2021年3月17日水曜日

大伴金村

 榎本という苗字は古くからあり、弘仁6年(815)に編纂された『新撰姓氏録』にも記載される古代姓氏である。「榎本」という字も、過去には江本・榎下・榎元・朴本と表記されることもあった。いずれも読み方は「えのもと」であり、これらの苗字も元は同じ氏族だったと考えられる。

 多くの苗字が地名由来であるのと同様、榎本に関しても山城国乙訓郡榎本郷・武蔵国都筑郡榎下邑・下野国都賀郡榎本邑といった地名が各地に存在する。

 したがって榎本姓にはいくつかの流れがある。大伴朴本連、榎本連(『姓氏録』によれば左京神別。紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模にわかれる。田井-紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本-江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か。土佐陸奥にわかれる。室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬-牟婁郡有馬に起る。産田神社祠官)、丸子連(石垣-紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕-熊野人、下総国香取郡にわかれる)などである。

 榎本連は大伴大連の系統で山背国乙訓郡榎本郷より出て、大和国の金剛山の麓(現・御所市)、紀伊国・熊野国・尾鷲にまで広がる大豪族だったといわれる。

 『新撰姓氏録』には大伴連・榎本連の祖としておおとものむらじさでひこ大伴連狭手彦(生没年不詳)がみえる。大伴連狭手彦はみちおみのみこと道臣命の孫にあたる大伴かなむら金村の子である。大伴佐弖彦・大伴佐弖比古命・狭手彦命などと表記がされることもある。大伴金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇の5代に仕えた大連で、継体天皇の即位を実現させた忠臣として知られる。

 『日本書紀』によると宣化2年(537)10月1日に新羅のみまな任那(朝鮮半島南部地域)侵略をうけて大伴金村の子磐と狭手彦に任那救助の勅命が下された。磐は三韓防衛(百済・新羅・高句麗)のため筑紫にとどまり、狭手彦が任那を鎮め、百済を救済した。欽明23年(562)8月には大将軍として数万人の軍を率いて高句麗を討ち、多くの宝物を天皇に献上した。刺田比古神社(和歌山県和歌山市片岡町2-9)の言い伝えによると、これらの武功により岡の里を賜ったとされる。

 『肥前風土記』や『万葉集』には狭手彦の悲恋が伝えられている。狭手彦は高句麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚する。高句麗出兵のための別れに際し、狭手彦は餞別として鏡を贈った。しかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦の船に向かって手を振りつづけた。このときに餞別の鏡が落ちたという。このことから、岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったという。

 この悲恋は人々の琴線に触れ、『万葉集』巻五に以下の和歌が伝えられている。


   遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名

   山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ

   萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣

   海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣

   行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣


 狭手彦の曾祖父道臣命は大伴氏の祖先神で、「伴氏系図」によれば天忍日命の曾孫である。元の名はひのおみのみこと日臣命となっていて、「太陽の臣下」の意とされる。紀州名草郡片岡邑(和歌山県和歌山市片岡町)の人である。神武天皇の御代に朝廷の軍事を司り、神武天皇の東征の際に武功をあげた。最初に神事を執り行ったことでも知られる。その様子は『古事記』『日本書紀』に詳しく記されている。

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『古事記』では、皇軍が宇陀(現在の奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)の地に至ったとき、その地の兄宇迦斯・弟宇迦斯が抵抗して天皇の使いである八咫烏を矢で追い返した。さらに兄宇迦斯は天皇に従うふりをして御殿を造り、踏むと圧死するばね(押機という罠)を仕掛け皇軍をだまし討ちにしようとした。しかし弟宇迦斯が策略を告白したので、道臣命と天津久米命(久米氏の祖)は兄宇迦斯に「おまえが作った屋敷にはおまえ自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い詰めた。兄宇迦斯は自らの仕掛けにかかり押しつぶされて死んでしまう。道臣は死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれるようになった。

 『日本書紀』によると、神武即位前戊午年(紀元前663)6月の神武天皇東征のとき、日臣命は大来目部を率いて熊野山中を踏みわけ、兵車で道を開いて皇軍を宇陀まで進めた。この功により道臣の名を賜わった。同年8月、天皇の命をうけ、反逆を企む宇陀の首長兄滑を追いこみ、自滅させた。

 『古事記』では大伴氏と久米氏は同等に記されているが、『日本書紀』では大伴氏が久米氏を率いたことになっている。時代が経つにつれ両氏の勢力が変化したことを示しているのだろう。のちに大伴氏は久米氏とともに軍事を司るが、久米氏は没落とともに久米部として大伴氏に率いられるようになる。

 同年9月、東征軍は宇陀の高倉山に至るが、国見丘の八十梟帥によって男坂・女坂などの要害を抑えられていた。神武天皇は祈誓の夢に天神のお告げを受け、天香山の土で祭具を作り、丹生の川上で天神地祇を祭り、戦勝祈願した。神武天皇が高産皇霊神の神霊の憑人を務めた際に、道臣命は斎主(潔斎して神を祭る役)を務め厳媛と名づけられた。道臣命は男性だが女性の名をつけられたのは、神を祀るのは女性の役目だったことの名残とみられる。

 同年10月、道臣命は大来目らを率い、国見丘の八十梟師の残党を討伐する。忍坂の邑に大室をつくり、精鋭を率いて残党と酒宴を開いた。宴もたけなわになったころ道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。

 神武元年(紀元前660)、神武天皇が即位後に初めて政務を行う日に道臣命は大来目部を率い、諷歌倒語を以て妖気を払った。諷歌とは他のことになぞらえて諭す歌、倒語は相手にわからないように味方にだけ通じるように話す言葉である。神武2年(紀元前659)から築坂邑(現・橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わったという。

 現在では、初期の天皇が非常に長命であること、紀年が古すぎること、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似していることなどの理由で神武天皇の存在は否定的で、これらは神話とするのが考古学における一般的な理解である。神武東征についても邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルという説もある。したがって道臣命の実在も疑われるところだが、このような伝承が残っているという事実は認識しておいていいだろう。

 ただ、大伴連狭手彦と榎本氏との詳細な関係はわかっていない。


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石川県の家紋

 家紋分布の特色

石川県の家紋は、わが国の家紋分布上、きわめて特色のある県である。木爪紋と蔦紋がきわめて多く、その両紋を合わせるとその使用比率は実に40%に達する。このことはわが国の家紋分布上、きわめて異例のことである。

このことは富山県にもいえるが、蔦紋はずっと少なくなる。木爪紋が北陸地方に多い理由については次のような諸説がある。



(1)越前国の豪族朝倉氏の影響

朝倉氏は日下部氏族の名族で、但馬国から越前国に移り、勢力を拡大した。日下部氏族の代表家紋は木爪紋であり、朝倉氏は三つ木爪紋が定紋であり、越前国に分布し、さらに北陸地方に広まった。



