡内の神代の一部と舟竹、福王子、芋川、倉井、赤塩、古海、柴津、熊坂、野尻、柏原、浅野、大倉(信濃町、三水村、牟礼村、長野市の一部など)を含んだ地域である。
 その治世では、真宗寺・大聖寺(佐久間家の菩提寺)・英岩寺・光蓮寺・常福寺・慶宗寺等の寺領を安堵せしめ、新たに移転してきた西念寺・称念寺・西敬寺・妙専寺・蓮證寺・忠恩寺などにおのおの寺領を与え、今日の飯山の寺町を作ったのである。
二 代藩主安長の頃、幕府の宗教政策により北信濃の修験道は聖護院別当となった勝仙院が管轄し、伊勢・熊野・富士・白山・愛宕・三島等諸山の先達を務めること となった。安長は領内の修験を取り締まる年行事職を勝仙院に委ね専から修験寺院の庇護に当たった。この頃飯山の愛宕山権現は小菅大聖院末であったが、著し く荒廃していた。それを郭伝房に再興させ、領内修験寺を保護した。
  寛永十三年には、太田村大坪の新地寺岡に真宗寺を戸狩村より移建、柏原明専寺を芝野へ移し、宿場町の整備を行なっている。飯山八幡社、諏訪社、飯綱社はじ め南条、上倉、奈良沢、瀬木、静間等の神社に領地を寄進したり、千曲川の川欠が激しいので伊勢神宮に社領を寄進して祈祷をさせている。
  江戸城修築の折には、叔父長沼藩主・佐久間勝之や小諸藩主・松平忠憲と共に土井利勝の手に属し、江戸城惣廓の石塁総坪四万四千五百余坪の中玄関内前門虎口 ならびに西城石垣を築いたのである。また、勝之は上野東叡山寛永寺の建立にあたり諸大名と共に寛永八年、石造り大燈篭一基(お化け燈篭と言われ現存してい る)を奉納している。
  また高井郡の天領代官や松代藩主・真田信之などと、木曾山支配の尾張大納言と共に巣鷹の親子を将軍に寄進している。因みに安長の兄で早世した勝宗の奥方は 真田信之の女で死別後松代へ戻り、剃髪して見樹院と称し、倉科村の内三百石を貰い母の菩提を弔うため大英寺を建立した。このような真田家との関係のおかげ で飯山・長沼両佐久間家断絶の折、多くの家臣が真田家に仕官したようで、此の内の一家飯山藩主の名跡を継いだ松代藩士の家より、幕末の洋学者・佐久間象山 が出るのである。
  安政、勝之は幕府中枢との関係にも気を配ったようで、「黒衣の宰相」と言われた金地院崇伝とも親しく交流を交わしていたようである。共に先祖が鎌倉幕府成 立に功があった相模・三浦一族であったことも関係しているのかもしれない。また、飯山二代藩主・安長の奥方は徳川秀忠三臣の一人老中・井上正就の女であ る。京都所司代・板倉重宗とも親しく交流を交わしていたようである。また安政の奥方(後妻)は正親町天皇と織田信長の間を取り持った武家伝奏の公家・勧修 寺晴豊の女であるが、後陽成天皇の武家伝奏・勧修寺光豊の姉にあたる。
 小大名ゆえの涙ぐましい努力のかいもなく、不運にも寛永十五年十二月、三代藩主安次が夭折し飯山佐久間家は断絶、幕府から使番蒔田玄蕃頭定正が一時飯山城目付となり、やがて遠州掛川より松平忠倶が入封して飯山城主となったのである。
 

近江・高島付近の所領について
 安 政・勝之が飯山と長沼に移封される以前、共に近江・高島(現在の滋賀県高島市マキノ、近江今津地域)に所領を持っていたが、それがそのまま飯山・長沼両藩 の飛地となり、代官所が置かれた。飯山藩領としては、マキノ地域の二十村の内十村でその石高は、一万二百八石九斗四升八合となる(寛文検高)。高島郡内の 他の地域(今津、新朝日、安曇川)にも三千七百三十五石余の石高があ
り、合計一万五千石余が高島郡内にあったようである。
 その代官所は中庄村に置かれ、貢租微収と民生に当たった。その代官は佐久間九郎兵衛、小原作左衛門、山本小三郎と三代に渡ったのである。その中庄に安政が慶長年間に建立したと言われる菩提寺幡岳寺がある。
位 牌堂には、安政や叔父にあたる柴田勝家などの位牌が現存し、長谷川派絵師により、臨済宗の高僧・雲居希鷹(うんごきょう)が賛を書いたと思われる安政の肖 像画も伝わっている。しかし、マキノ地域を治めていた飯山藩に関する史料は乏しく、研究もなされていないのが現状である。
 佐久間勝之が治めた長沼藩領は、近江今津近辺に集まっていたようである。
大供、新保、上弘部、藺生、岸脇、井ノ口、中ノ町、浜分、北仰、桂、酒波、深清水(すべて今津地区)などで、領家(浜分村)に陣屋が置かれた。
旗本であった勝之の次男勝興の赤沼知行所領も、北仰、桂、深清水にあったようである。深清水の一部は飯山藩領でもあったが、他にも多くの大名が領地を持ったようである。
近江山路・小川の所領について
 秀吉没後に徳川家康より、近江佐和山近くの小川(小河)を安政が、山路を勝之が与えられた所領である。共に滋賀県東近江市内であるが、地元にはなんら史料もなく、東近江市立博物館の学芸員の方が私の問い合わせに驚いていた事が印象的であった。
 安政が八千石、勝之が三千石領していたらしいが、この地より関が原合戦に参陣しその結果大名になった縁の地である。後の飯山、長沼移封までは領していたと思われるが、それを裏付ける史料は皆無である。陣屋はあったようである。
常陸小田・北条の所領について
 慶長十五年(1610)安政には小田、平沢を勝之には北条それぞれ三千石が加増された。共に茨城県つくば市内である。陣屋が置かれていたようであるが、やはり関係した史料は皆無である。『筑波町史』等に記述があるのみである。
その他の所領について
 旗 本となっていた佐久間信盛の子、正勝(不干)や信勝が所領を持っていた武蔵国児玉・横見両郡(埼玉県本庄市、吉見町)にも安政、勝之の所領があったよう で、不干と連名の元和五年二月発給の文書が現存している。石高など詳細は判明しない。武蔵国(現在の三鷹市内)には旗本柴田勝重の所領があった。勝重は安 政、勝之の甥にあたる。関東には佐久間一族の者たちの所領が点在していたようである。
以 上のように江戸初期の小大名が、幕府の権威が増大する中その所領経営の為に、苦心している様子が手に取るように解る。四百年も以前の事であり、史料不足は 否めないが、せっかく手に入れた武家として上り詰めた大名の地位も幕府の中央集権的政治の都合により、一瞬の内に崩壊してしまう現状を目の当たりにしたよ うな気がする。



