2020年3月13日金曜日

新山神社

三戸郡五戸町倉石又重7
新山神社は貞観二年(860)の創建と伝えられている。その後、元禄二年(1,689)盛岡藩士木村秀晴によって此の地に遷宮されました。尚現在の社殿は昭和六年(1,931)に造営したものです。
祭神:大国主命・素戔嗚命・少彦名命。蒼前大神・天満天神
境内由緒書より。原文はこちら。

御祭神 大国主命
例祭日 八月十八日
由 緒
 現在の御神殿は昭和十三年、拝殿は昭和六年にそれぞれ新築されている。御神殿の工事は完成まで三年の歳月を要している。天満宮は昭和四十八年社務所改築に伴い社務所内に移転している。夫婦神社は平成四年九月新築。境内の西角に二本の巨木あり。根元や枝など密着しており、縁結びの木として崇拝されている。この巨木の樹齢は数百年と言われている。
八月十八日の例大祭には倉石村無形文化財神楽舞、舘町保存会の奉納神楽舞が行われる。舘町鶏舞も一緒に大祭の行列に毎年参加する。
(青森県神社庁HPより)


http://www.komainu.org/aomori/sannnohegunn/sinnzann/sinzan.html

新郷村西越

新郷村西越日向は南部地方の南、奥羽山脈の山岳とそれに連なる丘陵台地に立地、馬淵川の支流浅水川の最上流部に位置する。川沿いに集落が散在し中心集落は日向である。
江戸期は盛岡藩領。五戸通に属していた。
慶応3年(1867)の給人は青山郡司・山田募ほか7名であった。村高は正保4年(1647)の「正保郷村帳」101石余、「貞享高辻帳」126石余、寛政年間(1789~1801)の「邦内郷村志」524石余(うち給地450石余)、「天保郷帳」324石余、慶応3年(1867)「五戸代官所惣高書上帳」では524石余。
寛政年間(1789~1801)の「邦内郷村志」では家数167・馬270を飼育。享和3年(1803)の仮名付帳では家数129、うち本村(日向)42とある。
西越村は畑地が多く、薪炭の生産を行い、馬の産地で良い馬が生産されていた。明治に入り産業は山林を利用した林業と、導入された酪農を主体とする農業であった。
茅葺き屋根の集落を見るために訪ねた。寄棟の茅葺き屋根の民家が多くあったが、多くがトタンで覆われていた。トタン覆いのない茅葺の家は、登録文化財の坂本家を除き殆どが無住の家で荒れるがままになっていたのが目につき、哀れな思いの探訪だった。

http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/singo-saigosi.html

五戸町天満


五戸町の中心部は奥羽山脈の東に発達した標高50~100m前後の台地の上に立地し、五戸川の中流域、八戸市街から西約15kmの所に位置する。
江戸期は盛岡藩領で、五戸通に属していた。
五戸村はほぼ現市街地が江戸期の町場で、上町と下町に分かれていた。上町は現在の下大町・上大町、下町は川原町である。
「慶安2年(1649)道筋帳」では、奥州街道が南の三戸から五戸を経て北上し七戸に続く。このように奥州街道の往還筋にあたっていたので、宿場としても栄えた。奥州街道は当初は南西の荒町から入り、上大町・下大町を経て川原町へと通じていたが、その後南の愛宕丁から入り、新丁・新町・下大町をへて川原町へ至った。
駅場は当初は川原町であったが、後には新町に置かれ旅客と物資の輸送で繁栄した。
盛岡(南部)藩最大の貿易港である野辺地と城下盛岡を繋ぐ場所に位置し、五戸通の物資の集散地として機能していた。
戦国時代からこの地を支配していた木村氏が、江戸初期からの五戸代官として当地に留まっていたが、延宝7年(1679)に盛岡に移住し、5戸村の五戸館には代官所が置かれ、五戸通36ヶ村を管轄するこの地域の政治の中心地であった。
町の中心街は江戸初期には下町(川原町)であって、高札場も設置され、2の日の三斎市が開催されていた。後期になると市は五戸川を隔てた上町(下大町・上大町)に移り、大町・新町には分限者の店舗が集中し繁栄を極めた。
「邦内郷村志」によると家数520とある。旅籠屋は江戸末期には6軒があった。
嘉永5年(1852)の吉田松陰の「東北遊日記」に「五戸地着の士は60名ばかり、おおむね録は甚だ微なり、村里に散在し、耕を以て生となす。……」とある。
今回の探訪で古くから繁栄していた、旧奥州街道沿い町を訪ねた。古い町並みとは言い難いが、僅かに伝統的な様式の家屋が点在している程度だった。

http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/gonohe-tenma.html

2020年3月12日木曜日

長野県の珍しい家紋

竜の爪


http://www.nihonkamon.com/nagano/chinmon_nagano.html

三本爪

龍の爪数にまつわる小話
中国はかつて東アジアの宗主国であり、周辺諸国に大きな影響を与えていました。

五本爪の龍が皇帝専用となった元・明・清の時代において朝鮮(韓国)や琉球(沖縄)など周辺諸国の王は中国への配慮から四本爪の龍しか使いませんでした。

ごく少数の韓国人は「韓国は四本爪の龍だが、日本のは三本爪なので格下である。」と言って優越感を抱いているとの話があります。

確かに日本には三本爪と四本爪の龍が混在しています。

しかし中国で五本爪の龍が確立された元・明・清の時代において、日本は元に攻められたり(元寇)、日本が朝鮮半島を侵略したり(文禄・慶長の役)して日本と中国は微妙な関係でした。民間の貿易交流はあっても政治や文化交流に関しては朝鮮半島の国のように属国化してなかったのです。

日本が中国から最も影響を受けたのは、王朝と緊密な交流をしていた隋や唐の時代であり、その当時の中国では三本爪の龍が基本でした。よって日本には遣隋使や遣唐使らによって伝わった昔の三本爪の龍が今でも残っていると考えた方が現実的です。

https://mitsutomi.jp/chinese-dragon-10638

龍は中国などの東アジア地域の古代神話で登場する神の化身であり瑞祥の象徴です。その歴史は紀元前5千年の中国仰韶文化まで遡り、1987年に河南省で数千年前の龍の像が発見されています。

中国の封建時代、龍は権力を表し皇帝の服飾品や器物にしばしば用いられました。龍の体は9つの動物からできており、角は鹿(しか)、耳は牛(うし)、頭は駱駝(らくだ)、目は兎(うさぎ)、鱗は鯉(こい)、爪は鷹(たか)、掌(たなごころ)は虎(とら)、腹は蜃(蛟:みずち)、項(うなじ)は蛇(へび)と言われています。

日本人は「りゅう」を龍または竜と書きますが、中国語では龙(発音:lóng)です。龙は龍を簡略化した文字(簡体字)であり、たいていの中国人は龍と書いても理解してくれます。一方、竜という字は、古代中国語であり現代の中国人は使いません。

繁体字が使われている台湾、香港、マカオや東南アジア諸国の華僑地域では、龙ではなく龍の字を使います。
龍と竜に違いはあるの?
日本語には「龍」と「竜」の二つの漢字がありますが、意味において違いはあるのでしょうか?

ネットで検索すると中国のりゅうが龍であり、西洋のりゅう(ドラゴン)は竜と書くという説明がありますが、根拠となる文献は見つかりませんでした。

広辞苑では「龍」は頭にかざりがあり、大きな口をあけ、からだをくねらせているへびの形を描いた象形文字。「竜」は、その省略形と解説されています。よって「龍」と「竜」は同じ生き物であると言う説が有力です。

ちなみに古代中国では雄のりゅうを「龍」、雌のりゅうを「竜」として分けていたとの話もあります。

龍とドラゴンの違いは?
中国の龍と似た生き物として、西洋にはドラゴンがいます。どちらも外見は似ていますが、ドラゴンと龍はまったく異なります。

西洋のドラゴンは、翼を持ち火を吐く悪魔の化身(モンスター)でありキリスト教では悪と罪の象徴です。

一方、中国の龍は、邪気を追い払い災害を避け、縁起の良い力をもった幸運をよぶ生き物であり、中国皇帝にとっては権威の象徴です。

ちなみに英語では、西洋のドラゴンと区別するため、中国の龍をチャイニーズドラゴン(Chinese dragon)と呼びます。

龍の爪(指)は何本あるの?
皆さんは龍の爪(指)は何本あるかご存知ですか?

龍の爪なんてどうでも良いと思うかもしれませんが、昔の中国人にとって爪の本数はとても重要な意味を持っていました。

実は古代の中国では龍の爪数について明確に定まってなく唐・宋の時代までは三本爪が基本でした。※前足が三本爪、後足が四本爪の場合もあります。

元代に入ると五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした「五爪二角」だけが本当の龍であると定義されます。延祐(えんゆう)元年(1314年)には五爪二角の龍文が皇帝専用の文様となり、以降中国では皇帝以外の者が五本爪の龍を使用することが禁止されます。

明・清の時代になると爪の本数が所有者の地位を意味するようになり、階級によって三本爪、四本爪、五本爪を明確に分けるようになりました。

爪の本数と階級
前述のとおり明・清の時代になると爪の本数が所有者の地位を意味するようになり、三本爪、四本爪、五本爪が使われます。爪の本数が多いほど地位が高いとされます。

五本爪の龍
最高位の王を表していました。五本爪が使えるのは皇帝だけであり、もし他の人が間違えて使うと政治犯として罰せらました。

四本爪の龍
皇族を表しており、親王や地方の王だけが使うことが出来ました。ちなみに四本爪の龍を刺繍した礼服は蟒袍 mǎnɡ páo(大蛇の長衣)といい、皇帝が着る龍袍 lóng páo(龍の長衣)とは区別して呼んでいました。もし親王や地方の王が五本爪の龍袍を着ると、それは皇帝に反旗を翻したと解釈されました。

三本爪の龍
役人の礼服などで使われていました。

龍の爪数の決まりは、服飾以外の芸術品にも適用されています。現存する明・清時代の芸術作品はほとんどが四本爪の龍です。皇帝に捧げた五本爪の龍は非常に希少であり博物館などでしか見れません。

ちなみに皇帝の住居であった北京の紫禁城(故宮)の九龍壁の龍は五本爪です。しかし山西省大同市の皇族屋敷(大同大王府)の九龍壁の龍は四本爪であり階級をわきまえています。

https://mitsutomi.jp/chinese-dragon-10638

秦 河勝

秦氏6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは始皇帝ともいう[3]。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。

弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東中央アジア東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した[4]。推古天皇18年(610年新羅の使節を迎える導者の任に土部菟と共に当る[5]。皇極天皇3年(644年駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している[6]
風姿花伝』第四に述べられている伝説によれば、摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した後、大避大明神となったとされている。そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。坂越・大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓がある。同じく赤穂市有年(うね)にも大避神社があるがこれは坂越の分家である。

惟宗光吉

秦河勝の末裔と伝わり、代々明法家・医家として名高い惟宗氏の出身。医師吉国の息子。権侍医・典薬権助・内蔵権頭・右京権大夫などを歴任。四位に至る。後宇多院の寵臣。「和漢才人」(惟宗氏系図)。法名は玄照。文和元年九月二十八日、七十九歳で卒去。
二条派有力歌人。続後拾遺集撰進に際し寄人をつとめる。また小倉実教撰『藤葉和歌集』の撰にも助力したらしい。二条家の歌会にしばしば参加したほか、元亨年間(1321-1324)頃の覚助法親王家五十首、元亨三年(1323)の亀山殿七百首などに出詠。また自邸でも歌会を催した(草庵集)。公順・道我らとの交流がうかがえる。家集『惟宗光吉集』がある。続千載集初出。勅撰入集は計十九首。



明けぬれば色ぞわかるる山のはの雲と花とのきぬぎぬの空(惟宗光吉集)

【通釈】夜が明けたので、ようやく見た目の区別がついたことだ――山の端にあって見分け難かった雲と花とが、あたかも恋人たちのように別れ別れになる空よ。

【補記】「きぬぎぬ」(後朝)は、共に一晩を過ごした男女が明け方に別れること。雲と花が山の端で別れる様を後朝に見立てたのである。

木寺の草庵にて、雨のふる日、花みたまひしときに、雨後花といふことを

雨はるるなごりの露やおもからし下枝しづえかずそふ山ざくらかな(惟宗光吉集)

【通釈】雨が上がった名残の露が重いらしい。下枝の数が増えたように見える桜だことよ。

【補記】露の重みで垂れた枝々を、下枝が増えたと見た。詞書の「木寺」は紀寺に同じ。奈良春日野の南にあった寺。「みたまひ」と敬語を用いているのは、家集の編者が光吉の子孫であったためと推測される。

【参考歌】大弐三位「新古今集」
わかれけむなごりの露もかわかぬにおきやそふらむ秋の夕露

野夕立

ふじのねははれゆく空にあらはれてすそ野にくだる夕立の雲(風雅1515)

【通釈】富士山を見渡せば、晴れてゆく空に次第に峰は現れて、一方、裾野の方へと下ってゆく夕立の雲。

【参考歌】後鳥羽院「最勝四天王院障子和歌」
富士の山同じ雪げの雲路よりすそ野を分けて夕立ぞする

左兵衛督直義卿日吉社奉納歌に、雪中望

みし秋の尾花の波にこえてけり真野の入江の雪のあけぼの(惟宗光吉集)

【通釈】秋に見た尾花の穂波は素晴らしかったが、それをさえ上まわっていることよ、真野の入江の雪降る曙の景色は。

【補記】足利直義勧進の奉納歌。真野は近江国の歌枕、琵琶湖西岸、尾花の名所。

【本歌】源俊頼「金葉集」
うづらなく真野の入江の浜風にをばななみよる秋の夕ぐれ

二条前大納言家日吉社奉納の百首に

いつしかとほのめかさばや初尾花たもとに露のかかるおもひを(惟宗光吉集)

【通釈】いつかはほのめかしたいものだ。「妹が手枕にせん」と詠われた初尾花の露が――いや実はあの人を思って流す涙が袂にかかる、これほどの思いを。

【補記】「初尾花」は伝人麿作の本歌(もとは万葉集巻十の作者不詳歌)により、新枕を暗示する。「かかる」は掛詞。

【本歌】人丸「新古今集」
さをしかのいるのの薄はつをばないつしか妹が手枕にせん

暁旅行を

夜をこめて山路はこえぬ有明の月より後の友やなからん(続千載833)

【通釈】夜を徹して山道を越えた。有明の月がずっと道連れになってくれたが、月が消えたあと、もう旅の友はいないだろうなあ。

【補記】「有明の月」は夜遅く現れ、明け方まで空に残る月。月を旅の道連れに譬える歌は多いが、「夜をこめて」「月より後の」と時間の推移を歌い込めて情趣が豊かになった。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mituyosi.html