(2)伴氏の影響

万葉歌人とし知られる大伴家持が天平18年(746)、越中国赴任している。大伴氏は淳和天皇の時(823)、伴氏と改姓した。この伴氏の家紋が木爪紋であったことによる。



(3)一向宗門徒の影響

南北朝以降、越前、加賀、越中の諸国は一向宗の門徒の勢力が強大であった。現在もその門徒の子孫も多く、これらの家は多くが木爪紋を用いている。


また他県に比して少ない家紋がある。それは梅鉢紋、藤紋、鷹の羽紋、である。梅鉢紋は加賀藩主前田家の定紋であるので一般の人が使用を遠慮したものと思われる。



http://www.nihonkamon.com/ishikawa/bunpu.html


木瓜紋

 伴氏は古代豪族大伴氏の後裔にあたる伴善男の子孫だといい、甲賀の伴氏は三河国から移住してきたと伝えている。その真偽はともかくとして、伴氏、大原氏をはじめ上野、岩根、宮島氏ら一族はこぞって「木瓜」を家紋としていた。さらに、伴氏から分かれたという山岡氏・滝川氏らも木瓜紋を用いた。加えて、伴氏の本家にあたる三河の富永氏も「木瓜に二つ引両」を用いていたことは、室町幕府の史料などから知られるところだ。木瓜紋が伴氏に共通した家紋であったことが分かる。


http://www.harimaya.com/o_kamon1/view/view_17.html

伴荘右衛門資芳

 近江商人伴家 主流 伴荘右衛門資芳


https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/40/0/40_41/_pdf


大伴氏

 大伴氏(おおともうじ)、のちに伴氏(ともうじ、ばんし)は、日本の氏族のひとつ。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。


摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で[1]、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。


「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む[2]。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている[3]。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。


古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらしく[4]、大伴金村の「住吉の宅」があったほか[5]、『万葉集』でも「大伴の御津の浜」[6]「大伴の高師の浜」[7]と詠われている。住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府高石市一帯のことである。


一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や[8]、大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される[4]。 また、大伴氏の祖先神大伴武日の古墳が、和歌山県和歌山市の和歌山城(元は金村息子の大伴狭手彦の子孫が所持していた岡城)近くにあり、岡邑を領有していたことからも、和歌山県にもその根拠地がある。実際、和歌山県には大伴氏の系譜を引く一族が数多く残っている。


5世紀後半に現れた大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり[9]、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。


武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた[10]。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し[11]、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。


しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大伴磐・大伴咋・大伴狭手彦は大将軍や大夫(議政官)に任ぜられ、大化の改新の後の大化5年(649年)には大伴長徳が右大臣になっている。また、弘文天皇元年(672年)に発生した壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田・吹負兄弟が兵を率いて功績を立てている。以後も奈良時代までの朝廷において、大納言まで昇った大伴御行・大伴安麻呂・大伴旅人以下、多数の公卿を輩出した。


一方で、大伴安麻呂・大伴旅人・大伴家持・大伴坂上郎女などの万葉歌人も多く世に出している。ほかに、遣唐副使を務めた大伴古麻呂は独断で鑑真を唐から密航させて日本へ導いている


大伴氏は奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わって一族から多数の処罰者を出し、徐々に勢力が衰えていく。


神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、長屋王と親しかった大伴旅人が事件前後に一時的に大宰府に左遷される。その後、奈良時代中期の藤原仲麻呂政権下において、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の乱で、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処される。また、大伴家持は別途藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、天平宝字8年(764年)薩摩守に左遷されている。


その後、家持は天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に連座して解官の憂き目に遭いつつも、最終的に桓武朝初頭に中納言にまで昇った。延暦3年(784年)桓武天皇は長岡京への遷都を実行する。大伴氏はこの政策に不満を持っていたとされ、遷都の責任者であった中納言・藤原種継を暗殺する事件(藤原種継暗殺事件)を起こす。乱後、大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑、直前に没していた家持も除名された。


なお平安時代初期には、初代・征夷大将軍となって蝦夷征討で功績を挙げ従三位に昇った大伴弟麻呂や、藤原種継暗殺事件の首謀者・大伴継人の子として若くして流罪となるも、恩赦後に内外の諸官で業績を上げて参議に任ぜられた大伴国道と公卿を輩出している。また、弘仁14年(823年)淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。


承和9年(842年)に発生した承和の変では伴健岑が首謀者として流罪となり、藤原氏による他氏排斥で伴氏も打撃を受けたとされるが、実際に五位以上の氏人で連座した者はいなかった。


その後、国道の子・伴善男が仁明天皇の知遇を受けて頭角を現し、清和朝の貞観6年(864年)には旅人以来130年振りに大納言に昇る。しかし、貞観8年(866年)に発生した応天門の変では善男・中庸父子が首謀者とされてその親族が多数流罪となり、伴氏の公卿の流れは断絶してしまった。


天慶2年(939年)に伴保平が6ヶ国の国司を勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振りに公卿となる。保平は高齢を保ち天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の台頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく。


その後は以下の家が伴氏の後裔を称した。


鶴岡社職家・・・伴忠国が鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承。伴中庸の後裔を称したが[12]、伴保平の弟である保在の後裔とする系図もある[13]。

肝付氏・・・大隅国の豪族。戦国時代には肝付兼続が戦国大名として島津氏と争うが、子孫は島津氏に臣従し薩摩藩士となった。出自は明らかでないが、伴姓を称し、伴中庸に繋げる系図がある[14]。

三河伴氏・・・三河国の豪族。平安時代後期に伴助兼が後三年の役で活躍した。伴善男[15]・大伴駿河麻呂[16]・大伴家持[17]らに繋げる系図がある。

甲賀伴党・・・近江国の豪族。のち滝川氏を称し、戦国時代に滝川一益を出している。三河伴氏の一族[18]。

伊豆伴氏・・・平安時代後期に伊豆掾を歴任[19]。伊豆権守(掾か?)・伴為房の娘は北条時政の母とされる[20]。伴善男が伊豆国への配流後に儲けたとされる伴善魚に繋げる系図がある[19]。

小野家・・・朝廷で主殿寮官人を務めた地下家。江戸時代の極官は従四位上・主殿助。伴保平の後裔を称した。[21]

尾崎家・・・桂宮家の諸大夫を務めた地下家。江戸時代の極官は正四位下・縫殿頭。江戸時代後期に尾崎積興は81歳の長命を保ち従三位に叙せられた。また、尾崎三良は明治維新の勲功により男爵に叙爵されている。伴善男の後裔を称した[21]。

市部氏・・・甲斐伴氏とも呼ばれ、甲斐国にその一族である宮原哲家の系統。支族に金丸氏がある。


伴 善男

 伴 善男(とも の よしお)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。

弘仁2年(811年)伴国道の五男として誕生。生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説[1]、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説[2]がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。

