2019年8月5日月曜日

多磨霊園 會津藩士

多磨霊園
中村家之墓墓碑の裏
中村家之墓
≪鈴木五郎 (重季)≫
 白虎寄合一番隊/原隊。 16歳。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰の戦いで負傷し、10月8日に雨屋で死去。
 (墓碑の裏)
  明治元年九月十五日六郎兄
  鈴木五郎 白虎隊 十六才
  一ノ堰激戦三日討死 ~~

台座の前面
 (台座の前面)
   祖父會津藩士
   鈴木清吾 九五才
   伯父 五郎 十六才
    ~~~
    ~~~

台座の裏
 (台座の裏)
   鈴木家
   断絶ノ為
   會津長命寺
   墓土ヲ納ム

 18区-2種-86側。
 鈴木五郎の墓は、飯盛山と長命寺、常金寺にもある。

会津松平家墓
  松平健雄
  松平勇雄
4区1種21側


藩主/松平容保の次男 伊佐須美神社宮司)
松平健雄の子 衆議院議員・福島県知事
横光 利一 4区1種39側16号 東山温泉の旅館「新瀧」で誕生  [略歴]
畑英太郎 6区1種16側3号 陸軍大将 弟/畑俊六も陸軍大将  [略歴]
西郷従道 10区1種1側1号 西郷隆盛の弟  武田惣角の愛弟子
山川捨松を口説き落とし婚約に尽力
西郷頼母の遠縁 (西郷隆盛らと祖は同じ)
中野友禮 10区1種7側 日曹コンツェルン創業者  [略歴]
西義一 11区1種20側 陸軍大将 教育総監  [略歴]
丹羽七郎 14区1種3側1号 岩手県知事・埼玉県知事 内務次官  [略歴]
高野源進 15区1種9側 山梨県知事・広島県知事 警視総監  [略歴]
井深 大 (まさる) 17区1種8側7号 事業家/ソニー創業者  [略歴]
佐藤繁彦 11区1種19側 会津出身 ルッター根本思想の神学
鈴木清吾 18区2種86側 藩士 中村家之墓の台座に刻印されている
山本五十六 7区特1種2側 会津で戦死した長岡藩/山本帯刀の養子
妻/禮子は、旧会津藩士/三橋康守の娘
簗瀬真琴 21区1種17側 会津三家の1つ/簗瀬家の出身  [略歴]


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井深家一門之墓


井 深 家 一 門 之 墓
井深家一門之墓墓  会津に残る巨石の先祖墓に比べると、控えめな墓。
井深家一門之墓墓  質素に生きた人柄に、とても良く似合う。
 17区1種8側7番。
自 由 闊 達  井 深 大

 一九〇八年(明治四十一年)四月十一日 栃木県日光町で父甫(たすく)、母さわ の長男として生まれる。  神戸市立諏訪山小学校 兵庫県立神戸第一中学校 早稲田大学理工学部電気工学科を卒業 
 一九四五年五月 東京通信工業(現ソニー株式会社)設立 代表取締役専務に就任 一九五〇年 同社社長に就任  同社会長 名誉会長を歴任後 一九九〇年 ファウンダー名誉会長 一九九四年 ファウンダー最高相談役に就任
 この間 経済同友会幹事(終身幹事) スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員 社団法人発明協会会長 財団法人ボーイスカウト日本連盟理事長 財団法人鉄道総合研究所会長などを歴任
 一九八六年 勲一等旭日大綬章を受章 一九八九年 文化功労者となり 一九九二年 産業人として初めて文化勲章を授かる その他、スウェーデン王国勲一等北極星章をはじめ東京都名誉都民など 国内外の政府 団体 大学から多くの叙勲 学位 表彰を受ける
 一九九七年(平成九年)十二月十九日 昇天 八十九才 
 没後、正三位に叙せられ 勲一等旭日桐花大綬章を受章

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井深 大


井深 大 (いぶか まさる) の略歴
 独自の製品開発に徹し電子技術者として、世界のソニーを築いた創業者。
 本田宗一郎氏と並ぶ、戦後日本を代表する技術系創業者でもある。