[出典]
「佐久間氏関係論考- 4」より
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/417218d8c2bdf8cd3400b7dc68bf3dfc

長沼島津長忠【しまづながただ(15??~1536)】

上水内郡長沼城主。1524年、高梨政頼は長尾家を後楯として信濃に帰国し、中野に本拠を構えて北信濃におけるみずからの領主的立場を強めていったのであ る。これに対して島津家は、村上家を後楯として反高梨の旗幟を明確にしていた。1536年、島津貞忠が病没すると島津長忠が継ぎ兵庫介を称した。

長沼島津忠直【しまづただなお(1534~1604)】

島津長忠の男。官途は淡路守。通称月下斎。村上義清、高梨政頼らと共に武田晴信の北信濃侵攻に抵抗した。1557年、武田晴信は高梨政頼を攻撃、高梨政頼 は中野城から飯山城に落延び、長尾景虎に支援を求めた。このとき、島津忠直も長沼城から大蔵城に居を移した。島津忠直は長尾景虎勢の加勢のため水内郡鬼無 里を夜襲した。1561年、長尾景虎は兵18,000余りを率いて川中島に侵攻した。武田晴信は兵20,000余りを率いて八幡原で決戦を行った。長尾景 虎勢は村上義清、高梨政頼、井上昌満、須田満国、島津忠直らが先鋒となった。緒戦は長尾景虎勢の優勢に展開したが、別働隊が八幡原に戻ると武田晴信勢が盛 り返し、長尾景虎勢は越後国に撤退した。この戦いによって長尾景虎の北信濃国回復はならず、武田晴信の北信濃国支配は確定し、北信濃国衆の信濃復帰は断た れた。1582年、武田勝頼の討死後、北信濃の領主となった森長可の麾下に入ることを強要されたがこれを拒み、芋川親正と共に反抗したが敗れて、長尾景勝 を頼り越後国へと落ち伸びた。1582年「本能寺の変」後、森長可が退去した事により長尾景虎が北信濃を所領に組み込んだ際に長沼城に復したがまもなく、 島津家の家督を嫡男島津義忠に譲った。

長沼島津義忠【しまづよしただ(15??~1598)】

島津忠直の男。1596年、父島津忠直の隠居により長沼島津家の家督を相続した。1598年、長尾景勝の会津移封の際にはそれに従って信濃国を去り、陸奥長沼城を領した。1598年、島津義忠が死去したため、岩井信能の岩井利忠を島津義忠の娘婿にして家督を継承させた。

[出典]
http://takatoshi24.blogspot.jp/2010/12/blog-post_26.html




鎌倉時代と言えば、まず思い浮かぶのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だ。藤原日本史では、その源頼朝は、源氏棟梁だとする。しかし、源頼朝は、1180 年石橋山の挙兵で、「平家」配下に破れて以来、一度も戦場に赴いて陣頭指揮をしてはいない。が、しかし、源頼朝は、木曽義仲や源義経などの「源氏軍団」 が、平家一門を壊滅すると、それらの源氏の忠臣を抹殺し、1192年後白河法皇より征夷大将軍に任ぜられる。
そして、関東の支配者となった源頼朝は、平安時代を生き延びるために「秦氏」から「惟宗氏」に氏名を替えていた民族に、古来から藤原氏が支配していた南九州の島津荘を与えているのは、何故だ。
この源頼朝の処置により、秦氏→惟宗氏忠久から、明治革命で暗躍する島津氏が興った。この惟宗氏は、関東の上野を支配していた比企氏の丹後局を通して繋がりがあった。それは、島津氏の租忠久は、惟宗氏広言と比企氏丹後局の子であったからだ。
更に不思議は、鎌倉時代に突然現れた島津氏の家紋「丸に十字」は、秦氏末裔の弾家の家紋と同じなのだ。その両家の家紋も、元は「十字」のミトラ教のシンボル太陽を表す「マルタクロス」だった。秦氏と島津氏との関係は、何処から続いていたのか。
何故、源氏棟梁とする源頼朝は、「平家」を倒した「源氏」を抹殺し、その代わりに、秦氏末裔の惟宗氏に、藤原氏の荘園を与えたのだろうか。その、源氏棟梁とする源頼朝と、惟宗氏(秦氏)とには、源平合戦において、何か関係があるのか。
1872年(明治5年)イギリス東インド会社の流れをくむ国際資本により、富岡製糸場が開業されると、「東京日日新聞」「日新真事誌」「郵便報知新聞」が 創刊され、その翌年に、政府の公式の布告文を「婦女童幼」にまで知らすべく、「公文通誌」が創刊された。その「公文通誌」は、1874年「在野」をほのめ かす「朝野」を新聞題名に選んだ。そして、「朝野新聞」は、もっぱら時事の風刺文を掲載していた。
順調に部数を伸ばしていた「朝野新聞」も、1877年に勃発した「西南の役」での各新聞社との報道合戦に敗れ、部数が激変した。そのため、1889年「朝 野新聞」は、「大阪毎日新聞」社長渡辺治に譲渡された。この時から、「朝野新聞」に「徳川制度」の連載が始まった。その「徳川制度」の記事の中に、治承4 年(1180年)源頼朝が初代弾左衛門(藤原頼兼?)に、「頼朝公の御朱印」を与えた、とする文がある。その「朝野新聞」の記事とは、以下だ。