天長7年(830年)に校書殿の官人に補せられ仁明天皇に近侍すると、その知遇を受け次第に重用されるようになる。承和8年(841年)大内記、承和9年(842年)蔵人兼式部大丞を経て、承和10年(843年)従五位下・右少弁兼讃岐権守に叙任された。

承和13年(846年)の善愷訴訟事件では、当時の事務慣例に沿って行った訴訟の取り扱いが律令に反するとして、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を弾劾し失脚させる[3]。また、かつて大伴家持が所有し藤原種継暗殺事件の関与によって没収され、大学寮勧学田に編入されていた加賀国の100町余りの水田について、既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し、強引に返還させたという[4]。


その後は急速に昇進し、承和14年(847年)従五位上・蔵人頭兼右中弁、翌嘉祥元年(848年)には従四位下・参議兼右大弁に叙任され公卿に列す。仁明朝では議政官として右衛門督・検非違使別当・式部大輔を兼ねた。また、同年には 山崎橋の修復のために派遣された安倍安仁・源弘に同行している[5]。


嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い従四位上に昇叙すると、仁寿3年(853年)正四位下、斉衡元年(855年)従三位と引き続き順調に昇進を続けた。またこの間、皇太后宮大夫・中宮大夫を兼帯する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっている[6]。


清和朝に入っても貞観元年(859年)正三位、貞観2年(860年)中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に至る。大納言への任官は天平2年(730年)の大伴旅人以来約130年ぶりのことであった。


しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣・源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣・藤原良房の清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子・中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪[7][8]、死罪とされたが、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。


貞観10年(868年)配所の伊豆で死去した。


生まれつき爽俊(人品が優れている)な一方で、狡猾であり黠児(わるがしこい男)と呼ばれた。また、傲岸で人と打ち解けなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯は矮小であった[9]。


注記のないものは『六国史』による。


時期不詳:正六位上

天長7年(830年) 日付不詳:校書殿官人[10]

承和8年(841年) 2月:大内記[11]

承和9年(842年) 正月:蔵人[11]。8月11日:式部大丞[11]

承和10年(843年) 正月23日:従五位下。2月10日讃岐権介。11月28日:右少弁[11]

承和14年(847年) 正月7日:従五位上。正月10日:蔵人頭[11]。正月12日:右中弁

承和15年(848年) 正月7日:従四位下(越階)。2月2日:参議。2月3日:班河内和泉田使長官。2月14日:兼右大弁

嘉祥2年(849年) 正月:兼下野守[11]。2月27日:兼右衛門督。6月14日:検非違使別当[11]。9月26日:兼式部大輔、止右大弁[11]

嘉祥3年(850年) 3月22日:装束司(仁明天皇崩御)。4月17日:従四位上。4月:兼皇太后宮大夫[11](皇太夫人・藤原順子)

嘉祥4年(851年) 正月11日:兼美作守

仁寿2年(853年) 5月:停検非違使別当[11]。9月兼式部大輔[11]

仁寿3年(853年) 正月7日:正四位下。4月:兼中宮大夫(中宮・藤原明子)

斉衡1年(854年) 正月16日:兼讃岐守、中宮大夫式部大輔如故。

斉衡2年(855年) 正月7日:従三位

天安2年(858年) 8月27日:装束司(文徳天皇崩御)。11月:皇太后宮大夫[11](皇太夫人・藤原明子)

天安3年(859年) 正月13日:兼伊予権守。4月18日:正三位。12月21日:兼民部卿

貞観2年(860年) 正月16日:中納言

貞観6年(864年) 正月16日:大納言、皇太后宮大夫民部卿如元

貞観8年(866年) 9月22日:遠流(伊豆国)

大伴永主

 大伴永主

大伴 永主(おおとも の ながぬし)は、奈良時代後期の貴族。中納言・大伴家持の子。官位は従五位下・右京亮。

延暦3年(784年)従五位下に叙爵し、右京亮に任ぜられる。翌延暦4年(785年)9月に発生した藤原種継暗殺事件では、前月に没していた父・家持が首謀者とされたことから、永主も連座して隠岐国への流罪となった[1]。

延暦25年(806年)桓武天皇によって、藤原種継暗殺事件で罰せられた人々が生死に関わらず本位に復され、永主も従五位下に叙せられた。ただし、この時点における永主の生死は明らかでない。

『六国史』による。

延暦3年(784年) 正月7日:従五位下。10月26日:右京亮

延暦4年(785年) 9月24日:官位剥奪(藤原種継暗殺事件に連座)[1]

延暦25年(806年) 3月17日:本位(従五位下)に復す


系譜

父:大伴家持

母:不詳

妻:不詳

男子:伴春宗[2]

男子:伴春世[2]

男子:伴春雄[2]

女子:藤原豊彦室[3]


伴 春宗

 伴 春宗(とも の はるむね)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右京亮・大伴永主の子。官位は従五位下・陸奥介。


式部少丞を経て、文徳朝末の天安2年(858年)従五位下・出雲守に叙任される。


天安3年(859年)陸奥介に転任し引き続き地方官を務める。しかし、前陸奥守・文室有真との解由がうまく進まず、期限内に官物の引き継ぎができなかったため、翌貞観3年(861年)に陸奥守・坂上当道らと共に公廨を一部没収される処分を受けた。


その後、散位を経て貞観7年(865年)陸奥介に再任されている。


『六国史』による。


時期不詳:式部少丞

天安2年(858年) 3月8日:従五位下、出雲守

天安3年(859年) 正月13日:陸奥介

貞観3年(861年) 2月2日:没公廨

時期不詳:散位

貞観7年(865年) 正月27日:陸奥介


系譜

父:大伴永主[1]

母:不詳

生母不明の子女

男子:伴忠輔[1]

男子:伴忠行[1




大伴宿禰家持

 

大伴宿禰家持 おおとものすくねやかもち

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yakamoti.html


生没年 718(養老2)?~785(延暦4)


系譜など 旅人の長男。母は不詳(丹比氏の郎女か)。同母弟に書持、同母妹に留女之女郎がいる。正妻は坂上大嬢。子に永主と女子の存在が知られる。


略伝 727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した(04/0567左注)。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。父は翌年7月死去し、家持は14歳にして佐保大伴家を背負って立つこととなった。


732(天平4)年頃から坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす(巻四・八)。736(天平8)年9月には「大伴家持の秋の歌四首」(08/1566~1569)を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。

 739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。この年6月、亡妾を悲傷する歌があり(03/0462・0464~0474)、これ以前に側室を失ったらしい。同年8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる(08/1619)。間もなく大嬢を正妻に迎えた。

