2014年10月29日水曜日



5、善光寺平河東部の武田方拠点形成と戦況の新展開


 次の史料要約2は『信濃史料』にはない新史料です。弘治三年の善光寺平の戦況を語る重要な問題を含んでいるので、次に内容を掲げます。
 

       史料要約2、武田晴信書状 ○大阪城天守

       閣所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五六三号)を改変
 

  各々がよく働かれるので、そちらの備(千曲川右岸の東条と綿内)が、万全であるのは喜ばしい。当口(千曲川左岸地帯)のことは、春日・山栗田が没落し、寺 家・葛山は人質を出してきた。島津氏については、今日降参の趣を伝えてきている。もとより、同心が通ずられているので、心配はない。
 この上は、つまるところ相極め、東条と綿内、真田方(幸綱)衆と申合って武略を専一にしてほしい。
只今は時節到来とみたので、聊かも、油断してはならない。恐々謹言。
 追って、内々に□島(長野市綱島か)辺に在陣したが、もしも越後衆が出張してきたならば、備えは如何にと、各々が意見するので、佐野山(千曲市桑原付近)に馬を立てた。両日人馬を休め、明日は行動を起こしたい。
    (弘治三年)   (武田)
     七月六日    晴信(花押)
       (虎満)    
     小山田備中守殿

 史料要約2を天文二十四年のものとし、小山田氏と真田幸綱(のち幸隆)が景虎方の東条(雨飾城)と綿内城(春山城か)を攻略することを、晴信に命ぜられ たものとする説もありますが、そうではなく、既に、東条と綿内城は武田氏の手中にあり、真田氏と小山田氏が城将となっていることを示しているものといえま す。東条と綿内のどちらの城将かは分からないが、この書状は、一方を守る小山田備中守に宛てたものと推定します。
 この書状の年号は、『遺文』を支持し弘治三年とし、東条と綿内城の真田氏と小山田氏が武略を専一にして行動するように、晴信が指示したものと推定したい のです。景虎が飯山に帰っている六月中旬~七月初旬、既に東条と綿内城が武田方により取り返されていたのでしょう。
 この書状は、善光寺平河東守備衆が守備万全の報告をしたのち、武田晴信が返答したものであるとすれば、文言の理解が出来ます。
 また、追而書の文言から推察すると、晴信は川中島の綱島あたりまで進軍したが、越後方の脅威があるので、一歩後退し、七月六日善光寺平南部の佐野山城 (千曲市桑原付近)に居て、信州全体の指揮を執っていました。つまり直接的には千曲川左岸(西岸)の越後方陣地の攻略を晴信本隊がつかさどっていたのであ ります。
 島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分 裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
 史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分か ります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六日の両 日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
 また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧 してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
 景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があります。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際の ものとされていましたが、『上越市史別編1』では弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八月四日 現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ねていないので、弘治三年説に従いたいと思います。
      

       史料要約3、長尾景虎書状 ○上杉家文書

      (『上越市史』別編一・一五〇号)を改変

[出典]
「松澤芳宏の古代中世史と郷土史」 より
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html


上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集1」2688号)で、以下のものです。
「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略) 

   三月七日         景勝 

        [芋川越前守殿] 

       右同人へ」

 この書状からしますと、景勝は、親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検 使か)として送ったことが分かります。ここにでてくる芋川親正は、牧之島城に城将として在番して深志の小笠原貞慶に備えていたようです。また、島津左京亮 は、『上越市史』は長沼城代島津忠直の嫡子義忠としています。ただ、『秀吉の野望』の中で平山優氏は、島津泰忠(赤沼島津氏)としており、こちらの方が正 しいようです。。島津左京亮は、虚空蔵山城から派遣されたものと思われ、この戦線では派遣軍の検使とし活躍しています。
[出典]
「古城の風景」 より
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/22823715.html 


