2014年11月13日木曜日
第1章 島峰徹の生涯の通覧
長岡藩々医の子
さて、ここからが前回の続きになる。最初にざっと島峰徹の医師・歯科医師としての生涯を通覧しておこう。
島峰徹は明治10年に越後の刈羽郡
島峰徹について書かれた伝記の類は、私が渉猟した限りでは、長尾
長尾は島峰に師事した最初の東大出の医学士で、後に島峰の奔走で創設されたわが国初の官立の歯科医師養成学校である「東京高等歯科医学校」で教授となったが、もともとは、島峰がドイツから帰朝する前に東大医学部を卒業(大正2年12月)して
長与又郎はさきに短くふれた長与専斎の三男という華麗な一族の出で、出自学力人望のどれをとっても学内で一目おかれた際立った俊才、卒業の年次が島峰の一級上であった。一方島峰は貧窮の苦学生で、同郷の実業家内藤
長尾が入局した当時の東大の歯科学教室は、明治35年(1902)に開設10)されてから10年以上たっていたが、まだ講座にもなっていない弱小教室で、石原久が佐藤外科の助手から抜擢され、助教授としてこの教室の主任をつとめていた。
東大医学部に歯科の設置を思いたったのは、さきの佐藤外科の主任教授であった佐藤
佐藤三吉が東大医学部に歯科の創設を思いたった理由は明らかではないが、ここには明治30年と34年に、当時の新聞を巻き込んで展開された「官立歯科医学校」設立の請願運動が文部省に与えた影響があったことは間違いないだろう。
大学とすれば、別に歯科ばかりではない。整形外科も耳鼻咽喉科も必要だった。これらは全部外科系の科目である。人材の供給源はたった一つの佐藤外科しかない。
特に歯科が難題だった。ポンペ以来外人教師の日本における医学伝習で歯科が教育された形跡は全く見られない。だからだろう、希望者が誰もいなかった。古くさい漢方の口中医の生き残りや、口中医ですらない香具師たちが、まだ街頭でしがない歯抜きや入歯渡世をしていた頃である。いかに落ちぶれたとはいえ、路頭で医術を売っていたのは歯医者だけである。歯医者は低く見られていた。町には医術開業試験をパスした新進の歯科医はもちろんアメリカの大学出の歯科医師もいたが、東大医学部の出でない者を一教室の責任者にする事など東大は全く眼中にない。
困り果てた9)佐藤は石原に目をつけた。一説によると、数人の教室員に籤をひかせたところ、石原が歯科に当ってしまったのだという。石原にしてみれば、ババを引いたようなものだったかもしれない。石原は一高から東大に進み、明治27年卒業の「若いころから全く真面目で他の人のような失敗談もなければ逸話ももたない廉直勤勉な学徒」9)で、当時は卒業後5年目の助手だった。結局この人事は失敗で、東大にも歯科学にも、石原にも島峰にもよい結果をもたらさなかったのだが、それは後から振り返って見ての話である。
佐藤は留学のおまけをつけて石原を助教授に抜擢し、歯科の主任に据えた。石原はほかの教授候補者と同様ドイツへ留学した。留学中に歯科学教室が誕生した。彼の帰朝は先にも書いたように明治36年である。帰朝すると石原は内科の病室の片隅を借りて、歯科の外来診療を開始した。
石原がドイツで歯科学の何を履修しどんな論文を書いたのかは一切わからない。大正5年に彼は博士の学位を得ているが、これはドイツから帰朝した島峰が、すぐ講師になって堂々たるドイツ語の論文11)を提出し学位を得た(大正3年)のに、年上の教授たる石原が無冠のままではという配慮があったためか、<推薦>によるものだった。
この歯科学教室は、長尾の入局後すぐ講座に昇格し(大正4年)、石原は初代の主任教授になった。ふつうなら、長尾の入局当時のこの教室は、勃興の意気おおいにあがる新進の教室で、その後の日本の歯科学研究の中心となってしかるべき所であった。しかし、石原はやる気がなくて教室は全くふるわず、周囲からバカにされ放題のようなところがあったようだ。一説によると、石原は生涯一編の論文も書かなかったといわれている。やる気満々の学士教室員の憤懣は当然
[出典]
http://members.jcom.home.ne.jp/emura/simamine.1.htm
ロペス教授の規定は、非常に明快で、基本的に納得のいくものである。しかし、いくつ か疑問に感ずるところがある。第一に、近代仏教というものを世界に普遍的で、グローバ ルなものとして認めてよいかということである。先の規定はほぼ日本の近代仏教の表層の 言説にも当てはまる。ただ、原始仏教への回帰を志向するか、という点はやや疑問がある。 確かに清沢満之は『阿含経』を重視し、その弟子の赤沼智善は原始仏教研究に成果を挙げ ている。近代になって原始仏教への関心が強まることは事実であるが、先にも述べたよう に、日本の場合は祖師への回帰ということがより中心的である。経典に関しても大乗経典 中心であった。そのことは、浄土教だけでなく、禅に関しても同じである。 近代仏教を代表する具体的な人物に関して述べれば、鈴木俊隆は確かにアメリカ近代仏 教の観点から見るならば重要であるが、日本ではほとんど名前も知られていない。日本の 中で言えば、浄土真宗の清沢満之や曽我量深、あるいは日蓮信仰の田中智学の方が影響力 が大きかったと考えられるが、彼らは日本以外にはほとんど影響力はないであろう。 このように見るならば、近代仏教を直ちにグローバルな観点から見てよいか、検討の余 地があろう。欧米を中心に考える近代仏教と、アジアの各国を中心に考える近代仏教とは かなり様相が異なっている。このことは、じつは仏教の問題だけに限られず、そもそも「近 代」という概念そのものが、欧米とアジアではかなり異なっていることに関係する。欧米 にとって、近代はそれ自体の中から自発的に生まれたものであった。
