2015年5月18日月曜日


つまり、古来中国の秦一族では無い。大秦の秦であります。
禹豆麻佐(うずまさ)と云う姓を貰ったのでありますが、太秦の漢字を当て、土地名にした。どう考えても、太秦(うずまさ)とは読めませんな。

奈良法隆寺建設の折り、胡人を雇ったと云う記述が残っている。河勝の一派だったのではないか?河勝は太子を郷に招待したでしょう。太子は仏教に帰依していた。太秦は異教だと解っていたので、そうそう行ったとは思えない。其の為、聖徳太子が基督教だったと云う伝説があります。

聖徳太子、メシアとなりて

河勝は太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建てた。其の寺には、色色な隠しサイン(暗号)が在る。
意味不明な立体三柱鳥居。いすらえ(えすらえ~イスラエル、イスラム?)の井戸。
三柱鳥居は全国に数カ所存在しております。其の1つ東京向島の三囲神社は三井財閥と関係が深い。

出典
http://hachi-style.jugem.jp/?eid=348


中沼〔長沼〕


○ 秦系氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

(1) 弓月君一族の後裔……応神朝投化。
  秦公(録・河内)、秦造(録・左京)、秦連、秦忌寸(秦伊美吉。録・左京、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉。下司-丹波国山国住。なお、散楽の金春、竹田は、大和国十市郡に起り、秦河勝後裔と称するも、本来は別族か〔その場合、結崎、観世と同じ服部連の流れか〕)、太秦公、太秦公宿祢(録・左京)、太秦宿祢(上と同じか。東儀、薗、林-摂州天王寺伶人なり。岡-大和国百済川東岡村林寺村にあり、また、蒲生家臣に近江国蒲生郡木津邑の岡より起る岡氏あり。なお、薩摩で太秦姓を称した牛屎一族については疑問もあり、隼人族の項も参照のこと)、太秦公忌寸、賀美能宿祢、秦下、秦前(秦下、秦前は秦忌寸と併用)、大秦連。

  秦宿祢(録・河内。三上-京人御随身。長曽我部-三上支流で土佐に住、元来は当地の古族裔に三上から入嗣か、その一族は三輪氏族を参照のこと。久武-三上同族、土佐住人。横山-三上同族。土山-京官人で近衛府官人。仲村-紀伊人。大平-伊賀国阿拝郡人。羽田-信濃国小県郡人。桑原-同州諏訪郡人。堀井-備前に住。祓川-秦中家忌寸裔、山城国伏見の稲荷社祢宜。以下同族で稲荷社祠官には、西大路、平田、針小路、大西、祓川、安田、東大西、新大路、新小路、松本、森、毛利、南松本、吉田、沢田、中津瀬、鳥居南、橋本、市村など。稲荷社下級社人の秦姓長谷川・山田も同族か)、惟宗朝臣(平井-筑前大宰府執事職。薩隅の島津、対馬の宗などは大いに栄えたが、これらは後に別掲)、伊統朝臣、令宗朝臣。

  朴市秦造、依智秦公(依知秦公。湯次-近江国浅井郡人。西野、東野、大矢田、酢村、田根、川道-同上族)、依智秦宿祢。依知勝も同族か。
  朝原忌寸、朝原宿祢、朝原朝臣(村田-石見出雲人、刀工鍛冶工)、時原宿祢、時原朝臣(西院-山城国葛野郡人)、秦物集、物集(録・山城未定雑姓)、物集連(録・左京未定雑姓。物集〔物集女〕-山城国乙訓郡人)、物集忌寸。

  大蔵秦公(河内国茨田・讃良郡の太秦姓を称する西嶋・大津父・茨木・平田一族はこの流れか)、秦大蔵造、秦大蔵連、秦大蔵忌寸、秦長蔵連(録・左京)、秦中家忌寸、井手、井手公、秦井手、秦井手忌寸、秦子(秦許)、秦原公、秦上、秦人(録・右京、摂津、河内)、辟秦、秦勝(録・和泉)、簀秦画師、寺、寺宿祢、高尾忌寸(録・右京、河内。高尾-河内、近江の人)、高尾宿祢(高尾-備後人)、秦冠(録・山城)、大里史(録・河内。小松-土佐国香美郡人、称平姓)。