[出典]
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/770.html


2014年10月30日木曜日


武田神社に行った時、宝物館で「起請文」という資料を見ました。
それは武田家滅亡後、旧武田家臣千名が徳川家康に「一括採用」を願った氏名一覧です。(その中には、女房の方の祖先の名もピッタリありましたよ)
ぜひ一度武田神社で調べられたらいかがでしょうか。きっとご先祖の名があるのではないでしょうか?
徳川家康は「三方ヶ原の戦い」で自分を打ち負かした「武田」の武勇を尊敬し多くの武田旧臣を採用しています。会津藩でも信濃、甲斐出身が100石以上の藩士の4割以上です。
また「会津藩諸士系譜」のようなものが「宇都宮藩」にもあると思います。そこには本国や江戸時代以前の記述があるかもしれません。
ちなみに、会津藩にも300石の武川氏(本国・甲斐)がいます。我が家当主の妻の妹が武川の妻です。(西郷家老の次女)

[出典]
http://www2.spline.tv/bbs/delta2/?thread=124&command=REPLY&id=124


諸士系譜

別名を『会津藩諸家系譜』といい、独礼(単独で主君に謁見できる身分の班席)以上の会津藩士1085家をいろは順に配列した系譜集成のこと。
 会津藩士研究に不可欠の基礎資料。

 各家の各人ごとに生没年月日・通称・実名・法号・役職の任免・賞罰などが記してある。
 文政6年(1823)を分限として、天保4年(1833)に完成した。

 写本が会津図書館と松平家に現存している(ただし数巻欠落)。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm





会津若松市宝町にある日蓮宗の寺院。山号は法紹山。本尊、十界曼荼羅。

淨光寺


 保科正之が信州高遠城主であった寛永12年(1635)、生母のお志津の方が他界し、その遺骸は遺言によって火葬のうえ同地の妙法山長遠寺に葬られた。法名「淨光院殿法紹日慧大姉」。
 その翌年の寛永13年、正之は最上へと転封になったが、同地にあった普光山本春寺が長遠寺と同宗同門派だったので、長遠寺の住職であった寿命院日遵上人を請じて両寺を一寺となし、亡き母の法名にちなんで寺名を法紹山淨光寺と命名した。

 嘉永20年(1643)正之の会津再転封にあたり、所謂「御供寺」として淨光寺も会津へと移り、城下南町口に寺地を与えられた。現在地に移転したのは、寛文5年(1665)第三世日然上人のときのことである。

 会津藩祖の生母菩提寺として寺領100石を賜り、その規模は奥羽一と称された松島の瑞巌寺をも凌ぐほどであったが、戊辰の戦火で釈迦堂以外はすべて焼失、寺宝も烏有に帰した。

 長く武家寺であったため、維新後は檀徒も四散して衰微の一途をたどったが、大正12年(1923)千葉県富浦町釈迦寺より入山した当山23世境智院日暎上人が再建に尽力し、中興開山とされている。
 昭和32年より7年の歳月をかけて、本堂・庫裏の再建がなされた。

 墓域には、3代正容の用人で、後に若年寄にまで累進した杉本則直などの墓がある。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm



渋谷東馬


天保3年(1832)~明治37年(1904)
 剣術家。

 生江寛隆の三男。名は貞保。時中軒・沈斎剣士と号し、のちに昌甫(しょうほ)と称した。

 明治13年、絶家となっていた元会津藩医渋谷家(200石)を再興。

 小野派一刀流の剣術に優れ、また漢学の素養もあったため、会津坂下町に文武二道の塾を開き、「養気館」と名付けて子弟を育成した。

 明治8年に円蔵寺に奉納した剣術の奉納額は、現在もそのまま残っている。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm



実相寺

東京都港区三田にある浄土宗の寺院。
 旧会津藩江戸菩提寺の一つ。

 創建年代は不明だが、寛永12年(1635)に八丁堀から現在地に移転、2代藩主保科正経の生母である聖光院によって本堂・諸堂宇が整備された。

 墓域の中央に聖光院の笠付角方柱型、全高約3mの巨大な墓石が建っている。

 他にも、会津松平家から1万石で分家を許され、幼い容頌(第5代藩主)の後見人として本家の藩政にも携わった松平容章の墓をはじめとして、3代藩主正容の長女・元姫、4代容貞の側室・寿詮院、同容貞の次男・貞暦、容章の側室・長昌院、容章の娘で容頌の養女・蓮受院・・・・・・等々、藩主一族の墓が少なくなく、幕末の藩主容保の早世した二女の墓もある。
 また、江戸詰藩士とその家族たちの墓も多い。

[出典]