2014年10月28日火曜日


長沼城は、戦国期の弘治年間(1555-58)から永禄年間(1558-70)にかけて武田氏がいくたびかの年月をかけて整備した城郭で、武田氏が占領地で構築する梯郭式の城です。武田氏が当地を領有する前は、鎌倉期からこの地の地頭職を兼帯した島津氏が館を構えていたものと思われます。
 信濃島津氏は、薩摩島津氏の庶子家で鎌倉期初期より太田荘の諸郷の地頭職を受け継ぎ、南北朝期~戦国期にかけても黒川郷・長沼郷・下浅野福王寺郷の信濃島津氏(長沼島津氏は長沼郷を預かる庶子家だったかも?)や赤沼郷の赤沼島津氏(越前島津氏の庶子家)が隣接の諸勢力に抗して領地を保持していました。
 天文年間後半の武田氏の信濃侵攻は、その勢力バランスを根底から崩すもので、天文22年(1553)の村上氏の敗退は村上氏方であった島津氏にも影響を与えたようで、矢筒城による島津権六郎が武田氏に滅ぼされた(没落)と伝わっているようです。この矢筒城の島津権六郎は史料に見えない人ですが、矢筒城の地は信濃島津氏の本領の黒川郷があところで、信濃島津氏の惣領家だったのではないかと思われます。長沼島津氏や赤沼島津氏の帰趨は定かではありませんが、武田氏が弘治元年(1555)に長沼城の改修を行ってますので、上杉方につき北方に逃れたのではないかと思われます。
 しかし、この年の4月に善光寺別当栗田氏が武田方に転じ旭山城に籠城に始まる第2次川中島合戦の際に長沼城は上杉方に戻り、島津一族も戻っていたのではないかと思われます。しかし、弘治3年2月に川中島方面の上杉方の拠点葛山城が武田方に急襲され落城し、長沼城の島津氏も大倉城に逃れていますが、武田方の大日方氏が晴信に報告した中に島津月下斎が「鳥屋(長野市)に攻め寄せ、鬼無里に夜襲をかけている」と云うことが記され、後方撹乱をしているのが分かります。この第3次川中島合戦後も武田氏の攻勢が続き、「島津氏の家臣がぞくぞくし投降してきた」と晴信は小山田虎満に宛てた書状の中で書いていますので、赤沼島津氏が武田方に降ったのはこの時ではないかと思われます。
 弘治元年の改修に引き続き永禄4年(1561)に2回目の大がかりな改修を行い、復元図にある原形が出来上がったと思われます。永禄6年には、飯縄山麓に国中の人夫を動員して軍道を造り、赤沼にいた島津尾張守には、武田信玄から長沼の地下人(農民、庶民、地元の人)を帰住させるよう命じられていることから、越後上杉攻めの拠点を海津城より北側に移していったものと思われます。3回目の改修は永禄11年(1568)に馬場美濃守信春が命じられたようで、軍団が常駐できるようにし、城下も整備されたものうです。なお、この年の7月に信玄は長沼城に在陣して飯山城を攻めています。
 天正10年(1582)6月2日に織田信長が本能寺で横死すると、川中島は上杉景勝が領有した。同月26日に景勝自ら長沼城に入り、北信濃4郡(埴科・更科・高井・水内)を犀川以北と以南で海津組と長沼組に2分し、海津城には村上源五景国、長沼城には島津淡路守忠直を城代・郡司に任じました。
 上杉氏の会津移封後は、秀吉の蔵入地となり代官関一政が入り、江戸期になると森家・松平家が領有しましたが、元和元年(1615)佐久間勝之が1万石で入り、貞亨5年(1688)幕命に従わないとの由で改易となり廃城になりました。
※島津月下斎は、戦国期長沼島津氏を代表する人物として、天正10年に長沼城代・河北郡司になった島津淡路守忠直に比定されことが多いようですが、忠直は会津時代の史料では島津下々斎昔忠とあり会津長沼城を預かっていた。島津月下斎は、忠直の親と思われます。
※信濃島津氏と赤沼島津氏は天正10年7月13日に景勝より知行地を宛行われました。それを基に武田氏侵攻以前の知行高を推定してみたいと思います。長沼島津氏は、天文22年に惣領家が滅亡したと考えられ、惣領家を含めた所領と考えまして、牟礼・黒川を中核にして5100貫文に及び、そのほかにも長沼郷も含めると6千貫文を超えるものと思われます。赤沼島津氏は、168貫文だったようです。したがって文禄年間の両家の所領高も6190石と537石となっています。


[出典]
「古城の風景」
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/643141.html?m=lc&p=3