 生涯は、3つの時代に分けられる。
  ◇  人格形成の時代
    幼く父を亡くし、栃木から愛知へ。
    物心が付く頃に東京に転居し、再び愛知に戻り小学生時代を過ごす。
    母の再婚により兵庫に移り、中学生時代を過ごす。
    各地に移り住むが、その地を理解できる期間を過ごしている。
    様々な風土、対人関係などを身に付け、様々な視点から見れる土壌が形成される。
  ◇  天才技術者として開花
    大学在学中に「走るネオン」を発明し、天才発明家の片鱗を発揮し始める。
    会社を設立するや、一般消費者の利便性を追求した研究に没頭、次々に商品化。
    日本が電子化立国となる礎を築く。
  ◇  幼児教育に尽力
    事業が軌道に乗ってからは、幼児教育に邁進する。
    娘さんが知的障害児として生れたことも、契機だったのかも知れない。
    世界的な起業家にもかかわらず、著書の多くは幼児教育に関するものであった。
    胎児教育から、超能力への研究まで広げていった。
明治41(1908)年
 4月11日
 父/井深甫と母/の長男として、古河鉱業日光製銅所の社宅で誕生。
 栃木県 上都賀郡 日光町 字清滝 (日光市) 。
 父/甫 (たすく) は古河鉱業の技師で、若い頃に日本最古の一つである静岡県御殿場の発電所を設計している。
明治43(1910)年
 父が死去したため、愛知県安城市に住む祖父/井深基 (旧/会津藩士) に引き取られる。
 2歳 (数え3歳)。

 戊辰の役での基は、18歳のため白虎隊に入れず朱雀隊で奮戦し生き残れたが、その後も西軍からの差別は想像を絶し、北海道で官吏などを転々とするなど苦労をしている。
 石山家の養子となり飯盛山で散った白虎隊士/虎之助は、基の実弟である。
 重用されていた北海道知事/深野一三が愛知県知事になった際、請われて愛知に移り、商工課長や郡長などを歴任している。
 引き取られる時は、教育に従事していた。

 祖父の会津魂は、井深大の人間形成の基礎を築いたといわれている。
 日本女子大学を出ていた母は、武士道を貫く義父/基と合わなかった。
 母に連れられ、5歳から1年2学期まで東京に転居する。
 日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら、井深を育てた。
 母方の祖父が病気になったため北海道苫小牧に転校するが、2年生で再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校 (安城市立安城中部小学校) を卒業する。
 母が山下汽船の課長と再婚したため、しばらく祖父母の手で育てられる。
 この期間に、祖父から科学者だった父の話しを聞き、次第に科学への興味が芽生える。
 小学五年生になると、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区 (中央区) に転居し、兵庫県立第一神戸中学校を卒業する。
 大きくなるにつれ、無線機製作などへ没頭していったという。
昭和8(1933)年
 第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業。
 卒業論文は、「変調器としてのケルセル附 光線電話」であった。
 在学中に「光るネオン」を発明するなど、天才発明家として名が知られていた。
 「光るネオン」は、後のPCL時代に出品してパリ万国博覧会で金賞を獲得している。