[出典]
publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/.../article.pdf
2014年11月11日火曜日
諏訪氏
諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は「神氏」といい、欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動した金刺氏や他田氏の名が諏訪社の神官として続いて来た。出雲神話の神・建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まるともいう。後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したが、皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。
諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。
故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪の祭神の肉体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。
宗旨は曹洞宗。菩提寺は温泉寺 (長野県諏訪市)、宗湖寺(長野県茅野市)、頼岳寺(長野県茅野市)、吉祥寺(東京都文京区)など。
平安時代
神官であると同時に武士としても活躍し、源義家(八幡太郎義家)が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。治承・寿永の乱(源平合戦)の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。
鎌倉・南北朝時代
鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。幕府滅亡後の1335年には、諏訪頼重・諏訪時継が、北条氏の残党が北条時行を奉じて挙兵した中先代の乱に加担したが、足利尊氏の軍に敗れて自害した。南北朝時代の頃から武力を持つようになり、庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、その後建武政権から離反した足利尊氏に従い足利幕府(室町幕府)の評定衆や引付衆、天龍寺造営奉行などを務め信濃国に住する将軍直属の奉公衆としても活躍した。
幕府の奉行人としての立場を活用した円忠の嘆願が受け入れられ、幕府より存続を許された諏訪氏であったが、大祝職を継いでいた時継の子・諏訪頼継も引き続き足利氏に対抗する立場をとり、南朝方に与するが敗れて没落。その後は頼継の弟・信継が継ぎ、信継の子の諏訪直頼も同じく南朝に属した。やがて足利氏が足利尊氏派と足利直義派に分裂して観応の擾乱が起こり直義が南朝に降ると、直頼もこれを支援し、信濃国内における直義党の主将として高師冬を自害に追い込むなど尊氏派の勢力と戦った。しかし、直義の死や桔梗ヶ原の戦い(1355年、桔梗ヶ原にて)での敗北を経て信濃国内における南朝勢力の衰退を悟り、同じく諏訪円忠の勧告もあって北朝および幕府(2代将軍足利義詮)方へ降った。
以上のように諏訪円忠は、庶流出身でありながら、この時期の足利幕府と諏訪氏の間を取り持つ重要なパイプ役であったとも言える。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。
室町・戦国時代
室町時代に入ると、諏訪信満・諏訪頼満 (伊予守)兄弟による抗争が起こり、諏訪氏は嫡流の「惣領家」と祭祀を司る「大祝家」とに分裂した。戦国時代に入ると中興の名君・諏訪頼満 (安芸守)の時代に南信濃屈指の大身となり、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強めていった。諏訪郡を巡って甲斐国守護の武田氏と争い、享禄元年(1528年)には頼満・頼隆は甲信国境の神戸境川において武田信虎勢を撃破し、享禄4年(1531年)には甲斐国人らを後援して出兵するが、このときは河原部合戦において敗北する[1]。天文4年(1535年)9月17日には、佐久郡侵攻を行う武田氏と和睦し[2]、天文9年(1540年)11月には信虎三女が諏訪頼重に嫁して同盟関係が強化され[3]、天文10年(1541年)5月には武田氏や村上氏と海野平合戦において滋野一族を撃破する[4]。晴信(信玄)期には同盟関係が破綻し、翌天文11年に7月には晴信が高遠城主の高遠頼継と結んで頼重を攻め、頼重は甲府へ連行されて自害する[5]。
頼重には遺児の寅王がいるが消息が不明で、戦国大名家としての諏訪氏は滅亡している。諏訪地方は武田氏の信濃侵攻において直轄領化され、頼重の弟頼高、満隣の子頼忠が諏訪大祝となっている。