  秦姓(録・河内)、秦長田、秦倉人、秦首(秦毘登)、秦羸姓、秦調曰佐、秦高椅、高橋忌寸(高椅忌寸)、秦栗栖野、弖良公(録・右京未定雑姓。寺と同族か)、広幡、秦人広幡、広幡公(録・山城未定雑姓)、広幡造、奈良忌寸、秦達布連、秦田村公、秦常忌寸、秦河辺忌寸、秦曰佐。寺史も同族か。国背宍人(録・山城未定雑姓)も、秦同族とされるが、その場合は物集の同族か、しかし、疑問な面もあり、あるいは本来別族で和邇氏族か。古代では国瀬(無姓)も見える。中世の乙訓郡東久世庄の国人、久世・植松・片岡・築山・石倉などは族裔か。
  なお、系譜不明であるが、清科朝臣も秦一族ではなかろうか。また、韓国人都留使主の後裔とする朝妻造(録・大和諸蕃)も弓月君とともに来朝したものか、と太田亮博士が記す。朝妻手人・朝妻金作はその族か。系統不明だが播磨国赤穂郡郡領に秦造がおり、寺田氏はその後裔。

  これらのうち、特に惟宗朝臣の一族は諸国に分布したが、島津、執印、宗、神保がその中でも大族であった。島津と執印とは比較的近い同族関係にあったものとみられる。
●島津-中世藤原氏を称し後には又源氏を号す、武家華族。薩摩、大隅に住して大繁衍して奥州家・相州家・薩州家などの有力一門のほか、一族の苗字多し。島津支族は若狭、越前、播磨、信濃、甲斐等にもあり。主な苗字としては、
  伊集院、石谷、南郷、入佐、町田、飯牟礼、猪鹿倉、有屋田、中村、石原、門貫、今村、麦生田、今給黎、大田、松下、知覧、宇留、宇宿、宮里、給黎、阿蘇谷、山田、伊作〔伊佐〕、津野、恒吉、神代、若松、西田、出水、佐多〔佐太〕、伊佐敷、新納、西谷、樺山、池尻、宮丸、北郷、末弘、神田、大崎、石坂、豊秀、河上〔川上〕、小原、山口、姶良、碇山、吉利、大野、寺山、西川、三栗、岩越、大島、竹崎、義岡、志和池、寺山、桂、迫水、喜入、安山、音堅、梅本、邦永、達山、龍岡、日置、野間、藤島、原、道祖、三崎、村橋、小林、郷原、永吉など-以上は薩摩・大隅に居住の島津一族。
  中沼〔長沼〕、角田-信濃国水内郡人。堤〔津々見〕、若狭、多田、三方、井崎〔伊崎〕-若狭国三方郡等住の島津一族。野々山-信濃、三河人。上田-信濃人。
●執印-薩摩国高城郡の新田八幡宮祠官。鹿児島、国分、中島、平野、市来、羽島、吉永、光富、向、馬場、小野田、橋口、河上、川原〔河原〕、下〔志茂〕、角、五代、河俣、河崎、厚地、田口、兼対、東向寺、松村、上松〔植松〕-以上は執印一族で、薩摩国鹿児島郡等に居住。

●宗-対馬の守護、幕藩大名で称平姓。一族は島内各郡主として繁居したが、天文十五年、本宗以外の支庶流(三十超の家)が宗を名乗ることを禁じられて別の苗字を名乗った。それらを含めて庶子家としては、柳川、高瀬、佐須(のち杉村)、久和、内山、古里、網代、大石、三山、宮、岩崎、西山、佐々木、長田(のち幾度)、志賀、皆勝、園田(のち古里)、佐護、久須、長野、大江、島本、瀬戸、仁田、中山、向日、横松、一宮、長瀬、井田、岡村、川上、小森、氏江、中村、川本、大浦、木寺、仁位〔仁伊〕、峰、吉田、波多野、津奈-以上が対馬の宗一族。宗の支族は肥後国山本郡に分る。
●神保-近江国甲賀郡神保庄ないし上野国多胡郡より起り(後者が妥当で、その場合実際の出自は毛野族裔か)、越中紀伊に住。その一族に花田、多胡。
  このほか諸国では、飾西、中山、志婆-播磨国飾磨郡人。

