2020年2月16日日曜日

文明一八年七月二九日(1486) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、



文明一八年七月二九日(1486) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

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文明一七 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、


信濃史料
巻九 応仁二年(1468)~
文明一七年七月二九日(1485) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

    [出典]
     諏訪御符礼之古書・○・諏訪郡茅野町・守矢真幸氏所蔵


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寛正五 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、



信濃史料
巻八 正長元年(1428)~
寛正五年七月三〇日(1464) 諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、

    [出典]
     諏訪御符礼之古書・○・諏訪郡茅野町・守矢真幸氏所蔵


長沼城


長沼城は千曲川左岸の自然堤防上に発達した集落、長沼にある平城である。文献上では至徳4(1387)年に島津太郎国忠が「長沼太郎」として記されているのが長沼の初見である。以降の室町時代には、島津常忠-信忠-清忠が長沼郷の領有者として史料に見え、隣郷の赤沼にも島津忠国-朝国らの存在が確認されている。
これまで長沼城の築城は『甲陽軍鑑』などを根拠に永禄11(1568)年、武田方の馬場信房によるものとされてきた。しかし同年7月の「上杉輝虎書状」には「長沼再興之由」とあり、それがあくまで再建工事であったことがわかる。ところで同6年8月15日の島津尾張守に宛てた「武田信玄書状」によればむしろこれこそ長沼への集住=城下町の建設を示しているものと思われる。
この時期、武田信玄の信濃攻略は川中島八幡原の激戦以後、飯山城から野尻城へと進み、信越国境付近に進出しつつあった。永禄6年4月4日には信玄は「国中之人夫」を動員し、飯縄山山麓に軍用の道路を建設するという大規模な普請を完成していた。まさに、長沼城下の建設は武田氏のこのような大規模な普請の延長線上に行われたものと思われる。しかも室町時代以来、在地に根を張っていた島津氏一門の関係者を媒介としていることは、この永禄6年の武田氏による長沼城下の建設がそれ以前の島津氏によって構築された城を利用したものであったことを示していると思われる。
こうして長沼城は埴科郡松代の海津城と共に天正10年3月まで武田氏による川中島四郡支配の一方の拠点となった。
(日本城郭体系より)
川中島合戦の舞台ともなった長沼城
長沼城は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。弘治3(1557)年、甲斐の武田信玄が信濃攻めのおり、長沼の島津氏が撤退した後、築造した平城である。この城は川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって幾度も改造が行われ、16世紀後半には激しい戦いの舞台となっている。
武田氏滅亡後は、織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣・松平忠輝等の領地へと移り変わった。
長沼藩として独立したのは元和2(1616)年、初代藩主佐久間勝之からである。元禄元(1688)年四代目勝親の時代、故あって改易廃藩となり廃城となった。このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流失している。
(看板資料より)
この図は江戸中期、廃城となる前(1680年頃)の長沼城を数枚の古城図や剣地帳、地籍図を元に現地調査を行い、想定し作成した図である。城域は南北約650m、東西約500mにおよび、約34ヘクタールの面積となる。北端は?笑寺の南、南端は貞心寺の南まで、西端は家並みを通る県道より130mほど西、東端は堤防より約150m東である。
本丸は現在地から堤防沿いを北へ約150mほどの位置となる。天守はなかったと云われている。現在遺構として天王宮の土丘、北の三日月堀、西の三日月堀の一部が見られるのみである。
(看板資料より)

長沼城址
戦国期から江戸初期にかけての平城である。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点であった。元は太田荘地頭の島津氏の居所であったが、戦国初期は長尾(上杉)方に属し、その後武田氏方により改めて築城されている(1566)。
天正6(1578)年、武田勝頼が入城。武田氏滅亡(1582)後は織田信長の将森長可、上杉景勝、旧主島津忠直と変わる。
元和元(1615)年佐久間勝元が長沼藩1万8千石で入った。元禄元(1688)年4代目佐久間氏のときに徐封されて、幕府領となり廃城した。現在地は天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北200mのところにあった。
(看板資料より)

今回の史跡探索の主要な目的地のひとつであったのがこの長沼城でした。長沼城の場所と思われる付近を目的地にして現地に向いましたがなかなか場所が分からず軽トラのおじちゃんに場所を聞きました。それによると千曲川の土手沿いの道を北上していくと左側にたくさん木があるのですぐに分かるとのことでした。土手の道に出て北上していきましたがなかなか見つけることができませんでした。あきらめかけていた時にこれで最後にしようと思いながら土手から下って木の下にある塔や大きな石があるところに行ってみたらなんと長沼城跡と書かれた石を発見しました。なんとか長沼城跡を見つけることができました。
城跡の割にはその形跡を感じることができませんでした。看板の説明資料には「本丸はここから北に200メートルのところにあった」と書かれていたのでここが長沼城ではなかったのかもしれません。

大熊新城の築城



この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。

「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、

「文明十八年丙午御射山明年御頭足


一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)

一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、

下位殿当郡大熊荒城取立候
、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」


とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。

~ 築城の経緯 ~

上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。

しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。

その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、下社も焼かれてしまった。


大熊新城の遠望

大熊新城は、いかがだったでしょうかこの城の廃城時期については、資料は存在しないものの、「諏訪市史」には、天文12年(1543)頃、武田氏により諏訪全域の支配がかたまり、高遠氏の諏訪支配の望みが断たれた頃、これに伴って高遠側の出城であった大熊新城も廃城になったのではなかとしている。

これほど詳しく城の歴史が分かるものも珍しいので大切に整備して欲しいものですね。
(現地に、標柱・説明板など城跡を示すものは設置されていないので。。。。。)



~参考資料~
山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)
諏訪市史        (諏訪市史編纂委員会  昭和51年)    


http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-entry-156.html?sp


諏訪御符札之古書

築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。

「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」

(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)


築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。

それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。

上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。

翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。

これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。

その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~

「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。

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