武田氏は諏訪氏の他にも征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏においても頼重の娘諏訪御料人は信玄の側室となり、天文15年(1546年)に四男四郎(武田勝頼)が生まれた。勝頼は諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、永禄5年に諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されている。
なお、勝頼が継承したのは従来諏訪惣領家であったと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』が勝頼を高遠頼継の高遠諏訪氏の後継として記していることから、勝頼が継承したのは高遠諏訪氏であったことが指摘される。
安土桃山時代
天正10年(1582年)、頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏滅亡と織田信長の横死(本能寺の変)を経て武田遺領を巡る天正壬午の乱において木曾義昌の支援を得て高島城を奪還している。さらに頼忠は越後上杉氏の侵攻により木曾氏の勢力が弱まると自立する。徳川家康と相模後北条氏との争いでは、はじめ徳川方、のち後北条方に転じた。頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子諏訪頼水が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。
江戸時代
江戸時代には大名家と大祝家とに分かれ隆盛し、大名家は明治維新後、子爵となり華族に叙された。また2代藩主諏訪忠恒の次男諏訪頼蔭と三男諏訪頼久に1000石ずつ分知し、旗本をニ家輩出した。諏訪神族
諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。地方の領主としては駿河国の安部氏、丹波国の上原氏、出雲国の牛尾氏、薩摩国の上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[9]。神家一党33氏
以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、禰津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏
その他の諏訪氏一族
岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、宮下氏、宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏「澤」のつく庶族
栗澤氏、藍澤氏、宮澤氏、中澤氏、元澤氏、唐澤氏、福澤氏、藤澤氏、松澤氏、大澤氏、増澤氏、谷澤氏、吉澤氏、金澤氏、柴澤氏、平澤氏、米澤氏、蕗澤氏、胡桃澤氏、神澤氏、大澤氏、能澤氏、粟澤氏、駒澤氏、西澤氏、北澤氏、奥澤氏、前澤氏、横澤氏、赤澤氏、蘆澤氏、白澤氏、樋澤氏、戸澤氏、立澤氏、三澤氏、石澤氏、廣澤氏、岡澤氏、柿澤氏、長澤氏、尾澤氏、鳴澤氏、柳澤氏、瀬澤氏、古澤氏、金澤氏、澤氏、鮎澤氏、入澤氏、木澤氏、笹澤氏、田澤氏、野澤氏、小澤氏、菅澤氏、増澤氏、二澤氏、桜澤氏、有澤氏、黒澤氏、味澤氏、矢澤氏沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)は、日本神話に登場する神である。
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。
越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。
また、長野県にも沼河比売を祭る神社があり、姫の乗っていた鹿のものとされる馬蹄石がのこされている。
諏訪大社の下社にも八坂刀売命や建御名方神と共に祀られ、子宝,安産の神として信仰されている。
『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。
なお、欠史八代の第2代綏靖天皇の諡号は『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと), 『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)とされている。
建御名方神
『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。
建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている[1]。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。
『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある[2]。
長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説[3]や、冶金、製鉄の神であるとする説もある[4][5]。
建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある[6]。