(2) 己知部系……欽明元年投化して大和国添上郡山村郷等に居住。太田亮博士は、この己知部の投化は紀臣族珍勲臣に従ったものとみているが、居住地などからみて、その指摘の通りという可能性が強い。
  己智(己知、巨智、許知、許智。録・大和)、道祖首、三林公(録・大和)、山村忌寸(録・大和)、山村許知、山村宿祢(京官人で九条家侍の山村氏は末流か。山村は江戸期の下雑色、また大和国城下郡にもあり)、桜田連(録・大和)、紀朝臣(山村忌寸の賜姓)、巨智臣、巨智宿祢。添上郡山村郷の仕己知も同族か。
  奈良許知(楢許智)、大滝宿祢、奈良訳語(奈羅訳語、楢曰佐)、長岡忌寸(録・大和。長岡-山城国筒城郡人。山村、市村、井村、宮崎、宮島、徳田、小川、田宮、中村、水取、大富、木村、久保、吉村、内田-以上は長岡の一族)、古曰佐。
  磐城村主(石城村主。漢系石寸村主同族との伝承もある)、荷田宿祢(ただし、男系は穴門国造一族の後。羽倉-山城国稲荷社造宮預、東、西、京、北の四家あり。安田-山城国下久我住。伏見-堺町人。石城-摂津人)、磐城宿祢(筒井、佐脇-甲州人)。

(3) 高陵氏高穆後裔……高陵高穆は秦王族高陵君参の後といい、漢土から建安廿二年に百済に入ったが、この子孫はのち二派に分れ、一派は東漢直掬とともに投化して大石村主の祖となり、もう一派は楽浪氏として天智朝に投化し高丘宿祢の祖となった。
  大石村主(生石村主。録・左京の大石は村主姓脱漏か。なお、近江国栗太郡大石村を本拠とした大石党は、秀郷流藤原氏の裔と称したが、太田亮博士の指摘のように、大石村主の後裔か。一族に同国甲賀郡の小石。また、大名家浅野氏に仕えた大石内蔵助良雄一族も同流で、一族に小山もある)、大山忌寸(録・右京)、大石宿祢(堀川-京官人、醍醐家諸大夫)、高丘連、高丘宿祢(録・河内。高岡-京官人、のち河内国梶ケ島村に帰農して名主)。百済人木貴の後という大石林(録・右京)、百済人庭姓蚊爾の後という大石椅立(録・右京)もこの同族と推される。

出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm





  中国古代の秦王朝が卵生説話をもち、鳥トーテムをもつ部族であったらしいことは、中国神話の研究家白川静氏*33が指摘するところである。秦の卵生説話は『史記』の秦本紀に見え、その祖女脩が機織りをしていたとき、玄鳥(黒い鳥。一説に燕とされるが、それに限らないと思われる)が落とした卵を呑み、子の大業を生んだという。大業の子の大廉は鳥俗氏の祖であり、その玄孫の中衍は身体が鳥で人語をよくしたと記される。
  また、『山海経』の海内経には、贏民という鳥の足をした民族もいたと記すことにも注目される。鳥祖卵生説話をもつ秦の姓が氏で、が贏に通じることは、本稿のはじめに記したところである。
  わが国の秦氏についても、鳥にまつわる伝承が『山城国風土記』逸文に見える。同逸文によると、二つの伝承があげられる。
  まず、『神名帳頭註』による「伊奈利社」についてであり、イナリというのは、秦中家忌寸等の遠祖・伊侶具の秦公は稲・粟などの穀物を積んで富裕であったが、餅を用いて的とし弓を射たところ、餅は白い鳥となって飛び翔け、山の峰にとまり、化して稲が生いたので、遂に社名とした。その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を引き抜いて家に植えて、これを祈り祭った。いまその木を植えて蘇きづけば福が授かり、枯れれば福がない、という。
  次に、『河海抄』にあげる「鳥部里」についてで、鳥部というのは、秦公伊呂具が的とした餅が鳥となって飛び去った、その森を鳥部というと記される。
  ともに、秦公伊呂具に関する伝承で、当時の秦氏の富裕さがうかがわれる。この伊呂具は山城国深草里の人で、和銅ころに活躍したとされる。伊呂具は、欽明朝に大蔵省を拝命した大津父の玄孫で、その後裔は伏見の稲荷大社の祠官家(大西・松本・森・鳥居南などの諸家がある)として近世に至ったものである。
 餅の的を射たところ白い鳥と化して飛び去ったという伝承は、豊後国にもある(『豊後国風土記』速見郡の田野条。「塵袋」所収の逸文によると、大分郡の人が玖珠郡に来住して、そこでの話とする)。こちらのほうは、具体的な人名を記さないが、豊前・豊後には秦氏系統ではないかとみられる人々が多いので、これらにつながる伝承なのかもしれない。この話は単純に奢りをいましめるものであるが、稲の精霊が霊性があるといわれる白鳥に化したということで、鳥トーテムをもつ部族に伝えられたものではなかろうか。
  鳥部里は、『和名抄』では愛宕郡鳥戸郷とあげられ、現在の京都市東山区の地域内となっている。その遺称地としては、清水寺の西南の鳥辺山・鳥辺野がある。この地名の由来としては、吉田東伍博士のように、捕鳥または鳥飼の部民の居住地とされるが、鳥戸郷は深草郷の二、三キロほど北にすぎず、秦氏の一族も居住していたとみられる。確実なところでは、鳥部郷の粟田朝臣弓張の戸口の秦三田次が史料に見える(天平十五年正月七日付「優婆塞貢進解」)。