 740(天平12)年までに内舎人に任じられ、同年10月末に奈良を出発した関東行幸に従駕。11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む(06/1029、1032・1033、1035・1036)。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。


741(天平13)年4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する(17/3909~13)。この年か翌742(天平14)年の10.17、橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む(08/1591)(注1)。743(天平15)年7.26、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発するが、家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まり、8月には「秋の歌三首」(08/1597~1599)、「鹿鳴歌二首」(08/1602・1603)・恭仁京賛歌(06/1037)を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家で催した宴に参席し、歌を詠む(06/1040)。この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。

 744(天平16)年1.11、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む(06/1043)。ところが同年閏1月の難波宮行幸の途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る(03/0475~0480)。この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の旧宅で歌を詠んでいる(17/3916~3921)。


745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る(17/3926)。同年3.10、宮内少輔に任じられるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む(17/3957~3959)。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。

 747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」(17/3985~3987)、「布勢水海に遊覧の賦」(17/3991・3992)、「立山の賦」(17/4000~4002)など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。


748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。

 749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する(18/4076~4079)。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」(18/4094~4097)など多くの力作を矢継ぎ早に作る。


同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」(18/4138)からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」(18/4139・40)など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け、挽歌を作る(18/4214~4216)。

 751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され(19/4248題詞)、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る(19/4256)。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席(18/4259)。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。

 752(天平勝宝4)年4.9、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る(19/4266・4267)。11.8、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず(19/4272)。11.25、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む(19/4278)。11.27、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む(19/4281)。


753(天平勝宝5)年2.19、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む(19/4289)。2月下旬、「興に依りて作る歌」(19/4290・4291)、雲雀の歌(19/4292)を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。同年5月、藤原仲麻呂邸で故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く(20/4293)。同年8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、歌を詠む(20/4297)。

 754(天平勝宝6)年 1.4、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した宴に参席、歌を作る(20/4304)が、詠み出す前に諸兄は宴をやめて辞去してしまったという。以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5、少納言より兵部少輔に転任する。

 755(天平勝宝7)年2月、防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集する。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」(20/4331~4333)・「防人の悲別の情を陳ぶる歌」(20/4408~4012)などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く(20/4442~4445)。この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する(20/4449~4451)。8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず(20/4453)。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と謀反の意図を密告され、翌756(天平勝宝8)年2月、致仕に追い込まれる。家持は同年3月聖武上皇の堀江行幸に従駕するが、同年5.2、上皇は崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。翌6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、病をおして「族を喩す歌」(20/4465~4467)を作り、氏族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。11.8、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する(20/4474)。11.23、式部少丞池主の宅の宴に兵部大丞大原今城と臨席する。

 757(天平勝宝9)年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。6.16、兵部大輔に昇進。6.23、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む(20/4483)。7月、橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は何ら咎めを受けた形跡がない。この頃、「物色変化を悲しむ歌」(20/4484)などを詠む。12.18には再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む(20/4488)。この時右中弁とある。12.23、大原今城宅の宴でも作歌(20/4492)。

 758(天平宝字2)年1.3、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず(20/4493)。2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。同年6.16、右中弁より因幡守に遷任される。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む(20/4515)。8.1、大炊王が即位(淳仁天皇)。


759(天平宝字3)年1.1、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む(20/4516)。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。

 760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している(04/0786~0792)。家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である(大伴家持全集本文篇の末尾を参照)。

 762(天平宝字6)年1.9、信部(中務)大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京する。9.30、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。763(天平宝字7)年3月か4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)・佐伯今毛人・石上宅嗣らと共に恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人罪を問われ、家持ほかは現職を解される。

 764(天平宝字8)年1.21、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。同年9月、仲麻呂は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。10月、藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている。10.9、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後道鏡を重用した。

 765(天平神護1)年2.5、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。

 767(神護景雲1)年8.29、大宰少弐に任命される。

 770(神護景雲4)年6.16、民部少輔に遷任される。同年8.4、称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚。志貴皇子の子白壁王が皇太子に就く。9.16、家持は左中弁兼中務大輔に転任。

 同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、急速に昇進を重ねることになる。11.25、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進。

 772(宝亀3)年2月、左中弁兼式部員外大輔に転任する。774(宝亀5)年3.5、相模守に遷任され、半年後の9.4、さらに左京大夫兼上総守に遷る。

 775(宝亀6)年11.27、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就いたが、翌776(宝亀7)年3.6、衛門督を解かれ、伊勢守に遷任された。

 777(宝亀8)年1.7、従四位上に昇叙される。778(宝亀9)年1.16、さらに正四位下に昇る。779(宝亀10)年2.1、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。2.9、参議に右大弁を兼ねる。

 781(天応1)年2.17、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され、葬儀を司る。同年4.3、光仁天皇は風病と老齢を理由に退位し、山部親王が践祚(桓武天皇)。4.4、天皇の同母弟早良親王が立太子。4.14、家持は右京大夫に春宮大夫を兼ねる。4.15、正四位上に昇進。5.7、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。この後、母の喪により官職を解任されるが、8.8、左大弁兼春宮大夫に復任する(注2)。11.15、大嘗祭後の宴で従三位に昇叙される。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開ける)によるものと思われる。12.23、光仁上皇が崩御し、家持は吉備泉らと共に山作司(山陵を造作する官司)に任じられる。

 782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれる。続紀薨伝によれば、この時家持は免官のうえ京外へ移されたというが、わずか四か月後の5月には春宮大夫復任の記事が見える。6.17、春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。続紀薨伝には「以本官出、為陸奥按察使」とあり、陸奥に赴任したことは明らかである。程なく多賀城へ向かうか。


多賀城跡 宮城県多賀城市

 783(延暦2)年7.19、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。784(延暦3)年1.17、持節征東将軍を兼ねる。785(延暦4)年4.7、鎮守将軍家持が東北防衛について建言する。8.28、死す。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記され、持節征東将軍として陸奥で死去したか。

 ところが、埋葬も済んでいない死後20日余り後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件に主謀者として家持が関与していたことが発覚し、生前に遡って除名処分を受ける。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられ、家持の遺骨は家族の手によって隠岐に運ばれたと思われる。

 806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。これに伴い家持の遺族も帰京を許された。

 家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。

 なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。


(注1)万葉集の歌の排列から、この宴を738(天平10)年のものと見る説も多いが、恭仁京から平城旧京に参集して開かれた宴であると見られ(大伴家持全集本文篇の当該歌参照)、天平13年か14年とみる契沖などの説に従う。

(注2)喪葬令によれば実母の服喪は一年、養父母は五ヶ月、嫡母・継母一ヶ月。家持が左大弁に任じられたのはこの年5月なので、服喪による謹慎は三ヶ月以内。従って生母・養父母の死ではないとする説もあるが、服喪期間が短縮される例は多かったとみられるので、断定は出来まい。