士族授産

明治維新で禄を失い困窮した士族を何らかの産業につかしめる政策をいう。

 明治7年までに斗南から会津に帰国した士族は2,682戸、10,378人に達した。会津士族の生計の道は極めて狭く、たとえば福島県官吏の職(郡書記・訓導・巡査など)の職を得たものはわずか260名ほどにすぎなかったという。

 会津士族の困窮は深刻で、9年の政府からの下米1万8千石も目前の生活資金に消えてしまったのがほとんどである。

 県典事中条政恒による会津士族の安積開拓地大量移住計画も、移住者わずか30余名という失敗に終わり、本格的な授産事業は県令三島通庸の登場まで待たねばならなかった。

 明治15年、三島は授産金196,365円を資本金とし、養蚕・織物・陶器・漆器などの業種に約3千戸を従事させた。これは会津三方道路開削と一対の施策で、地方の特殊性に応じた国庫補助を用いて政治状況を転換させる地方経営であった。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm




鴫山城

南会津会津町田島の愛宕山にあった中世の城郭。
 南山長江荘の領主長沼義秀によって、南北朝末より応永にかけての時期に築かれたと推定されている。

 長沼氏最後の城主盛秀は、天正17年(1589)会津へ侵攻して葦名氏を滅ぼした伊達政宗に恭順し、伊南の地にこもった河原田氏攻撃の先鋒となったが、主従一丸で火の玉となった河原田軍の猛反撃にあい戦死した。
 翌18年の豊臣秀吉の「奥羽仕置」により伊達氏が北に去ると、盛秀の遺児3人も政宗に従って仙台に移っている。

 その後、城主は蒲生氏・上杉氏・再蒲生氏と変遷し、加藤氏が支配していた寛永年間末(1640年代)までに廃城となったとみられる。

 城跡は町を一望できる愛宕山(749m)にあり、山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を巧みに利用し、土塁・門・櫓・空堀・郭などが構築された跡が残る。
 ことに愛宕神社参道に残る「大門」跡の石垣は、西日本の城郭建築で発達した穴太(あのう)積みと呼ばれる技術をもって作られており、近年修復されてその威容を誇っている。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-shi.htm


2014年10月29日水曜日



■上杉家(謙信・景勝2代)家臣団の変遷
●「御太刀之次第」(永禄2・1559年)に記載の主だった面々

1 直太刀之衆
長尾景信、桃井右馬助、山本寺定長
2 披露太刀之衆
中條藤資本庄繁長本庄秀綱、石川重次、色部長資、千坂景親長尾政景斎藤朝信直江実綱
3 侍衆


●「上杉家軍役帳」(天正3・1575年)に記載の面々

1 一門衆
御中将様(上杉景勝)山浦殿(村上国清)十郎殿(上杉景信)上条殿(上条政繁)、弥七郎殿(琵琶島弥七郎)、山本寺殿(山本寺定長)
2 国人衆(揚北・下越)
中條与次(景泰)黒川四郎次郎(清実)、水原能化丸(隆家)、竹俣三河守(慶綱)新発田尾張守(長敦)五十公野(いじみの)右衛門尉加地彦次郎、安田新太郎、下条采女正荒川弥次郎
3 国人衆(上・中越)
菅名与三、平賀左京亮、新津大膳亮斎藤下野守(朝信)千坂対馬守(景親)柿崎左衛門大輔(晴家)、新保孫六、竹俣小太郎、山岸隼人佐安田惣八郎(顕元)、舟見

4 旗本・譜代
松本鶴松、本庄清七郎(秀綱)、吉江佐渡守、山吉孫次郎(豊守)直江大和守(景綱)吉江喜四郎(資堅)、香取弥平太、河田対馬守(吉久)北条下総守(高定)、小国刑部少輔、長尾小四郎(景直)

●其の他の家臣
上杉三郎景虎直江山城守兼続樋口兼豊柿崎景家前田慶次郎
●客将
上杉憲政、小笠原長時、村上義清高梨政頼、井上清政、須田満親島津忠直、里栗田寛明


●会津時代(慶長3~6年)の上杉分国城主・城将一覧

城地 城主 知行高
陸奥 伊達 保 原 大石播磨守綱元 5500


梁 川 須田大炊守長義 20000

刈田 白 石 甘粕備後守景継 20000

会津 南 山 大国但馬守実頼 21000


伊 南 清野助次郎長範 11000

麻耶 猪苗代 水原常陸守親憲 5500

白河 白 河 芋川越前守正親 6000


白 河 平林蔵人佑正恒 3000

岩瀬 長 沼 嶋津月下斎忠直 7000

田村 守 山 竹俣左京亮 2100

安積 浅 香 安田上総介能元 11000


二本松 秋山伊賀守定綱 2000


二本松 下条駿河守忠親 4700


塩之松 山浦源吾景国 6500


塩之松 市川左衛門尉房綱 6700

信夫 福 島 本庄越前守繁長 11000


宮 代 岩井備中守信能 6000


大 森 粟田刑部少輔国時 8500
出羽 置賜 米 澤 直江山城守兼続 60000


金 山 色部長門守光長 10000


中 山 横田式部少輔旨俊 12000


高 畠 春日右衛門元忠 5000


荒 砥 泉澤河内守久秀 11000


鮎 貝 中條与次三盛 10000


小 国 松本伊賀同心三瀦
左近大夫等在番


田川 大宝寺 木戸元斎憲秀 5000


尾 浦 松本伊賀守助義 3200


尾 浦 下次右衛門吉忠 2000

飽海 酒 田 志駄修理亮義秀 5000
越後
陸奥
蒲原
河沼
津 川 藤田能登守信吉 11000

雑太 澤 根 須賀修理亮盛能

羽茂 羽 茂 黒金安芸守尚信 4177






[出典]
http://kenshin.sengoku-jidai.com/kashindan.htm

 



