2017年4月25日火曜日

真浄寺

「真浄寺の歴史  親鸞聖人から法名を賜った明慶安坊が建暦2年(1212年)信州赤沼(長野市)に堂宇を建立した。川中島合戦など度々の戦火で各地を転々とし、慶長2年(1597年)新潟に移住、元和元年(1615)当地に移転した。本堂は天明6年(1786年)10月、200両の工費で建立され、西堀寺町での中では最古級に属する。」と山門前の案内板に書いてあります。

慶長2年とありますから慶長の役(挑戦出兵)の始まった年に新潟に移転したのですね。翌3年、豊臣秀吉が死去します。
本堂が建立されたのが天明6年(1786年)と云うと田沼意次が解任された頃です。天明の大飢饉が起こりました。天明3年には浅間山の大噴火がありました。天変地異が続き政治は混迷していました。どうも、今の時代に似ていますね。

http://sekinan.air-nifty.com/blog/2013/04/post-6b83.html

2017年4月12日水曜日

桜沢如一


経歴

和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士家系に生まれる。流布される京都生まれは間違いである。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1]石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年無双原理講究所滋賀県大津市に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウムカリウムのバランス論」を易経陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリVrinフランス語: Librairie philosophique J. Vrin)社より『Le Principe Unique de la Philosophie et de la Science d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインドアフリカ欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュヴァイツァー博士と会見し、西洋医学栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、NaKの低温低圧原子核転換の成功を述べている。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫大森英桜岡田周三菊池富美雄ポルトガル語: Tomio Kikuchi)らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞

石塚 左玄

石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日1851年3月6日) - 明治42年(1909年10月17日)は、明治時代の日本の医師薬剤師[1]、であり陸軍で薬剤監、軍医を勤めた。 玄米・食養の元祖で、食養会をつくり普及活動を行った。
福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」[2][3]食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。
栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという[4]。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった[4]。天皇家の献立は食養学に基づいている。

2017年4月5日水曜日

龍爪大権現







 龍爪大権現の出現
龍爪山が、修験の山であったことは、山に残された小字にも窺える。平山には、「行人」、長尾には、「山伏沢」があり、諸国回国の修業僧が、龍爪山の山中に入りこんでいた痕跡を伝えている。中世の時代は、多数の勧進聖が行脚して、庶民に仏道を説いた時代である。その代表が高野聖や六十六部聖であった。これらの僧は、地獄、極楽の因果を説き、死者の追善供養のための念仏読経を広めた民間布教者であった。龍爪山が、中世、念仏浄土の山として、こうした人達の拠点になっていたといえる。中世の経塚遺跡の存在は確認されていないが、「龍爪山」の石経の段に発見された経塚跡が、中世の造営場所を引継ぐものではなかろうか。龍爪山の起源に関わる信仰的聖地が、現在の穂積神社のある平らな一帯であったことを示唆するものといえよう。
 このことについては、奥田賢山氏が「龍爪山縁起」の元が、龍爪山経塚にあることを指摘されている(『駿河龍爪山由来』)。この場所は、江戸時代「黒川山龍爪平」と記されていたといい(『龍南の古文書』)、古くから「リュウソウ」と呼ばれていたことがわかる。龍爪山の指す範囲は、山頂部ではなかったということである。ここに、龍爪権現の名称由来が、経塚に関わる聖地
リュウゾウ
の土地の名前からきていることが予察される。また、「龍  蔵」という言葉も、経典を納めた蔵という意味で、音が似通うことから留意してみたい。想像を逞しくすれば、この平らな段が、写経の功徳を実践する、埋経の場所に選ばれ、そこから二峰が浄土と仰がれていたといえよう。経塚造営の土地に、龍爪権現は、土地の名をとって出現してきたのであった。
 龍爪山信仰は、近世になって興ってきた新興宗教であった。龍爪平の聖地を、再利用しての宗教活動と言い換えることができよう。その起源伝承は、樽の権兵衛に始まる。樽の望月家に伝わる由緒書きには、