惟宗広言


讃岐国(現、香川)の帰化氏族。渡来人秦(はた)氏のうち讃岐国を本拠地としていた一族が、京都に移り9世紀に惟宗氏を名乗るようになる。平安時代以降、名法律家や名医家を輩出、陰陽道を専門とする一族も現れた。惟宗忠久の母丹後局が嫁いだ惟宗広言(異説あり)や忠久の実父の説がある惟宗広言は近衛家に仕えた人物であり、中世以降も惟宗氏一族は朝廷に仕える人物としてしばしば見られる。

http://www.shuseikan.jp/word/origin03.html

円覚寺

「平家」の権力を経済的に支えていた宋交易は、1126年宋が、遊牧騎馬民族の女真族の金帝国により滅ぼされたことにより、一時中断となった。しかし、南に逃れた漢民族は、翌年の1127年南宋を復興した。この南宋には、遊牧騎馬民族を恐れて、漢訳仏教や律宗、禅宗の僧達が逃れてきた。それは、漢訳仏教の経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する思想が溢れているからだ。
南宋は、宋の海洋交易システムを継承していた。その南宋の海洋交易システムを、金帝国は狙っていた。南宋の商人も、日本列島の金や絹を求めて渡来した。1133年南宋船が来着すると、鳥羽上皇をバックに内昇殿を許された平忠盛は、院宣と称してその南宋船の貨物を奪い取ってしまった。
「平家」の横暴は、平忠盛の子平清盛にも引き継がれていた。1170年平清盛は、国際港として開発した福原の港で、後白河法皇に宋使を引見させていた。「平家」は、ビジネスのためには、法皇も利用するほどの傲慢さを示す存在となっていた。
この南宋貿易には、禅宗の僧が活躍していた。禅は、インドのヨーガとの関係が深いように、禅宗にはインドの肉食禁止のバラモン僧が多くいた。その禅宗は、唐で発明された。インドと唐とは南海交易で結ばれていたので、アラブ商人と供に、インド商人やヨーガの行者も多く唐に渡来していたからだ。
その禅宗は、禅を広めるためだけではなく、カフェインを多く含む茶を交易品として海外交易に力を入れていた。茶は多量に飲むと、カフェインのため覚醒作用を生じる。この喫茶の風習は、禅宗により、日本列島に持ち込まれた。但し、闘茶という産地当ての「博打」としてだ。博打は、役座の「しのぎ」として発明されたのではない。それは、神事として仏寺で、博打がおこなわれていた。だから、博打でのチップのことを「寺銭」(てらせん)というのは、そのためだ。
金帝国は、南宋を支配下に置くほどの軍事力がなかった。そのため、金帝国は、南宋からの金の歳貢を送られることで、平和を保っていた。しかし、1234年モンゴルの二代目オゴダイが金帝国を滅ぼすと、南宋の国内は混乱した。モンゴル軍は、圧倒的な軍事力を見せ付ける威圧により、戦わずして、隣国を支配下におさめていた。
南宋の李全などは、モンゴル軍に寝返っていたほど、日増しに、モンゴル軍の威圧により南宋の国内が混乱していった。海外交易をおこなっていた禅宗は、その亡命先を求めていた。
その頃、日本列島では、「清和源氏」三代が北条氏の陰謀により抹殺され、尼将軍となった「桓武平氏」の北条政子が、関東の武士を焚き付けて、1221年承久の乱を制して、西国に残存する反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を抹殺するために六波羅探題を設置した。その六波羅探題による「源氏狩り」を避けるために、「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の末裔は山奥に逃れ「平家落ち武者部落」で生き延び、或いは、騎馬民族文化が濃く残る東国を目指した。
その北条政子は、「平家」の厳島神社を接取して、「桓武平氏」の宮とした。このトリックにより、アラブ系海洋民族を祖とする「平家」は、「伊勢平氏」となって歴史的に消されてしまった。
「源氏」や「平氏」は天皇から賜った姓だ。だから、その氏を賜った天皇の名が記される。では、「平家」を「伊勢平氏」とするには、「伊勢天皇」が存在しなければならない。「伊勢平氏」が現れたとする鎌倉時代の歴史は、謎だらけなのだ。騎馬民族文化の濃い東国の史料が、桓武平氏の北条氏による史料や禅宗関連の史料以外に、ほとんどないのも、謎だ。
しかし、反仏教のアラブ系海洋民族の「平家」が、滅んだわけではない。「垣内」(かいと)の部落で賎民の「余部」として生き延び、戦国時代末期、その「平家」の子孫が、織田信長として登場するのだ。
そして、北条鎌倉幕府は、西国の律令制度に従わない東国の武士・百姓(鎌倉時代の百姓とは農耕民のことではない。)を治めるために、1232年御成敗式目を制定した。御成敗式目は、藤原不比等が発明した養老律令に従わない、騎馬民族文化の濃い東国の民を支配するための法律だ。東国の百姓文化が、西国と異なることが、御成敗式目の第42条から推測される。
純粋な農耕民族は、土地にしがみつく。それは、生きるための基盤が、土地にあるからだ。しかし、騎馬民族は違う。騎馬民族は、放牧のため、牧草を求めて、夏は北に、冬は南に移動する。土地に定着していては、騎馬民族は暮らせないのだ。その夏から冬にかけての移動時には、各地で交易をおこなう。云わば、騎馬民族は、遊行商業の民だ。
その東国の百姓の「逃亡した百姓の財産についての」御成敗式目の法律が、第42条だ。それによると、
「領内の百姓が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえて家財をうばうことをしてはならない。未納の年貢があるときは、その不足分のみを払わせること。また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。」
、とある。この御成敗式目の第42条の文章から、東国では、西国と異なり、百姓は東国を自由に移動していたことが推測される。
その東国では、養蚕が盛んだ。その東国で生産される絹は、南宋の商人が求めるものだ。
比叡山延暦寺は、仏教の顔と、国際交易商人の顔がある。延暦寺の僧は、南宋の禅宗の商人と交易をおこなっていた。それは、延暦寺の僧は、中国語に堪能だったからだ。九州には、南宋との交易のための支店まで設けていた。その南宋交易で得た宋銭を、高利で貴族に貸し付けることにより、日本列島中世での高利貸しの頂点に立った。
しかし、比叡山延暦寺の未開拓な市場があった。それが、東国だ。東国は、騎馬民族文化色が濃い。そのため、血の禁忌・肉食の禁止を説く漢訳仏教が受け入れられなかった。このことは、豚肉を常食する中国庶民に、漢訳仏教が受け入れられなかったことと共通する。
北条鎌倉幕府は、独立した機関ではなく、実態は、京都朝廷の東国支配の出先機関だ。それは、幕府の実質的運営は、京都の朝廷から派遣された中級貴族が執り行っていたからだ。そして、北条政子が1225年没すると、翌年には京都から藤原頼経を将軍として招いていたほどだ。
異民族の民を支配するには、武力よりも、思想武器のほうがよい。平安時代を支配した百済系桓武天皇家は、藤原氏が支配する南都仏教を廃して、唐から天台宗とシャンワン神(後の山王神)を招いて、西国の近畿一帯の先住民を思想的に支配した。しかし、東国では、律令制度の武器である仏教は受け入れられていなかった。
しかし、鎌倉時代でも、東国では天台宗の布教が成功していなかった。わずかに、亡命百済貴族末裔の「桓武平氏」の支配地だけだ。そこに、南宋の禅宗が、モンゴル帝国の攻撃を恐れて、鎌倉幕府に亡命を求めてきた。
これには布石があった。1199年父源頼朝の暗殺、1203年兄源頼家の幽閉による死が、北条氏の陰謀であることを知った源実朝は、鎌倉を脱出する目的で、1216年南宋の仏工陳和卿を引見し、渡宋を企て大船を建造させていたのだ。その3年後の1219年、源実朝は公暁により暗殺されたのも、その影には「桓武平氏」の北条氏がいたからだ。
民族差別思想を含んだ「法華経」を唯一の経典とする天台宗では、東国の民を思想支配できない。そこで目に付けたのが、経典を持たない禅宗だ。北条鎌倉幕府と比叡山延暦寺は、禅宗を日本列島に招いた。その地が、北陸と鎌倉と京都の洛外であったのは、意味があってのことだ。
北陸は、藤原日本史で創作した継体天皇の出身地だ。その北陸には、古墳時代には東北から延びる軍事・交易路としての東山道と同じに、北陸道が通る騎馬民族文化色が濃い地域だ。
6世紀半ば、この北陸に上陸した突厥騎馬軍団は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓のツバキ市を目指して進軍した。その史実を隠すために、藤原日本史では、北陸出身の継体天皇を発明した。更に、その北陸が、騎馬民族の地であることは、薬草による創薬業が盛んであることで分かる。そして、外科手術に長けた藤内医者は、騎馬民族を祖とする。
鎌倉は、平安時代まで、地獄谷と言われていたように葬送地だった。葬送地は、京都の加茂川東岸と同じに、被征服者の住む地だ。
平安時代初期、桓武天皇の皇子や皇女は、経済的事情で臣籍降下させられ「桓武平氏」となった。その「桓武平氏」も次男や三男は、京では暮らしが立たないため、律令軍の未開拓の地である東国に活路を見出した。その「桓武平氏」の末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、北条氏だ。その「桓武平氏」末裔が、騎馬民族文化色が濃い東国で支配したのは、常陸から千葉、鎌倉、伊豆にかけてだ。それ以外の地には、異民族の騎馬民族末裔が暮らしていた。
北条鎌倉幕府の地が、三面が山に囲まれ、人工的に掘削された曲がりくねった切通により護られていることには意味がある。それは、異民族である騎馬民族からの襲撃を撃退するためだ。その切通に沿って、砦のように円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の禅寺があるのは、何故か。中国禅宗は、禅だけを修行するだけではなく、少林拳という武術も鍛錬していた。禅宗は、鎌倉の地を護るためには、最適だった。その鎌倉の禅寺では、中国語が日常語だった。鎌倉の町では、ちんぷんかんぷん(珍文漢文)の言葉が、禅僧により話されていた。