上杉家軍役帳

「上杉家軍役帳」は天正3年頃の上杉氏家臣団の構成を知る上で重要な史料です。その構成は、家格別に、一家・一門・国 衆・旗本の順に記載されています。「御中城様」とは、景勝のことですが、のちに家督を争った上杉景虎が記載されていないことから、両者の政治的立場を考え る上でも欠かせない史料といえます。

[出典]
http://www.k5.dion.ne.jp/~chousei/uesugi/uesugi_kashin_shiryo2.html

 

諸国衆御太刀之次第写

「諸国衆御太刀之次第写」は永禄初年頃の上杉氏家臣団の構成を知ることの出来る史料として重要です。諸士は「侍衆」と 「御馬廻衆」とに区別され、さらに太刀を景虎(謙信)に献上する方法が「直太刀」と「披露太刀」に分けられています。「直太刀」は上杉一門にしか許され ず、彼らの家格は非常に高いことがうかがえます。

[出典]
http://www.k5.dion.ne.jp/~chousei/uesugi/uesugi_kashin_shiryo1.html 

 

上杉謙信の家臣団は、永禄二年(1559)十月二十八日の『侍衆御太刀之次第』、天正三年(1575)二月十六日の『上杉家軍役帳』、天正五年十二月二十三日の上杉軍団の動員名簿『上杉家家中名字尽手本』によって知ることができる。

[出典]
http://www2.harimaya.com/uesugi/k_kasin.html

 

上杉家家中名字尽

 「上杉家家中名字尽」は天正5年12月23日の奥書を持ち、上杉氏麾下の81名にのぼる武将の名字と官途・受領名また は仮名が記載されています(二ケ寺も含む)。これらの武将はいずれも上杉氏麾下において「一手役」を務める有力な武将であること、またおおよそ地域別に武 将が記載されていることなどから、「名字尽」は当時の上杉氏の家臣団構成を知るうえでまたとない史料になりうるものです。
 その構成は、おおよそ国別(在城地)になっており、№1~11は上野国、№12~48は越後国、№49~61は越中国、№62~75は能登国、№76~79は加賀国、№80・81は越中国内寺院となっているとみられます。


 [出典]
http://www.k5.dion.ne.jp/~chousei/uesugi/uesugi_kashin_shiryo3.html

 

海津城代
長沼忠直→山浦景国→上条政繁→須田満親

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/



長沼光忠島津時忠子泰忠孫忠直曾孫忠久玄孫宮里左京
  忠春光忠孫宮里忠連子島津薩摩仕足利尊氏文和頃
  氏忠忠春子島津民部
政忠島津左京康暦至徳頃
国忠氏忠子太郎島津刑部道忠?応永頃長沼城主
道忠
朝忠道忠子国忠子?島津薩摩入道常忠享徳長禄頃
信忠朝忠子島津兵庫寛正文明頃
清忠信忠子島津薩摩文明頃
  貞忠====1536清忠子島津兵庫大隅永正頃
長忠貞忠子島津兵庫
  忠直====1604長忠子喜七郎昔忠島津淡路入道月下斎長沼城主
義忠====1598忠直子島津左京
  利忠義忠嗣岩井信能子清三島津玄蕃
  通忠利忠嗣中条盛直子市十郎島津玄蕃
  元忠清忠子治部
宮里忠連長沼光忠子島津時忠孫泰忠曾孫忠直玄孫忠久耳孫島津下野
直久忠連子藤三郎
好久直久子三郎太郎
禅久好久子左近右衛門
久氏禅久子左近
忠朝久氏子三郎五郎
忠安忠朝子三郎四郎
久光忠安子
忠常美作
忠里

忠継下野三郎四郎文和頃
赤沼忠秀島津忠宗子忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫大夫判官島津常陸
忠国島津常陸入道徳阿
朝国忠国子島津常陸
規久島津左京
  忠吉島津尾張安房入道?永禄頃
  泰忠忠吉子孫五郎島津左京常陸忠泰矢筒城主仕武田晴信上杉景勝
  良忠泰忠子孫五郎永禄頃?

  忠隠泰忠甥孫右衛門
忠政忠隠嗣駒沢主税子源太左衛門孫右衛門

平兵衛規久裔仕真田信幸寛永頃
宇宿忠継赤沼忠秀子島津忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫五郎左衛門
久賢左馬
久家兵庫
久清右馬
久平小次郎
久形越中
久明右衛門
久時彦五郎浄久
久氏彦八郎
久正====1587若狭
久成対馬
久広1618====若狭
久敬八右衛門

久貞久正子弾次郎
久純久貞嗣緒方氏治部左衛門
島津実忠忠宗子?忠景孫?忠綱曾孫?忠久玄孫?左近豊後道光?仕足利尊氏建武頃
忠信忠氏曾孫忠綱玄孫赤沼忠秀子?忠章島津安芸祖海
  貞高
  大進====1610仕堀直寄
野田長興
  国長


[出典]
信濃国人衆 約1800名   信濃勢力概略
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/




上杉家臣序列
上杉家軍役帳(1575年)
軍役数
記載名
備考
順位
別名
上杉景勝
375
御中城様
一門衆、輝虎の養子
2
長尾顕景
村上国清
250
山浦殿
客将、山浦上杉氏を継ぐ
5
山浦景国
長尾景信
81
十郎殿
一門衆、四条上杉氏を継ぐ?
27
上杉景信
上条政繁
96
上条殿
客将、上条上杉氏を継ぐ
24
上杉景義
八条義春
156
弥七郎殿
一門衆、八条上杉氏を継ぐ?
11
琵琶島弥七郎
山本寺定長
71
山本寺殿
一門衆、上杉一族&長尾一族
33
 