慶長2年、駿河の国龍爪山へ移住す。織田の所誅急ニして、山住を成し身をかくす。龍爪山神祀を祭る。一説に曰く。武田滅亡に依り一家族を扶養するに困難を生じ、精神に異常を呈し狂乱甚状。其の父神に祈願する。弐度夢に、龍爪山の旧祠を再こん成さば、立所に平癒すべしと有り。父則ち倅に問ふ。曰く、駿河の龍爪山に於いて、3人にて猟せん時、あやしき神を見たり。一人は吉原正治沢の定七殿、一人は伊佐布の兵右衛門なり。石行の段と云う所にて、16頭連れの鹿を猟□じ、其内尤大なる白鹿を射止む。現今本社建設し有る所にして石行の段と称す。其の側に小社を祭りあるは、元駿府城に有りし、旗神八幡社なり。権兵衛の移し祭しとあり。其の古、当山に於て、旅人悪神の為に、迷はされし者多かりしを、社神を祭るに付、其難を免かれ、依て、炭焼区側横4丁、平山側横4丁、峰行8丁を、自由の権利を許されしと有り。
 この由緒書きは、山の権利を正当付けるために記されたことがわかる。この中で、古い祭りの場が何らかの理由で、滅んだ状態になっていた。その古い社には、境を守護し、この山道を通る旅人の安全を守ってくれる神が祭られていたとおもわれる。「古、当山に於いて、旅人、悪神の為に、迷はされし」とあり、道の神が古くから祭られていたといえよう。
 龍爪山の鞍部を抜けて安倍山に通じる山道は、重要な山岳交通のルートであった。武田氏の南進策による駿河進攻にとっても、出入り口として、軍事拠点化されてきたことは、十分、考えられる。中世の念仏浄土の山が、戦国時代の戦いの中で、武田支配の山城になってきたのである。龍爪権現は、この武田支配と深い関係をもつことが、示唆されてくる。その根拠が、龍爪権現の図像の系譜である。樽の望月家に伝わるお札の龍爪権現像は、烏天狗である。この像は、長野県の飯縄権現像とよく似ている。飯縄権現像は、白い狐に乗った形で描かれている。この飯縄権現は、戦国時代、軍神として崇められていた。武田信玄も飯縄権現を厚く信奉した一人であった。永禄12年、信玄は駿河進攻に際し、飯縄大明神を甲斐に勧請することを誓い、軍効の成功を祈っている。元亀元年12月、駿河支配に成功した。穴山信君の本貫地である山梨県身延町下山に、現在、三の宮として飯縄明神社が祭られている。この社が誓いによって勧請されたものと考えられている(長野市立博物館『信濃の山岳信仰』)。
 穴山信君が駿河支配には活躍しており、龍爪山一帯が軍事拠点に利用されてきたことは、軍神としての飯縄権現の伝播を想定してもよいであろう。そこに、飯縄権現を下地として、龍爪権現が作り出されてきた可能性がある。樽の望月家が武田の落人伝説に彩られていることも、そうした、武田の駿河支配という歴史の反映といえよう。
 ここに、龍爪権現の出現が、武田支配の後に興ってきたことが、指摘されよう。そして、その再興した社殿の神霊は、悪神を封じこめる力をもつ神様であった。このことは、逆に、龍爪山の道の神祭りが、古くから行われていたことを示している。龍爪権現の始まりは、山中の悪神除けに功を奏する神様として、信仰を集めていたといえよう。山中のある土地の範囲を支配する神様であった。そうした、山の通行に関わるだけのささやかな社殿として出発したのが、龍爪山に再興された龍爪権現であった。


それが、江戸時代を通じて、人々の暮らしに深く繋がる信仰形態を形成してきた。『駿府風土記』には、「山上権現アリ大社ナリ。火災疱瘡除ノ守出ル。駿城町家板行ノ像ヲ以戸守ニ張ル。(中略)城下ニ諸町人参詣群衆ス。常ニ婦人子供モ山上ス」とあり、町場の暮らしの中にも龍爪権現の信仰が身近に取り入れられていたことを、示している。山上から里へ、龍爪さんが降りてきた時代であった。生活の中で、何か困った人事を越える出来事が生じた時は、龍爪さんに頼ることが行われていた。龍爪さんの山伏の加持祈祷が、信じられていた。
 船越村では、文政8年、うんかが大発生したため、龍爪権現の山伏二人をまねいて護摩を焚き、虫送りをしたが効き目がなかった。そこで、さらに、代参の者二名を龍爪山に使わして、護摩火を貰ってこさせ、虫送りを行っている(『船越村名主日記』)。龍爪山の護摩火が、普通の火と違うご利益があると信じられていたのである。また、疱瘡の時は、山伏を頼んで疱瘡神を祭っていた。このように、龍爪山の山伏が、たえず、山と里を行き来して、困りごとに対処していたのである。江戸時代の龍爪山信仰は、山伏の護摩を焚いての加持祈祷によって、庶民の困りごとや願い事に対処して、信仰圏を拡大してきたのであった。
 「龍爪山縁起」の中に「狂気者は祈祷をこひて、灼然き霊験を蒙ることおほかり」とあるように、山上が、一種の治療院的役割を果たしてきた伝統があった。杉の巨木の林立する龍爪平は、人工的に造成されてきた隔離空間といえよう。疱瘡や気の病など、「諸の疾病を癒させ給はらむ事を祈祷申す」と、龍爪権現が、民間医療を担うかたちになっていたのである。

