2015年4月11日土曜日


諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉を生んだ。
 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村(諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。

[出典]
http://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm

2015年4月10日金曜日

龍山―竜爪―諏訪




中央構造線は、このあたりで東西方向から南北方向へ向きを変え、天竜河口から天竜二俣を通って北上する赤石構造線と一体になります。天竜川は、静岡県龍山(たつやま)村から下流では、赤石構造線ぞいに流れています。
佐久間から上流では伊那(いな)盆地を流れています。これは、現在の山脈を隆起させたり盆地を沈降させたりしている地殻変動で、伊那谷の方が低くなっていくためです。天竜川は伊那盆地の西の縁を流れています。
中央構造線は、静岡県水窪から青崩(あおくずれ)峠を越えて長野県に入り、伊那山地と赤石山脈の間を、遠山~大鹿~長谷(はせ)村へ北上し、高遠(たかと お)町の東方から杖突(つえつき)峠を通り、茅野(ちの)市の諏訪大社前宮付近へ続きます。この区間では、天竜川の支流が中央構造線の破砕帯を掘り込んで います。


糸魚川-静岡構造線の位置は、北部では糸魚川~松本平~諏訪湖~小淵沢へ続きます。しかし、その先を 富士川沿いにたどるのは誤り です。武川から~夜叉神峠付近~早川~安倍川をとおって静岡市へつづきます。静岡市付近では、安倍川沿い~高草山~焼津の線と、竜爪山地稜線付近~静岡市安倍川河口の線と、2つの考えがあります。 


【出典】
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm

2015年3月14日土曜日

真浄寺



■真浄寺 長野市


 →真宝寺



開基は鎌倉の武士、土屋五郎重行で、宗祖親鸞聖人越後流罪(1207)の折り弟子となり、法名を明慶とたまわる。聖人が流罪を解かれて関東に赴くに供を勤め、師の命によって、太田の庄赤沼に留まって真浄寺を建立する。川中島合戦が始まると、武田勢に追われて越後国にうつる。
東西本願寺分派の際、真浄寺十三代住職明勝は大谷派に属し、弟明玄は真浄寺の法宝物を分ちて本願寺派に留まり、信濃に移って、水内郡落影村にしばらく居住した後、永江村古屋敷地籍に移り、真宝寺を建立した。
元禄年間(1688~1703)二十代善照が現在地に本堂を建立して今日に至っている。
内陣の造作には、すばらしいものがみられ、当時の信仰の深さがしのばれます。

■真浄寺 長岡市



真浄寺の開山は比較的新しく1912年、明治45年。武見日恕(たけみにちじょ)が開いた寺。開山当時、関原には宮大工が多く存在し地元の宮大工が力を合わせて建てた寺だといいます。本堂の入口や欄間には繊細で細かい彫り物で飾られ地元の宮大工の腕の良さが光る彫り物は一見の価値があります。
また真浄寺は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中で描かれている日露戦争で活躍した東郷元帥(東郷平八郎)ゆかりの地でもあります。東郷元帥は日本海海戦(1905年5月27日〜28日)で日本海軍連合艦隊司令長官を務めた人物で、当時世界最大の軍事力を有したロシア帝国のバルチック艦隊を撃破し日本に勝利をもたらした人物です。開祖の武見日恕と東郷元帥は親しい間柄であったようです。寺には連合艦隊のそうそうたる顔ぶれと日恕住職の写真も飾られています。

  →願浄寺(赤沼智善、1884年(明17年)8月25日 、長岡市上田町願浄寺に生まれる。

  願淨寺 長岡市上田町3-15 

  ※真宗大谷派 三条教区 第13組

  http://www.winpal.net/~341-2/13-so.html
        ゆかり→西方寺 赤沼義昭(長岡市四郎丸)
  ゆかり→了教寺 赤沼光範(長岡市四郎丸)


■真浄寺 新潟市



※真浄寺(西堀通2番町:真宗大谷派
  親鸞聖人から法名を賜った明慶坊が建暦2年(1212)信州赤沼(長野市)の堂宇を
  建立、その後各地を転々とし慶長2年(1597)新潟に移転した。


新潟市西区鳥原 真浄寺 赤沼誠善師

真浄寺[浄土真宗本願寺派] 

  →西光寺(新潟真浄寺出身 赤沼唯教)


     →願浄寺[真宗大谷派] 新潟市中央区長嶺町)