  大陸を遠く離れて、しかも秦始皇の時代から千年ほども隔ててなお、わが国の秦氏が鳥トーテムの名残を伝えているとみたら、始皇帝の後裔という出自を全くの仮冒として否定することは、できないのではなかろうか。
  秦王朝は中国の西疆たる陜西省の地に興起したが、鳥トーテムをもつ東夷の一派が西遷したものとみられている。秦と同じ姓や同族の偃姓の諸国が春秋時代に山東からその南方にかけて展開したという事情も、その辺の傍証となろう。東夷はツングースとも同系統の種族とみられるから、これらの同種族が朝鮮半島を南下して日本列島に渡来したことは十分に考えうる。
  古代の朝鮮関係で秦姓の人が活躍した例もある。『魏略』には、戦国七雄の一の燕が東北方への侵略を行い、秦開という将軍を派遣して箕子の後の朝鮮侯を討伐し二千里の地を奪ったと記される。その時期は燕の全盛時代の昭王(前311~前279在位)のときとみられる。秦開という人物は『史記』匈奴伝にも見え、燕の賢相・秦開はかって人質として東胡にあり、厚い信を得たが、帰国してから東胡を破り千余里を得、その地に燕は五郡を置き長城を築いて胡人を防いだとある。
  この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。
  『史記』等の秦関係記事にあたってみても、始皇帝の一族が朝鮮半島に来住したことは見られない。当時かなり多かったとみられる秦王族のなかで、史料に名をあげられる者は少なく、始皇帝の兄弟では長安王成が秦王政の八年に叛乱を起こし敗れて自殺したくらいである。始皇帝の子女は多かった模様であるが、長子扶蘇と末子の胡亥(二世皇帝)が名をあげられるのみであり(三代目の秦王子嬰も、年齢的に考えておそらく始皇帝の子であろう)、二世皇帝と趙高の謀りごとで、まず六人の公子が杜の地で、次に公子将閭を含む兄弟三人(これも始皇帝の子か)が処刑されたと記される。二世皇帝は趙高に殺され、秦王の子嬰及び公子・一族は項羽に殺されたと記されるなど、秦王朝の崩壊期に多くの公子・公族が殺害されたとみられる。こうしたなかで韓地に逃れた秦王一族がいたことはありえたのだろうか。この辺の事情は、残念ながら不明であるが、可能性は極めて少ないものとみられる。
  従って、敢えて結論をあげれば、次のようなものか。
  わが国の秦氏は秦始皇の後という所伝・系譜をもつが、その歴代系譜には世代数が少ないなど問題点もいくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同じ氏族(部族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。秦韓王家が秦王室と同族であったとしても、遥かに早い時期に分岐した支族ではなかったろうか、と考えられる。

 2(最後に)
  わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦氏一族を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じている次第である。

 〔註〕*の数字は「秦羸姓という姓氏」の始めからの番号である。
*33 白川静『中国の神話』(昭和50年刊、後に中公文庫に所収)。
*34 摂津国には秦忌寸・秦人の二氏が『姓氏録』にあげられ、秦一族が豊島郡・西成郡に居住した。豊島郡に秦忌寸・秦井手・秦井手忌寸、西成郡に秦・秦人・秦忌寸が居住したことは、『続日本紀』や『正倉院文書』(天平神護元年の造東大寺司移式部省)に見える。とくに豊島郡には秦上郷・秦下郷があげられ、秦一族の繁衍が知られる。
  なお、摂津国有馬郡には幡多郷(現神戸市北区八多町一帯)があり、秦民の居住が伝えられるが、詳細は不明である。