こえはつ
その反面、「龍爪山由来の事」には、肥 発という恐ろしい病のことが、記されている。「この山の四方一、二里が程にあり。いずれも身終ふるまで癒えず。その上療治の及ぶことなし。誠に余国に稀なる奇病なり」とある。さらに、「また一説には、龍爪山守護神の内に、おりおり毒蛇あって、その毒気に当りたる者、この患ひを受くるとも申すをり」とある。龍爪山への接近、わけても、宿業の深い人が龍爪山から流れ出る水をかけられると、その水が毒となって肥発に罹るという因縁話になっている。
意外のことだが、この肥発という風土病の恐ろしさが強調されて、なぜ、縁起に取り入れられているのだろうか。江戸時代、この風土病があって、それを、仏教の因縁話に仕立ててきたのだろうか。すなわち、善人は龍爪山に登れるが、罪人は肥発に罹って登れないということである。龍爪山が、魔所としての恐ろしさを持っている伝統を、示すものといえよう。悪神、毒蛇、それに、天狗、山童など異界のものがすむ恐ろしい山と考えられていた。肥発は、この世と異界をわける境に語られてきた話といえよう。龍爪山は、罪を滅ぼしてからでないと、登れない山であった。それが、江戸時代には、女、子供まで気楽に登れる山になってきたのである。
 羽黒修験の祭りには、「つつが虫」が焼かれるという、風土病を滅ぼす呪術が、象徴的に行われている場面がある。肥発が、日本住血吸虫の症状と似ることが指摘されるが、ここでは、風土病と龍爪修験との関わりが、留意されよう。風土病に対処してきた呪術が、龍爪権現を医療の加持祈祷に長けた神として、信仰を集めるようになってきたのではないだろうか。
 龍爪権現は、魔をはらい、悪神を近付けないものとして、再興されてきた神様であった。龍爪平を通行する旅人を守護してくれる神様として信仰を得てきた。それが、医療に効果のある神様になって、山上から里まで、出前の護摩焚きや祈祷のために、降りて来るようになったのである。山上の修験から、山麓の修験への転換期であった。信仰圏の拡大に、重い病に対する受け入れという、医療呪術を龍爪山信仰の前面に押し出してきたことがあげられよう。
 龍爪山の山中に刻まれた小字地名に、「龍爪山」と「大嶽」がある。「龍爪山」は、穂積神社のある平坦部あたりをさしてい
タケ
る。「大嶽」は、薬師岳の頂上から直下の東側斜面一帯をさしている。一般に、岳とつく言い方は、高い山で人が勝手に侵入してはいけない領域としての歴史をひっぱってきている。その意味で、「大嶽」は、大きな岳という、古風な山の呼び方を示しているといえる。龍爪山の東側にある「高山」も「短山」(ヒキヤマといい、麓の低い山のことをさす。)と対になる言葉である。龍爪山の上り口にある平山も、「短山」につながることが考えられる。
 このように、古い時代には、岳、峯、高山などで山の高みを指し、麓山、短山で山麓線の低い山を指してきたという対表現が
セドヤマ
セミチ
行われていたものとおもわれる。静岡あたりでは、集落背後の山を背戸山といい、その尾根筋の道を背道といっている。清水市大内にある霊山寺も、背後の山が信仰的意味を持っていた「霊山」(死んだ人の霊が登る山)に由来することが考えられる。また、龍爪山の東南に位置する「若山」という呼び方も、信仰的意味を伝える山名であることがわかる。静岡あたりでは、正月4日、初山といって山から木を切ってくる行事が行われているが、若山にもそうした行事をさす言葉で使われる伝統がある。山からの神を迎える山、または、その途中の御旅所となるところという意味合いが類推されてくる。固有名詞を山名とする以前は、こうした呼び方で、山の認識が間に合っていたといえよう。
 
