- 御射山祭 (みさやまさい)
2014年12月17日水曜日
越前家
越前家
島津 忠宗(しまづ ただむね)は鎌倉時代後期の武将・歌人。忠景の子。知覧(院)氏の祖。
和歌に優れ、『続千載和歌集』、『新後撰和歌集』に詠歌が残る。これらの作品は本宗家四代の忠宗の作品とされる場合が多いが、『勅撰作者部類』には「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記があり、また父忠景・子忠秀がともに勅撰作者である家系的な側面から考えても、越前家の忠宗の作とみる方が自然である(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。
島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人。宇宿氏、宇留氏、信濃島津氏赤沼家の祖。
信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社の御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。
島津忠信(しまづ ただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。
越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
越前国上河北(かみこぎた/現在の福井市上河北町)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、如道上人(真宗三門徒派の始祖)に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。
上河北の専光寺は延享2年(1745年)、福井藩の要請によって木田辻町(現在の福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)、明治27年(1894年)9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2年(1244年)の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3年(1261年)以降であり、文永5年(1268年)頃と推測される(詳細は島津忠綱の項目参照)。播州島津家の系図に、忠綱が寛元2年2月7日に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる(杉本、上掲)。
『太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に 呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演 じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。
和歌に優れ、『続千載和歌集』、『新後撰和歌集』に詠歌が残る。これらの作品は本宗家四代の忠宗の作品とされる場合が多いが、『勅撰作者部類』には「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記があり、また父忠景・子忠秀がともに勅撰作者である家系的な側面から考えても、越前家の忠宗の作とみる方が自然である(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。
島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人。宇宿氏、宇留氏、信濃島津氏赤沼家の祖。
信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社の御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。
島津忠信(しまづ ただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。
越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
越前国上河北(かみこぎた/現在の福井市上河北町)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、如道上人(真宗三門徒派の始祖)に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。
上河北の専光寺は延享2年(1745年)、福井藩の要請によって木田辻町(現在の福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)、明治27年(1894年)9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2年(1244年)の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3年(1261年)以降であり、文永5年(1268年)頃と推測される(詳細は島津忠綱の項目参照)。播州島津家の系図に、忠綱が寛元2年2月7日に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる(杉本、上掲)。
『太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に 呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演 じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。