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大伴氏系図

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大伴宿禰永主 おおとものすくねながぬし


生没年 未詳


系譜など 続日本紀の家持没伝に家持の息子とある(おそらく長男)。叙位の状況から見て750(天平勝宝2)年前後の生まれか。すなわち家持の越中赴任前後。子に陸奥介伴春宗と女子の二人が伝わる。娘は808(大同3)年藤原京家豊彦との間に冬緒(大納言に至る)をもうけた。


略伝 784(延暦3)年、正六位上より従五位下。同年10月、右京亮。785(延暦4)年、藤原種継暗殺事件に縁座して隠岐国流刑。806(延暦25)年3月、従五位下に復位(生死は不明)。

大伴氏系図 

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大伴氏系図 

家持略伝  

家持略年譜 

家持資料集 

 付・人物辞典

 付・天平外交史年表

 付・対蝦夷政策史年表



大伴氏の子孫 

名族だった大伴氏の子孫 

 こちらはかなり困った御仁である。大化前代の名族である大伴(おおとも)氏の末裔である。当時は淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)である大伴親王を憚って、伴氏を名乗っていた。伴氏は古代では「とも」と発音していたが、後世は音で「ばん」と読むようになった。

  その大伴氏の、金村(かなむら)から数えて五世孫に、弥嗣(いやつぐ)という男がいた。先祖の名誉を弥(いよい)よ嗣ぐようにとの父伯麻呂(おじまろ)の願いが込められた名だったのであろう。

 弥嗣の卒伝は、『日本後紀』巻三十一の弘仁十四年(八二三)七月甲戌条(二十二日)に、次のように記されている。

越後守従四位下伴宿禰弥嗣が卒去した。弥嗣は従三位伯麻呂の息男である。延暦十九年に従五位下に叙され、大宰少弐に任じられた。弘仁七年に従五位上、十三年に正五位下、十四年に従四位下に叙された。たいそう歩射(ぶしゃ)に巧みで、若い時から鷹犬を好んだ。邪悪な性格で、人を射ることを憚らなかった。晩年には気持を改め、暴慢の評判は聞こえなくなった。時に年は六十三歳。

 大伴氏の先祖には、継体・欽明朝の「大連」とされる金村をはじめ、大化改新に活躍した咋(くい)や長徳(ながとこ/右大臣)、壬申の乱の功臣である馬来田(まぐた/納言か)・吹負(ふけい)・御行(みゆき/大納言)・安麻呂(やすまろ/大納言)など、錚々たる顔ぶれを輩出している。

  しかし、律令国家がスタートすると、藤原氏に圧され、徐々にその地位を低下させていった(藤原氏以外の氏族は、皆、そうだったのであるが)。七世紀には文筆を表わす「史(ふひと)」という名であった「ふひと」が、並ぶ者がないという意味の「不比等(ふひと/比び等しきはあらず)」と改称し、「たびと」が「旅人」から、どこにでもいるという意味の「多比等(たびと/比び等しきは多し)」という字で表記されるようになったのが、それを象徴している。

 それでも嫡流の旅人は大納言、家持(やかもち)は中納言にまで上っている。弥嗣の系統でも、祖父の道足(みちたり)、父の伯麻呂は、共に参議に任じられた。伯麻呂の子は、名鳥(なとり)は官位不詳で、早世したものと思われる。


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60316

大伴 家持(おおとも の やかもち)

 大伴 家持(おおとも の やかもち)は、奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。


『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。


天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。


天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9歳(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7歳(755年)難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして、大伴古麻呂や大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。


天平宝字6年(762年)信部大輔に任ぜられ京官に復すが、淳仁朝で権勢を振るっていた太師・藤原仲麻呂に対して、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人とともに暗殺計画を立案する。しかし密告により計画は露見し、天平宝字7年(763年)に4人は捕えられてしまう。ここで藤原奈良麻呂が単独犯行を主張したことから、家持は罪に問われなかったものの[2]、翌天平宝字8年(764年)正月に薩摩守へ左遷される報復人事を受けた。


九州に下向していたためか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。その後、神護景雲元年(767年)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている。


神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇の即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下となる。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の国守を歴任する一方で、宝亀2年(771年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進する。宝亀11年(780年)参議に任ぜられて公卿に列し、翌天応元年(781年)には従三位に叙せられた。


桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。しかし、早くも同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)には先任の参議であった藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねた。さらに、延暦3年(784年)には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる。翌延暦4年(785年)4月には陸奥国に仮設置していた多賀・階上の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている[3]。


同年8月28日薨去。最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した[4]、あるいは遙任の官として在京していたとの両説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。


没した直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず[5]、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった。家持は没後20年以上経過した延暦25年に恩赦を受けて従三位に復している。


長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。。


勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている[6]。


太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、家持の「賀陸奥国出金詔書歌」(『万葉集』巻十八)に拠る。


昭和56年(1981年)の第1回高岡万葉まつりを記念してJR高岡駅北口駅前広場に大伴家持像が設置された[7]。その後、JR高岡駅周辺整備事業に伴って一時撤去して修理された際、家持の赴任地の越中国府が存在した伏木地区へ像を移転する意見も出されていたが、最終的には高岡駅のシンボルとして駅北口に再び設置されることになった[7]。


また、薩摩国司として赴任した鹿児島県薩摩川内市の川内歴史資料館近くおよび川内駅前にも、「未来へ語る歴史像」の一つとして大伴家持像が存在する[8]。



注記のないものは『六国史』による。


天平10年(738年) 日付不詳:見内舎人[9]

時期不詳:正六位上

天平17年(745年) 正月7日:従五位下

天平18年(746年) 3月10日:宮内少輔。6月21日:越中守

天平21年(749年) 4月1日:従五位上

天平勝宝3年(751年) 日付不詳:少納言[9]

天平勝宝6年(754年) 4月5日:兵部少輔。11月1日:山陰道巡察使

天平勝宝9年(757年) 6月16日:兵部大輔。日付不詳:見右中弁[10]

天平宝字2年(758年) 6月16日:因幡守

天平宝字6年(762年) 正月9日:信部大輔

天平宝字8年(764年) 正月21日:薩摩守

神護景雲元年(767年) 8月29日:大宰少弐

神護景雲4年(770年) 6月16日:民部少輔。9月16日:左中弁兼中務大輔。10月1日:正五位下

宝亀2年(771年) 11月25日:従四位下

宝亀3年(772年) 2月16日:式部員外大輔

宝亀5年(774年) 3月5日:相模守、止左中弁。9月4日:左京大夫兼上総守

宝亀6年(775年) 11月27日:衛門督

宝亀7年(776年) 3月6日:兼伊勢守

宝亀8年(777年) 正月7日:従四位上

宝亀9年(778年) 正月16日:正四位下

宝亀11年(780年) 2月1日:参議。2月9日:右大弁

天応元年(781年) 4月14日:兼春宮大夫。4月15日:正四位上。5月7日:兼左大弁、春宮大夫如元。8月8日:復任(母服喪)。11月15日:従三位。12月23日:山作司(光仁上皇崩御)