 〔秦氏族の分岐状況概観〕
 
     


 〔註の補充〕

 『家系研究』第32・33号では、註の記載がなかったので、ここに併せて記しておく。
*1 『史記』秦本紀では、帝の孫を女脩(じょしゅう)といい、燕が落とした卵を呑んで感精し、子の大業を生み、これが秦の祖となったと記される。しかし、女脩は女性であり、秦の男系の祖は五帝の一にもあげられる帝少昊かその一族ではなかろうか。秦の鳥トーテムは東夷によく見られる風習である。
*2 殷の紂王に仕えた蜚廉の子の季勝の曾孫の造父が、周の繆王に仕えた有名な御者で、趙城に封ぜられて趙氏となり、その後裔が晋の文公に仕えた趙衰で、戦国時代の趙の遠祖となった。秦は季勝の兄の悪来革(おらいかく)の子孫だが、造父が繆王に寵愛されたおかげで、悪来革の子孫もみな趙氏と称していた、と『史記』にいう。
*3 春秋・戦国の諸侯が会盟して署名した名前としては、「国名+名前」という形になっている例が多い。すなわち、「国名=氏の名」とされている。
*4 段玉裁の『説文解字注』によると、春秋時代の諸侯のうち、秦・徐・江・黄・はみな姓であったとのことである。白川静氏によると、「秦と同じ姓の諸侯は、河南の商邱に近い葛、安徽北方の徐、河南南部の黄・江、湖北襄陽の穀、陜西韓城の梁など各地に分散」し、これに趙などをあわせて九国あり、秦はもと江淮の域にあった古族で、鳥トーテムや女系の多いことが注意される、と記される(『中国の神話』258頁)。

*5 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、秦氏について各項で詳しい説明があり、『古代人名辞典』とならんで、秦氏の人々を見ていくうえで基本的な文献である。
*6 秦氏の族的な性格に新羅的要素が強いという判断があり、ハタやウヅマサの名義から、慶尚北道の北部、蔚珍郡海曲県の古名「波旦」の地の起源とし、この地が辰韓12国の一つ優由国とみられ、辰韓(秦韓)の名に因んで、氏族名を「秦」で表したとみることができるという立場がかなり多い(鮎貝房之進、山尾幸久氏などの説)。
  これに、『魏志』韓伝以降の中国史書に見える辰韓人を秦の亡人とする説を根拠とし、倭漢氏の所伝への対抗関係から、出自を秦の始皇帝まで架上したものと考えられている。
  ハタの名の起源についての前掲の地名説は、いかにもコジツケ的であり、大和岩雄氏は、伽耶の「秦の民」を遠く離れた地域のウヅマサ氏が何故統括したのかという説明が必要と批判する。辰韓人を秦の亡人とする韓伝の所伝もありえよう。しかし、秦氏が倭漢氏に対抗して出自を架上したという説はいかにも憶測的で、何ら具体的な根拠がない。倭漢氏が秦氏に先立って漢を称したということの証明もなしえない。
*7 『姓氏録』で明確に秦氏の一族とする26氏のほか、早くに分岐した等の事情で「未定雑姓」の部におかれている諸氏がある。そうした例として、国背宍人(山城未定雑姓)、物集連(左京未定雑姓)、物集(山城未定雑姓)、弖良公(右京未定雑姓)、広幡公(山城未定雑姓)があげられるので、この5氏を合わせて、合計31氏(あるいは後2者を除いた29氏)が秦氏一族ではないか、と私はみている。
*8 利光・松田両氏は、「古代における中級官人層の一系図について-東京大学史料編纂所蔵『惟宗系図』の研究-」(慶応大学『法学研究』56-1・2、昭和58年1月・2月)という論考を出し、同系図の信憑性を論証した。両氏の論考には貴重な指摘が多い。
*9 秦氏がわが国に渡来した時点で既に正確な系図を失っていた可能性も考えられる。従って、「十」とか「二十」とかという数字の欠落を考えても意味がないともいえようが、本文で掲げた一案のほか、河内諸蕃の秦姓条に見える「始皇帝十三世孫然能解公」の十三を二十三と考える案もあろう。