北条政子

1180年から1266年まで記録した、幕府の記録書「吾妻鏡」があるではないか、といっても、それは、「信長公記」で織田信長と豊臣秀吉の歴史を調べることと同じで、史料としては価値が希薄だ。「吾妻鏡」は、関東の源氏抹殺を企む桓武平氏の北条氏の作文なのだ。
それに、鎌倉幕府の税制が分からないことからも、鎌倉時代が、藤原日本史の解くような時代でないことも示唆される。何故、鎌倉と北陸には、南宋から渡来した禅僧が、中国語で会話していたか。そして、北条鎌倉幕府の国際交易顧問が、中国語を話す禅僧だったのは何故だ。藤原日本史は、鎌倉時代の「歴史の何」を抹殺したのか。
鎌倉時代に始まる「平家落ち武者部落」とは何か。
「清和源氏」末裔の源頼朝、源頼家、源実朝の三代を謀殺した桓武平氏の北条氏が、北条政子を尼将軍とした背景には、東国は騎馬民族文化圏であったからだ。騎馬民族文化では、王であるテングリ(天子)が死去すると、その妻が部族を指揮する。西国の漢訳仏教文化圏では、女は男に生まれ変わってからでないと成仏できないと信じられていたほど、女性蔑視の文化であった。東国が、西国と同じ文化圏であったならば、源頼朝の妻政子は、尼将軍にはなれなかったはずだ。このことからも、鎌倉時代の東国と西国との民族・文化の違いが分かる。
1219年尼将軍となった北条政子は、1221年西国での源氏残党狩りの目的で、六波羅探題を設置した。その結果、日本列島各地に、「平家落ち武者部落」が発生した。しかし、そのアラブ系海洋民族末裔である「平家」の「落ち武者部落」は、沿岸地域ではなく、騎馬民族が暮らす山奥にあるのは何故だ。ここに、藤原日本史による鎌倉時代の歴史抹殺の謎を解明するためのヒントがある。
「源氏」の姓は、藤原薬子の反乱を平定した後、反藤原氏となった嵯峨天皇が、藤原氏の支配体制から独立して、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨天皇の皇子の臣籍降下に伴い賜った姓だ。
その源氏姓は、日本国独自の姓ではない。ユーラシア大陸に起こった騎馬民族の拓跋部が、443年北魏を興し、拓跋部の連合の族長の拓跋氏が、部族連合を纏めるために、部族の序列化のために、漢姓導入した時に、「元・みなもと」とした。その拓跋部の同族の禿髪氏(トクハツは、拓跋・タクバツ、突厥・トッケツと同じに、「チュルク」の漢音字)が、拓跋氏の「元」の臣下となった時、拓跋氏から禿髪氏が「源・みなもと」と姓を賜ったことから始まる。嵯峨天皇が採用した「源氏」とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の血筋であったのだ。
その「嵯峨源氏」は、一時は、平安王朝の廟堂を支配していたが、藤原氏の陰謀により、奈良時代に新羅系天武天皇の10皇子が抹殺されていったように、次々と廟堂から追放されていた。その「嵯峨源氏」のひとり、源綱は、母親の生地の渡辺津に移り、渡辺党を興していた。その渡辺津には、源平合戦の時、ユーラシアから渡来した、笹竜胆の紋章を付けた源義経の軍団が、「平家」が陣取る屋島に向けて出撃していた。
母親が藤原氏ではない醍醐天皇も、源姓を皇子達に賜った。それが、「醍醐源氏」だ。その「醍醐源氏」の左大臣源高明も、反藤原氏だった。その反藤原氏の源高明も、969年藤原氏の得意の戦術「密告」により、反藤原氏の菅原道真と同じに、太宰員外師に左遷された。その密告者が、「清和源氏」の祖となる、出自不詳の「満仲」だった。
源満仲は、この密告の報奨として藤原氏により叙位された。この満仲による源高明の密告の結果、反藤原氏の軍団「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」は、平安時代の廟堂から姿を消した。それに対して、「清和源氏」は、藤原氏の傭兵軍となり、奥州藤原王国を築くために活躍した。
では、ユーラシアの騎馬民族の流れにある「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔は、日本列島の何処に消えたのか。
藤原日本史では、平安時代の貴族仏教に替わり、鎌倉時代になると庶民のための、浄土宗、時宗、真宗、日蓮宗などの鎌倉新仏教が興ったとされる。しかし、東国の栃木県日光の二荒(ふたら→ニッコウ→日光)や長野県信州の諏訪(スワ←トルファン)のモリ(神社)では、雨乞いの為に神仏に祈っても効果のない時、鹿(牛)の生首が滝壺に放り込まれる呪術が復活していた。この鹿の生首儀式の意味は何か。
4世紀に大和朝廷が興ったとされる藤原日本史で、6世紀から始まる騎馬民族の日本列島史を消したつもりでも、律令制度が行き届いていない地方、東国では、鎌倉時代になっても古墳時代からのミトラ教の儀式の片鱗が生き続けていた。
牛の生首を犠牲とする儀式は、唐帝国から渡来した漢訳仏教布教のため、奈良時代の741年、平安時代の804年に牛屠殺の禁止令が王権から発せられていた。それは、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽の化身と信じられていたため、太陽が冬至に死に、そして、再生することから、冬至はミトラ教の神が復活再生する聖なる日と定められた。その祭日に、太陽神に捧げるため牡牛が犠牲となる。やがて、冬至に限らず、旱魃の雨乞いの為に、太陽神ミトラに願うために、牡牛の犠牲が捧げられるようになった。しかし、平安時代には、西国では、仏教勢力の地となってしまっていたため、比叡山を祭祀場としていたミトラ神は祟り神の魔多羅神として貶められ、ミトラ教の儀式はすたれてしまっていた。では、西国には、ミトラ教が存在していたとする痕跡はないのか。
新興宗教が、土着宗教を歴史的に消す例は、ローマ・キリスト教がミトラ教を消したことで示すことが出来る。392年ローマ帝国は、ユダヤ教ヨシュア派を国教として、ローマ・キリスト教とした。その目的は、ローマ帝国軍がミトラ教の神を軍神として信仰していたからだ。ミトラ軍神は、太陽神のため、万人を分け隔てなく祝福する。
ローマ帝国の独裁を目論む者には、ミトラ神は不適切だ。そのため、国教となったローマ・キリスト教は、ミトラ教の地下神殿を破壊して、その上に、キリスト教会を建設した。そして、ミトラ教の儀式をローマ・キリスト教に取り込んで、ミトラ教の痕跡を歴史的に消してしまった。
例えば、キリスト教の「クリスマスの日」は、ミトラ教の太陽神再生の日(12月25日)だ。キリスト教の十字架は、ミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロスだ。キリスト教の儀式である、種無しパンと赤ぶど酒は、ミトラ教での屠った牡牛の生肉を食べ、そして、生血を飲む儀式をアレンジしたものだ。キリスト教の儀式から、ミトラ教の儀式を探すのはそれほど困難ではないように、新興宗教(キリスト教)は、土着宗教(ミトラ教)の儀式をコピーすることで、土着宗教を歴史的に抹殺できるのだ。
では、日本列島の中世の西国では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ教をどのようにして歴史的に消したのか。
花郎騎士団の「花」とは、ミトラの借字だ。花郎騎士団は、軍神ミトラを信仰するローマ帝国軍の流れにあった。その花郎騎士団は、古墳時代、河内湾のローラン(浪速→難波)、奈良盆地のイカルガ、京都のウズマサを拠点としていた。
その根拠として、イカルガから発掘された、法隆寺境内の遺構は、南北軸から西に約20度傾いていた。そして、京都の蜂丘寺の遺構も同様だった。この傾きは、仏教の建築基準の南北軸にはあわない。その傾きは、冬至の太陽が射る角度だ。冬至は、ミトラ教の太陽神が復活する聖なる日だ。
奈良盆地の花郎騎士団の砦は、架空の人物である聖徳太子が建立したとする法隆寺により、そして、京都のミトラ教の蜂丘寺は、広隆寺として仏寺に改竄され、歴史的に消されてしまった。しかし、土着宗教を完全に消すことは、不可能のようだ。どこかに、ボロが出る。
その広隆寺の祭りに「牛祭り」がある。その祭りが不思議なのだ。夕闇迫る頃、牛に乗った魔多羅神が、意味不明の経文を小声で読み続け、突然、正面の建物に駆け込んで祭りが終わるのだ。
この広隆寺の牛祭りの神である魔多羅神は、円仁という僧が、838年最後の第15回遣唐使の短期留学僧の請益僧として遣唐使船で渡唐し、9年間不法滞在して仏法経典多数を、847年新羅商船に乗って日本国持ち帰ったとき、一緒に連れてきたものだ、との説明だ。つまり、魔多羅神は、比叡山のミトラ神が祖ではなく、中国の蕃神との説明だ。
この円仁の唐滞在中、845年会昌の仏教弾圧があった。その結果、漢訳仏教僧は、国外追放となった。そして、漢訳仏教僧に化けていたバラモン僧も、国外追放となった。漢訳仏教は、その民族差別思想の偏りにより、騎馬民族色が強い権力者から弾圧を受けることが、歴史上多い。源氏の祖、拓跋氏の北魏の時代、446年から452年にかけて、仏教弾圧があった。
では、その円仁とは、何者か。円仁は、後に、慈覚大師と尊称されたように、最澄が果たせなかった密教導入を完成させた。円仁は、唐に渡り不法滞在中に密教や浄土教信仰などにかかわる経典や法具を持ち帰り、天台宗を密教をも包含する総合的な仏教に改造した。つまり、円仁がいなければ、天台宗の中に密教が深く入り込むことはなかった。
ニッポン仏教は、不思議な宗教だ。仏教とは、釈尊の教えを説く宗教のはずだ。しかし、ニッポン仏教は、釈尊の教えとは異質な宗教となってしまっている。
釈尊の教えの根本は、階級差別のバラモン教思想の輪廻から逃れるため、人間をやめ、非人となることだ。そのためには、一切の経済活動をやめ、乞食として生きることを説いた。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、現世利益、極楽浄土などの思想を、仏僧が説いているのだ。
その円仁が比叡山に導入した密教とは、現世利益の欲望獲得のための技法を説く、「秘密宗教」のことだ。その密教技法とは、拝火教のゾロアスター儀式から導入した護摩壇での大麻の焚き火、意味不明のアラム語の呪文、意思を伝える手印、インドのバラモン教やヒンズー教の鬼神を仏の守護神として描いた武器を携帯するおどろおどろしい神々の絵、そのような演出効果でのパホーマンスの最後に、マルタクロスの十字を切って密教の儀式が完結する。それは、インドのバラモン教やヒンズー教、ゾロアスター教、ミトラ教、道教、仏教など、各宗派の欲望獲得のための技法を基に、唐で発明されたものだ。
その密教が、「正統仏教僧?」から嫌われていることは、天台宗以外は宗教ではないとする「四箇格言」の「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と唱える日蓮が、比叡山に密教を導入した円仁を批判していることでも分かる。
では、円仁が、広隆寺の牛祭りで、歴史的に消そうとしたのは「何」か。
聖徳太子信仰は、鎌倉時代に一気に花開いた。その前提に、平安時代に「タイシ信仰」を画策した者がいた。平安時代の「タイシ信仰」の対象は、円仁の「慈覚ダイシ」と、空海の「弘法タイシ」だった。それは、供に、欲望成就の技術である「密教」を、日本列島にもたらしたからだ。このふたりの「タイシ」に、もうひとりが加わる。それが、「聖徳太子」だ。
その平安時代に発明された「聖徳太子」は、ミトラ教のミトラ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の歴史を消すために発明された架空の人物だ。藤原日本史では、603年聖徳太子は、秦河勝に命じて、仏像を祀るために「広隆寺」を建立させた、とする。その仏像の名は、弥勒菩薩。
622年死去したとする聖徳太子が、架空の人物であることは、「隋書」が証明する。608年隋使裴世清は、明日香ヤマトで、藤原日本史が説くように女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見していたからだ。
昔の歴史教科書には、その「アルカイック・スマイル」と説明された弥勒菩薩の像が掲載されていた。しかし、そのスマイル像は、ボロボロのアカマツ材で造られた像を、明治時代に改竄修復されたものだ。今では、その弥勒菩薩の元が、仏像であったのか知ることは出来ない。
そもそも、紀元前486年に没した釈尊は、バラモン教の偶像崇拝思想に染まることになる「仏像」の製作を遺言で禁止していたのだ。しかし、紀元一世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった国際交易都市ガンダーラで作られた最初の仏像は、今に伝わる女の柔肌を持ったふくよかな仏像ではなく、ギリシャ形式の写実的なガリガリのブッタ像だった。ギリシャ仏像は、中国で不老不死を説く道教の神仙思想に対抗して、永遠の生を約束する女の肌の仏像へと変身していた。
その弥勒菩薩の「弥勒」とは、梵語で「マイトレーヤ」だ。光の神を表す「マイトレーヤ」は、その元は、太陽神「ミトラ」だ。
では、そのミトラ神の歴史を消した、聖徳太子建立七寺のひとつである広隆寺は、その後、どうなったのか。それは、古墳時代の奈良盆地にあったイカルガのミトラ教施設の歴史を消した、607年創建の法隆寺が、670年に炎上したように、603年創建の広隆寺(蜂丘寺)は、818年に全焼し、創建当時の建物か残ってはいない。かくして、古墳時代には西国で祀られていたミトラ教は、円仁が始めた広隆寺の牛祭りの魔多羅神により、歴史的に消されてしまった。
仏教支配の西国で、ミトラ教の太陽の化身である牡牛を祀る儀式を、歴史的に消した祭りが、広隆寺の牛祭りの他にある。それは、祇園会だ。今日では、祇園祭と言われている。その祇園会には、牛頭天皇が出演していた。今日では、牛頭天皇を牛頭大王としているが、何故、牛頭が祇園会に登場するのか。
古代日本列島の物流は、中国で「南船北馬」と云われていたように、唐文化のコピーであった平安時代の日本列島の西国では「船」を、東国では「馬」により物流を賄っていた。
その西国での祭りの道具に、山車がある。その山車のルーツは、船だ。京都の祇園祭りの山車は船が祖だ。当然、その祭りの主役は、農耕民族などではなく、海洋民族だ。
京都の都を南北に流れる加茂川の死体が流れ着く東岸に、海洋民族が居住し始めたのは、907年唐帝国が滅び、分裂国家を、960年に統一した宋が興ってからだ。藤原日本史では、数々の陰謀により、摂関政治を発明した藤原氏が、平安朝廷を支配しようとしていた頃だ。
960年五代十国と言われた中国の分裂時代を、宋が統一した。宋は、北魏から唐帝国までの騎馬民族支配の国ではなく、漢民族支配の国だ。宋軍団は歩兵120万と言えども、隣国の騎馬民族国契丹(遼)の騎馬軍団とは太刀打ちできない。そこで、軍事力に劣る宋は、騎馬民族国家の契丹に、金と絹を毎年献納することで、友好関係を結ぶことを考えた。
宋が、その金・絹を海外に求めた結果により、日宋私貿易が興った。金と絹を欲しがる宋は、その供給先のひとつに日本列島を選んだ。それは、古来から、日本列島の部族国家から中国の皇帝に、金や絹を朝貢していたからだ。この金・絹交易で潤ったのは、陸奥国を奈良時代から支配下に置いていた奥州藤原氏だけではなかった。
唐帝国が健在だった頃、陸路のシルクロードにより、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた。しかし、571年サラセン帝国が興ると、その勢いは瞬く間に東西に及んだ。その結果、9世紀中頃には陸路のシルクロードは、安全な交易路ではなくなってしまった。
その陸路のシルクロードに替わって、ヨーロッパとの国際交易は、南インドを中継港として、海路の交易が盛んになった。アラビアンナイトの千夜一夜物語の素材は、そのアラブから唐への海路を行き来した船員がもたらしたものだ。唐帝国末期には、長安や洛陽には、アラブ海洋商人達が闊歩していた。
宋は、唐帝国の海洋交易システムを継承していた。そこで、宋は、銅を金や絹に換える方法を考え出した。それが、宋銭だ。宋は、アラブ商人や日本列島に居住する商人に対して、宋銭による交易を始めた。
銭や為替は、騎馬民族が発明したものだ。広域交易をするには、現物交換では効率が悪い。そこで、物品と等価を保証する「銭」を発明した。更に、銭も量が増えれば運ぶのに困難だ。そこで、信用「札」としての為替を考えた。
日本列島は、西国と東国とでは、民族も異なれば文化も異なる。西国は、弥生時代から水田稲作が盛んだが、東国は直播だった。西国は、弥生からの農耕民が多く住むが、東国は水田稲作ではない、畠作の民族が住んでいた。租庸調の律令税制でも、西国は米を納めていたが、東国では絹・鉄・特産品などだ。
農耕民族は、物々交換が主で、銭による交易には慣れていない。西国では、987年検非違使をして銭貨通用を強制していたほどだ。平安時代の西国では、明らかに銭を嫌っていたのだ。平安末期、その銭を京都に持ち込んだ者がいた。それは、東国の伊勢湾を支配する、アラブ海洋交易民族だ。アラブ海洋交易商人は、宋との交易で得た宋銭を、日本列島に持ち込み、金や絹を買い漁った。
日本列島の経済を支配するには、京都を支配することだ。それは、平安時代から、京都は物流の拠点だからだ。それは、比叡山坂本の馬借や清水寺の車借などにより、近隣の物資が京都に運び込まれていたからだ。
アラブ海洋商人が、京都で住める場所は、ひとつしかない。それは、加茂川の中洲だ。中世の加茂川の中洲を想像するには、現在の加茂川のイメージを消すことだ。中世の加茂川の中洲は、想像する以上に広かった。
加茂川は、元々は、京都のど真ん中を流れていた。それを、高度土木技術を持つ秦氏が、高野川に合流させたのだ。その結果、小雨でも、加茂川下流は洪水を起こした。だから、その中州に住む住人は、唯のひとではなかった。それは、京都を支配する民族と異なる、異民族の河原者だ。
西国と東国とでは、民族が異なるとの根拠のひとつに、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)がある。それによると、日本人は、長頭、中頭、短頭の三群に分けることが出来る。騎馬文化の東国では、長頭が多い。仏教文化の西国では、短頭が多い。南方文化の九州では、中頭が多い。その短頭の比率が最も多いのが、西国でも、近畿だ。
しかし、短頭が多い近畿に、東国に多い長頭の比率が多い地区がある。その地区とは、被差別部落があった地区だ。京都、大阪、兵庫、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占める。これに続くのが、岡山、広島、福岡、愛媛、高知だ。このことは、何を意味するのか。ひとつの考えとして、秦氏の旧支配地が考えられる。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。
日本列島の隣国で短頭が多いのは、朝鮮半島だ。近畿に短頭の比率が多いのは、朝鮮半島からの渡来民が考えられる。朝鮮半島からの大量移民の実態は、663年百済国滅亡時期と、そして、794年亡命百済貴族末裔である桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国を乗っ取り、平安京とした時期だ。桓武天皇は、中国山東半島で亡命生活をしていた百済民を、京都に大量移住させた。その結果、秦氏末裔は、山奥の僻地や河原に住むことになった。しかし、平安時代に惟宋氏と変氏した秦氏は、水田稲作の農耕民族ではなく、各種技術者集団だったので、農耕できる土地でなくても暮らす術を知っていた。そこが、中州の河原でも。