 写真化学研究所 (Photo Chemical Laboratory、通称 PCL、現/東宝) に入社。  25歳。
 井深大は、「ケルセルに関する研究成果」の特許申請手続きのため特許庁に出向いた。
 内容を見た審査官が、PCLの入社を勧め、自ら連れて行った。
 即座に採用は決まったが、井深大には入りたい会社があった。
 希望の東京芝浦電気 (東芝) の入社試験を受けたが、不採用だった。
 PCLからは、
  「責任を持たせて、好きにことをやらせるから、早くこい」
といわれ、気持ちは決まった。
 東京帝大卒並みの月給60円、その年末には90円になった。
昭和10(1935)年
 自動車の免許を取得し、当時としては珍しいオーナー・ドライバーとなった。
 中古の「ダットサン」だったそうだが、1つの夢を叶えた。
 27歳。
昭和11(1936)年
 日本光音工業株式会社に移籍。
 28歳。
昭和12(1937)年
 日本光音工業株式会社の無線部長に就任。
 出品した「光るネオン」が、パリ万国博覧会で金賞を獲得。
 29歳。
昭和15(1940)年
 日本測定器株式会社の設立に参画し、常務に就任。
 日本光音工業が出資した軍需電子機器 (熱線誘導兵器) の開発に従事。
 32歳。
昭和16(1941)年
 早稲田大学理工学部専門部工科講師として教壇に立つ。
 7年間、続ける。
 33歳。
 11月
 陸海軍の要望であった周波数選択継電器を開発。
 海軍は磁気による潜水艦探知機に応用し、航空機に搭載した。
 海軍901航空隊は、台湾やフィリピン海域で多くの潜水艦を撃沈する戦果をあげている。
 軍官民合同の科学技術の委員を委嘱される。
 この縁で、兵器研究の技術者交流である官民共同「戦時科学技術研究会」にて、海軍技術中尉/盛田昭夫氏と運命的に出会う。
昭和20(1945)年
 8月
 海軍技術将校で終戦を迎える。
 敗戦の数日後、長野県須坂町に疎開していた「日本測定器」を戻すため上京する。
 日本橋大通りで、完全武装した米軍の自動車の行列に出会う。
 その時、痛感した。
  「日本は科学技術で負けたのだ。科学技術で日本を立て直すしかない」
 37歳。
 10月
 行動は、素早かった。
 東京日本橋の旧/白木屋店内の3階配電盤室に、ソニーの前身である「東京通信研究所」を個人企業として設立。
昭和21(1946)年
 5月
 「東京通信研究所」を株式会社に改組し、「東京通信工業株式会社」に改称。
 終戦まで文部大臣をしていた義父の前田多門を社長とし、井深が賀技術担当の専務、盛田昭夫が営業担当の常務に就任した。
 盛田はGHQの公職追放で職が無く、偶然にも読んだ朝日新聞のコラム「青鉛筆」に東京通信工業が掲載され、会社設立に合流したのである。
 前田多門も、公職追放されていた。

 資本金19万円で、社員20数人でのスタートであった。
 新しい技術開発にチャレンジし、ユーザーの生活を豊かにする新商品を造り出し、世界的な大企業に成長していく。
  「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
     ~~~
   会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、~~~」
 38歳。
昭和22(1947)年
 10月
 NHKを統括していた米軍の将校からテープレコーダーを試聴し、製作することを決心。
 39歳。
昭和25(1950)年
 東京通信工業の社長に就任。
 8月
 苦難の開発の末、国産初のテープレコーダー「G-1型」を発売。
 小売価格16万円 (現在の3百万円位) と高価のため販売不振。
 どんな便利なものでも消費者の立場が必須と悟り、小型の普及機に方向転換する。
 全国の小中学校から、注文が殺到しはじめる。
 さらに、占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され、全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。
 42歳。
昭和27(1952)年
 3月
 米国でのテープレコーダー普及状況を調査するため渡米。
 車の洪水を目の当たりにして、米国の国力を痛感する。
 最先端技術を開発しなければ、日本の再生は無い、と悟る。
 実用化は無理と考えられていたトランジスタの開発を決意。