中条景泰
140
与次
三浦一族 吉江景資の子
14
 
黒川清実
148+31
四郎次郎
三浦一族
12
 
色部顕長
227
弥三郎
秩父一族
7
 
水原隆家
87
能化丸
大見一族
26
 
竹俣慶綱
98
三河守
佐々木一族
23
 
新発田長敦
194
尾張守
佐々木一族
9
 
五十公重家
124
右衛門尉
佐々木一族 新発田長敦の弟
17
新発田重家
加地春綱
158
彦次郎
佐々木一族
10
 
安田吉親
148
新太郎
大見一族
12
 
下条忠親?
52
釆女正
大見一族
37
 
荒川義次?
52
弥次郎
 
37
 
菅名綱輔
73+5
与三
 
32
 
平賀頼直
81+17
左京亮
平賀一族
27
 
新津資相
81+10
大膳亮
平賀一族
27
 
斎藤朝信
213
下野守
四家老
8
 
千坂景親
58
対馬守
四家老
36
 
柿崎晴家
260
左衛門大輔
大見一族
4
 
新保景之
67
孫六
佐々木一族?
35
 
竹俣房綱?
70
小太郎
 
34
 
山岸光祐
50
隼人佐
 
39
 
安田顕元
95
惣八郎
毛利一族
25
 
須田満親
101
舟見
 
22
船見規泰
松本房繁
124+34
鶴松
 
17
 
本荘秀綱
240
清七郎
秩父一族
6
 
吉江信清
76+29
佐渡守
長尾一族?
31
 
山吉豊守
377
孫次郎
 
1
 
直江景綱
305
大和守
 
3
 
吉江信景
105
喜四郎
信清の子、景資の義弟
20
吉江資堅
香坂氏昌?
132
弥平太
 
15
 
河田吉久
107
対馬守
大見一族
19
 
北条高定
105
下総守
毛利一族
20
 
小国重頼
125
刑部少輔
 
16
 
長尾景直
81
小四郎
椎名康胤の継嗣
27
椎名景直

越後時代(文禄年間)
知行高
記載名
備考
順位
越後侍中序列
天正年間
直江兼続
53217
山城守
樋口兼豊の子、直江景綱の継嗣
1
 
3
須田満親
12086
相模守
信濃衆、満胤(直江兼続の継嗣)の父
2
 
22
小国実頼
9041
但馬守
重頼の継嗣、直江兼続の弟
3
20
16
甘糟景継
7696
備後守
里見一族、上田衆、登坂清高の子
4
 
 
長沼忠直
6190
淡路守
信濃衆、島津一族
5
 
 
泉沢久秀
5643
河内守
上田衆
6
22
 
色部光長
4868
龍松丸
秩父一族、顕長の甥
7
21
7
芋川親正
4486
越前守
信濃衆
8
 
 
清野長範
4177
助次郎
信濃衆、旧蘆名家臣の子
9
 
 
水原親憲
3414
常陸介
大見一族
10
23
26
斎藤景信
3367
三郎右衛門
上杉譜代、朝信の子
11
9
8
市川房綱
3349
長寿丸
信濃衆、竹俣利綱の継嗣
12
 
 
木戸範秀
3282
元斎
旧古河公方家臣
13
7
 
本荘繁長
3210
越前守
秩父一族
14
 
 
岩井信能
2983
備中守
信濃衆
15
 
 
楢沢
2983
主殿
信濃泉衆
16
 
 
尾崎重誉
2992
三郎左衛門
信濃泉衆
17
 
 
柿崎憲家
2861
弥次郎
大見一族、晴家の弟か子
18
25
4
上堺
2850
平九郎
信濃泉衆、左近司氏?
19
 
 
藤田重信
2808
能登守
旧北条武田家臣
20
4
 
高梨頼親
2665
薩摩守
信濃衆
21
3
 
上倉元春
2500
治部大輔
信濃泉衆
22
 
 
安田能元
2474
上総介
毛利一族、顕元の子
23
6
25
黒金景信
2349
上野介
上田衆
24
 
 
中曽根
2333
子左衛門
信濃泉衆
25
 
 
春日元忠
2308
右衛門
信濃衆、旧武田家臣
26
 
 
本庄顕長
2298
豊後守
秩父一族、繁長の子
27
2
 
村上国清
2277
山浦源五
信濃衆
28
1
5
山岸尚家
2277
中務少輔
 
29
26
39
千坂景親
2176
対馬守
上杉譜代
30
 
36
大石綱元
2150
播磨守
上杉譜代
31
11
 
平田常範?
2075
尾張守
旧蘆名家臣
32
 
 
勝田
1913
与太郎
旧北条家臣?
33
13
 
須田満胤
1902
右衛門太夫
信濃衆、満親の子、直江兼続の継嗣
34
5
 
大滝
1889
甚兵衛
信濃泉衆
35
 
 
中条三盛
1865
与次
三浦一族、景泰の子
36
8
14
小倉資信?
1799
喜八
 
37
14
 
今清水
1795
掃部
信濃泉衆
38
 
 
下条忠親
1734
釆女
河田長親の子
39
18
37
甘糟長重
1717
近江守
上杉譜代
40
 
 
黒川為実
1665
左馬頭
三浦一族、清実の子
41
24
12
福島季重?
1634
掃部助
 
42
 
 
松本助義
1580
大炊助
信濃衆
43
 
 
篠井泰信?
1563
弥七郎
直江一族
44
 
 
志駄義秀
1563
修理亮
上杉譜代・直江兼続の義理の甥
45
 
 
山内氏清
1458
式部少輔
旧蘆名家臣
46
 
 
下吉忠
1458
新兵衛
旧北条家臣、沼田一族
47
 
 
駒木根利政
1251
肥後守
 
48
 
 
大崎
1251
九郎左衛門
 
49
 
 
江戸
1251
彦五郎
 
50
 
 
安田与親
1232
筑前守
大見一族
51
10
12
須田満乗?
1228
左衛門
信濃衆
52
 
 
松本
1225
左馬助
 
53
12
 
黒金尚信
1201
安芸守
上田衆
 
 
 