天応2年(782年) 正月19日:解官(氷上川継の乱連座)。4月:宥罪、復任[4]。5月17日:兼春宮大夫。6月17日:兼陸奥按察使鎮守将軍

延暦2年(783年) 7月19日:中納言

延暦3年(784年) 2月:持節征東将軍

延暦4年(785年) 8月28日:薨去(中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍)。9月24日:除名(藤原種継暗殺事件)

延暦25年(806年) 3月17日:復位(従三位)



系譜

父:大伴旅人[11]

母:丹比郎女

妻:大伴坂上大嬢 - 大伴宿奈麻呂の娘[要出典]

生母不明の子女

男子:大伴永主[11]

男子:大伴中主[12]

大伴家持

 大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。


家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。


天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。


家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。


家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。


家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。


天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。


延暦4年(785)68歳で没しました。埋葬も済んでいない死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは延暦25年(806大同元年)でした。


家持の生涯で最大の業績は『万葉集』の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。


越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。


国守の居館は二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。また、北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化に富んだ遊覧の地があります。家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。『万葉集』と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。


https://www.manreki.com/yakamochi/

2021年3月16日火曜日

大伴氏直系

 越後村松藩堀家番頭筆頭 伴 郷左衛門  投稿者:曾々孫  投稿日:2017年 1月29日(日)01時10分11秒 返信・引用


  村松藩堀家に使えた伴家は三河の出身。元を辿れば大伴家持が名を連ねる大伴氏です。大伴氏は太古の時代から朝廷の側にあり戦となれば先頭に立って戦う武装集団です。弓を射るときに跳ねた弦が左手を打たないようにした手袋のようなものが鞆(とも)で、そこから大伴氏の名前が生まれました。淳和天皇が崩御されたとき諱が大伴となったため、重なるのを避けて伴氏に改姓しました。戦国時代堀家に使えた伴氏は織田信長、豊臣秀吉の家臣となり、その後徳川家康に使えました。江戸時代、越後村松藩の藩主となった堀家とともに幕末を迎えました。戊辰戦争で村松藩は到幕と佐幕に真っ二つに割れました。曾祖父の伴郷左衛門は冷静に中立を守り戦闘に参加しないよう主君や藩士をなだめましたが堀家の殿様は言うことを聞かず会津若松へ走り、その後上杉家が守る到幕派の米沢にこもりました。村松に残った伴郷左衛門は血気盛んな藩士を抑えなにがなんでも戦には関わるなと頑強に戦闘参加を阻止し最後まで中立を守りました。会津若松では新撰組の土方歳三も加わり激戦を繰り広げましたが、土壇場で越後新発田藩が裏切り阿賀野川沿いに到幕軍が一気に会津盆地になだれ込んだようです。会津藩は新発田藩の裏切りで補給物資も断たれ落城となりました。村松でも会津でも新発田の事をよく思っていません。昔、年寄りは新発田ぎつねと言って忌み嫌いました。明治維新後は、その新発田ぎつねの元に伴郷左衛門が出向き、藩主堀直賀の赦免を願い出ました。新政府は伴郷左衛門が中立を守った事からその事を評価し赦免を受け入れました。伴郷左衛門は米沢で拘束されていた藩主を受け取り行きます。明治になり新潟市に出た伴郷左衛門は、医者になったとか?僕の曾祖母が伴郷左衛門の娘キヨウです。絶世の美女で二回結婚しています。二回目の結婚相手が帝国陸軍村松連隊の連隊長。僕の曾祖父です。伴郷左衛門の子孫は村松には居ません。埼玉県の幸手市にいらっしゃるかも。伴郷左衛門と伴家の墓所は村松の長養寺にあります。堀家の墓は村松の英林寺の裏山の上に並んでいます。堀家は絶えてしまったかもしれません。曾祖母と曾祖父の墓は堀家の墓の近くにあり安らかに眠っています。


村松城址がひっそりと残り、鍵之手に曲がったメインストリートのある村松の町は、いまでも城下町の風情を残してます。


東京の伴です。祖母から家系図を見せてもらい先祖には戊辰戦争時の会津若松に伴百悦という人がいました。さらにさかのぼると伏見城の合戦で戦死という方もいました。


はじめまして、伴でございます。伴家についてお調べでしたら、加賀藩の伴八矢を遡ると見えて参ります。大伴氏からの直系であり、伴一族のおおもとです。金沢近世史料館に原本が保存されています。なぜ手柄も何もなく、江戸年間を五千石という待遇で過ごせたのでしょう。色々と見えてまいりますね。ちなみに墓は大乗寺です。


https://6035.teacup.com/yoshidakun/bbs

伴八矢

日本近世初期における渡来朝鮮人の研究: 加賀藩を中心に

伴八矢の証言等により大坂表の武功が評価

file:///C:/Users/F2/Downloads/BN06294227-101-174%20(3).pdf



左三つ巴

 


由来説明文「加賀藩士伴八矢の下屋敷(家中町)があったところで、その家紋「左三つ巴」にちなんで、明治の初め、この名がついた。」(金沢市HPより)

http://ayumi.blog/?eid=508

http://cms.kanazawa-city.ed.jp/meisei-e/var/rev0/0003/4542/sekihi05.pdf

寛文侍帳

 寛文侍帳


森田平次(柿園)写
天保15年~明治28年(1844-1895)
84丁 24cm  (森田文庫K280/4)

原田佐五右衛門

青木惣左衛門

長屋与右衛門

森川孫右衛門

山森七郎右衛門

玉造伝左衛門

満田七兵衛

・伴八矢与力

松坂伝兵衛

小林太左衛門

神枝助丞

吉田五兵衛

大島佐次兵衛

山村半左衛門

松葉清兵衛

大平新七

山本勘右衛門

中村忠左衛門

・横山志摩与力

・不破彦三与力

不破八右衛門

・松平玄蕃

大平七右衛門

小野田善右衛門

村井久米丞

井口佐太右衛門

柳衛彦進

水沢十郎兵衛

尾崎九兵衛

・奥村源左衛門与力

米原七左衛門

・奥野右兵衛与力

水谷四郎兵衛

杉江伝兵衛

関八郎左衛門

長島半左衛門

畑野五郎兵衛

南部小左衛門

小崎五右衛門

・津田源右衛門与力

https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/toshokan/dglib/samurai/doc/kanbun/kanbun78.htm

判八矢長之

 