2014年11月10日月曜日
大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の豪族で源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫である。三浦氏は宝治元年(1247年)に法華堂にて一族のほとんどである五百余人が自害して滅亡したが(宝治合戦)、三浦員村(自害)の次男盛明は無事であり、その子義継は相州三浦郡石井庄(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある)に居城し石井と号した。石井氏は宝治合戦を生き延びた三浦氏の一族であるが、建久3年(1292年)、大隅守護職は千葉氏から北条氏に代わっていることから、北条氏の御内人となり垂水地頭として赴任してきたものと考えられる。
鎌倉時代末期(1330年頃)、義継の子石井重義が下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。
南北朝時代は北朝に属し、貞和5年(1349年)石井中務丞重信(重義の子)を南朝の肝付兼重が攻めたが、石井氏は救援を鹿児島の島津氏5代当主貞久に求めた。貞久は比志島範平、伊地知季随を遣わし救出している。この合戦で重信の弟次郎が戦死。
文和4年/正平10年(1355年)、肥後種顕、種久兄弟が畠山直顕を崎山城に入れて謀反したが、石井氏は貞久の4男で島津氏6代当主氏久に味方しこれを退けている。
永和3年/天授3年(1377年)、九州探題今川了俊の5男満範が南九州の国人63人をまとめ大軍で都之城に 攻め寄せてきた。島津氏久はこれを迎え大激戦となった。石井氏も島津方の武将として出陣。この戦で肥後兄弟が戦死したが、この報を聞くや石井某は前日の戦 で負傷し病床にあったが「吾は肥後兄弟とは生死の契りを結んでいた。吾独り生きているのに忍びない」と言いながら傷をえぐって死んだという。このことから 崎山城の合戦以来、肥後氏は氏久に従うようになり、石井氏と同盟関係にあったと考えられる。
石井中務少輔義忠入道旅世の頃が石井氏が最も盛んな時代で、諸家大概によると島津氏9代忠国、10代立久、11代忠昌、12代忠治4代の家老を務めたとなっている。5代元義(忠義)の後継者である義仍(中務少輔義忠)が島津氏9代忠国の晩年の頃に家老職となり、10代立久、11代忠昌、12代忠治の代まで務め、13代忠隆、14代勝久の代に家老職にあったのは、義治であったろうと推定される。
三国名勝図会第四十四巻十七に「諏訪大明神上社神体の背に文明十年(1478年)石井源左衛門義仍寄進の旨を記す、義仍は大岳公(島津忠国)の国老なり」と記述されている。同神社の文明三年(1473年)三月の棟札には大願主頭領 石井源左衛門 平義仍 奉為武久公修造云々とあり、長享三年(1489年)の棟札には、大檀那 平義仍と記されている。義仍に関しては、今宮神社にも明応二年(1493年)の棟札が残っており、「大檀那 平朝臣義仍並大願主平義諸以下」とあり、「義仍は石井氏也」と注が入っている。
石井家は仏教に帰依しており、元義(後に忠義と改める。官位は丹後守)は永享十年(1438年)福昌寺造営の際、馬一疋、青銅百疋奉加。垂水市中俣の市指定史跡岩屋観音堂[1]は、石井氏七代までの菩提寺とされ多数の石塔があるが、堂内の釈迦像に文正2年(1465年)平義忠[2]、阿弥陀像に明応6年(1496年)平義直[3]と書付あり、いずれも石井氏の造立とされる。9代義辰は垂水海潟井之上に松岳寺を開いた。
大永6年(1526年)、太守島津勝久、下之城主伊地知重貞(伊地知重武の誤りと考えられる)、田上城主梶原昌豊をして石井を攻略、垂水城陥落と旧記にあり。当時、石井氏は島津実久方(薩州家)に属していたので、勝久方の伊地知氏に攻められ、約200年間城主であった垂水城を去り、海潟に移住した。
おそらく、天文年 間末期(1550年代)と推定されるが、9代石見守義辰が殺害され石井氏は滅亡した。石見守最後の記録は旧記に「中古海潟井之上の上元屋敷に居す。或時い かなる故かしらず馬上にて馳せ行き、小浜塩木山に於て害に逢う。寺山比良に葬る。石塔あり、法名松岳玄等大居士」とある。
その後、石井氏の子孫は一部は大隅に残り、一部は島津氏に仕え鹿児島等薩摩半島や日向国佐土原に移住した。
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村― 朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)─2.重信─3.久義─4.孝義─5.元義─6.重義─7.義春─8.義定─9.義辰─10. 義高─11.義泰(鹿児島移住)─12.義知─13.義家─14.義教─15.元明……才援─元亭(医師)─元信(教育家)
- 佐土原流
- 義次(佐土原島津家初代以久に随従して佐土原に移住)─義辰─義真─義知─義見・・・・義次─平三─隼太
- 七郎兵衛流
- 石井七郎兵衛(石井石見守の支族で兵道家[4])─源六左衛門─八郎四郎─十右衛門─助八─十助─助八
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