 帰国後、時期尚早との周囲の反対を押し切り、開発を着手し推し進める。
 後に井深は、「よそにないものをつくる」の夢に賭けたが、この時代が最も苦しかったと振り返っている。
 44歳。
昭和30(1955)年
 米国で開発されたトランジスタの国内生産に成功。
 8月
 本格的なトランジスタ・ラジオ「TR-55」を、商品名「SONY」として発売。
 電子立国である現在の日本の基礎を築くスタートであった。
 47歳。
昭和31(1956)年
 トランジスタ・ラジオを改良し、イヤフォン方式やハンディタイプなど次々に新製品を出荷。
 乾電池で聞けるトランジスタ・ラジオは、台風シーズンには瞬く間に完売した。
 48歳。
昭和32(1957)年
 3月
 スピーカー付きポケットラジオ「TR-63型」を発売。
 世界最小で感度も良く、消費電力も従来の半分であったため、 大人気のヒット商品となる。
 米国の雑誌「ポピュラーサイエンス」に取り上げられるや、米国でもヒット商品となり、クリスマス商戦では完売が続き、チャーター便で納品するほどだった。
 電気製品での輸出の第1号といわれている。
 49歳。
昭和33(1958)年
 商標名であった「SONY」を、正式な社名「ソニー」に改称。
 社員20数人でスタートした会社は、4千人を超えていた。
 トランジスタの大成功にもかかわらず。開発への挑戦は衰えなかった。
 輸入に頼るゲルマニウムから、無尽蔵にあるシリコンのトランジスタ開発に向かう。
 50歳。
昭和34(1959)年
 ソニーに、全国の小学校を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」を設ける。
 51歳。
昭和36(1961)年
 トランジスタテレビの開発に成功。
 翌年の4月に、世界初の5インチ・テレビを発売する。
 53歳。
昭和37(1962)年
 日本映画・テレビ録音協会の初代名誉会員に選出される。
 54歳。
昭和39(1964)年
 世界初の家庭用白黒ビデオ・テープレコーダーを発表し、翌年から発売。
 56歳。
昭和40(1965)年
 妻/勢喜子と協議離婚し、黒沢淑子と再婚。
 57歳。
昭和42(1967)年
 トリニトロン・カラーテレビが完成。
 クロマトロン方式にチャレンジし失敗の連続であったが、その過程で開発に成功した方式だった。
 日本初から世界初の開発力を持つ会社になっていた。
 この頃から、技術立国には幼児教育が欠かせないと考えるようになっていく。
 さらに、母親の重要性へと打ち込んでいく。
 59歳。
昭和44(1969)年
 財団法人幼児開発協会を設立し、理事長に就任。
 これ以降、残りの生涯を幼児教育の情熱に注ぐ。
  「この人の能力はこれだけだと決め付けていたら、その人の能力は引き出せません」
 61歳。
昭和47(1972)年
 ソニー教育振興財団を設立し、理事長に就任。
  「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない< 母親は子供にとって偉大な芸術家であり、医者でありますが、何よりもすぐれた教育者であってほしい」

 3月
 電子工学関係で世界最大の学会「IEEE (電気電子学会)」からファウンダー賞が贈られる。
 米国人以外での受賞は初めてであり、同賞が設けられたから15人目の授賞であった。
 64歳。
昭和50(1975)年
 ソニー会長に就任。  67歳。
昭和51(1976)年
 国鉄の理事に就任。
 発明協会の会長に就任。
 68歳。
昭和52(1977)年
 ソニー名誉会長に就任。  69歳。
昭和54(1979)年
 ウォークマンを発売。
 日本オーディオ協会の会長に就任。
 早稲田大学から名誉博士(Doctor of Science)が贈られる。
 71歳。
昭和60(1985)年
 ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。
 77歳。
昭和61(1986)年
 勲一等旭日大綬章を受章。
 78歳。
昭和62(1987)年
 鉄道総合技術研究所の会長に就任。
 79歳。
平成元(1989)年
 文化功労者に選ばれる。
 81歳。
平成2(1990)年
 ソニーファウンダーを創業し、名誉会長に就任。
 82歳。
平成3(1991)年
 エスパー研究所をソニー社内に設立。
 「超能力者」の透視能力やテレパシーの実験、科学的に「気」を検証するなど科学の枠を超えた東洋的な考えに傾倒。
 エスパー研究所は、没後の翌年に閉鎖された。
 83歳。
平成4(1992)年
 産業人として初の文化勲章を受章。
 84歳。
平成6(1994)年
 ソニーファウンダーの最高相談役に就任。
 86歳。
平成9(1997)年
 12月19日
 東京にて死去。
 身体は不自由だったが、逝去直前まで頭脳ははっきりしていたという。
  「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」
 享年90歳 (満89歳)。
 墓は、多磨霊園にある。