大山
1200
内膳正
 
 
 
 
井上達満
1200
左衛門太夫
信濃衆
 
 
 
須賀盛能
1173
修理亮
 
 
 
 
高津景貞?
1117
長尾平太
長尾一族
 
 
 
島倉泰明
1111
孫左衛門
 
 
 
 
堀川
1060
左兵衛
 
 
 
 
山本寺勝長?
1060
九郎兵衛
上杉一族、定長の子
 
 
 
武藤義勝
989
大宝寺出羽守
秩父一族、本荘繁長の子・充長
 
 
 
千坂長朝
984
与市
上杉譜代、景親の子
 
16
 
香坂昌能
963
与三郎
信濃衆、氏昌の子
 
 
 
清水
958
内蔵助
 
 
 
 
宮島
950
三河守
 
 
 
 
竹俣利綱
921
左京亮
佐々木一族
 
19
 
新津秀資
911
丹波守
上杉譜代
 
15
 
山岸秀能
895
民部少輔
上杉譜代
 
 
 
荻田長繁
884
主馬丞
 
 
27
 
西条尚胤
878
喝食丸
信濃衆
 
 
 
奈良沢
858
主殿助
 
 
 
 
沢根
856
源四郎
本間一族
 
 
 
里見
850
兵部少輔
里見一族
 
 
 
小国
850
日向守
 
 
 
 
本間
844
潟上帰本斎
本間一族
 
 
 
寺尾
828
百龍丸
上杉譜代
 
 
 
樋口兼豊
809
伊予守
上田衆、直江兼続の父
 
 
 
松田盛直?
763
織部佐
信濃衆
 
 
 
樋口景兼
761
与惣右衛門
上田衆、直江兼続の弟
 
 
 
綱島
736
豊後守
 
 
 
 
丸田高俊
711
周防守
 
 
 
 
原胤家?
670
豊前守
千葉一族
 
 
 
桜井晴吉
667
三助
信濃衆
 
 
 
加地景綱
662
 
佐々木一族、春綱の孫
 
17
 
安田信清
628
武田三郎
旧武田家臣、武田晴信の子
 
 
 
夜交長国
558
左近助
信濃衆
 
 
 
保科
540
佐左衛門
信濃衆
 
 
 
大藤
537
太郎兵衛
旧北条家臣?
 
 
 
安中
537
七郎太郎
上杉譜代
 
 
 
赤沼泰忠
537
常陸入道
信濃衆、島津一族
 
 
 
市川信房
530
左衛門
房綱の父
 
 
 
長尾景治?
525
右門
長尾一族
 
 
 
秋山定綱
490
伊賀守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
狩野宣久?
444
中務
越中国人?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石川為隣
418
彦次郎
上杉譜代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長尾景吉?
385
右馬之助
長尾一族
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉江長忠
364
与橘
長尾一族、中条三盛の叔父
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
芋川元親?
325
彦右衛門
信濃衆、親正の継嗣
 
 
 
酒井
303
新八郎
信濃衆
 
 
 
平林正恒
272
蔵人
信濃衆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小森沢政秀
257
又五郎
里見一族
 
 
 

会津時代(慶長年間)
知行高
記載名
備考
順位
 
直江兼続
60000
山城守
樋口兼豊の子
1
米沢城主
須田満胤
23300
 
信濃衆、直江兼続の継嗣
2
 
小国実頼
21000
但馬守
直江兼続の弟
3
南山城主
甘糟景継
20000
備後守
上田衆、登坂清高の子
4
白石城主
須田長義
20000
大炊頭
信濃衆、須田満胤の弟?
5
梁川城主
横田旨俊
12000
式部少輔
旧蘆名家臣、山内一族
6
中山城主
本荘繁長
11000
越前守
秩父一族
7
福島城主
安田能元
11000
上総介
毛利一族
8
浅賀城主
泉沢久秀
11000
河内守
上田衆
9
荒砥城主
藤田重信
11000
能登守
旧北条武田家臣
10
津川城主
清野長範
11000
助次郎
信濃衆、旧蘆名家臣の子
11
伊南城主
色部光長
10000
長門守
秩父一族
12
金山城主
中条三盛
10000
与次
三浦一族
13
鮎貝城主
栗田国時
8500
刑部少輔
信濃衆
14
大森城主
長沼忠直
7000
月下斎
信濃衆、島津一族
15
長沼城主
市川房綱
6700
左衛門
信濃衆、竹俣利綱の継嗣
16
塩松城主
村上国清
6500
山浦源五
信濃衆
17
塩松城主
芋川親正
6000
越前守
信濃衆
18
白河城主
岩井信能
6000
備中守
信濃衆
19
宮代城主
水原親憲
5500
常陸介
大見一族
20
猪苗代城主
大石綱元
5500
播磨守
上杉譜代
21
保原城主
志駄義秀
5000
修理亮
上杉譜代、直江兼続の義兄弟の子
22
酒田城主
春日元忠
5000
右衛門
旧武田家臣
23
高畠城主
木戸範秀
5000
元斎
旧古河公方家臣
24
大宝寺城主
下条忠親
4700
駿河守
河田長親の子
25
二本松城主
黒金尚信
4177
安芸守
上田衆
26
羽茂城主
黒川為実
3800
左馬頭
三浦一族
27
 