平安時代末期、河原者が住むその加茂川の中洲に、アラブ海洋交易商人が現れ、仏教文化の京都で、インドの仏教寺院の「ギオン」にちなんで、そのケガレ地を「ギオン」と名付けた。
古来から中州は、ひとが住めぬ荒地なのではなく、各種物品の交易地でもあったのだ。古代の交易は、神の見守る広場(庭)でおこなわれていた。紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、太陽神ミトラは、異民族の交易を見守る「交易神」でもあった。
平安末期の加茂川の中洲も、交易をおこなう人々で人口密度が高かった。そこにアラブの商人が、大量の宋銭を持ち込んだため、加茂川の中洲は、大変な活況を呈していた。藤原日本史が述べるように、賎民として貶められた河原者は、ミジメな存在などではなかった。祇園会の山鉾のペルシャ絨毯で飾った山車を出すのには、相当の資金がいる。その資金を提供した「有徳人」の多くが、中州の交易で財を成した「賎民」だった。
日本各地にあるギオンでは、今でも祭りに山車がでるのは、その地名を付けた民族が、アラブからインドを経由して渡来した海洋民族だったからだ。
藤原日本史では、その海洋民族が名付けた「ギオン」を、「祇園」として、その渡来海洋民族の歴史を消したつもりだ。しかし、ギオン祭りを調べると、不思議なことが現れる。
祇園社の歴史は、11世紀から始まるとする。その祇園社の正式名は、感神院祇園社と言うそうだ。その感神院祇園社は、寺院かつ神社(モリ)だ。つまり、感神院祇園社は神仏習合なのだ。その加茂川東岸にある感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは何故だ。
鳥居は、神の地を印すものではない。鳥居は、「ケガレ」の結界地を示すものだ。つまり、鳥居の中は、ケガレている、禁足地なのだ。感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは、加茂川の東岸が「ケガレ」地であったからだ。
神を祀る中臣神道も仏を祀る仏教も、血の禁忌であるはずだ。つまり、仏教や神道思想では、血は「ケガレ」だ。それなのに、何故、僧侶が主催するとする祇園会では、牛頭が天皇として祀られるのか。
鹿頭は、東国の諏訪や二荒の神社(モリ)では、神の祭壇に掲げられる。それは、その地が、騎馬民族の地であるからだ。日本民族は単一で、騎馬民族や海洋民族など存在しないで、農耕民族であるとする藤原日本史では、その牛頭天皇が出演する祇園会を、疫病払いの祭りとする。
しかし、その祭りの説明が「ウソ」であることは、祇園会の日に、京都の天皇や貴族は、神輿方違(みこしたがえ)といって、京都の街から避難していたのだ。ありがたい神や仏による厄払いが祭りの趣旨であるのならば、この天皇や貴族の行動を、何と説明するのか。
平安時代末期、感神院祇園社は、比叡山延暦寺の支配下にあったが、それ以前は、興福寺の支配下にあった。延暦寺は、亡命百済貴族の寺だが、興福寺は藤原氏の寺だ。感神院祇園社は、神官ではなく、僧侶が神事をおこなう寺であり神社(もり)であった。しかし、長官代理の執行家は、古墳時代の豪族の紀氏の子孫だ。
紀氏は、4世紀に日本列島に突然現れた巨大古墳と大いに関係がある民族だ。紀氏の拠点の和歌山県を流れる紀ノ川河口には、古墳が多数あり、その古墳のひとつから、朝鮮半島南部から発掘されたと同型の馬冑が出土している。紀氏は、馬とも関係が深かった。
だからと言って、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州に上陸して、東北に移動したわけではない。東北の騎馬民族は、ユーラシア大陸から、構造船により、日本列島の北陸や東北に直接渡来したのだ。5世紀からの古墳に、北は岩手県南部から南は九州まで、実戦用の馬具が埋葬されているのは、朝鮮半島からだけではなく、ユーラシア大陸から日本列島各地に、騎馬軍団が渡来していたことが示唆される。
実戦用の馬冑が、紀ノ川河口の古墳と関東の古墳からしか出土していないのは、ローマ帝国軍でも、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬騎士の軍団比率は、それほど高くはないと考えられるからだ。重騎馬騎士は、云わば、実戦の兵士ではなく、敵を威圧する存在だ。
藤原日本史では、527年新羅と結んだ筑紫国造の磐井氏が反乱を起こしたと述べているが、その磐井氏の墓と言われているものには、石人・石馬が設置されている。3世紀の日本列島には、馬も牛もいなかったことは、中国の史料に記してある。では、その馬や牛は、自ら、玄界灘を泳いで日本列島に来たのか。
平安時代になると、平安貴族は、馬ではなく、牛車に乗って移動していた。聖武天皇の遺品を納めた、奈良の正倉院には、聖武天皇が使用したと考えられる4組の馬具があるのは、奈良時代までは、貴族だけではなく、天皇も乗馬の風習を持っていたことが示唆される。
感神院祇園社の祭事の執行が、馬と関係が深かった紀氏の子孫がおこなっていた意味は、何なのだろう。それは、祇園会の祭りの趣旨と関係があるようだ。
平安時代、疫病は祟りと信じられていた。祟りとは、理不尽な理由で死の旅にたった者が、その原因を作った者に、怨霊となって仕返しをすることだ。そのために、祟られる者は、祟りを封じるために、その怨霊の封印施設を造った。それが、社(モリ)・神社(モリ)だ。古代では、「宮」と異なり、社や神社(モリ)は、神を祀る施設などではなかった。
藤原氏は、出雲民族末裔の菅原道真を大宰府に左遷して抹殺したため、菅原道真の怨霊を恐れ、その菅原道真の怨霊を封じるために北野社を建立した。平安時代の菅原道真は、学問の神様などではなく、平安貴族を悩ます怨霊であったのだ。
怨霊は、同族の者により鎮められる、と信じられていたため、怨霊封じの祭事の執行は、怨霊の主と同じ民族がおこなっていた。紀氏は、秦氏と同族で、その歴史的流れは、朝鮮半島南部、辰韓に求められる。その辰韓の地に、356年奈勿王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅が興った。新羅の国では、漢語を理解できなかったので、中国の皇帝との謁見では、百済の通訳を雇っていたほどだ。朝鮮半島で暮らす百済民と新羅民とは、民族も異なれば、文化も異なっていた。
日本列島でも、奈良時代を支配していた民族と、平安時代を支配していた民族とは、異なっていたようだ。それは、古墳時代から奈良時代初期まで詠まれていた「万葉歌」が、平安貴族には訓読できず、そのため理解できなかったからだ。
日本列島の住民が、単一民族であるとすれば、百年や二百年前の「ことば」が理解できないはずはない。このことから、平安時代の貴族は、奈良時代の貴族の末裔ではないことが示唆される。平安時代の貴族の多くは、亡命百済貴族末裔だ。それに対して、奈良時代の貴族は、新羅系天武天皇の末裔だ。
ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、漢語ではなく、漢字アルフアベットで、ヒャンチャル(郷札)という、漢字を表音文字として使っていた。つまり、万葉仮名だ。その古墳時代から奈良時代にかけての万葉歌の歌が読み解かれたのは、鎌倉時代になってからで、学僧である仙覚という人物がすべての歌の訓読を完成した。
奈良時代の万葉歌を理解できない平安王朝の実態は、百済王朝だった。この平安時代の百済王朝により、「日本書記」の仏教伝来552年を改竄するために、538年百済仏教伝来物語が創作された。実際の、組織的仏教伝来は、奈良時代だった。
その百済仏教伝来宣伝キャラクターが、庶民に普及していた「太子信仰」(慈覚大師・弘法大師)を利用した「聖徳太子」というわけだ。だから、奈良時代の史料には、「聖徳太子」の記述がない。そのための「言い訳」として、「聖徳太子」の生前が、「厩戸皇子」だったとしているのだ。
京都の地は、奈良時代までは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だった。比叡山も、秦氏の祭祀場だった。奈良盆地の三笠山の秦氏の祭祀場が、奈良時代に藤原氏により春日社が建立されたことで、その秦氏が祀る太陽神ミトラの歴史が消されたように、亡命百済貴族は、平安時代の804年牛屠殺を禁じ、比叡山のミトラ神を宿神である魔多羅神として、その歴史を消してしまった。
しかし、加茂川の河原に住む民族は、その民族宗教の歴史の残像を後世に伝えるため、牛頭天皇を発明した。牛の頭が、祭りの主役であることは、不思議なことだ。しかし、ミトラ教の儀式を知る者には、京都の地は、亡命百済貴族が支配する前、秦氏の支配地であったことは、祇園会の祭事を執行する者が「牛頭を祀る」民族であったことにより理解される。
京都の加茂川の中洲で、交易により財を成すアラブ商人の末裔は、宋銭や買いあさった土地を白河上皇に寄進したため、次の鳥羽上皇の時代、そのアラブ商人の息子は、1132年内昇殿を許されるほど出世した。そのアラブ商人の末裔は、百済系「桓武平氏」に対抗して、一族を「平家」と名乗っていた。
この「平家」による宋交易を苦々しく思っていたのは、南インドから渡来していた藤原氏だけではない。藤原氏は、唐帝国が日本列島を漢訳仏教を思想武器として経営を始めた時期に、南インドを渡来元として現れ、南九州坊津を母港とする祭祀・交易民族だ。藤原氏は、その氏名を「籐氏」と言っていたように、唐帝国と密接な関係を持っていた。630年から始まる遣唐使船の運営は、その藤原氏が関係していた。
その遣唐使の記録が、奈良時代の歴史をカバーする、797年完成の「続日本紀」に完全に記載されていないのは、何故だ。そして、新羅商船は、渡唐で難破することが少ないのに、基本的には四隻で渡唐する遣唐使船は、何故、何隻かは難破するのか。そして、ベトナム沖に漂流した遣唐使船で、藤原氏の関係者だけ生き残って、唐に舞い戻ることが出来たのは何故か。それは、藤原氏は、古来から南インドと九州坊津との南海路を開発していたからだ。日本国の国史といわれる「続日本紀」にその詳しい記述が記録されていない遣唐使船の謎は、謎の多い藤原氏の歴史を知ることにより解明できるはずだ。
藤原氏が、平安中期から台頭したのは、907年に唐帝国が滅亡したからだ。東アジアの警察国家としての唐帝国の国力の衰えと比例して、朝廷での藤原氏の勢力が増大していた。
平安中期になると、唐帝国の軍事力の後ろ盾に護られていた百済系天皇家の土地は、廟堂を支配する藤原氏の策略で、荘園という私有地に侵食されていった。そして、天皇家の繁栄を祈る寺社も、その僧兵の軍事力を背景に、寺社領という私有地を拡大していた。
そこに、宋の商人だけではなく、アラブの商人も、金と絹を求めて日本列島に渡来した。中国との交易は、古来から藤原氏だけではなく、比叡山延暦寺の僧もおこなっていたのだ。延暦寺の僧源信が著わした「往生要集」も、その死に至る描写の生々しさの故、宋にも輸出されていた。
漢訳仏教の元である一世紀に発明された大乗仏教は、ガンダーラの国際交易商人と供に、中国に伝わった。仏教の施設の「寺」(ジ)の前身は、シルクロードから中国に渡来した国際交易商人や僧を取り調べるために造られた建物のことだ。
一般的に、「寺」と言うと、墓が隣接する仏教の施設と思われているようだが、本来は、入国関税事務所のイメージだ。やがて、その入国関税事務所が処理できないほどの国際交易商人や僧が渡来すると、その入国関税事務所に宿泊施設が伴なった。その「寺」(ジ)は、やがて、国際交易商人と渡来僧の宿泊施設となっていった。
国際交易商人と僧は、共生できる。それは、目的が一緒だからだ。未知の「市場」を開拓するため、そのふたりは、「寺」という「砦」を築いて、異民族の国に侵攻していく。
仏教の「寺」の建築物が、堅牢な土塀に囲まれて、更に、深堀を廻らせ、屋根を瓦で被い、境内に大きな鐘を設置し、高層の塔を建てるのは、何故か。平和を祈る仏像を安置するだけであるならば、神社(モリ)のように、木の皮で屋根を葺き、簡単な木の塀でよさそうなものだ。それは、「寺」は、仏像を安置するだけの建物ではなかったからだ。
戦国時代の城は、石組みの上に複数の仏閣を乗せて造られたものだ。瓦は、火矢からの防火となる。大きな鐘は、警報装置だ。高層の塔は、見張り台となる。見方を変えれは、「寺」は、砦なのだ。
中世のその砦には、勿論、国際交易商人がいた。比叡山にも、当然いた。国際交易商人は、中国との交易でもたらした珍しい物品を、寺の門前で販売した。それが、市だ。交易は、神(仏)の見守る処でおこなわれる。その門前の市と対抗するのが、被支配者の河原者が住む中洲の交易地だ。
平安中期以降、907年唐帝国が滅亡したため、京都の警察力も衰えていた。そこで復活登場したのが、賎民と貶められていた、タタラ製鉄、石切り、運河掘削などの高度技術や芸を持った秦氏末裔だ。藤原日本史では、賎民の芸能民の登場とするが、その高度の技術を持つ民族の歴史を語らないし、語れない。
その芸能民の歴史を語れば、騎馬民族が渡来した古墳時代を、仏教文化黎明期の飛鳥時代とし、北九州にあった秦王国の歴史を、奈良盆地の歴史にすり替え、そして、日本国の天皇の始めは672年新羅系天武天皇からなのに、紀元前660年即位の神武天皇から始まる架空の天皇物語を創作していたことが「バレ」てしまうからだ。紀元前660年は、日本列島では、縄文末期だ。そして、その頃の奈良盆地は、一雨降れば、湖となっていた。
その平安時代中期に現れた芸能民の祖とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥民族と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。奈良時代を支配した藤原氏や平安時代を支配した亡命百済貴族が、日本列島の王権の簒奪者であり、賎民と言われた芸能民の祖が、実は、日本列島の王権の流れにあったのだ。だから、平安時代の芸能民は、平安貴族と対等以上の存在だった。その証拠に、芸能民の遊女である「うかれめ」が「局」となり、天皇の子を宿し、その子が、高僧となっていたことは、平安時代末期では珍しいことではなかった。
神社(モリ)は、支配者の王権からみれば、「ケガレ地」だ。しかし、被支配者からみれば、民族の氏神を祀った聖地だ。その「モリ」の語源は、古代朝鮮語で、神が住む処だ。
平安時代初期、その「モリ」では、角のある冑と派手な鎧で着飾った蝦夷末裔が、蕨手刀から改良した片刃の刀により武芸をおこない、怨霊(前政権の神)を鎮めていた。
平安時代初期、まだ唐帝国の警察力が日本列島の西国で健在だったので、武芸者の剣舞を見るために、山背国を追われた被支配者末裔は、聖地の「モリ」に集まることが出来なかった。しかし、唐帝国の警察力が日本列島に存在しない中世では、「モリ」は被支配者の集会所となり、やがて、バザールが開かれる処となっていった。バザールは、広域で暮らす騎馬民族が日をきめて、交易のために集まる祭りだ。この騎馬民族文化のバザールの歴史的流れに、役座が仕切る神社(じんじゃ・明治革命後の呼び名)の祭りの屋台がある。明治革命後、1868年神仏分離令により、怨霊を封じ込める神社(もり)は、氏神を祀る神社(じんじゃ)となった。その神社の祭りを仕切る役座の語源は、鎌倉時代、同業者が集まる「座」での交易を仕切る「顔役」のことだ。
後白河天皇の時代になると、京都の経済を仕切るまでになっていた「平家」は、藤原氏と寺社勢力の交易を脅かす存在となっていた。藤原氏は、その「平家」と、藤原氏の傭兵である「清和源氏」を戦わせることで、「平家」勢力の抹殺を謀った。
それが、1156年保元の乱と、1159年平治の乱だ。「平家」も「清和源氏」もその血族が互いに敵味方になった不可思議な戦いで、藤原氏の意に反して、平清盛に勢力が集中してしまった。武力の頂点に立った平清盛は、更に宋との交易を盛んにするため、福原に国際港を建設した。古来から南海交易をおこなっていた藤原氏は、その「平家」の宋交易独占を許すわけにはいかなかった。
ここでひとつの疑問が湧く。それは、三代先に、死体が流れ着く髑髏ヶ原と呼ばれていたケガレ地の加茂川東岸に勢力を張っていたアラブ系海洋民族の子孫である平清盛が、1167年太政大臣となり、廟堂を支配したことを誰も非難しなかったのか、と言うことだ。
祇園会を「ケガレ祭り」として避ける天皇や平安貴族が、その祇園に居を構えている「平家」の棟梁に対して、嫌悪の態度を示さなかったほど、平安貴族は寛容だったのか。貴族から、賎民の成り上がり者との避難をかわすために、平清盛側は、「平清盛は白河天皇の落胤」との噂を流し、更に、「清盛公のかぶら」を市中に放ち、平清盛の悪口を言った者の家に押しかけ、その家を打ち壊して、批判者の口を封じていた。この「清盛公のかぶら」の活躍により、誰も、平清盛の陰口を言うものがいなくなった。
この「清盛公のかぶら」作戦は、明治天皇誕生にも使われた。イギリス東インド会社のエージェントに画策された明治革命で、九州に隠棲していた藤原氏は復活した。復活した藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が発明した「現御神」の天皇を、「現人神」として復活させた。
その「現人神」の天皇が、藤原氏が提出した書類に、天皇印を押した瞬間、藤原氏の作文は、誰も否定することができない「神の書類」に変身してしまうのだ。藤原不比等が発明した「現御神」の天皇は、日本国民の為に存在するのではなく、藤原氏一族のための武器なのだ。
1867年孝明天皇が暗殺される。その第二皇子が即位する。孝明天皇と藤原慶子とに生まれた明治天皇が、実は、長州藩により摩り替えられていた。このことを知っている人物の口封じのために、「清盛公のかぶら」として「役座」が利用された。
役座の無言の威圧により、歴史学者も誰も、明治天皇のすり替えを公に指摘できなかった。「明治天皇のかぶら」である役座は、明治時代初期、裏社会の治安警察として働いていたのだ。現在の刑事用語と役座用語とに、共通用語が多くあるのは、そのためだ。
明治が遠くなった平成では、用済みの役座は、暴力団のレッテルを貼られ、現代の賎民扱いとなってしまった。しかし、役座は、明治時代初期までは、日本国の治安を裏で支えていたのだ。
1868年神仏分離令後、神社(もり)を神社(じんじゃ)として、僧侶ではなく、神主によるお祭りが政府主導で開催された。それ以前の祭りは、神仏習合の神宮寺で、神主ではなく、僧侶により執り行われていた。
その明治革命以後の神社(じんじゃ)での祭りは、現人神天皇を「父」とし、国民を「子」として、日本列島を統治するための、藤原氏の戦略であった。全国一斉に、氏神を現人神天皇として、地域の住民を氏子としてお祭りが開催された。その神輿や山車のパレードでの警備責任者は、役座の親分だった。
江戸時代、相撲は勧進相撲と言われていたように、寺や道路を普請するために寄付を募るための興行だった。その地方興行を仕切ったのは、地方の役座の親分だった。江戸時代の相撲は、スポーツというよりも、芝居に近かった。プロレスにシナリオがあるように、その主催地の出身力士が勝つことにより、寄付金が多く集まるからだ。現在の相撲興行も、地方巡業主催者のことを、勧進元というのは、江戸時代からの興行システムが、現在でも生きているからだ。