 同年、勲一等旭日桐花大綬章を没後受勲。
  「日本のエレクトロニクス産業などの製造業発展の基礎を作るとともに、若手技術者育成に活躍し、多くの国民に自信と勇気を与えた」
 世界のソニーの創業者なのだが、集合住宅に住んでいた。
 盟友である盛田の自宅は、大邸宅なのに。
会社設立の目的

一、 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、 日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、 戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、 諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるものの迅速なる製品、商品化
一、 無線通信機類の日常生活への浸透化、並びに家庭電化の促進
一、 戦災通信網の復旧作業に対する積極的参加、並びに必要なる技術の提供
一、 新時代にふさわしき優秀ラヂオセットの製作・普及、並びにラヂオサービスの徹底化
一、 国民科学知識の実際的啓蒙活動
 「たわいない夢を大切にすることから、革命が生まれる。」
 井深の姓は、会津藩にしかいない。
 斗南藩消滅により、藩士たちは全国に散っていった。
 井深家も、その1つである。
 旧/会津藩士の履歴を隠さねば、生きることかすら困難な時代であった。
 井深家の墓域は、大窪山墓地や善龍寺などにある。
 大窪山墓地には、7か所ほど広い墓域が点在しており、巨大な墓石が林立している。
 飯盛山で自刃した白虎隊士/井深茂太郎や、石山家に養子となった虎之助は一族であり、国際的に著名な井深八重も一族の子孫である。
 [閑話]

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東京での会津藩士/幽閉地

東京での会津藩士/幽閉地
 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。
 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。
 西軍の医者/英人ウルリスが担当していたが、とても手が回らなかった。 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に収容され惨状を呈していた。
 その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。
 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、
  飯田元火消屋敷 330名
  ◇ 小川講武所 700名
  ◇ 一橋御門内御搗屋 250名
  ◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名
  ◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名
  護国寺 314名
  ◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名
  ◇ 麻布真田屋敷 若干名
に、2,870余名が分散して収容・監禁された。
 その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。
 護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。
 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、治癒すると東京に移送された。
 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。

 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。
 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。
 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。
 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。
 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。
 やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。
 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。

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御山観音(照谷寺)


御山観音(照谷寺)概要: 神護山照谷寺は福島県会津若松市門田町大字御山字館山甲に境内を構えている天台宗の寺院です。照谷寺の創建は奈良時代の天平神護年間(765~767年)に開かれたのが始まりとされます。一方、御山観音堂の創建は平安時代初期の大同2年(807)に照谷寺の境内背後に控える岩屋山の山頂付近にある岩窟に堂宇が設けられたのが始まりとされます。平安時代後期に発生した前九年合戦で金沢の柵(秋田県横手市金沢)に布陣していた源頼義・源義家父子の下に会津地方を支配していた会津夷太郎が反乱を起こしたとの報告を受け、前九年合戦を平定した後に会津まで進軍しました。その際、前九年合戦の戦勝祈願の為に石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)の分霊を勧請した守護仏を岩屋山の岩窟に奉納し、会津夷太郎討伐の戦勝祈願を行うと見事念願成就する事が出来たとされます。
御山観音は江戸時代初期に会津三十三観音霊場の札所に選定されると広く信仰を広げましたが、山深く管理が行き届かなかった為、度々観音像が盗難に遭いました。結果的に観音像は見つかったものの、再度の盗難を恐れ、岩屋山の麓に境内を構え別当寺院でもあった照谷寺本堂に遷されました。それでも毎年4月15日に行われる例祭の際には観音像を岩窟にある御堂に遷し法要が続けられてきましたが、その御堂も朽ちた為、平成4年(1992)に照谷寺の境内に御山観音堂が造営されました。会津三十三観音霊場第20番札所(札所本尊:岩屋聖観音菩薩(胎内仏:源義家奉納)・御詠歌:遙るばると登りて拝む岩屋山 いつも絶えせぬ松風の音)。会津二十一地蔵霊場第2番札所(札所本尊:一ノ堰六地蔵尊)。山号:神護山。寺号:照谷寺。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来。

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