今ひとつ、龍爪山の北側、清水市側の地名に黒川がある。その上流部の山地が、黒川山と呼ばれていた。現在の穂積神社あたりを、江戸時代の中頃には「黒川山龍爪平」と呼ばれていたという(『龍南の古文書』)。中世の時代、「黒山」は未開発地の手をつけてはいけない聖域と考えられていた。黒川山もその系譜を引き継ぐことが考えられ、静岡市門屋の奥の山にも黒岩という山名がある。かつて、龍爪山一帯の山塊が、未開発地の聖域であったことを示すものといえよう。
 龍爪山の地形は、岳、峯、段、平などの言葉で認識されて、それが小字に留められてきたのである。龍が爪を落とした所が「二股の段」、奥の院のところが「亀石の段」等、段と呼ばれる平坦部が、階段状に形成されて、龍爪山の宗教空間が意図的に作られてきたこと示すものである。そうした段のある場所の聖地化に、いろいろな伝説が付与されてきたものと思われる。黒川山の開発の進展にあわせ、山々の所々にあった神々を、龍爪平に取りまとめてきた変遷が、考えらえる。
 
http://www.diycc.info/taki/t/t024_027.htm
 
 
 

大神一族



緒方氏の祖先は,豊後武士団の頭領であった惟栄だが,その5代前の先祖は豊後大神の祖,大神惟基である。この惟基(これもと)が平家物語に出てくる「嫗嶽伝説」の神孫で,惟基の祖父は都から派遣された豊後の介大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)である。
そして,その祖先は大和の大神(三輪)氏である。大和三輪山の神孫だという大和大神氏を土台として,その大神諸族は豊後大神氏,宇佐大神氏を形成している。

速見大神氏と宇佐大神氏
欽名天皇29年(568),蘇我馬子は仏教と融合した原始八幡と帰化人勢力を利用するために,大神比義を宇佐に下す。比義は菱形山に八幡大神を祀り,地場の神官宇佐氏と争って勝ち,宇佐八幡の祀官の祖となる。
この比義の系統で速見の大神郷に住みついた一族が豊後速見の大神氏であり,豊前宇佐郷に留まったのが宇佐大神氏である。

豊後(大野)大神氏
大野郡は,三重郷,緒方郷,宇目郷,井田郷の4郷から成り立っている。豊後国の南西部に位置する。西の阿蘇山と東の国府である古国府(ふるごう)の中間に位置し,中央を大野川が流れる。
大野の大神氏は『豊後の大神氏』と呼ばれ,この一族こそが,緒方一族37家の先祖である。

仁和(にんな)2年(886)2月,大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)が豊後の介となって豊後国に赴任した。寛平4年(892)3月,良臣の任期が終わるとき,良臣の徳政によって百姓が良臣を慕い,せめて子息を留めてほしいと国府に願い出た。大宰府はこれを許し,庶幾(これちか)を大野郡領に任命し外従六位下を授けた。

大野郡領になった庶幾は三重郷に入って豊後大神氏の祖となるが,一般的には庶幾の嫡男である大神惟基(これもと)が豊後大神一族の始祖とされている。この惟基こそが『嫗嶽伝説』の花御本と大蛇の子あかがり大太のことである。惟栄は惟基の5代の孫にあたる。

惟基は5人の子息を豊後国の要所に扶植し,豊後南部の大半を勢力圏内に収める。その子孫は,豊かな土地や山林の他,恵まれた良港による海運業,阿蘇・大野の高原に騎馬を養い,平安末期になると,九州でも最も大きな武士団を形成し,源平合戦ではその名を轟かせた。その中心人物が緒方三郎惟栄である。

その後,惟栄は源頼朝と不仲になった義経を助け,そのために捕らえられて,上州(群馬県)沼田に流される。建久元年(1190)10月,上洛した頼朝によって惟栄の赦免が願いだされ,赦されて佐伯に還る。その子孫は佐伯姓となって後世に続いてゆく。そして大友氏の入国以来大友宗麟の時代まで最も忠実な家臣となるのである。


大神氏のその後
文治元年,義経の叛に従った惟栄はついに失脚し,流罪となった。ところがこのとき惟栄と運命を共にしたのは,直接の親子兄弟だけであって,三田井(日向臼杵郡)・阿南・稙田・直入・戸次・(豊後大分郡)などの大神系や,大野郡に蟠踞した大野・緒方一族は,緒方三郎と行を共にせず,その一族はあとまで残って,九州各地に尾形・緒形・小方・尾方等の名字をもってひろがった。
豊前中津に移った大神の一族からは,対明貿易に従事して巨利を博した甚四郎が出た。甚四郎は博多に移り住み,明人の言により大賀と改めた。その三人の子のうち,九郎左衡門信房は,父の志をついで貿易に従事し,長崎五島にも屋敷をもった。福岡県にはいまも大賀姓が多い。

終わりに緒方氏から分れたという苗字を次に掲げておく(上掲分を除く)。佐賀・賀来・佐伯・野尻・小原・大津留(おおつる)・武宮・橋爪・松尾・城原・朽網・秋岡・由布・霊田(たまだ)・入倉・十時(ととき)・児島など。


http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken3.htm