2015年11月24日火曜日

三浦一族のやぐら



三浦一族のやぐらです…。何か、背筋が寒くなるような、それでいて静謐な空気が流れ出てきている様な…。
 
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合掌。
 
 
さて、三浦一族のやぐらから鳥居をくぐって石段を上がります。最近よく石段を上がったり下がったりします。
 
足腰が強くなってきた様な気がします。
 
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石段の上には、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐらがあります。
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大江広元は頼朝の信頼厚かった鎌倉幕府初期の功労者。有名なので解説は省略。
 
毛利季光は、大江広元の息子で、相模国毛利荘(現在の厚木周辺)を領していたので毛利姓を名乗りました。
 
毛利と言えば…そう、戦国時代の中国地方の覇者・毛利元就を輩出した毛利家のご先祖様です。
 
この方、娘が時頼に嫁いでいて、自分の妻は秦村の妹。宝治の合戦は義理の息子と義理の兄の戦いと言う事
 
になり、板ばさみになって悩んだ様です。最初は北条方に付こうとしたのですが、嫁に「兄を捨て、執権に味方す
 
るとはそれが武士のすることですか!!」と諌められて、「そりゃそうだ」と変心して三浦に味方し、秦村らと共に法華
 
堂で戦場の露と消えました。この時、越後国にいた季光の四男・経光の血筋が残り、その子孫が安芸国に移っ
 
て、後の毛利家へと繋がっていったそうです。
 
 
島津忠久は、母が源頼朝の乳母の娘とあって、頼朝の信頼も厚く、薩摩・大隈・日向の守護職となりました。
 
九州・薩摩の島津氏の祖となる人です。一説によると、頼朝の御落胤だとか…。そんな縁があって、頼朝公の墓
 
所を江戸時代の薩摩藩主が建てる事になったのですね。
 
 
しかし、時代を遠く離れて武家政権を崩壊させ明治維新の大きな力となった薩摩・長州の祖が共に頼朝公の
 
縁者であり、武家政権の始まった地に墓を並べているのは歴史の皮肉なのでしょうか…。
 
 
まあ、島津忠久の墓は頼朝公の墓を整備する際に造られ、大江広元の墓と毛利季光の墓は江戸幕末期の
 
文政6(1823)年に長州藩家老村田清風(藩革新派のドンで、吉田松陰らを育てた人物)が整備したものですか
 
ら、それぞれの根拠はかなり怪しいらしいですが。
 
 
 

2015年11月23日月曜日

松代


松代藩(まつしろはん)は、江戸時代信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市松代城居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)越前松平家真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。

沿革[編集]

古くには「松城」とする資料もあり、宝永年間に「松代」に統一されたとされるが、この稿では便宜上「松代」に統一する。

川中島藩時代[編集]

川中島四郡は信濃国北部の高井郡(現上高井郡下高井郡及び中野市須坂市)、水内郡(現上水内郡下水内郡及び飯山市長野市)、更級郡埴科郡千曲市を含む)の四郡を指す。戦国時代川中島の戦い武田氏上杉氏の係争地となったところであり、現在の北信地方に該当する。しかし北信地域支配の中心は、武田信玄上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。
近世大名領の成立は関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。忠政は川中島領の領国化に勤め、「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により全領一揆が発生したがこれを徹底的に殲滅した。1603年慶長8年)美作国一国(津山藩)に加増転封となった。海津城は忠政の統治時に「待城」と改名されたとされる。
その後徳川家康の六男松平忠輝越後国高田藩へ移る1610年(慶長15年)までの7年間、14万石を領有し、高田へ加増転封となった後も新領土に旧領が含まれており、1616年(元和2年)改易されるまでの間領知した。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。忠輝領有期間には家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力し、そのため花井神社が建立され業績を称えられている。
その他、徳川幕府によって廣島を改易となって福島正則の新領地となった高山村高井野藩)や大坂の役で加増を得た岩城氏の飛地領となった木島平村信濃中村藩)も川中島藩と呼ばれる場合がある。

越前松平氏・酒井氏統治時代[編集]

1616年元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代(松城)藩領と呼ばれる。忠昌は1619年(元和5年)に越後国高田藩へ転封。
代わって酒井忠勝が10万石で入封するが、1622年(元和8年)には出羽国庄内藩に移る。この間、同地には岩城家(1616年-1623年信濃中村藩:後出羽国亀田藩に転封)と福島正則(1619年-1624年:安芸国広島藩改易後の堪忍領。後に改易)の領地(高井野藩)も存在し、これらも川中島藩と称されることがある。

真田氏統治時代[編集]

真田邸
1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( - 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続く。
真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。なお、支藩(分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。
信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。
4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。5代信安の時代の1742年寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。1751年宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門(浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物ともいわれる)を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた。
信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。
幕末期には8代幸貫老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子(第8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年安政2年)に開校した。1864年元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷の守りについた。
明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げた。1871年明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。
1884年(明治17年)華族令施行に伴い、藩主家は子爵を授けられた。(のちに伯爵に陞爵)

尾張部


地名は平安時代にこの地にあったという尾張部郷がもとになっており、郷名は大和国の高尾張氏が住んだことに由来するという[1]
名古屋市から続いてきた国道19号は、西尾張部地籍で終点となる。

沿革[編集]

大字西尾張部・大字北尾張部の範囲は、概ね1889年明治22年)以前の水内郡西尾張部村・北尾張部村の範囲に相当する。
旧西尾張部村・北尾張部村〜古牧村・朝陽村の歴史
長野市西尾張部・北尾張部の歴史

尾張部


赤沼 アカヌマ 葛飾郡赤沼村(春日部市)、比企郡赤沼村(鳩山町)あり。また、埼玉郡樋遣川村字赤沼、入間郡今成村字赤沼、宗岡村字赤沼、福岡新田字赤沼あり。長野県上伊那郡箕輪町十八戸、南安曇郡穂高町三十戸、長野市北尾張部二十戸、同市北長池十八戸、福島県郡山市四十戸、岩手県下閉伊郡田老町二十七戸、青森県上北郡七戸町十三戸、三沢市三十戸、島根県隠岐郡西郷町二十戸あり。


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