西方寺  (さいほうじ )新潟市中央区鳥屋野真宗大谷派 鳥屋野院 

開山は弘安5年、1282年鎌倉時代。西方寺は親鸞聖人ゆかりの寺で、飛び地の境内には越後の七不思議で知られる国指定の天然記念物「逆竹藪」の旧跡がある。この場所は親鸞聖人が1207年に越後へ流罪になって7年間のうち草庵をたて3年間暮らし布教につとめた場所。境内には親鸞聖人の像が立ち往時の面影を偲ばせている。

http://www.niigata-u.com/files/ngt2009d/090607a1.html


■真浄寺 福島市


2015年2月8日日曜日

西光寺


【富山】 新潟から新住職 氷見の西光寺に赤沼さん 
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20090622/CK2009062202000151.html 


氷見市伊勢大町の岩上山西光寺で二十一日、新しい住職の就任を祝う 「入寺・第十七世住職継職法要」があり、 新潟市の真浄寺出身の赤沼唯教(ただのり)さん(32)が継いだ。 
[略] 


二十一日は門徒ら約七十人が参列。 
法要に先立ち継職式が行われ、浄土真宗本願寺派の不二川公勝総長名の許状が 
赤沼住職に伝達された。 
中日新聞 2009年6月22日 ※画像あり ※加藤祥子

真浄寺





41 新潟別院御影巡回法座のご案内 … 2009.1.28.のお知らせ
 毎年この時期に恒例となっております「新潟別院御影巡回法座」が、下記のような内容で開催されます。寒い時期ではございますが、どうぞふるってご参拝くださいますようお願いいたします。
1,日 時  平成21年2月13日(金) 午後7時より
 2,会 場  三原光雄氏宅

 3,布教使  新潟市西区鳥原 真浄寺 赤沼誠善 師

[出典]
http://rintoku.tiny.jp/osirase.html

真浄寺 福島市


真浄院(福島市)概要: 真浄院の創建は天長2年(825)に弘法大師空海が現在の伊達市霊山に開基したと伝わっています。当初は遍照寺と称していましたがその後荒廃し、慶長年間(1596~1615)に伊達政宗によって再興されています。当地が上杉領になると上杉家の祈願所として快翁が中興開山し信夫山にある羽黒神社の別当となり現在地に境内を遷しました。寺宝にはチベットで造られた(9~10世紀)密教法具である金剛鈴と金剛杵が明治38年(1905)に国重要文化財(工芸品)に指定されている他、金剛界、胎蔵界からなる両界曼陀羅(絹本着色、掛軸仕立、縦195cm、横140cm、表具は伊達政宗が遍照寺時代に寄進したことが墨書によって記されています)が昭和44年(1969)に福島市指定有形文化財(絵画)に指定されています。本尊である「こもかぶり観音」(羽黒山正観世音菩薩)は60年に一度御開帳される秘仏として信仰されています。

[出典]
http://www.fukutabi.net/fuku/fukusimasi/sinnjyouin.html


福島市荒町の古地図




[出典]
http://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65459763.html

2015年2月3日火曜日


さてここで一旦話を巻き戻そう。村上氏の発祥地とされる信濃國は、古代に十郡により形成されていた。伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級・水内・高井・埴科・小県・佐久郡であり、各郡は郷により形成された(『坂城町誌・中巻・歴史編・一』)。村上郷は更級九郷の一つである。麻續・村上・当信・小谷・更級・清水・斗女・池卿・氷鉋の二番目に記される。
 村上郷は更級郡の南端に位置する。信濃には高勾麗からの渡来人が移り住んでいるが、延暦18年(799)、前部黒麻呂が村上氏改姓が認められ高勾麗系村上氏が誕生した。信濃村上氏の誕生である。しかし、後世の村上氏との関係は不明である。又この村上氏の子孫のことは判然としない。その後、平安後期に至って源姓村上氏が誕生する。清和源氏源頼義(頼朝の先祖)の弟源頼清の子に仲宗があり、その子に惟清・顕清・仲清・盛清の兄弟があり、白河上皇に仕えていたが、寛治8年(嘉保元年・1094)に起こった白河上皇呪詛事件により盛清の親子兄弟は各地に配流となった。盛清は信濃に配流となった。郡名は定かでないが、更級郡村上郷の可能性が高いことは、盛清やその子の為國が村上を称していることからも推察される(『坂城町誌』)。源姓村上氏は源盛清がこの地に配流されたことにより誕生した。渡来人系村上氏に次いで、第二の村上氏の誕生である。この村上氏が後世に広がる村上氏の中心家系となるのである。この信濃村上氏の嫡流こそが惣領家であり信濃村上氏の総本家となるはずであった。しかし、本来の嫡流は没落し、傍系が惣領権・家督を引き継いでいる。この間には系譜の混乱もあり正系は判然としない。戦国大名村上家は村上一族であるとしても傍系であり、系図を書き換えた可能性もある。従って各種村上氏系図は、完全には整合しない。基本系図は不一致であり、地元の伝承系図も勘案しながら、信濃村上氏系図を整理していこう。

[出典]
http://www.kakeiken.com/report0010-2.html