*10 始皇帝の長子扶蘇は、前212年に上郡(陜西省綏徳県東)に派遣され、始皇帝の死後、その地で丞相李斯・宦官趙高らの策謀による偽詔で自殺させられた。本居宣長は、扶蘇が死を賜ったのにもかかわらず、潜かに逃れ狛に居した可能性を考え、鈴木真年翁もこの説を踏襲した記述を『華族諸家伝』でしている。しかし、こうした想定は想像論であり、それよりもその子とされる胡苑の移住を考えたほうが自然であろう。
*11 『魏志』東夷伝の韓伝にあげるこの記事と同様な記事は、真年翁が編述した『朝鮮歴代系図』や「長岡忌寸系図」に見られるが、これら系図に本来記されていたものか、あるいは韓伝からの転載かは不明である。
  なお、秦の亡民に東界の地を割き与えたという馬韓王は、朝鮮王準の後裔で、馬韓が百済の温祚王により滅ぼされてのち答山の麓に居住して韓氏・答氏を号したという。この流れで百済滅亡時にわが国到来した一族は、広海連・麻田連の祖となった。
*12 『三国史記』新羅本紀に記載の王暦は、五世紀前半の訥王以前は、二倍年暦ないし四倍年暦という倍数年暦が採用されていた可能性が大きく、年代や世代の対応等から考えると、新羅の初代国王とされる赫居世の在位は180、90年代頃ではないかと推定される。
*13 『書紀』応神14年是歳条に弓月君が百済から渡来と記され、また、『姓氏録』の未定雑姓右京の弖良公に「百済国主意里都解四世孫秦羅君之後也」、未定雑姓山城の広幡公条に「百済国津王之後也」とある記載とも、秦氏の百済遷住は符合する。
*14 竺達王が三世紀後葉の人として、その四世孫とされる弓月君が五世紀初頭頃の人であるのは、両者の間の世代・年代の対応がきわめて適切だと考えられる。
*15 応神天皇の『書紀』の記事等から、その即位の年とされる太歳庚寅を西暦390年庚寅頃とするのが妥当ではなかろうか。従って、この場合、応神14年は403年ということになるが、実質的にはその数年前の即位も考えられる。
  ここまで具体的に年代比定を考えないにしても、秦氏の到来は五世紀初頭頃として特に問題なかろう。大和岩雄氏も、五世紀前半に大和の葛城に渡来したとみている(『秦氏の研究』)。
*16 功満君が仲哀朝八年に来朝したことは、『姓氏録』左京諸蕃の太秦公宿祢条の記事にも見える。
*17 大和岩雄氏は、葛城の長江(長柄)の襲津彦が連れてきた弓月の民が「朝津間腋上」に居を定めるのは当然であると考えている(「秦氏・葛城氏・蘇我氏」、『東アジアの古代文化』36号、1983夏所収)。
 なお、腋上の地については、後に秦氏がヤマト政権に関与したころの付会とする見解もあるが、それがなぜ腋上の地だったのかという説明力が全くない。こうした安易な付会論は問題が大きい。
*18 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第四の362頁。
*19 韓国で秦氏が最も多いのは済州島で442世帯あるが、慶尚南道の各地から移住してきたといわれる。済州島を除くと、慶尚南道に最も多く、全羅南道・慶尚北道・江原道に少しいると秦泰俊著『血統□(左はヱ、右側はトの文字)家門』(1976年)を引用して、大和岩雄氏は記述し(『秦氏の研究』41頁)、五世紀代の秦氏の原郷も、かっての加羅の地である全羅南道(註;慶尚南道の誤記か)であったとみるべきであろうとしている。
*20 長岡忌寸の系図は、鈴木真年編の『百家系図稿』(巻9、長岡忌寸)や『諸系譜』(第1冊、長岡忌寸)にほぼ同様なものがあげられ、近世にも及ぶ長大な系図となっている。長岡忌寸氏は『姓氏録』では大和諸蕃となっているが、後に山城国綴喜郡に移遷し、その地で長く続いた。
*21 百済の建国時期と初期の王の在位年代については極めて難解であるが、『三国史記』に記すような、温祚王の漢鴻嘉三年(前18)の建国は、百済の王統系図からいっても、全く信頼できない。
  温祚王の治世時期については、高句麗の次大王の治世(西暦121~65)にほぼ対応するという見方もあろうが、百済王統の分析等から、現段階では、二世紀後葉頃に温祚王が在位し、その二代前におかれる都慕王が初代ではないかと一応考えておきたい。