戦国時代になると、本家筋の井上氏とも争うようになり、一族内も大岩郷と須田郷に分裂して対立するようになる。
戦国時代はどこの家中にも争いが置き、近隣土豪間の対立も激化する。
このため、各土豪はより大きな勢力に従属することで、領域支配の安定をめざした。
この地方においては村上氏が最大勢力であり、必然的に村上氏が周辺の国人層を束ねることになる。
それは結果としては戦国大名化につながる。
しかし、信濃は各盆地が1つの国に近く、各盆地ごとに中心的な勢力が存在するが、国としてまとまる段階には至らないという地理的な宿命を負う。
その中でも小笠原氏と村上氏はニ代勢力であった。
既にこのころ、隣国甲斐では武田信虎が国内統一し、国外への進出を開始する。
 のちの「武田信玄」となる晴信の時代には、信濃にその矛先が向けられる。
中小の大名しかいない信濃は格好の草刈場であり、まず、天文11年(1542)、諏訪頼重を滅ぼし、次いで高遠氏等も滅ぼされた。
佐久地方への侵攻が始まると当然、村上氏と戦うこととなる。
村上氏は小笠原氏と連携し、天文17年上田原で、次いで戸石城で武田氏を2度にわたって破るが、小笠原氏が没落し、連携できなくなった村上氏も武田氏の諜略等により越後に亡命することになる。
須田氏は当然、村上氏に従って武田氏と戦うが、武田氏の謀略の手は須田氏にも延び、須田氏も武田方と村上方に分裂した。
もともと須田氏は2系統に分裂する要素があったので須田郷の須田氏は武田方に、大岩郷の須田氏が村上方に付いた。
村上氏の没落は大岩須田氏の没落も招き、大岩須田氏も村上氏と越後に亡命した。
ここから始まるのが、川中島の戦いであり、常に上杉(長尾)の先方に信濃を追われた、村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直子の名が見える。
しかし、北信濃は武田の手に落ち、彼らは越後で亡命生活を余儀なくされる。
一方、武田氏の使えた者は武田氏の領国支配体制に組み込まれていった。
この一族、2分策は後の真田氏同様、一族存続のための小土豪乱立状態の信濃の土豪に共通の暗黙の了解のもとの本能的な行動であったのかもしれない。
上杉氏に属した須田の棟梁は須田満親である。
しかし、彼は単なる亡命者ではなかった優秀な人材であり、上杉軍の越中攻略の先陣をにない越中の最高指揮官を務め、天正9年(1581)から11年までの間、越中にあって松倉、魚津城の防衛と羽柴秀吉との交渉に知略を巡らし、松倉城の撤退戦を指揮するなど、武勇と知略に優れた武将でもあった。
彼の故郷、北信濃は武田氏の滅亡、次いで本能寺の変により、上杉氏の手に落ち、須田満親を始め村上氏、高梨氏らは思わず故郷に復帰することになる。
この時、武田氏に属した一族はどうしたのだろうか?
須田満親は、天正13年(1585)六月から海津城に任命され、上杉景勝より北信濃四郡を統括し、検断権を含めた幅広い権限を委譲された。
海津城での知行高は12000石であり、上杉家中信州侍衆の筆頭となる。
第1次上田合戦で真田軍の支援に赴いた上杉軍は海津城の須田満親の率いる部隊である。
満親は海津城で死去し、次男長義が後を継ぐ。しかし、慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に同行しこの地を去る。
須田長義は陸奥梁川城で20000石の知行を得、関ヶ原の戦いに伴う伊達政宗の上杉領侵攻では伊達軍を破る活躍をするが、西軍の敗戦に伴う上杉氏の米沢への減封に須田氏も同行し、米沢に移住、上杉氏家中にあっても重職を勤めている。
以上の須田氏の歴史を見ると、須田城は武田系に属した須田氏の城であったと思われる。
城も古風であり、規模も小さい。近隣の替佐城、壁田城、髻山城のような新規性もない。
川中島の戦いに際して強化された感じも受けない。
おそらく、北信濃が武田氏の手に落ちた段階で廃城状態になったのではないだろうか。

[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/suzaka.htm



その後、武田が滅亡し織田信長が本能寺で横死。織田軍の撤収により九死に一生を得た上杉景勝は川中島四郡を接収し旧領主である北信濃の豪族にその領土を安堵した。須田信正は上杉に降り、大岩郷は須田満親が旧領支配を認められた。

武田の遺領である信濃を巡る上杉・北条・徳川の陣取り合戦は「仁義なき戦い」であり、信濃の土豪も容赦なく巻き込まれ家名存続の為に次々と決断を迫られた。

北条から徳川の配下に寝返った真田昌幸の勧誘工作に応じた須田信正は、内通が上杉景勝に露見してしまい、景勝の命により長沼城の島津勢の攻撃を受けた福島城は落城し須田信正は自刃。須田郷系の須田氏は滅亡。信正の所領は満親に与えられたという。


[出典]
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-589.html



さて、7月27日に判物を受けた義宣は、29日に直ちに伏見を発って秋田に向かい、江戸を経て安東秋田氏が常陸宍戸に国替えになった後に、空き城となった土崎湊城に先ず入りました。
湊城は、秋田県土崎駅の駅前にある神明社境内を本丸とする海に近い狭小の小城でした。
これは、安東氏が日本海交易で利を得ていた事から水軍を重視した為に生まれたものであって、太田や水戸の様な地形ではない為、また、佐竹は然程海を重視していた訳ではなかったので、使える場所ではありません。