判八矢長之は2代藩主利長に召し出され3代藩主利常に仕え4,500石を拝領。嫡男長重は利長に仕え新知1,000石を加え5,500石を拝領し、代々人持組に属した。

現在「福は内、鬼は外」がある旧伴八矢屋敷前の坂を八矢坂といい、藩政期はかなりきつい急坂で荷車押しの溜り場がありました。人夫は一文で荷車を押たり引き上げたりしたといわれています。(現彦三1丁目)

(判八矢邸跡にあるうどん屋さん)


https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10634434212.html


大納言伴善男

 


篠山氏は大原氏の一族で南山六家に属している。系図では、先祖は大伴氏であるという。大伴氏とは古代の大氏族の一つで、神話時代の天忍日命から始まり道臣命、大伴金村と続く。壬申の乱では大海人皇子の側につき家運を回復し大納言にまで昇進し、一時は藤原氏と拮抗する勢力を持った。しかし、応天門の火災の罪をきた大納言伴善男が伊豆に流されてから衰えた。この伴善男の末裔と名乗る氏族が三河や近江に多く、大原氏もその一つである。

 大原氏は、寛政重修諸家譜によると次のように書かれている。

「家伝に、先祖大原備後守盛景近江国甲賀郡に住す。その子孫竹林を称し、景時にいたりて大原に復すといふ。今旧家伴氏山岡の譜を按ずるに大伴連は道臣命4世の孫、狭手彦の後なり。大伴宿禰国道の時、淳和天皇の御諱をはばかり改めて伴の朝臣となる。三河大介資兼より4代安芸権守資乗が3男八郎貞景、近江国甲賀郡大原に住して大原を称すといひ、貞景が弟を大原三郎盛景とす。これ家伝にいふ備後守と同人たるべし。」

 また、貞景の経歴について、鎌倉幕府中央との関係がよく分かる記述がある。(山岡系図)

「貞景 或資景 初資業 或資奈 伴太郎 八郎 五郎大夫 左衛門尉

 三河国を退去し、近江国甲賀郡大原邑に住し伴太郎資業を改めて大原八郎貞景と称す。よりて俗其邑を呼で伴里といふ。建仁3年6月佐々木左衛門尉定綱等鎌倉よりの命を受け、阿野法橋全成が男播磨公頼全を穿ちもとむ。貞景是時定綱に属し、頼全東山の延年 寺に住するのよしをきき、彼地にはせむかひこれを誅す。」

 少し解説すると、定綱は、源平合戦の立役者秀義の長男。近江佐々木庄が本領であるが、平治の乱後、父秀義に連れられ相模渋谷庄に寄留し、治承4年の頼朝挙兵に兄弟そろって応じ、鎌倉幕府の重鎮となり、近江守護に任ぜられた人物である。また、阿野全成は、源義朝の子、義経の兄で、母は常盤御前。頼朝が石橋山で挙兵した時参戦している。にもかかわらず建仁3年(1203)5月に謀反の疑いをかけられて召し捕られ、6月23日に殺された。

 頼家が殺させたとなっているが、北条氏の謀略と考えられている。上の資料にみえる全成の子頼全が京都で殺されたのは、同年7月16日であり、上の資料の6月と異なるが、貞景が佐々木定綱の命に服して頼全を殺したのは真実であろう。北条氏→佐々木氏→大原氏の主従関係が読み取れる。

 その後の大原氏の活躍を系図から見ると、貞景の子実景、実頼は承久3年の乱に官軍に属して尾張墨俣で討ち死にしている。しかし、貞景の兄の資秀は幕府側で先陣を進み宇治川で右目を射たれて負傷し、勲功を賜っている。(この時佐々木氏も2派に分かれて戦っている。実景らは定綱の長子広綱の軍に加わって敗戦の憂き目を見たのであろう。4男の佐々木信綱側は幕府側で戦功をあげ、佐々木氏を継いでいる。

 また、貞景の弟盛景の子景高は、将軍義詮に仕え、延文5年(1360)仁木左京大夫義長が将軍に叛いたとき、一族160騎が葛城山に陣して奮戦。この時将軍義詮から「感武功」で、太刀一振を賜っている。


https://kafuka.onmitsu.jp/oharasasayama.html

人持組

 織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中西三郡が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された[3]。


慶長4年(1599年)利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。翌、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、三ヶ国120万石に及ぶ所領を獲得した。のちに第三代利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。

支藩として他に上野七日市藩1万石がある[4]。利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。

大政奉還時は徳川慶喜を支持したが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

明治4年(1871年)廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。

明治17年(1884年)の華族令により侯爵家となった。
歴代藩主

※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)

前田家

(藩祖)利家

利長
利常
光高
綱紀
吉徳
宗辰
重煕
重靖
重教
治脩
斉広
斉泰
慶寧

なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った[5]。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表す侯を付した。
家臣

加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家、あるいは前田八家ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上、少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在した。
人持組頭(加賀八家)
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本多氏(5万石)筆頭家老、維新後男爵 、家紋は丸ノ内立葵。

初代本多政重は徳川家康の重臣本多正信の次男で上杉景勝の重臣直江兼続の養子であったが、故あって徳川・上杉両家を去って前田利長に仕える。
本多政重 - 政長 - 政敏 - 政質=政昌(政質の弟)=政行(政長四男政冬の子) - 政成 - 政礼 - 政和 - 政通=政均(政通の弟) - 政以。

長氏(穴水城主3万3000石) 維新後男爵 、家紋は銭九曜。

能登の在地勢力であり、畠山七人衆として知られた能登畠山氏旧臣。利家が能登を領して以来、臣従する。
長連龍 - 連頼 - 元連 - 尚連=高連(尚連弟連房の子) - 善連=連起(高連弟連安の子) - 連愛=連弘(本多政礼次男、連愛外孫、黒羽織党首) - 連恭=成連(連恭弟) - 克連。

横山氏(富山城代3万石・国家老)維新後男爵 、家紋は丸ノ内万字。

前田利長に仕え賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。利長が家督を継ぐと共に、利長の直臣から前田宗家の家臣に編入された。
横山長隆 - 長知 - 康玄 - 忠次 - 玄位=任風(玄位の弟)=貴林(奥村悳輝の三男) - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - 隆貴 - 隆平(祖父隆章の嫡孫承祖)

前田対馬守家(越中守山城代1万8000石・藩主一門)維新後男爵 、家紋は角ノ内梅鉢。

尾張前田同族の別家。初代前田長種の妻は利家の長女幸。
前田長種 - 直知 - 直正 - 孝貞 - 孝行 - 孝資 - 孝昌 - 孝友 - 孝本 - 孝中=孝敬(分家前田孝備の子) - 孝(男爵) - 孝行 - 孝哉

奥村河内守家(奥村宗家)(末森城代1万7000石)維新後男爵 、家紋は丸ノ内九枚笹。

奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣。奥村永福が祖。
奥村永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝=有定(横山貴林の子)=修古(奥村温良の子) - 栄輇=尚寛(奥村隆振次男) - 栄実 - 栄親=栄通(奥村質直八男) - 栄滋。