*22 ウヅマサの語義についての佐伯説は、三品彰英氏『日本書紀朝鮮関係記事考証』(上巻231~2頁)に拠るもののようである。
*23 大和岩雄の前掲「秦氏・葛城氏・蘇我氏」
*24 田辺昭三「地域勢力の展開」(京都市編『京都の歴史 一』所収、昭和45年)。
  『全国古墳編年集成』山城の項でも、段ノ山に始まり蛇塚までの嵯峨野の5古墳について、五世紀後葉~六世紀末の期間に築造を考えている。
*25 大和岩雄氏も、太秦公は秦氏の族長を示す尊称の名・号と考え、「太秦」を蔚珍の地名とする説は無理であるとしている(『秦氏の研究』49~50頁)。

*26 和田萃氏は、秦下の「下」に注目し、河内国茨田郡に「下」の地を求め、『倭名抄』『古事記』(仁徳段)や茨田堤から寝屋川市太秦を考えて、この太秦の地名の残存に注目している(「山背秦氏の一考察」、京都大学考古学研究会編『嵯峨野の古墳時代』所収)。
*27 河内秦寺の所在地は、旧秦村の産土神八幡宮北方の国松村寺山付近とも、太秦村熱田神社付近ともいわれるが、確証はない(『大阪府の地名』879頁)、とのことである。
*28 畿内とその周辺の地域における秦氏の分布を見ると、山城・河内のほか摂津・近江・播磨でかなり稠密である。このうち、播磨の秦氏については系統が不明であるが、近江の秦氏は葛野の秦河勝の子の田来津が愛智郡に住んで依智秦公の祖となり、同郡大国郷及び浅井郡湯次郷を中心に繁衍したものである。このほか、近江には簀秦画師、秦大蔵忌寸、秦倉人、秦忌寸などの居住が知られる。
  摂津国では、豊島郡が秦氏の中心地で、同郡には秦上郷・秦下郷(池田市を中心とした一帯)があったが、葛野に遷住した意美の子の知々古が豊島郡の秦井手忌寸の祖とされる。これらのことから、山城以前の秦氏では河内の幡多郷を重視せざるをえない。
 河内の太秦・秦一帯には、後鳥羽天皇に召された刀工秦行綱の宅址と伝える地があり(秦小字鍛冶屋垣内)、大字秦には秦川勝の後裔と称する西島(もと大津父)・平田・茨木の三旧家があり、旧村社八幡神社の宮衆を勤めている(今井啓一著『帰化人』95~7頁)。
*29 今井啓一著『帰化人』。
  なお、『続日本後紀』承和十五年三月庚申朔条には、河内郡人秦宿祢が朝原宿祢を賜ったことが見えるが、この秦宿祢氏は茨田郡の支族ではなかろうか。
*30 『姓氏詞典』(王万邦、河南人民出版社)でも、高陵氏について、姓に由来し、秦の昭襄王の弟が高陵に封ぜられ高陵君になったため、子孫が高陵氏を称したとし、漢の時、諫議大夫(官名)の高陵顕が出たと記される。
*31 鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻9の高丘宿祢系図及び『百家系図』巻62の高岡系図。高岡氏の後裔は、河内郡梶ヶ島村に居住して名主職をつとめ明治に至ったと記される。
*32 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第五の436~7頁。佐伯氏も、秦羸姓は「秦」の語に由来するものであろうか、と記している。


出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm


インドから来た秦氏

秦野という地名からして、最初に住み着いたのは秦氏の一族と考えられる。
秦氏は、朝鮮半島から来たらしいが、朝鮮人かと言うと、 そうではないらしい。
秦氏は、遠くペルシャあたりから朝鮮半島を経由して日本に来たらしい。
朝鮮半島を経由して日本に来たと言うと例のシルクロード経由で陸路で来たように思われるが、 そうではなくインドを経由してヴェトナムあたりの海路で来たらしい。
秦氏は、インドを経由してヴェトナムあたりの海路で来た訳だから、 一部は朝鮮半島の南岸に辿り着き、一部は日本の九州か山陰海岸あたりに辿り着いたと思われる。
ペルシャは、昔はアッシリアと呼ばれており、当時、アッシリアにはイスラエルの10部族が 捕らえられており、現在のイラク北部あたりに強制的に移住させていたと言う。
秦氏は、アッシリアに捕らわれの身になっていたイスラエルの10部族の末裔ではないかと言うのである。
彼らの宗教は、景教と呼ばれるものであった。