其所で、直ちに新しい城地を探し、久保田の神明山(千秋公園台地)を適地として決定、1603年5月から築城を開始して、1604年8月28日に湊城を破却した後、新城に移ることになりました。
以後、1867年まで久保田城が佐竹の居城となった訳です。

神明山は、元々手形山に連続する段丘の末端でしたが、古い時代に手形の辺りで旭川の浸食を受けて切断し、三段段丘からなる独立の台地となりました。
これらの地は三森山、三岳山、矢留山、保戸野村山等の名称で呼ばれていましたが、これは本丸南西隅の御出し、北西隅の御隅櫓、八幡山の三箇所がそれではないかと言われています。

旭川は、仁別川とも呼ばれ、所によって添川、泉川、保戸野川と呼ばれたりしています。
この川は、太平山を源流として仁別、添川を流れ、転封当時は手形から北の丸下の中島の底地を流れ、神明山の西裾すれすれに南流し、穴門の堀から上長町、中長町、下長町の辺りを経て、穀堀の辺りから現在の旭川の河道になっていたと考えられています。
そして、築城時には、手形から中島土手の外側を廻り、通町橋から五丁目橋附近までへと付け替えられています。

神明山東部には長沼、手潟、赤沼と言った連続する広大な低湿地が広がっていました。
これは、旭川の古川が堰き止められて水を湛えたものです。
また、古い旭川は手形の辺りを浸食して手取山と神明山とを切断し、其の儘神明山の東を流れ、長沼を作って神明山南部の平野を斜めに流れて、現在の旭川の下流に達していました。
内町の中にある大堀、上堀、下堀はそれを整備したものと考えられています。

手潟は後に手形となり、旧練兵場の北部3分の2と秋田大学の構内にかけてが独立した沼地であり、南部は泥炭湿地で長沼と分離しており、これが手潟であろうと考えられています。

更に長沼の東北部には赤沼があり、太平や下北手から手形への通行を遮断する形になっていました。
現在の秋田大学医学部付近がその一部であり、赤沼から太平方面に抜ける道路は、藩政期後半にこの沼に水を貯える為に造った堤防と思われ、赤沼は、長沼に近い遙か南方まで広がっていたのではないかと考えられています。

[出典]
http://nemuihito.at.webry.info/200905/article_21.html



鎌倉期から見える地名水内【みのち】・高井両郡のうち戦国期には郷名で見える「吾妻鏡」養和元年5月16日条によれば,村山七郎頼直が「村山・米用」を安 堵されており,同書文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文には「善光寺領 〈阿古 馬島 村山 吉野〉」と見える当地の領主 は村山氏であったが,同じく「吾妻鏡」によれば,建久元年源頼朝が上洛する際の随兵の中に村上左衛門尉・高梨次郎らとともに「村山七郎」がいる建武元年8 月村山隆義は後醍醐天皇から越後国頚城郡薗田保地頭職を宛行われ(村山文書/信史5),村山氏は越後に移った下って長享2年の春秋宮造宮次第には,諏訪社 下社春宮の外垣180間のうち,1間分を負担する「村山」と5間分を負担する「村山」が見える(信叢2)その後,天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳に「一, 秋宮外籬十間 村山之郷より建之,都合八貫文」と見え,同年の下諏訪春宮造宮帳,同7年春宮柱諸事にも同様の記事が見える(同前)永禄11年10月2日武 田信玄は島津孫五郎に当地で175貫の地を宛行っている(島津文書/信史13)元亀3年7日晦日武田信玄は禰津信直らに命じて分国から追放した百姓らの徘 徊する者を召捕えさせているが,その中に「〈村山之〉弥右衛門」の名が見える(小泉文書/同前13)武田勝頼は天正6年2月「〈長沼之内〉村山」に諏訪社 下社造営銭を催促させている(諏訪大社文書/同前14)また,同年7月27日島津泰忠は武田勝頼に知行注文を指出し,この中に当地の175貫文が含まれて いる(島津文書/同前14)本能寺の変ののち,同10年7月13日上杉景勝は島津泰忠に当地の175貫文の地を安堵している(覚上公御代御書集/同前補遺 上)江戸期には千曲川をはさんで水内・高井両郡にそれぞれ村山村が存在したこれは当地が千曲川の流路変更によって二分されたものと推定されるが,その時期 は不明長享2年の春秋宮造宮次第では2か所の村山が見え,あるいはこの段階ですでに分断されていたものかとすれば,5間分を負担した村山が江戸期の水内郡 村山村(里村山),1間分負担の村山が高井郡村山村(山村山)にあたるか

[出典]
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7616459