村井家(松根城代1万6500石余)維新後男爵、家紋は丸ノ内上羽蝶。

利家の尾張時代からの臣・村井長頼が祖。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称される。
村井長頼 - 長次=長光(織田有楽斎の長男長孝の四男) - 長朝 - 親長=長堅(前田孝行五男)=長穹(前田孝資三男) - 長世 - 長道=長貞(奥村質直七男)=長在(前田孝保次男)。

奥村内膳家(奥村分家)(1万2000石・留守居役)維新後男爵 、家紋は丸ノ内九枚笹。

奥村永福の次男易英を祖とする。
奥村易英 - 和忠 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬=温良(明敬弟) - 保命=易直(保命弟)=煕殷(易直弟)=成象(奥村忠順の子)=隆振(横山貴林の子) - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝=則友(惇叙三男)=則英(奥村英章四男)。

前田土佐守家(小松城代1万1000石・藩主一門)維新後男爵 、家紋は木瓜ノ内梅鉢。

前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)- 直行。

前田家重臣系図

主な人持組

今枝内記(民部)家(1万4000石・家老)

今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出。維新後男爵。(「蓮華寺」項目参照)、家紋は四ッ俵。
今枝重直=直恒(日置忠勝の五男) - 近義=直方(日置忠治の三男)=直道(前田知久の次男)=直郷(前田孝資の次男) - 易直 - 直寛=易良(直寛の弟) - 直応 - 直邦 - 直規

津田氏(1万石・家老)

元豊臣秀次の家臣で慶長14年(1609年)に前田家に仕えた、津田正勝を祖とする。幕末の藩主側近であった津田正邦が維新後、斯波氏に改姓して斯波蕃と名乗り男爵。(「津田氏」を参照) 、家紋は片喰。
津田正勝 - 正忠 - 正真 - 孟昭 - 敬脩 - 将順=正昭 - 政本 - 正矩=正直=正行=正邦

横山家(神谷家)

神谷守孝 - 神谷長治(横山長治)(養子。横山長知の三男)- 横山長昌(神谷長昌)。家紋は角ノ内万字。

横山蔵人家(1万石・家老)

横山正房(横山長治四男) - 正武=正従(横山長元の子)=政礼(横山貴林の子) - 政寛 - 政孝 - 政和

本多図書家(1万石・家老)

本多政長の四男本多政冬が初代。家紋は丸ノ内本ノ字。
本多政冬 - 政恒=政康 - 政養=政守

成瀬掃部家(8000石)

徳川家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)は17歳で徳川家を出奔。浅野幸長、小早川秀秋家臣を経て、利常に仕える。家紋は丸ノ内片喰。

青山将監家(7650石)

青山吉次(妻は利家姪)以降、魚津城代を四代務める。家紋は丸ノ内蔦。

寺西要人家(7000石)

旧織田家臣で加賀松任城代を務めた寺西秀則が初代。家紋は丸ノ内九枚笹。

前田図書家(7000石・藩主一門)

前田利家の六男利貞が初代。家紋は角ノ内梅鉢。

前田織江家(7000石・藩主一門)

前田長種の次男長時が初代。家紋は菊一文字。

前田修理家(6000石・藩主一門)

前田利家の三男知好が初代。家紋は亀甲ノ内梅鉢。
前田知好 - 知辰 - 知臣 - 知頼 - 知久=知定 - 知周 - 知故

山崎庄兵衛家(5500石)

越前朝倉氏旧臣の山崎長徳を祖とする。家紋は小槌。

多賀数馬家(5000石)

堀秀政の実弟多賀秀種が初代。家紋は片喰。

玉井頼母家(5000石)

支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。

伴八矢家(5000石)

織田家臣伴無理兵衛の子、伴長之を祖とする。家紋は三巴。

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伴方義

加賀藩人持組の構成に関する基礎的検討: 元禄一四 年以降を対象に

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石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第九節 版籍奉還


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不破家系譜の諸説

 

不破家系譜の諸説


(1)不破郡垂井町宮代の南雲大社社家の不破家説

 壬申の乱の折、大海人皇子を助け、不破の関を固め、大津宮に遷都された天智天皇の御子・弘文天皇に味方するために駆せ参じた関東からの軍勢を止め、大海人皇子・後の天武天皇よりその功績を認められ、不破大領(不破郡)に任んじられた「不破勝木実」の系統。この不破家は南宮大社社家の不破家で、全国の不破家の惣領として間違いなく、現在も宮代の不破家として繋がっている。


(2)西保(にしのほ=現在の神戸町)の戦国武将の不破家説

 西保不破家は織田信長の要職を務めた不破河内守光治の系統。西保不破家の系図は「不破家家譜」として「金沢市立近世史料館」にある。南宮大社社家の不破家を先祖としている系譜。

 不破河内守光治は西美濃4人衆(氏家卜全・安東守就・稲葉良通)と称せられ、先祖はは長碌年間(1457~1459)垂井府中城主・不破河内守直道-小太郎-孫左衛門道廣(神戸の西保城)-彦左衛門通直-不破河内守光治につながる。光治は元々守護大名の土岐頼芸(よりなり)の臣下であったが、土岐家滅亡後は斎藤氏に仕えた。織田信長が永禄10(1567)年斎藤龍興を滅ぼし、この時から信長の幕下に入る。天正3(1575)年は前田利家・佐々成正とともに信長の命で柴田勝家の目付として越前の一向門徒との戦いに従軍。

  光治は嫡子・不破彦三直光に家督を譲り、天正10年ごろ、能登の一向宗門徒との戦いで、能登・羽咋で流れ弾に当たり落命したとつたえられる。。光治嫡子・彦三直光により高野山の菩提寺・遍明院に葬られた(今は遍明院は消滅して跡形もなく、不破河内守光治の墓所は、高野山の何処にあるのか不明になっている)

 その後、嫡子・不破彦三直光は、信長亡き後の天下取りを狙う羽柴秀吉と柴田勝家側の反秀吉軍に組して、賤ヶ岳の戦いに出陣し、秀吉と敵対する立場を取った。 秀吉が天下統一後、浪人していたが、前田利家にその武勇を認められ、2万3000石で召し抱えられた。金沢城の鬼門にあたる北東の浅野川河畔に至るまでの広大な土地を与えられ、今も金沢市に「彦三町」として名前も残っている。


(3)東濃の遠山刑部丞正元の子孫とする説

(4)垂井青墓長者大炊兼遠の末流とする説

(5)岐阜県では「松井蔵人直家」を出自とする説・・・不破郡史(下記)


https://www.fuwaiin.com/fuwaiin-stage-2-5(history).htm