惟宗氏

何故、北条鎌倉幕府はインド僧が多く居る禅宗を保護したのか。
1568年、1560年イエズス会の軍事支援を受けた尾張のゲリラ隊長「藤原信長」は、織田信長として足利義昭を将軍に押し立てて京都に進軍した。そして、織田信長は、「余部」に対して「禁制」の文書を下した。このことにより、「余部」は、織田信長の支配下となった。
「余部」(アマベ)とは、「海部」のことで、海洋民族末裔の賎民のことだ。藤原信長と名乗っていた時代の織田信長の三代先信定の墓が垣内(カイト)にあったように、織田信長の先祖は、アラブ系海洋民族末裔の「平家」だった。垣内とは、別所、散所、湯浅などの地名と同じに、平安時代の百済王権(京都)・藤原王権(奈良)にまつろわぬ民族を押し込めた、神社(モリ)と同じに「結界地」だった。
1534年パリでイエズス会が創立された。イエズス会は、右手に「聖書」、左手に「武器」を持つ、戦闘的教団だった。
イエズス会は、1494年ローマ・キリスト教皇が、ポルトガルとイスパニア王国に与えたトルデシリャス条約で、日本列島はイスパニア王国の支配地として認められたことにより、イスパニアの軍団と供に、1549年藤原氏が隠棲する鹿児島に上陸した。
イスパニア軍団の手先となったイエズス会は、日本列島を支配するために、尾張のゲリラ隊長藤原信長に接近した。それは、藤原信長が、反仏教派だったからだ。藤原信長の祖は、日本列島を実行支配する仏教組織により、賎民に落とされていたからだ。
イエズス会は、藤原信長に最新式の武器・銃と傭兵軍を与え、仏教軍団の壊滅を計画した。それは、戦国時代の支配者は、天皇でもなければ、貴族でも武士でもなく、寺社であったからだ。その寺社勢力を壊滅しなければ、ローマ教皇から認められた支配地・日本列島は、イスパニア王国により支配することが出来ないからだ。
戦国時代の寺社内では、鉄砲製造、弓矢製作、石垣普請、築城などの建築技術など軍需産業を営んでいた。何故、そのような高度技術者が、仏を祀る寺社内に存在したのか。その謎を知るには、古墳時代から奈良時代に遡らなければならない。
巨大古墳を築造するには、鉄器製造技術、石切技術、物資運搬のための運河掘削技術などが必要だ。その技術は、4世紀の日本列島に持ち込まれていた。その古代エジプトで発生した技術は、藤原日本史では紀氏により、朝鮮半島を経由して持ち込まれていた。
6世紀半ば、日本列島の国際交易所のある奈良盆地に、北陸から突厥軍団が進駐し、高句麗・百済・古代新羅のコロニーを支配下に置いた。高句麗、百済は、4世紀から仏教国であったが、古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国だった。
突厥は、騎馬民族で、中国で変質した漢訳仏教を避けた。それは、北魏を興した太武帝も、騎馬民族の拓跋部で、騎馬民族の文化を蔑視する漢訳仏教を弾圧し、北極星(太一)を祀る道教を保護していた。明日香ヤマトを支配した突厥軍団は、高句麗、百済を避け、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の軍団を支配下に置き、突厥は明日香に、古代新羅軍団の花郎騎士団はイカルガに砦を築き、近畿一帯を支配した。
日本列島は、ユーラシア大陸と中国大陸を結ぶ回廊として、東北から九州まで、道幅12m以上の直線道路が敷設され、各地に駅が設置され、物流の動脈となっていた。「駅」とは、馬偏でもわかるように、馬の中継地のことだ。騎馬民族とは、広域交易民族でもある、商業民族でもあった。
日本列島各地に馬により交易物資が行き来するため、各民族の言葉の文法が、騎馬民族の言葉・ウラル語文法として普及していった。しかし、文法は統一できても、60余カ国に分かれていた各地での民族言葉の統一は、明治革命後までされなかった。
645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを攻めた。それは、ユーラシア大陸での、東ローマ帝国との絹馬交易権をめぐって抗争していた東突厥を、唐帝国軍団が、630年散逸させていたからだ。日本列島を支配していた突厥も、その余波を受けて散逸させられた。
672年近畿の山奥に撤退していた突厥と花郎騎士団残党軍に支援された大海人は、近江の亡命百済王朝を倒すと、道教の儀式により天武天皇として即位し、都をわざわざ突厥進駐軍の砦があった地、明日香に定めた。
しかし、686年日本初の天武天皇が崩御すると、684年唐帝国の政権を奪っていた皇后武氏は、再び日本列島支配のため、一人の男を送り込んだ。その名は、藤原不比等。694年藤原京遷都。710年平城京遷都と巨大古墳群を破壊して北上する要塞都市は、山背国を死守する突厥・花郎騎士団残党軍を壊滅するための砦だ。
701年唐帝国は、日本列島を支配するために、大宝律令を発した。それまでの明日香ヤマトは、騎馬民族文化色が強い、部族連合国家だった。各部族長が、血縁・地縁で集まった「部」を統制していた。しかし、大宝律令により、明日香ヤマトの先住民達は、法律と罰とにより、唐帝国皇帝に隷属する身分となってしまった。
この律令制にまつろわぬ先住民族から、唐帝国の法律に従わない「アウトロー」の発生となる。古代には、現在のような「国民国家」などなかった。古代の国家とは、皇帝の制定した法律の及ぶ範囲を国家と言っていた。だから、奈良時代の公務員である仏教僧侶の唱える「鎮護国家」の「国家」とは、「国民国家」などではなく、「天皇」を意味していた。つまり、天皇を鎮護するのが、奈良仏教であったのだ。
奈良王朝にまつろわぬアウトローは、山背国に集結していた。山背国は、中国への玄関である難波と、ユーラシア大陸への玄関である大津との交易路として栄えた国だ。その地は、藤原日本史では秦氏とする民族の支配地だった。
その山背国も、難波宮、長岡京と唐傀儡の奈良王朝の侵攻により、794年亡命百済貴族末裔の桓武天皇により占領されてしまった。平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建設された。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたことと同じに、古墳時代の歴史、古代新羅からの文化と騎馬民族突厥の文化を抹殺する行為であった。
奈良時代には、東北との物資交易のための高速道路であった北陸道、東山道、東海道が、平安時代になると、秦氏の祭祀場であった比叡山に砦を築いた桓武天皇は、北陸道には愛発関、東山道には不破関、そして、東海道には鈴鹿関を設けて、東北との交易を遮断してしまった。
このことにより、西国にいたアウトローは、桓武天皇の百済王朝に対抗する武力が削がれてしまった。アウトローは、その構成員は、古代エジプトの高度土木建築技術とヒッタイト帝国での産鉄技術を保持していた者が多くいた。そして、突厥の騎馬民族の文化も保持していた。騎馬民族は、その歴史から定着し農耕する民族ではなく、夏営地と冬営地を遊行する交易民族であった。
西国に押し込められたアウトローは、桓武王朝の権力が及ばない山地を遊行して生活を営んでいた。しかし、唐帝国での需要が多い銀を日本列島で産出するため、日本列島の山地には、錬金術師達の集団が、金剛杖の武器を携帯して暗躍した。その集団のひとつが、空海の錬金術師軍団だ。
空海は、藤原氏の援助により、1年で仏籍を得て、20年の勉学を義務付けられた学僧として渡唐したのにもかかわらず、わずか旅程を含めても2年たらずで帰朝して、中央構造線上にある高野山に砦を築いていた。それは、水銀鉱脈探索のためだ。
錬金術空海は、アウトローが暮らす山奥に入り込み、水銀鉱脈を探索し、その地を支配するために、秦氏の祭祀場に稲荷社(夷なりのモリ。モリとは古代朝鮮語で、神が降臨する聖地の意味。)を築き、水銀を表す漢字「丹」を木で築き「トリイ」とし、禁足の結界地として王権の介入を阻止していた。
そして、錬金術師軍団は、屈服したアウトローを「聖」として寺奴隷とした。アウトローには、産鉄民族が多くいたので、山奥でタタラ製鉄をおこなっていたため、「火を治める」者として、「聖」(ひじり)と呼ばれていた、有髪の寺奴隷のことだ。
平安時代に発明された、天台宗も真言宗も、奈良仏教の公務員として国(天皇)から経済援助を得られない、私企業であったので、自らの手で収益を得なければならなかった。そのために、天台宗は高利貸しを、真言宗は水銀薬の販売を収益の主としていた。
日本列島史の史料の多くは、寺社史料から復元されているので、寺社に不利な史料は隠蔽・改竄していることが多い。特に、寺経済については、そうだ。
奈良時代の寺院は、鎮護国家道場の国家(天皇)の安全祈願の場で、寺僧は奈良朝廷に奉仕する役人で、国家機構の一部だ。それは、唐帝国を乗っ取って皇后武氏から、則天武后と変身したのは、アルビノ(白色)動物を吉祥として仏教ネットワークを活用して、皇后武氏を女帝にする宣伝技術が成功を収めていた経緯があったからだ。
唐帝国の皇后武氏の指示を受けた藤原不比等は、騎馬民族に支えられていた天武天皇が崩御すると、そのアルビノ動物戦術を、日本列島でもおこなうため、明日香ヤマトにあった太陽を祀り、太陽の化身牡牛を屠るミトラ教の景教寺や、北極星(太一)を祀る道教の観を破壊した跡に、北九州にあった仏寺を移築し、オンリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和と改竄した。
そして、藤原不比等は、ミトラ教や道教の歴史を抹殺するために、それらの宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の神を祀る中臣神道の宗教施設を創建した。それが、春日若宮だ。春日若宮は、古代からのものではなく、アマテラスオオミカミと同じに、奈良時代に発明されたものだ。
その古墳時代の日本列島史の隠蔽のためには、ミトラ教と道教を祀る民族を歴史上抹殺する必要が、藤原氏にはあった。そのための宗教的武器が、ケガレ思想だ。奈良時代の「ケガレ」とは、藤原王権に逆らうアウトローに対しての思想武器であった。
しかし、亡命百済王朝の平安時代になると、桓武天皇は、秦氏の歴史上の抹殺を謀った。それは、秦氏とは、古代新羅から渡来した民族を祖としているからだ。新羅は、桓武天皇の母国百済を滅ぼした憎き国だ。
日本列島の地図に、百済や高句麗(高麗)の文字が多く認められるが、新羅の文字はそれほど多くはない。何故か。それは、藤原日本史は、新羅抹殺の物語であるからだ。だからと言って、新羅末裔が抹殺されたわけではない。新羅は、白木、磯城、志木、志茂、白鳥など、変名して存続していたのだ。新羅から渡来の秦氏は、百済王朝からの圧力をかわす為に、秦氏から惟宗氏に変氏していた。