松本助義
3200
伊賀守
信濃衆
28
尾浦城主
平林正恒
3000
蔵人
信濃衆
29
白河城主
樋口兼豊
3000
伊予守
上田衆、直江兼続の父
30
 
竹俣利綱
2100
左京亮
佐々木一族
31
守山城主
秋山定綱
2000
伊賀守
 
32
二本松城主
下吉忠
2000
次右衛門
旧北条家臣、沼田一族
33
尾浦城主

米沢時代(寛永年間)
知行高
記載名
備考
順位
7年後の異動
知行高
7年後
7年後
安田信清
1000
武田大膳
武田晴信の子
1
 
 
武田大膳大夫
1
本荘充長
 
本庄出羽
本荘繁長の子
2
 
 
本庄出羽守
2
白井景泰
 
長尾左衛門
中条三盛の子
3
 
 
長尾左衛門
3
中条盛直
3333
市正
中条三盛の子
4
中条知資?
3333
市兵衛
4
須田満義
 
相模守
須田長義の子
5
 
 
相模守
5
色部光長
3333
長門守
色部長実の子
6
 
3333
長門守
6
清野長範
3300
周防守
平田常範の子
7
 
3300
周防守
 
安田俊広
 
上総介
色部利長の父
8
 
 
上総介
7
柿崎憲家
300
能登守
柿崎憲家は晴家の子
9
柿崎正家
300
助之進
10
安田吉親
 
筑前守
河田長親の孫
10
 
 
筑前守
8
千坂長朝
 
対馬守
千坂景親の子
11
 
 
対馬守
9
芋川元親
2273
備前守
信濃衆
12
芋川為親
666
三之丞
20
長沼利忠
 
島津玄蕃
岩井信能の子
13
 
 
島津玄蕃
 
黒金泰忠
 
鉄孫左衛門
 
14
 
 
鉄孫左衛門
 
竹俣秀綱
 
三河守
市河房綱の子
15
 
 
三河守
 
下条繁親
 
主水
 
16
 
 
主水
 
市河房忠
 
土佐守
市河房綱の孫?
17
 
 
土佐守
11
岩井相高
 
大学
長沼利忠の弟
18
 
 
大学
14
新津続家?
 
孫四郎
山岸尚家の子
19
 
 
右近
13
井上重満
 
宮内
千坂高信の子
20
 
 
宮内
16
吉江長次?
 
杢之助
吉江長忠の子
21
 
 
杢之助
17
芋川綱親
2270
弥一右衛門
芋川元親の養子
22
 
2273
弥一右衛門
12
平田重範
1300
尾張守
平田常範の子
23
 
1300
尾張守
 
香坂昌能
 
四郎兵衛
養子は井上達満の子
24
 
 
四郎兵衛
15
本荘久長
300
外記
本荘繁長の子
25
 
300
外記
 
甘糟重政
 
丹後守
甘糟長重の子
26
甘糟忍重
 
数馬
18
須田満盛?
500
掃部
信濃衆
27
 
500
掃部
 
樋口景兼
1000
内膳
直江兼続の弟
28
 
1000
内膳
19
須田満統
500
右衛門
須田満胤の子 本荘繁長の養子
29
 
500
右衛門
 
松田盛定
 
仁科越中守
信濃衆
30
 
 
仁科越中守
21
沢根高次
 
左馬助
沢根恒高は井上達満の子
31
沢根恒高
 
伊右衛門
26
西条綱春
 
志摩守
信濃衆
32
 
 
志摩守
25
綱島頼定
 
兵庫
信濃衆
33
 
 
兵庫
29
夜交重長
 
弥左衛門
小幡信広の子
34
 
 
弥左衛門
31
大室貞次
 
右馬頭
信濃衆
35
 
 
右馬頭
33
舟尾
 
兵庫
 
36
 
 
兵庫
 
赤見
 
伊賀
 
37
 
 
外記
34
小倉資信
 
民部
小倉直信は千坂高信の子
38
小倉直信?
 
主殿
22
甘糟吉継
300
久五郎
甘糟景継の子
39
 
300
久五郎
28
宮島長能
 
右京
本荘繁長の子
40
 
 
右京
24
福島正重
 
久五郎
養子は須田満義の子?
41
 
 
隼人
30
香坂親昌
300
弥五左衛門
香坂昌能の弟
42
 
300
弥五左衛門
 
甘糟長継?
300
彦七郎
甘糟景継の子
43
 
300
彦七郎
 
平田範宗
 
左京
 
44
 
 
左京
40
夏井重親
400
勘左衛門
 
45
 
400
勘左衛門
41
下秀政
 
美作守
 
46
 
 
美作守
42
 
 
 
信濃衆
 
保科盛信
 
主馬
23
 
 
 
 
 
潟上秀信
 
弥太郎
27
 
 
 
千坂高信の子
 
千坂高治
 
釆女
32
 
 
 
志駄義秀の子
 
志駄義繁
 
縫殿
35
 
 
 
 
 
春日続元
 
主膳
36
 
 
 
信濃衆
 
平林正興
 
内蔵助
37
 
 
 
 
 
横田俊信?
 
式部
38
 
 
 
志駄義秀の子
 
上泉秀富
 
主水



[出典]
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tora.html