2014年12月16日火曜日
信州衆の苦労と悲しみ
「上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説」から
[出典]
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html
最後の越後方の砦、飯山城と亀蔵城の攻略が武田方の東条在陣衆を主力として仕掛けられ、失敗したの が、上野原合戦であると筆者は認識しました。のち、永禄三年九月、武田信玄は亀蔵城(文献で最初の確 認)の十日以内の自落退散と、越後勢への勝利を神に祈っていますが、かかる状況は東条が海津城拠点に 移り、善光寺平を手中にしたうえで、先に失敗した飯山地方の制圧を信玄が再びもくろんでいたことを示 しています。
弘治三年の戦は、長尾景虎にしても、高梨氏を初めとした信州衆の救援のように史料に登場しています が、内心は、武田氏の信州完全制圧の脅威があり、春日山城の防衛こそが、善光寺平包含圏の出陣の理由 にほかならないと思います。
弘治年間の飯山城は土豪泉弥七郎(重歳)の館城が丘頂にあったのみと推定され、広大な自然丘は、景 虎が善光寺平出陣の基地として利用したが、まだまだ、城としては不完全でありました。そこが城として 完成するのは、後年の永禄七年であります。それ以前の飯山城の防御性は低く、飯山城以南の旧城を利用 した支城網の意義が深まり、田草城・小田草城周辺の一帯が上倉・奈良澤・泉氏(泉氏は泉・尾崎・今清 水氏らに分派している)ら地侍衆の集結する亀蔵城の中心拠点であったと推定したわけです。のち、安土 桃山時代に、上倉氏や尾崎氏の配下に舟山氏・上野氏・上原氏などがいることは、前にも記しました。
いずれにしても、善光寺平包含圏は永禄年間初頭には、東条付近に海津城が、飯山に、飯山城と亀蔵城 (上蔵城)諸城が存在し、甲越双方の信濃経営と軍事基地的中核となっていたと想像されます。
以降、甲越戦争は飯山及び亀蔵城と海津城の争奪をめぐっての戦が主となり、海津城が早く完成したの を受けて、永禄七年に飯山城が本格的普請の第一歩を踏み出すことになります。
ここで、庶民史との関りについて、若干視点を注ぐと、綿内や東条在陣衆などが問題となります。ここ は小山田備中守など甲州衆も目付け役を兼ねて派遣されていますが、真田氏西条氏など武田氏に従った信 州衆が中心となった武田方大拠点です。もちろん、当時の武士は百姓でもあり、駐屯した下級武士たちは 庶民です。信州衆は武田晴信(信玄)の傘下になっても、いつも前線に立たされるという、苦労と悲しみ と出世の狭間にありました。
長尾景虎(上杉謙信)方の信州衆についても、景虎に失地を回復してもらっても、ひとたび景虎本隊が前線を下げると、武田方先方衆と交戦状態となったと推量されます。弘治三年七月における島津氏の甲越所属の分裂や葛山衆などの武田氏への投降も時代のなせる業であります。
弘治三年八月下旬の、上野原の戦いがどこで行われたかは、筆者も断定できません。しかし、見えてきたのは、越後方は長尾政景など有力武将も入るが、その配下の武士と大半は信州地侍衆と考えられ、武田方の、主に先方衆との戦闘こそ、上野原の戦ではなかったかということです。その中には嘗て在所をともにした同族が含まれていたかもしれません。庶民の悲しい歴史が、上野原の戦に表出したというべきでしょう。
なお、根本から上野原の戦を否定する説もありますが、現在残っている感状がすべて案文(写)である以上、確かめる術もなく、案文を信用するしかないと思います。将来これらの案文が偽文書であると証明されれば、筆者を含め、これまでの各説は海の藻屑となります。
以上大胆に通説を打破し考察を重ねましたが、永禄元年以降の善光寺平の武田氏の進出を見れば、あながち荒唐無稽の妄想とはならないと自負しています。しかし、史料の解釈で、拙論が成り立たないこともあり、皆様のご指摘とご指導をお願いする次第であります。
5、善光寺平河東部の武田方拠点形成と戦況の新展開
史料要約2、武田晴信書状 ○大阪城天守
閣所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五六三号)を改変
各々がよく働かれるので、そちらの備(千曲川右岸の東条と綿内)が、万全であるのは喜ばしい。当口
(千曲川左岸地帯)のことは、春日・山栗田が没落し、寺家・葛山は人質を出してきた。島津氏について
は、今日降参の趣を伝えてきている。もとより、同心が通ずられているので、心配はない。
この上は、つまるところ相極め、東条と綿内、真田方(幸綱)衆と申合って武略を専一にしてほしい。只今は時節到来とみたので、聊かも、油断してはならない。恐々謹言。
追って、内々に□島(長野市綱島か)辺に在陣した が、もしも越後衆が出張してきたならば、備えは如何 にと、各々が意見するので、佐野山(千曲市桑原付近) に馬を立てた。両日人馬を休め、明日は行動を起こし
たい。
(弘治三年) (武田)
七月六日 晴信(花押)
(虎満)
小山田備中守殿
史料要約2を天文二十四年のものとし、小山田氏と真田幸綱(のち幸隆)が景虎方の東条(雨飾城)と 綿内城(春山城か)を攻略することを、晴信に命ぜられたものとする説もありますが、そうではなく、既 に、東条と綿内城は武田氏の手中にあり、真田氏と小山田氏が城将となっていることを示しているものといえます。東条と綿内のどちらの城将かは分からないが、この書状は、一方を守る小山田備中守に宛てた ものと推定します。
この書状の年号は、『遺文』を支持し弘治三年とし、東条と綿内城の真田氏と小山田氏が武略を専一に して行動するように、晴信が指示したものと推定したいのです。景虎が飯山に帰っている六月中旬~七月 初旬、既に東条と綿内城が武田方により取り返されていたのでしょう。