平安時代、桓武天皇は、藤原氏の奈良王朝を封印するために、奈良仏教の末寺はもとより僧侶の平安京への移住を禁止した。そして、788年比叡山に延暦寺を創建し、藤原氏の中臣神道に対抗するために、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して「山王神」とした。そして、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教の「法華経」を、延暦寺の思想武器とした。
「法華経」には、仏敵は皮膚病(ハンセン氏病)となると明記してある。平安京を支配した百済王朝は、アウトローが暮らす部落にハンセン氏病者の世話をさせた。これは、感染魔術だ。感染魔術とは、接触した者は感染するとする思想技術だ。このことにより、アウトローの暮らす地は、反政権の「ケガレ」から、観念的嫌悪の「ケガレ」と変換していった。
しかし、桓武天皇は、その王権簒奪において多くのひとを謀殺していた。そのため、桓武天皇は、怨霊に苦しめられていた。古代では、怨霊は、同族の者でなくては鎮静させることができないと信じられていた。ここにアウトローが、公に再登場する場面が設定された。それが、「ケガレ」に対する「キヨメ」だ。平安時代の「キヨメ」は、怨霊を鎮めるための技術だ。
平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建てられた。そして、多くの古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊されていた。その「キヨメ」を担ったのは、京の治安を護る令外官である検非違使の配下であった。816年反藤原氏の嵯峨天皇は、京の治安のために検非違使を設置した。その検非違使は、警察実行部隊として、蝦夷の捕虜を組織した。それは、蝦夷の祖は、古墳時代の近畿一帯を支配していた民族であったからだ。
平安京の治安は、目に見える盗賊などの他に、目に見えない怨霊からの攻撃を交わすことも要求されていた。古代では、疱瘡やはしかなどの感染症は、祟りだと信じられていた。その祟り神を鎮めるには、芸が必要だ。芸とは、今日の庶民を楽しませる芸事ではなく、神が降臨する「庭」で、神を楽しませる技術だ。それらは、踊り、歌、まぐわいなどである。
陸奥国を支配していた蝦夷は、元々は、明日香ヤマトでの武人であった。唐進駐軍により、愛発関、不破関、鈴鹿関により東国に押し込められた花郎騎士団と突厥軍団の末裔だ。その検非違使の配下となった蝦夷は、怨霊を鎮める芸の為に、祭祀道具を発明した。
それが、蝦夷の武器である蕨手刀を改良した、反りのある長刀だ。後に「日本刀」と呼ばれる。そして、牛・鹿の角を飾った冑に、派手な鎧だ。しかし、蝦夷は、捕虜の身であるので、実戦用の武器を製作できない。刀は、薄刃で曲がる・折れる。しかし、刃が薄いので、風を切るときの音が妖艶だ。鎧冑は、鉄製ではなく、総革製だ。
そのような祭祀道具で武装した「もののふ」は、禁足地である神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めのために、剣舞をおこなった。これが、「武芸」だ。「武芸」とは、敵と戦う実戦技術ではなく、「もの=カミ」の僕(ふ)である者が行う、怨霊の魂鎮めのための技術だ。
この「もののふ」を含めたアウトロー達に、転機がおとずれた。それは、奈良時代から平安時代にかけて、日本列島を律令制度で隷属していた唐帝国が、907年滅びたからだ。
この転機に最初に動いたのが藤原氏だ。唐帝国のエージェントであった藤原氏は、律令制度を利用して私腹を肥やしていた。それは、701年唐帝国の律令を基本に作成された大宝律令を改竄して、718年養老律令として、藤原氏のための律令、藤原不比等が太政官と同権を持つ神祇官を設定し、北極星の天帝により地上の支配権を任された天皇を、ユダヤ教の神ヤハヴェのように、現御神の絶対神としたからだ。この養老律令は、明治革命まで施行された。そして、藤原氏と供に、再び、藤原氏が支配する神祇官が明治革命で復活する。
その藤原氏の支配する天皇に権威を与えるのが、仏教組織だ。その仏教組織も、唐帝国が崩壊したことにより、支配地の拡大に動いた。漢訳仏教寺院は、治外法権を利用して、その経済活動を護るために武装軍団を要していた。西国での仏教勢力は、奈良の興福寺と京都の延暦寺とで二分していた。
907年唐帝国が崩壊すると、960年漢民族の宋が興るまで、中国大陸は内乱状態となっていた。日本列島は、藤原日本史が述べるように、海に囲まれているために孤立しているのではなく、海に囲まれているために世界情勢に強く影響されていた。
中国大陸の混乱の影響を受けた日本列島も、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち治外法権をもって独立し、王権に従わなくなった。貴族も同様に、天皇や院に対する公然たる批判を、日記に記していた。
武力を持った寺社は、要求を満たすために神仏の威を背景に、僧兵が朝廷に押しかけ、王権を威圧する強訴を行っていた。その強訴を行う寺社に、百済王朝(桓武天皇家の平安王朝)により、結界地である河原や神社(モリ)に押し込められていたアウトローが集結し始めた。つまり、中世の寺社では、日本仏教史では黙殺しているが、学僧と賎民とが対等の立場により共生していたのだ。それは、河原の賎民には、学僧にない、経済力があったからだ。
寺社は、他の寺社との武力闘争に勝利するために、その出自を問わず武器を製造できる者や戦闘に優れた者により、僧兵軍団を組織した。このことにより、古代の寺院と異なる構成が、中世の寺院に現れた。それは、学侶、堂衆、聖、神人などの身分による構成だ。
学侶とは、世俗の貴族、武士、富裕民の出自で、寺内でも特権を主張する。堂衆は、雑役を勤める下級僧侶で、武士より下の身分を出自とした。聖は、定住地を持たないアウトローで、寺に定住せずに全国を遊行し、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募ったり、参詣の勧請をしていた。その聖の実状は、山伏と同じだ。
武士は、939年から941年までに起こった天慶の乱で、瀬戸内海の海賊藤原純友と関東の平将門の乱を鎮めた実績により、蝦夷武人を祖とする武芸を行っていた「もののふ」が、公にその騎馬による武力を認められ「武士」と呼ばれたことによる。「武士」は「もののふ」であるが、「サムライ」は「もののふ」ではなく、武装はしているが貴人に侍る秘書が役目だ。
アウトローを取り込んだ寺社は、京都で強訴を繰り返した。摂政関白制度で天皇のロボット化を謀っていた藤原氏に対抗して、1086年白河上皇は、院政を始めた。この院政により、藤原氏のロボットである天皇の権限が、白河上皇に移った。白河上皇は、藤原氏の横暴を阻止する行動をおこなうが、藤原氏は私兵として、出自不詳の満仲なる人物を雇って対抗した。これが、藤原日本史で云うところの「清和源氏」の祖だ。
更に、白河上皇を悩ます存在が、神輿を担ぎ強訴するアウトローを構成員とする僧兵だ。そこで、白河上皇は、加茂川東側のドクロガ原を武力で支配する海洋民族武装団を、私兵として雇った。その白河上皇の私兵を、「桓武平氏」に対抗して、「平家」と呼んだ。白河上皇は、「夷を以って、夷を制す」の戦術により、アウトローの僧兵軍団の強訴を阻止するために、アウトローの海洋民族軍団「平家」を利用した。
平安時代のアウトローとは、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令に従わない者だ。養老律令では、人民は租庸調の税を収めなければならない。そして、太政官と同等の権限のある神祇官が「神」の権威の下に政治に介入する仕掛けを、718年藤原不比等は養老律令に盛り込んでいた。その「神」とは、「現御神」の天皇だ。
百済系桓武天皇が、春日大社の神を支配する藤原氏から独立した平安時代初期、その「現御神」の桓武天皇を悩ましたのが怨霊だ。怨霊は疫病を撒き散らすと、平安貴族や庶民には信じられていた。それは、ほんの数十年前、巨大古墳群を破壊して築いた奈良の都での奇病の流行が、怨霊の存在を信じさせていたからだ。しかし、その奈良の都の奇病とは、遍照鬼(後に奈良の大仏様・大日如来となる。)の鋳造時での銅と水銀による鉱毒が原因であった。
平安時代になると、寺社で僧侶と共生するアウトロー達が、「現御神」の天皇や院を脅すための道具として、その怨霊を封じ込めた神輿を利用したのだ。平安時代の神輿は、「神」を祀るための祭祀道具などではなく、祟り神(前政権の神)を封じ込めた「脅しの道具」だった。だから、神輿には、開かれる窓や戸はない、羽目殺しの窓や戸だ。現在の、由緒正しい神輿も、羽目殺しの戸であるのは、そのためだ。
武士は、元々は「もののふ」で、武芸で怨霊の魂を鎮める(キヨメル)祭祀者であったので、神輿に対しては、表面上は無抵抗だ。サムライも、その祖は亡命百済貴族末裔なので、神輿に対しては恐れを感じていた。しかし、「平家」は、その神輿に矢を射掛けたり、打ち壊しを行っていた。更に、平清盛の子平重衡は、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼(奈良の大仏様)を焼いてしまっていた。それは、「平家」は、根っからのアウトローだったからだ。アラブ系海洋民族を祖とする「平家」の末裔織田信長は、神仏の権威など無視して、高僧を火炙りで焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたり、そして、高野聖の大虐殺など行っていた、言わば、アウトローの典型だ。
藤原日本史では、平安時代は王朝文化で、国風文化が生まれたとする。しかし、平安時代初期は、唐文化一色だった。しかし、唐帝国の国力が衰えるのと比例して、藤原氏の平安朝廷での権勢が増していた。それは、東アジアの警察国である唐帝国が、907年滅ぶと、中国大陸が小国家の乱立で混乱していたのと同じに、日本列島でも内乱状態になっていたからだ。
日本国の中世は、藤原日本史が述べるように武士の時代などではなく、アウトローが跋扈する大混乱の時代だった。そのアウトロー達は、自らの武装集団を「アク党」と呼ぶのは、「アク」とは、騎馬民族語では「勇者」の意味であるからだ。そのアク党は、寺社を砦として活躍していたのが、日本の中世だ。
そして、「悪僧」と自ら名乗る僧兵も現れるのも、鎌倉時代だ。悪僧の意味は、悪事を働く僧のことではなく、「アク=勇者」とする武闘派の「勇気ある僧」のことだ。
この鎌倉時代に派生した「アク」の意味を取り違うと、藤原日本史の「ワナ」に嵌ることになる。それは、藤原日本史では、日本列島には4世紀から大和朝廷が存在していて、古墳時代の6世紀から7世紀にかけて明日香ヤマトを支配した騎馬民族など、日本列島に存在していなかったとするからだ。
藤原日本史では、貴族文化の平安時代の次に、武家文化の鎌倉時代とする。その武家文化の特徴のひとつに、1232年制定の御成敗式目がある。では、御成敗式目が制定されたため、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は破棄されたのか。
御成敗式目は、養老律令に従わない者達を取り締まるための法律だ。では、誰が、誰を取り締まったのか。それは、「武家」が、東国の「武士」を取り締まる法律が、御成敗式目だ。では、その「武家」とは何か。
「武士」は、平安時代末期に、古墳を破壊した跡の禁足地の「結界地」の「モリ・神社」で、前政権の怨霊の魂鎮めの「キヨメ」をおこなっていた、花郎騎士団や騎馬民族の突厥武人の蝦夷を祖とする「もののふ」の武芸者だ。では、「武士」ではない「武家」とは何か。それは、「サムライ」のことだ。鎌倉時代、その「サムライ」の頂点に、北条氏がいた。北条氏は、桓武平氏であることから分かるように、亡命百済貴族末裔だ。
つまり、御成敗式目とは、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が、古代新羅から渡来した花郎騎士団末裔や騎馬民族の突厥武人末裔の「蝦夷」を祖とする、東国の「武士」を支配するための法律だった。
では、出自不明の「満仲」なる人物を祖とする「清和源氏」の源頼朝が拓いたとする鎌倉幕府は、京都の百済系桓武天皇家を支配下において、日本列島を支配していたのか。
藤原日本史では、歴史の流れを、平安時代から鎌倉時代とするから、日本列島の政権が、京都から関東の鎌倉に移っていたとの錯覚を起こすひともいるが、鎌倉幕府が支配したのは、東国だけだ。西国は、依然、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令が支配する地域だった。
その西国は、藤原氏が支配する奈良の興福寺、亡命百済貴族が支配する大津の比叡山延暦寺が、その宗教的呪縛により支配していたのだ。この宗教呪縛支配は、現在も続いている。
日本列島は、フォッサマグナにより、二分され、古来から異なる民族が暮らしていた。そのフォッサマグナから北側は、風土がユーラシア大陸と同じ草原地帯が多くある。草原地帯は、農耕民族より、遊牧騎馬民族が暮らすのに適した地だ。
6世紀、ユーラシア大陸から渡来した突厥民族が、東国の陸奥国を拠点としていたのは、東北の気候がユーラシア大陸と同じだからだ。当然、東国の文化は、騎馬民族色が濃い。それに対して、西国は、中国・朝鮮半島の影響を強く受けて漢訳仏教文化色が濃い。
ここにひとつの疑問が起こる。それは、鎌倉新仏教は、何故、西国ではなく、東国に興ったのか。そして、インド人の禅僧は、西国ではなく、北陸と鎌倉に渡来したのか、と言うことだ。
藤原日本史が解くように、鎌倉時代は「武家」の時代などではなく、西国の仏教文化と、東国の騎馬民族文化の二極時代だった。藤原日本史が語る鎌倉幕府の歴史に疑問が多くあるのは、源頼朝の肖像画が、室町時代の足利直義の肖像画で、鎌倉時代の「源頼朝のもの」ではないことからでも、分かる。鎌倉時代の幕府の史料が現存していないのも謎だ。

