三浦一族のやぐらです…。何か、背筋が寒くなるような、それでいて静謐な空気が流れ出てきている様な…。
合掌。
さて、三浦一族のやぐらから鳥居をくぐって石段を上がります。最近よく石段を上がったり下がったりします。
足腰が強くなってきた様な気がします。
石段の上には、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐらがあります。
大江広元は頼朝の信頼厚かった鎌倉幕府初期の功労者。有名なので解説は省略。
毛利季光は、大江広元の息子で、相模国毛利荘(現在の厚木周辺)を領していたので毛利姓を名乗りました。
毛利と言えば…そう、戦国時代の中国地方の覇者・毛利元就を輩出した毛利家のご先祖様です。
この方、娘が時頼に嫁いでいて、自分の妻は秦村の妹。宝治の合戦は義理の息子と義理の兄の戦いと言う事
になり、板ばさみになって悩んだ様です。最初は北条方に付こうとしたのですが、嫁に「兄を捨て、執権に味方す
るとはそれが武士のすることですか!!」と諌められて、「そりゃそうだ」と変心して三浦に味方し、秦村らと共に法華
堂で戦場の露と消えました。この時、越後国にいた季光の四男・経光の血筋が残り、その子孫が安芸国に移っ
て、後の毛利家へと繋がっていったそうです。
島津忠久は、母が源頼朝の乳母の娘とあって、頼朝の信頼も厚く、薩摩・大隈・日向の守護職となりました。
九州・薩摩の島津氏の祖となる人です。一説によると、頼朝の御落胤だとか…。そんな縁があって、頼朝公の墓
所を江戸時代の薩摩藩主が建てる事になったのですね。
しかし、時代を遠く離れて武家政権を崩壊させ明治維新の大きな力となった薩摩・長州の祖が共に頼朝公の
縁者であり、武家政権の始まった地に墓を並べているのは歴史の皮肉なのでしょうか…。
まあ、島津忠久の墓は頼朝公の墓を整備する際に造られ、大江広元の墓と毛利季光の墓は江戸幕末期の
文政6(1823)年に長州藩家老村田清風(藩革新派のドンで、吉田松陰らを育てた人物)が整備したものですか
ら、それぞれの根拠はかなり怪しいらしいですが。