この書状は、善光寺平河東守備衆が守備万全の報告をしたのち、武田晴信が返答したものであるとすれ
ば、文言の理解が出来ます。
また、追而書の文言から推察すると、晴信は川中島の綱島あたりまで進軍したが、越後方の脅威がある ので、一歩後退し、七月六日善光寺平南部の佐野山城(千曲市桑原付近)に居て、信州全体の指揮を執っ ていました。つまり直接的には千曲川左岸(西岸)の越後方陣地の攻略を晴信本隊がつかさどっていたの であります。
島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を 押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、 分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略 あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分かります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の 越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六 日の両日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方 で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧 してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小 谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があり ます。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際のものとされていましたが、『上越市史別編1』で は弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八 月四日現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ね ていないので、弘治三年説に従いたいと思います。
[出典]
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html
4、弘治三年前半の甲越両勢の攻防
さて、弘治三年二月十五日、武田軍は越後軍が雪のために行動できないことを見計らって、善光寺平の 西部山地の景虎方の要衝、葛山城を攻撃、陥落させました。葛山城陥落の知らせは春日山城に届き、長沼 あるいは矢筒城(飯綱町)にいた島津勢は大蔵城に後退し、飯山もおそらく東条周辺拠点や高井郡の武田 勢に攻勢をかけられて、危機に瀕し、飯山に居た高梨政頼は三月二十三日以前、何回も景虎に援軍を要請 していました。景虎は長尾政景に、飯山応援の依頼をしています。
政景は越後の上田庄坂戸城(南魚沼市)を本拠とする有力豪族で、既に景虎の姉仙桃院を妻としていま した。飯山とは越後の豪族では最も地理的位置が近いのが上田庄の長尾政景です。
また、上杉家『文禄三年定納員数目録』に直嶺衆の樋口伊豫守の妻は泉弥七郎重歳の娘であると記して あります(信濃史料)。のち、景勝時代に活躍する直江兼続については、江戸前期成立の、『上杉将士書 上』(上杉史料集下巻262頁)に、越後三坂の城主樋口与三左衛門の二男が、与六(のち兼続)であり 直江實綱の名跡(みょうせき)を継ぐことが記されています(直江兼続の父が樋口惣右衛門とする通説がありますが、上杉将士書上の与三左衛門の方が、成立年代が江戸前期とされるし、与六の与の字がはいっていることから、もっとも妥当なものと考えます。与三左衛門が惣右衛門に誤伝されたとは考えられないでしょうか?=2009・9・10更新)。三坂は三国峠に因んでおり樋口氏は上田衆です。兼続の実父 はのち直峰城に移されたとされるから(『平凡社地名辞典』)、与三左衛門=伊予守、一般に言う兼豊と なるのか、筆者には分かりません(また、飯山市の観光振興の立場からはきらわれるかもしれませんが、 樋口伊予守の泉氏出身の妻が、直江兼続の母であるのか義母であるのか不明です。=2010・5・1更 新)。
但し、上田衆と飯山の泉氏のつながりは深く、泉氏と高梨政頼が親密な関係があるとすれば、飯山口に 入っていた政頼に対し、長尾政景は景虎要請でもある飯山口応援を断る理由は無いはずです。
[出典]
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html
※矢筒城主島津忠直は大蔵城に後退
『真田信綱: 弟・昌幸がもっとも尊敬した真田家随一の剛将』
https://books.google.co.jp/books?id=6WeXpRLOi50C&pg=PA139&lpg=PA139&dq=%E7%9F%A2%E7%AD%92+%E9%BE%8D&source=bl&ots=1eoLvev6GD&sig=A6RqCQHwEV9OI76rrnE6IlUj7oI&hl=ja&sa=X&ei=AwSQVIuMGIXPmwXj6YDwBg&ved=0CBwQ6AEwADgK#v=onepage&q=%E7%9F%A2%E7%AD%92%20%E9%BE%8D&f=false
矢筒城(長野市牟礼)|島津権六郎の城
JR信越線は豊野から鳥居川渓谷に入り、野尻湖を経て上越方面に向かう。
鳥居川渓谷を抜けると牟礼の盆地に出、飯綱山の東側の緩い斜面が広がる。
