築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。
「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」
(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)
築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。
それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。
上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。
翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。
これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。
その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~
「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。
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