禅宗


鎌倉時代に突然現れた武家家紋と武装集団「悪党」は何処から来たのか。
日本人の中には、鎌倉時代に日本列島に現れた「禅」を、日本古来の「術」と信じているひとがいるようだが、それは違う。禅は、インドのアクロバットのような瞑想術を簡略に改良して中国で発明され、中国人(漢民族の南宋人・インド人)の渡来人がもたらしたものだ。
その禅宗は、日本列島に産地当てのギヤンブルとしての「闘茶」の風習をもたらし、そして、雪隠禅師は、邸宅内に「便所」(せっちん)を設置した。質素な中国渡来の禅寺の造りから、武家屋敷が開発された。そして、床の間に「日本刀」を、そして、中国の山水画の掛け軸を飾る風習が武家に普及したという。鎌倉文化とは南宋文化だったようだ。更に、禅寺での日常会話は中国語だった。鎌倉時代に渡来した禅宗は、日本列島でどのような活動をしていたのか。
狭い鎌倉の地には、禅寺が5寺もある。その鎌倉にある禅寺とは、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺だ。それらの建立位置が不思議だ。それらの禅寺は、山を背景に狭い切通に護られて建てられている。それはまさに、民衆の苦悩を和らげる施設などではなく、戦のための要塞砦のようだ。
南宋から、南宋人やインド人だけではなく、禅寺を護る僧兵軍団も渡来していたようだ。「ようだ。」、と言うのは、鎌倉時代の鎌倉幕府の公式史料が、現存していないため、史料で確認できないためだ。だから、鎌倉時代は、どのような文化・経済活動で、そして、税制で運営されていたのか分からない、謎が多くある時代だ。
1191年栄西は、南宋から帰朝し、京・鎌倉で禅宗の臨済宗を弘めた。その頃の南宋では、儒者が多く排出され、道学の誹議が禁ぜられていた。そして、南宋は、北方の金帝国を滅ぼした元により、1274年北方の都襄陽が陥落し、1297年滅ぼされた。
その頃、日本列島では、一夜にして「神風」により、1274年文永の役、1281年弘安の役と云われる「元寇」が壊滅されたとする。その「元寇」と云われるものは、禅宗側だけの史料により復元されている。元軍・高麗軍10万が来襲したとするには、対馬の隣国の高麗の史料に、「元寇」の記録がないのは何故か。
実は、日本の歴史は、1467年応仁の乱以前は、平安京も鎌倉も炎上壊滅していたため、朝廷や幕府の公式史料が現存していないため、知る由もない。あるのは、日本列島支配を企む藤原氏側の「日記」類や、そして、国際交易・高利貸し・ギャンブル・人身売買などを僧兵の軍事力を背景に行っていた寺社の記録記事だけだ。ましてや、敗者側の史料など何一つないのが現状だ。
だから、禅宗側が述べる「元寇」の「ウソ」を、史料で否定することは困難だ。しかし、禅宗の史料を、「漢民族」対「騎馬民族」との対立図式で眺めてみると、鎌倉時代の歴史の一端が見えるようだ。それでは、唐帝国壊滅時代から遡って、東アジアの歴史を眺めてみよう。
907年唐帝国が滅亡する前後に、モンゴル系のキタイ族とチュルク系の沙陀族が政局の表面に浮上した。唐帝国が滅亡すると、華北の統合の主役はチュルク系の沙陀族となった。その沙陀族は、西突厥の一部を構成した集団の流れにあった。
6世紀から7世紀のユーラシア大陸を支配した突厥は、その民族の体質から、「まとまりやすくこわれやすい」集団だった。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍の母国を、唐帝国により壊滅された突厥は、ペルシャ語で「トルキスタン」、つまり、「チュルクの地」とするような小国として存在していた。
傭兵軍団の沙陀族は、唐帝国の内乱を騎馬軍団の軍事力で鎮定し、その功で、唐帝国から唐朝の国姓「李」を賜り、李国昌と名乗っていた。その傭兵軍の「李」軍団は、黒装束で武装していたため、その騎馬軍団は、「烏軍」と呼ばれていた。そして、唐帝国末期では、もはや政権は、チュルク系沙陀族のものだった。
その頃、6世紀中頃の中東に興ったイスラームのサラセン帝国は、インド北部へその勢力を伸ばしていた。インドを逃れたヒンズー教徒は、唐帝国に救いを求めた。しかし、唐帝国内は、農民の暴動などにより治安が乱れていた。
菅原道真は、この頃の唐帝国内の情勢を、統一新羅の商人により入手していたようだ。
このような不安情勢の中、中国土着の宗教とヒンズー教の瞑想技術が合体して、「禅」が、臨済宗は臨濟義玄により、そして、曹洞宗は洞山良价により、発明された。
唐帝国が滅亡する頃、唐帝国の長城線の北側に、モンゴル系のキタイ族の耶律阿保機が現れた。907年唐帝国が滅ぶと、耶律阿保機は、みずから君主となり「大キタイ国」(契丹国→遼)を称した。そして、916年みすがらを天皇帝(テングリ・カガン)を称した。
その天皇帝の即位儀式は、チュルク・モンゴル系の伝統である天上の神である北極星(テングリ)にかけて、柴を燔き天を祀るものだった。それは、672年日本初の天武天皇の即位儀式と同じだ。
耶律阿保機は、926年渤海国を滅ぼし、東丹国とした。そして、947年後晋を叩き潰すと、中華風の国号として「大遼国」を称した。
遊牧国家の体質として、権力の所在地は、夏営地と冬営地との遊牧移動国の中に暮らす天幕群にあった。つまり、「幕府」である。遊牧国家は、部族結合を基礎単位とする連合体だ。だから、君主の一代ごとに政権や王朝が変動する。その流動性を固定化するために、血の繋がりがない有力者と、仮の父子関係を結ぶ。この義父子関係は、時には、実父子関係よりも強いことがある。その騎馬遊牧民族の義父子関係の流れは、「役座」の「親の血を引く兄弟よりもの。」の「血の杯」の儀式に現存している。
中国の北魏から唐帝国までは、拓跋部などの騎馬民族が漢民族を支配していた。しかし、北魏から続いていた、騎馬民族王朝と異なる国が、中国に誕生した。
960年漢族出身の太祖が、宋を興した。宋王朝は、二万を越える官僚と150万の軍隊を保持していた。しかし、軍事的には、遊牧民族の契丹国に押されていた。そのため、宋は、契丹国に巨額な金、絹の歳幣(年ごとの貢物)を貢いで、契丹国からの侵略を防いでいた。
宋は、その歳幣である金と絹を日本列島から手に入れるため、古来から南海交易を行っていた藤原氏やアラブ系海洋交易民族(後の平家)に、仲介を頼んだ。
弥生時代から、日本列島は、中国大陸への絹・朱砂・真珠の供給地だった。奈良時代に始まる遣唐使船などは、唐帝国の税制により日本列島から奪取された「貢物」を運ぶのが、主目的だった。だから、奈良時代を語る「続日本紀」には、中国の史料には武器の材料として牛角を遣唐使船で送れとの命令書があるが、遣唐使の記録記述が、日本から何を運んだのかが曖昧になっている。
そのため、藤原氏は、陸奥国の砂金を独占するために、蝦夷末裔清原氏と安倍氏の抹殺を企てた。奥州藤原氏への布石は、この時からだ。そのため、陸奥出羽按察使を、藤原氏が独占支配していた。
アラブ系海洋民族は、日本列島の伊勢の真珠や水銀を宋に輸出し、宋銭を大いに貯えた。出自不詳の平正盛が、白河上皇に接近できた理由のひとつが、その宋銭だ。その宋との交易により得た宋銭を、天皇や貴族への賄賂とすることにより、短期間のうちに日本列島の3分1を知行地とした。そのアラブ系海洋民族を祖とする「平家」を、藤原日本史では、「伊勢平氏」としてアラブ系民族の「平家」の歴史を隠蔽・改竄する。「平氏」は賜姓で、桓武平氏は、海洋民族などではなく、亡命百済民末裔だ。
その宋から契丹国に送られた多量の金や絹は、国際交易に転用された。契丹国との国際交易をおこなうために、1032年タングト族、漢族、ウイグル族、チベット族などの多種民族国家の西夏が興った。
1115年渤海国滅亡の地に、ツングース系女真族が、大金国を興した。その頃、契丹国では、権力闘争の内乱のため、女真族により首都が陥落しただけではなく、契丹帝国に従属していた宋も、1126年金帝国に滅ぼされた。その金帝国の実態は、騎馬民族特有の女真族とキタイ族との連合政権だった。
平安時代から鎌倉時代に代わる頃の東アジアの12世紀は、東に女真族の金帝国、中央アジアにキタイ族の西遼国、その中間に西夏、江南には南宋、西アジアには分立するセルジュク朝の諸国家が覇権を競っていた。
それらの国々には、武力を商売としての傭兵軍団が、金のニオイに釣られて、シンボルマークを付けた部族旗をたなびかせて行き来していた。勿論、宋に金、絹を供給していた日本列島も、その例外ではない。
遣唐使船の15回の渡海平均日は、4.1日だ。日本列島と中国大陸とは、藤原日本史の遣唐使船物語で述べているように何ヶ月もかかるものではなく、統一新羅の小型商船が大阪の難波と中国大陸を頻回に行き来していたように、困難な海路ではない。中国大陸の傭兵軍団は、中国大陸の動乱を避けるため、或いは、唐進駐軍が居なくなって強力な軍団が久しく存在しない、日本列島を目指していた。
藤原氏は、「現御神」の「天皇制」を利用して、日本列島を完全支配するために、明日香ヤマトを支配していた民族末裔の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の抹殺を実行するため、傭兵軍団を海外に求めていた。その時、藤原氏の前に現れたのが、難波津に渡来した「満仲」の軍団だ。
日本列島から、日本列島の3分の1を支配したアラブ系海洋民族「平家」を駆逐するために、藤原氏と桓武平氏の北条氏が結託して起こした、「源平合戦」が勃発した頃、東アジアのすべてを飲み込む、モンゴルが産声を上げた。
日本列島の東国を、嵯峨源氏末裔や醍醐源氏末裔を「源平合戦」のドサクサ中に抹殺し、百済系平氏の北条氏が支配するために、藤原氏の傭兵軍の「清和源氏」の抹殺を企てていた頃、1206年テムジン(チンギス・カン)は、チュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる牧民戦士軍団を率いて外征の旅に出た。
雑多な軍団は、それぞれの部族を表すシンボルマークを軍旗に記していた。因みに、テムジン軍団のシンボルは、源義経と同じ、笹竜胆だ。平安時代末期の「源平合戦」では、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」で、日本列島には、源義経の笹竜胆の家紋以外は、未だ武家家紋は登場していない。
騎馬民族は、農耕民族の歴史書により、「蛮族」「血塗られた文明の破壊者」などのレッテルが貼られている。その野蛮な遊牧民の代表が、「モンゴル」だ。しかし、「モンゴ゜ル」は、人種や民族の名前だったのではなく、一地方の集団の呼び名だった。その小集団のモンゴルを、テムジンが支配者となって、他部族を打倒・吸収するうちに、モンゴル共同体が、やがて、大集団を表す「モンゴル」となっていった。それは、1211年テムジンが、華北の金帝国への侵入を始めた頃だ。
モンゴル軍団は、騎馬軍団による怒涛の攻撃により、農家や田畑を荒地として壊滅させるイメージがある。しかし、モンゴル軍団は、戦わない軍団だった。モンゴル軍団が、地上の破壊軍団であったならば、短期間のうちに、西はキプチャク汗国、東は元までの大帝国を築けなかった。
モンゴル軍団の軍事行動は、敵国を壊滅することなくそのまま接収・吸収するために、示威行動だった。敵兵を残酷な刑で殺戮をしていたならば、モンゴル軍団の軍人は、減りこそすれ、増えることはないからだ。
モンゴル軍団が、金帝国や西夏を接収・吸収できたのは、ソグド商人、ペルシャ商人、イスラーム商人などの国際商人達が協力者として暗躍していたからだ。国際商人にとって、国々に分かれて、それぞれに関税を払うより、一国に関税を払うことが商売上有利だからだ。
モンゴル帝国は、1260年を境に、二分できる。それは、前期がモンゴル高原を政治基地として軍事中心に帝国が運営され、東は日本海から西はドナウ河河口、アナトリア、東地中海まで拡大をつづけた時期だ。そして、後期は、クビライによるユーラシア、北アフリカに到る「世界」を結びつける国際通商をおこなう時期だ。
1260年クビライが即位すると、アジア東方を直接の根拠地として世界帝国を建設する。それは、軍事と通商とが統合した、世界史上まれにみる帝国だった。クビライは、国家が主導する自由貿易、重商主義政策とにより、陸海をつうじた空前の「ユーラシア大交易圏」を出現させた。その前提として、クビライは、南中国の南宋を接取した。
南宋は、宋の時代以前、唐帝国の時代に、南インドとの国際交易により開発された海路を利用して、ヨーロッパ→エジプト→南インド→マカオ→中国沿岸→日本列島の国際海洋ルートを確保して、国際交易品の絹、金、銀、水銀、真珠などを交易していた。
その南宋の禅宗の臨済宗は、鎌倉の地に禅寺を設けて国際交易基地として、南宋から、南インドの香木や中国の書画骨董を輸入し、そして、鎌倉の浜砂鉄で造られた日本刀を美術品として輸出していた。寺は、古来から、仏像を安置する処でもあり、国際交易基地でもあった。それは、寺は、治外法権で、朝廷権力が及ばない、ナンデモアリの「聖地」であったからだ。
クビライは、騎馬民族帝国で、歴史上初めて、海への進出を果たした。そのために、クビライは、陸海を結ぶ物流ターミナルを造るために、内陸の大河を結ぶために、高低差数十mの閘門式運河を造った。それらの内陸運河により、中国大陸内部の都市と、高麗、日本、東南アジア、インド洋方面などの諸外国とに海路が直接結ばれた。
1274年、日本列島に文永の役の「元寇」が現れた頃、クビライは、南宋国境線の諸方から全面進行した。その結果、南宋軍の長江中流の要地、鄂州は戦わずして開場した。ここにも、モンゴル軍団の戦術、戦わずして接取する戦術がおこなわれた。
そして、1276年、1281年日本列島に弘安の役の「元寇」が現れる5年前、南宋王朝が壊滅し、南宋軍団は、大船団を組織して杭州から脱出して、東南沿岸を流亡した。その南宋の大船団が、東シナ海の黒潮に乗れば、行き着く先は、黒潮が沿岸を洗う北九州か南九州だ。
「元寇」と伝わる物語は、モンゴル軍団の来襲などではなく、南宋や高麗の大難民船団だった。その根拠のひとつとして、「元寇?」の難破船からは、大量の農具と種籾が詰まった壺が引き上げられているからだ。武器ではなく、農具や種籾を積む大船軍団などあるのか。
クビライが、南宋を攻めたのは、南宋の海洋交易システムを乗っ取ることが、目的のひとつだった。劃して、国際海上交易において、モンゴルは、南宋国の「後継国家」となった。
しかし、その亡国南宋から、日本列島に禅宗のインド僧と供に、騎馬民族差別思想が、鎌倉の地にもたらされた。平安時代の錬金術師空海がもたらした宗教理念の民族差別思想が、インドの禅僧の言葉から直接発せられるのが、鎌倉時代だ。それが、騎馬民族を差別する言葉、チャンダーラ(インド・バラモン教)→施陀羅(平安時代)→穢多(鎌倉時代)だ。
そして、野山に、シンボルマークの旗をなびかせた「悪党」と自称する軍団が現れたのも、鎌倉時代だ。「悪党」とは、「アク党」で、騎馬民族では「アク=勇者」の意味で、つまり、騎馬民族の「勇者党」だ。
日本語の「言葉」には、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島語(高句麗語・百済語・新羅語)、古代エジプト語、突厥語、中国語(呉音・漢音・唐音)などで構成されている。例えば、「愛娘」(まなむすめ)の「まな」とは、古代エジプト語で、「愛しい」の意味だ。
それらの「万葉語=多民族語」を、漢字二文字の「仏教語」で隠蔽・改竄していたのが、藤原日本史だ。意味の分からない「日本語」にであったら、それらの語源をたどると、意外な歴史が現れることがある。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べるように、貧民を救済する新仏教が興った民衆の時代などではなく、モンゴル帝国により南宋が壊滅したために新移民団が中国大陸から渡来した、混乱時代だったようだ。