牟礼村役場南側に独立した山があり、この山一体が矢筒城である。
北国街道沿いにあり、長野市の直ぐ北にあたる。髻山城は3km南にある。 城のある山の標高は567m、比高は60m程度、南北250m、東西350mの大きさに過ぎないずんぐりした形であり、山の北側には鳥居川の支流、滝沢川が深い浸食谷を作って東流しているた め、山の北側、西側の勾配はきつく、川が天然の水堀の役目を果たしている。
川の北側が牟礼村の中心部であり、JR信越線と国道18号線が通る。
城の東には北国街道が通る交通の要衝でもある。
城が何時ごろ作られたのかは良く分からない。
城への案内板に「島津権六郎の城」と書かれているが、この人物は、永正年間(1504~20)ころの城主であったようである。
築城はそれ以前の1400年ころすでにこの地を支配していた島津氏によるものと思われる。
この島津氏は村上氏の家臣であり、薩摩の島津氏と同族である。
島津氏の本拠は長沼城であったが、この付近も領土であった。
川中島の戦いで島津氏は上杉氏に従ったが、この城がどのように戦いに係わったかは分からない。
おそらく戦いの前半は上杉氏の中継基地であったことは間違いないであろう。
北側の割ヶ嶽城が武田軍に攻略されていることから、一時的に矢筒城も武田氏の支配下にあり、城主の島津氏も越後に逃れたものと思われる。
北信濃が武田氏の手に落ちた後、この城がどちらの手にあったのか不明であるが、武田氏が織田氏の攻撃を受け、上杉氏に救援を求めた時は上杉氏は援軍をこの城に入れ、次いで長沼城に派遣している。
なお、島津氏は上杉氏が会津に移封された時に同行し、上杉軍団の有力武将として活躍している。
[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima2HP/motodoriyama.htm
鳥居川渓谷を抜けると牟礼の盆地に出、飯綱山の東側の緩い斜面が広がる。
牟礼村役場南側に独立した山があり、この山一体が矢筒城である。
北国街道沿いにあり、長野市の直ぐ北にあたる。髻山城は3km南にある。 城のある山の標高は567m、比高は60m程度、南北250m、東西350mの大きさに過ぎないずんぐりした形であり、山の北側には鳥居川の支流、滝沢川が深い浸食谷を作って東流しているた め、山の北側、西側の勾配はきつく、川が天然の水堀の役目を果たしている。
川の北側が牟礼村の中心部であり、JR信越線と国道18号線が通る。
城の東には北国街道が通る交通の要衝でもある。
尾根式城郭ではなく、北西端に主郭を置き、東側と南側に曲輪を段々状に展開させた梯郭式の城である。
しかし、訪れた夏はやぶがひどく曲輪の形状は良くわからなかった。
大手は東側にあったという。東側から登る道がもっとも緩やかである。
本郭までには曲輪が段々に重なっている状況が良く分かる。
本郭は直径45mほどあり、中央部に高さ1m位の土壇があるが一面草茫々であった。
ここまではそれほど特徴があるとは言えない。
城の最大の特徴は東側から南側にかけて内堀が掘られていることである。
ここは水堀であったといい、大手口の水堀跡は今もじめじめした湿地であり、城を訪れた時はマムシがとぐろを巻いていた。
湧水点があるようであり、山に降った雨がここに溜まるようになっていたようである。
城側には土塁が築かれる。
しかし、訪れた夏はやぶがひどく曲輪の形状は良くわからなかった。
大手は東側にあったという。東側から登る道がもっとも緩やかである。
本郭までには曲輪が段々に重なっている状況が良く分かる。
本郭は直径45mほどあり、中央部に高さ1m位の土壇があるが一面草茫々であった。
ここまではそれほど特徴があるとは言えない。
城の最大の特徴は東側から南側にかけて内堀が掘られていることである。
ここは水堀であったといい、大手口の水堀跡は今もじめじめした湿地であり、城を訪れた時はマムシがとぐろを巻いていた。
湧水点があるようであり、山に降った雨がここに溜まるようになっていたようである。
城側には土塁が築かれる。
さらに現在飯綱病院の建つ場所に館跡があり、その南に外堀があったという。
ここは現在、道路になっている。その南に城下町が広がっていたという。
下の写真は、南から見た矢筒山。山麓の曲輪がわかる。右の建物は飯綱病院。館跡に建つ。ここは現在、道路になっている。その南に城下町が広がっていたという。
城が何時ごろ作られたのかは良く分からない。
城への案内板に「島津権六郎の城」と書かれているが、この人物は、永正年間(1504~20)ころの城主であったようである。
築城はそれ以前の1400年ころすでにこの地を支配していた島津氏によるものと思われる。
この島津氏は村上氏の家臣であり、薩摩の島津氏と同族である。
島津氏の本拠は長沼城であったが、この付近も領土であった。
川中島の戦いで島津氏は上杉氏に従ったが、この城がどのように戦いに係わったかは分からない。
おそらく戦いの前半は上杉氏の中継基地であったことは間違いないであろう。
北側の割ヶ嶽城が武田軍に攻略されていることから、一時的に矢筒城も武田氏の支配下にあり、城主の島津氏も越後に逃れたものと思われる。
北信濃が武田氏の手に落ちた後、この城がどちらの手にあったのか不明であるが、武田氏が織田氏の攻撃を受け、上杉氏に救援を求めた時は上杉氏は援軍をこの城に入れ、次いで長沼城に派遣している。
なお、島津氏は上杉氏が会津に移封された時に同行し、上杉軍団の有力武将として活躍している。
[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima2HP/motodoriyama.htm
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