源頼朝


浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。
抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩壊扶蘇逃れてかい貊に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以て百二十七県の民を率ぬ、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。
是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以て平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いと藹丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし。
武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈竟の隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。其後治承年間頼朝兵を関東に拳るに及びて、弾左衛門尉頼兼事に預りて功あり左の御朱印を下されける。
「朝野新聞」の記事によれば、「平家」に睨まれて京から鎌倉へ逃れた秦氏は、源頼朝の石橋山の挙兵の時、功を挙げたことにより、「御朱印」を賜ったという。秦氏は、一体何を功したのか。
源義経には謎が多くあったと述べたが、源頼朝にも多くの謎がある。その謎のひとつが、源頼朝の氏である「清和源氏」の謎がある。藤原日本史によれば、源頼朝の祖は、源頼朝←義朝←為義←義親←義家←頼義←頼信←源賜姓満仲←経基王←清和天皇であると言う。しかし、別の系図では、「清和源氏」とは、「陽成源氏」である、と云う。
陽成天皇は、清和天皇と藤原基経の娘高子との間に生まれた子だ。では、何故、「陽成源氏」を「清和源氏」としたのか。その謎解きのヒントは、876年(貞観18年)藤原基経は、9歳の貞明親王を即位させ、陽成天皇としたことにある。
その陽成天皇は、883年(元慶7年)嵯峨源氏の従五位下源朝臣蔭の息子益が殿上に侍っている時、いきなり格殺(打ち殺す)していたのだ。陽成天皇は、お脳の病気で、狂躁性の性格であった。そのため、翌年884年(元慶8年)陽成天皇は退位させられ、陽成院と称された。何故、嵯峨源氏が、清和源氏棟梁源頼朝の祖とする陽成天皇に殺されたのか。それは、陽成天皇だけではなく、その父清和天皇を幼年で即位させた、藤原氏の、嵯峨源氏抹殺計画の流れがあったからだ。
武家を、一般的には、「平家」「源氏」「平氏」と分けているようだが、「源氏」にも、その構成民族により多種ある。例えば、「嵯峨源氏」と「清和源氏」とでは、その構成民族が異なる。嵯峨源氏は、反藤原氏の嵯峨天皇の皇子が賜姓されたものだ。それに対して、「清和源氏」(陽成源氏)は、藤原氏の私兵のような存在だ。
嵯峨天皇は、奈良時代に藤原仲麻呂に反旗を翻した橘奈良麻呂の孫娘清友の子嘉智子を娶った。そして、その側室を反藤原氏の地方豪族の娘とした。だから、嵯峨天皇から賜姓された嵯峨源氏は、その流れからすると、反藤原氏なのだ。
その嵯峨源氏の抹殺を、藤原氏が謀っていた。しかし、藤原氏は、自らの手を汚さない戦術を使い、奈良時代から敵民族を抹殺してきた。その戦術とは、敵の氏族の上が老死するのをずっと待つのだ。そして、その子孫を廟堂高位の座に任用しないことで、抹殺していく。その戦術を使えるのは、奈良時代に藤原不比等が仕掛けた律令制度にある。廟堂への最終任命権は天皇にあっても、その実権は蔭位制により奈良時代以降藤原氏が握っているからだ。
更に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の密告戦術がある。藤原氏の放った密偵により、相手の動静を事前に察知し、ふとした言葉尻を基に致仕に追い込み、自殺させるか、逆賊の汚名を着せて「法」による裁きの名の基に「死罪、流罪、左遷」とし、社会的に抹殺するのだ。その例は、反藤原氏の長屋王と橘奈良麻呂の抹殺に見られる。
藤原氏の敵が、民衆に紛れる平安朝になると、藤原氏が奈良時代に発明した中臣神道の「ケガレ思想」により、宗教的に、敵民族を抹殺にかかった。その藤原氏からの宗教的攻撃の「ケガレ」思想に対しての反撃が、「キヨメ」思想だった。
平安時代の「キヨメ」は、宗教的な儀式だった。しかし、清和源氏頼朝・頼家・実朝の三代が、桓武平氏の北条氏に抹殺された鎌倉時代になると、「キヨメ」は、「汚い物」を処理する行為となってしまう。何故、そのようになってしまったのか。それは、鎌倉時代に、嵯峨源氏(秦氏)が、清和源氏(藤原氏)に抹殺されたからだ。
嵯峨太上天皇が崩御すると、藤原良房は、幼年の皇太子を立てて、清和天皇として即位させ、国家権威と権力の頂点に立つと、反藤原氏の嵯峨源氏の皇子たちの追い落としにかかった。
866年(貞観8年)藤原良房は、応天門の変により、古墳時代からの大豪族大伴氏と佐伯氏と、そして、嵯峨源氏信を、密告戦術により抹殺した。このことにより、平安京では、藤原氏に軍事的に対抗できる豪族が一掃された。そのため、藤原氏の書いた宣命文や詔勅文は、「現御神」である天皇の「御名御璽」のハンコを押した途端に、その恐るべき権威と権力とが発生した。このことにより、奈良時代に天武天皇の皇子達が平城京を追われたように、嵯峨源氏の元皇子達は平安京を追われていった。
延喜19年(919年)大納言嵯峨源氏昇の没後、藤原氏により、嵯峨源氏は廟堂首脳、大納言以上の地位から追い落とされていく。
そして、平安京の都を追われた嵯峨源氏達は、それぞれの母方の地へ落ち延びていった。嵯峨天皇の多くの側室は、反藤原氏の民族末裔であった。その嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、母方の生地の河内「ワタナベ」に居を構えた。その地は、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏による秦王国があった地だ。そして、その地に、渡辺党を興した。その渡辺津は、平安時代末期の源平合戦の時、チュルク系騎馬民族の源義経が、平家の屋島砦を急撃するための前線基地となった処だ。
渡辺党が興って程なくして、その渡辺の地に隣接する摂津多田の地に、何処からともなく武装軍団が現れた。その頃、伊勢にも海洋民族軍団が上陸していた。それらの軍団の渡来元は何処か。
藤原日本史では、日本列島は四海に囲まれているため、中国大陸から孤立していた、とする。その証拠として、遣隋使・遣唐使は海難に遭いながらも、中国から高度文化を輸入していた、と述べる。しかし、記録上にある遣唐使は、奈良時代から平安初期までに15回ほどだが、遣新羅使は、935年統一新羅が滅ぶまで、毎年のように派遣されていたのだ。
676年新羅が朝鮮半島を統一すると、統一新羅の商人は、同族が古来から暮らす大阪難波津を出先拠点として、日本列島と唐帝国との中継交易を行っていたのだ。だから、日本国の遣唐使船が航海中に原因不明の遭難が起こった時、統一新羅の商船が、日本国の遣唐使を送迎していたのだ。それも、一度や二度ではない。その遣唐使も、894年菅原道真の奏上により中止となった。その理由として、菅原道真は、統一新羅の商人から唐帝国の腐敗した政情を聞き及んでいたからだ。
その菅原道真は、藤原時平の陰謀により、大宰府に左遷され、そこで没した。何故、菅原道真は、藤原氏により抹殺されたのか。それは、嵯峨源氏を格殺した陽成天皇と、次の光孝天皇が、あまりにも、天皇としてその存在が疑われたことにある。
887年(仁和3年)藤原良房の養子藤原基経が、関白となった。関白とは、「関わり白(もう)す。」からきたもので、天皇に替わって政治をおこなう職だ。これ以降、豊臣秀吉を除いて、1869年(慶応3年)まで、関白は藤原氏が独占していた。
関白藤原基経は、近親結婚のため血の流れが悪い光孝天皇の人格を疑い、887年光孝天皇を退位させ、藤原氏と血縁関係のない、宇多天皇を即位させた。その藤原基経が、891年(寛平3年)死去した。藤原氏の重圧から解放された宇多天皇は、廟堂から藤原氏の影響力を排除するため、反藤原氏の勢力を集めた。そのひとりに、菅原道真がいた。
宇多天皇は、藤原基経が没して2ヵ月後に、菅原道真を蔵人頭に抜擢した。そして、廟堂の構成を、左大臣嵯峨源氏融、右大臣藤原良世、大納言宇多源氏能有、中納言嵯峨源氏光、藤原諸葛、参議藤原時平、同嵯峨源氏直、同藤原国紀、同藤原保則とした。平均年齢60歳で、藤原基経の長男藤原時平だけが、32歳だった。
宇多天皇は、藤原氏の勢力を抑えるために、後に、菅原道真を参議とし、891年藤原基経没後から、929年までの39年間、太政大臣、摂政、関白を任命しなかった。それは、藤原氏の横暴を抑えるためだった。
寛平3年(891年)として、「類聚三代格」に、「最近、京に住んでいる庶民や王臣の子ども等、婚姻に名を借り、農商をするとか称して外国(畿外の国)に移住、そのすること土民と同じである。既にずる賢い輩は村里に横行、村役人に対抗して細民をおびやかす。」、とある。この描写は、平安時代の律令制度が緩んだため、多くの王臣の子等が、地方に下り、そこに土着し、高貴なるがため権力を握って荘園を開拓して土豪化し、私財の蓄積に狂奔した様だ。
その時代背景として、平安王朝を軍事支配していた唐帝国進駐軍が、本国が内乱状態のため、その日本列島の統治力が衰えたからだ。唐帝国では、722年から傭兵制度により軍団を組織していた。そのため、唐帝国の軍団は、国への忠誠心ではなく、給与の支払いに左右されていたのだ。
その唐帝国の弱体化を見越して、藤原氏は権勢を伸ばし、その権勢に比例して私財が増加していた。そして、天皇家の流れを汲む「源氏」「平氏」の亜流は、京の都にいてもうだつが上がらないため、そして、将来に望みが少ないその子や孫は、新たな新天地を求め地方の国司となり、蓄財の道を選んだ。平安時代末期に関東に勢力を張った、源頼朝を庇護した桓武平氏の北条氏などもその流れにあった。この頃では、「平家」は歴史的に存在していない。
その結果、唐帝国進駐軍の統治能力がなくなった平安時代中期には、日本列島の大荘園の持ち主は、天皇家、藤原氏、そして、僧兵を擁した大社寺であった。
藤原氏の土地私有は、奈良時代の藤原不比等の時代では近江国12郡94郷であったものが、平安時代の藤原良房の時代には美濃国18郡37郷となり、全国郷数の12分の1の337郷となっていた。
宇多天皇は、そのような藤原氏の私財蓄積に歯止めを掛けるため、菅原道真を中納言へ、そして、従三位とした。その菅原道真は、娘淑子を宇多天皇に女御として差し出した。これに対して、藤原時平は黙ってみていただけではない。
もし、菅原道真の娘が親王を生んだとしたら、外戚権は菅原氏のものだ。しかし、宇多天皇は、寛平9年(897年)皇太子敦仁親王に譲位して、法皇となってしまった。その裏には、中納言菅原道真の影があった。菅原道真には、何かの策があったようだ。それは、敦仁親王を「策を立てて皇太子となす。年9歳」、とあるからだ。
その敦仁親王は、醍醐天皇として即位した。その醍醐とは、古墳時代の明日香ヤマトでは、騎馬民族が好んで食べる「チーズ」のことだ。なぜ、「チーズ」(醍醐)天皇なのか。その謎は、醍醐天皇の母胤子にあるようだ。藤原日本史では、胤子は藤原高藤の娘としているようだが、実際は、藤原高藤が若い時、秦氏末裔が多く住む南山科へ狩りに行った時、雨宿りした時に泊まった郡司の娘の子であった。醍醐天皇の血には、秦氏の血が流れていたようだ。
しかし、醍醐天皇が即位して、899年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となると宇多法皇の後ろ盾を失った菅原道真は、統一新羅商人との関係など疑われ、延喜元年(901年)「右大臣菅原朝臣を大宰権師に任じ、道真の子息等それぞれ左降された。」、とあるように菅原道真一族は全て、都から追放された。
何故、一族が追放されたのか。その謎は、菅原氏の祖にある。菅原氏の祖は、土師氏だった。土師氏とは、古墳時代に古墳に祀る埴輪を作る技術集団だった。「続日本紀」には、天応元年として、「土師の先祖は、天穂日命より出ず、専ら凶像の仕事をしていたが、今はその意義もなくなったので、現在住んでいる地名にちなんで菅原と姓を改めたいと願い出て許可された。」、とある。菅原氏の祖は、古墳時代からの氏族だったのだ。
奈良時代直前に渡来した藤原氏にとって、古墳時代に居住していた氏族は、歴史的抹殺の対象だ。それは、それらの氏族末裔を生かしていたら、藤原氏のトリック「現御神」「中臣神道」「伊勢神宮」「女神アマテラスオオミカミ」など、「日本書記」での物語りが、古代からのものではなく、奈良時代に藤原不比等により発明されたものだと暴かれてしまうからだ。
藤原氏にとって、菅原氏一族を抹殺しても、安堵できなかった。それは、宇多天皇が残した勢力が現存していたからだ。それが、醍醐源氏高明だ。
939年から941年にかけて、中国大陸から渡来した傭兵軍団などと結託した、瀬戸内海の海賊藤原純友や、関東の土豪平将門が、その地に新王国樹立を画策して暴動を起こしていた。それらを鎮圧したのが、蝦夷末裔の武人だった。その武人は、功績を認められ、禁足地の神社(モリ)で武芸により怨霊を鎮めていた武芸者の「もののふ」から「武士」として公に認められた。それらの武士は、嵯峨源氏や醍醐源氏高明の下に集結した。が、しかし、まだ、清和源氏(陽成源氏)は、存在しない。清和源氏が歴史上に現れるのは、961年経基王が、清和源氏(陽成源氏)を賜姓されてからだ。
村上天皇の時代、天暦8年(954年)の廟堂は、大納言醍醐源氏高明、以下、源雅信、源重信、源時中と醍醐源氏が就任した。特に、醍醐源氏高明は、康保3年(966年)右大臣、康保4年(967年)左大臣に昇叙された。左大臣となった醍醐源氏高明は、娘を為平親王の妻とした。もし、為平親王が天皇となったとしたら、「外戚権」は醍醐源氏になる。
ここに不思議な「源氏」が現れる。清和源氏を祖とする、源満仲だ。系図だと、清和天皇→経基親王→源満仲(多田新発意)、となるが、生まれは、「父」とする経基親王よりも「子」とする満仲が、藤原日本史での「兄」天智天皇より「弟」天武天皇が4歳も年上と同じように、2年も前なのだ。この不自然さを、藤原日本史では満仲は、経基王の養子になったと説明している。更に、満仲の出自が不明だ。満仲は、突然どこから渡来してきたのか。
清和源氏とする源満仲なる者は、藤原氏に取り入りながら、反藤原氏の橘繁延や、北家の亜流の亜流藤原千晴らと、醍醐源氏高明を奉じて東国に下り、挙兵して藤原氏に対抗することを計画したが、仲間割れして、この秘策が漏れることを恐れ、右大臣藤原師尹に密告した。
安和2年(969年)右大臣藤原師尹は、この源満仲の密告を名目に、醍醐源氏高明を太宰員外師として左遷した。ここで再び、菅原道真を左遷した密告戦術が使われたのだ。この密告の功績により、清和源氏満仲は、969年叙位し、藤原氏の配下となった。
これ以降から鎌倉時代になると、嵯峨源氏、醍醐源氏は歴史上から消え、清和源氏が「源氏棟梁」となるのは、何故だ。
鎌倉時代、嵯峨源氏、醍醐源氏の末裔は、どこに消えたのか。その謎解きのヒントは、清和源氏義家が、「八幡」太郎と名乗ったり、清和源氏義光が、「新羅」三郎と名乗ったりしていることだ。それらの「八幡」や「新羅」は、反藤原氏の秦氏(嵯峨源氏)と大いに関係があるものだ。
何故、反藤原氏の秦氏に関係のある「八幡」(「ハチマン」ではなく「ヤ・ハタ・大秦」)や「新羅」(「シラギ」ではなく「シンラ・秦国」)を、藤原氏の傭兵である「清和源氏」(陽成源氏)が名乗るのか。そこに鎌倉時代の謎がある。
清和源氏とする源満仲は、突然、歴史上に現れ、藤原氏の傭兵となった。では、満仲は、どこから渡来してきたのか。考えられるのは、東アジアのようだ。

2020年2月16日日曜日

文明一八年七月二九日(1486) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、



文明一八年七月二九日(1486) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010/ht092700

文明一七 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、


信濃史料
巻九 応仁二年(1468)~
文明一七年七月二九日(1485) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

    [出典]
     諏訪御符礼之古書・○・諏訪郡茅野町・守矢真幸氏所蔵


https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000710100/2000710100100010/0904/?pagecode=47

寛正五 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、



信濃史料
巻八 正長元年(1428)~
寛正五年七月三〇日(1464) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

    [出典]
     諏訪御符礼之古書・○・諏訪郡茅野町・守矢真幸氏所蔵


長沼城


長沼城は千曲川左岸の自然堤防上に発達した集落、長沼にある平城である。文献上では至徳4(1387)年に島津太郎国忠が「長沼太郎」として記されているのが長沼の初見である。以降の室町時代には、島津常忠-信忠-清忠が長沼郷の領有者として史料に見え、隣郷の赤沼にも島津忠国-朝国らの存在が確認されている。
これまで長沼城の築城は『甲陽軍鑑』などを根拠に永禄11(1568)年、武田方の馬場信房によるものとされてきた。しかし同年7月の「上杉輝虎書状」には「長沼再興之由」とあり、それがあくまで再建工事であったことがわかる。ところで同6年8月15日の島津尾張守に宛てた「武田信玄書状」によればむしろこれこそ長沼への集住=城下町の建設を示しているものと思われる。
この時期、武田信玄の信濃攻略は川中島八幡原の激戦以後、飯山城から野尻城へと進み、信越国境付近に進出しつつあった。永禄6年4月4日には信玄は「国中之人夫」を動員し、飯縄山山麓に軍用の道路を建設するという大規模な普請を完成していた。まさに、長沼城下の建設は武田氏のこのような大規模な普請の延長線上に行われたものと思われる。しかも室町時代以来、在地に根を張っていた島津氏一門の関係者を媒介としていることは、この永禄6年の武田氏による長沼城下の建設がそれ以前の島津氏によって構築された城を利用したものであったことを示していると思われる。
こうして長沼城は埴科郡松代の海津城と共に天正10年3月まで武田氏による川中島四郡支配の一方の拠点となった。
(日本城郭体系より)
川中島合戦の舞台ともなった長沼城
長沼城は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。弘治3(1557)年、甲斐の武田信玄が信濃攻めのおり、長沼の島津氏が撤退した後、築造した平城である。この城は川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって幾度も改造が行われ、16世紀後半には激しい戦いの舞台となっている。
武田氏滅亡後は、織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣・松平忠輝等の領地へと移り変わった。
長沼藩として独立したのは元和2(1616)年、初代藩主佐久間勝之からである。元禄元(1688)年四代目勝親の時代、故あって改易廃藩となり廃城となった。このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流失している。
(看板資料より)
この図は江戸中期、廃城となる前(1680年頃)の長沼城を数枚の古城図や剣地帳、地籍図を元に現地調査を行い、想定し作成した図である。城域は南北約650m、東西約500mにおよび、約34ヘクタールの面積となる。北端は?笑寺の南、南端は貞心寺の南まで、西端は家並みを通る県道より130mほど西、東端は堤防より約150m東である。
本丸は現在地から堤防沿いを北へ約150mほどの位置となる。天守はなかったと云われている。現在遺構として天王宮の土丘、北の三日月堀、西の三日月堀の一部が見られるのみである。
(看板資料より)

長沼城址
戦国期から江戸初期にかけての平城である。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点であった。元は太田荘地頭の島津氏の居所であったが、戦国初期は長尾(上杉)方に属し、その後武田氏方により改めて築城されている(1566)。
天正6(1578)年、武田勝頼が入城。武田氏滅亡(1582)後は織田信長の将森長可、上杉景勝、旧主島津忠直と変わる。
元和元(1615)年佐久間勝元が長沼藩1万8千石で入った。元禄元(1688)年4代目佐久間氏のときに徐封されて、幕府領となり廃城した。現在地は天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北200mのところにあった。
(看板資料より)

今回の史跡探索の主要な目的地のひとつであったのがこの長沼城でした。長沼城の場所と思われる付近を目的地にして現地に向いましたがなかなか場所が分からず軽トラのおじちゃんに場所を聞きました。それによると千曲川の土手沿いの道を北上していくと左側にたくさん木があるのですぐに分かるとのことでした。土手の道に出て北上していきましたがなかなか見つけることができませんでした。あきらめかけていた時にこれで最後にしようと思いながら土手から下って木の下にある塔や大きな石があるところに行ってみたらなんと長沼城跡と書かれた石を発見しました。なんとか長沼城跡を見つけることができました。
城跡の割にはその形跡を感じることができませんでした。看板の説明資料には「本丸はここから北に200メートルのところにあった」と書かれていたのでここが長沼城ではなかったのかもしれません。

大熊新城の築城



この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。

「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、

「文明十八年丙午御射山明年御頭足


一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)

一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、

下位殿当郡大熊荒城取立候
、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」


とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。

~ 築城の経緯 ~

上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。

しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。

その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、下社も焼かれてしまった。


大熊新城の遠望

大熊新城は、いかがだったでしょうかこの城の廃城時期については、資料は存在しないものの、「諏訪市史」には、天文12年(1543)頃、武田氏により諏訪全域の支配がかたまり、高遠氏の諏訪支配の望みが断たれた頃、これに伴って高遠側の出城であった大熊新城も廃城になったのではなかとしている。

これほど詳しく城の歴史が分かるものも珍しいので大切に整備して欲しいものですね。
(現地に、標柱・説明板など城跡を示すものは設置されていないので。。。。。)



~参考資料~
山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)
諏訪市史        (諏訪市史編纂委員会  昭和51年)    


http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-entry-156.html?sp


諏訪御符札之古書

築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。

「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」

(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)


築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。

それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。

上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。

翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。

これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。

その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~

「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。

http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-category-24.html