出典
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index4.html

信州諏訪大社


長子をルベン。イスラエルを逃れたルベン族はコーカサス「高」を越え山(主)として石川に漂着。岐阜県飛騨高山へ。白山菊理媛に見る象徴を菊花こと太陽。ゆえに日本の国旗は太陽を表し、ミ印を菊とする。飛騨高山の首長を山本氏。大嘗祭には高山の山本家が一位の木の笏を天皇に授けた。飛騨より北上したルベン族はユダ族、ベニヤミン族と合流して日本最初の国、大倭日高見国へ融合。古の日本語で太陽をチダという。水乞山に本家千田氏イスラエルの日本における首長。安倍氏奥州藤原氏等諸侯を輩出する。岩手を南部という。源氏では天皇を皇命(スメラミコト)という。大倭とはオオユダすなわち大いなるイスラエル。奥州源氏であり陸奥(みちのく)を言う。陸奥は首都を岩手県北上市水乞山とする東北地方。早池峰山より水乞山。国見山、江刺、丹沢、平泉へと変遷する。1.200年前には38年戦争が行われ、北イスラエル王国の後裔平家の祖桓武天皇に南ユダ王国の後裔日高見天皇アテルイがやられる。その後平家の支配が続いたが、源義経が壇ノ浦合戦で平家を降伏させ、日本の始めの総頭首、判官となる。分かりやすく言えば諸大名の頂点に立った。亦、平家総大将平時忠の娘蕨姫を妻にもらい、源平の合戦は終息する。しかし、奥州討伐に朝廷が動き1189年に源頼朝の侵攻奥州合戦で奥州国は滅ぶ。義経の一族は以降、歴史の表舞台から消える。そして時代は応仁の乱に火蓋を切り、戦国時代に突入。源氏を武田として平家長尾(上杉)と戦い、源氏徳川家康の治世によって葵(賀茂)のもとに日本における骨肉のイスラエル戦争は鎮火。天草の乱で完全に終結する。オランダとの強い絆によって、徳川時代は長く続いた。徳川家康は妙見北極星摩多羅神、秦河勝を山王として上座に祀っている。



(中略)


秦氏は珍しいものではない。飛鳥時代にはじめて来朝したというのは誤りの認識。紀元前2世紀にはすでに日本で秦のネットワークが存在した。卑弥呼(日弥呼)が九州からすんなり山都入りできたのはこのため。秦は日本全国に分布している。白(シロ、シラ、ハク)という。秦の新羅は、日本で更木、白木、新城と表記する。ホシオリの地三輪山平等寺の多聞の方向乾(イヌイ)北に巻向穴師は兵主八千鉾を大己貴(オオナムチ)これはソロモン王を表す秦の権威のこと、丹後や三輪にはじまる酒作り。大酒とはダビデ王のこと。八坂(イヤサカ)の拝所を磐境(イワサカ)これが本義、八坂神社の神体もそう呼ばれるのですが、地殻変動のこと。この天体地上大地は、大宇宙と鼓動をひとつにしていて、かるがゆえ古代人(日本先祖)は、天体の観測研究を怠らなかった。天香香背男、そして卑弥呼に至るまでも。現代の磐境は吉野に素粒子研究所としてあります。ユダヤ民族が中東において経験した恐怖を忘れない祭祀で精霊的な磐座信仰と異なり学術的な信仰。スサノオ祇園祭りはシオン祭り。渡来人の祭典。烏(ヘブライの兄弟)を従えて大陸より帰還した大王スサノオ。[強くて怖ろしい"エブス(日本における南ユダ中臣、ウブス・蝦夷として畏れられる)"の土地「後にソロモン第一神殿の丘」シオン「イスラエルへの回帰」を独読みではZion、英読みではZion、ヘブライ読みではTziyyon。]の海部の祖を天日矛と言い、彦火明。その子孫を八幡といい応神天皇は誉田(HONDA)。本田善光は推古天皇八年(600)豊浦寺の本尊を難波の堀江より信州へ移転する。信州諏訪大社はモリヤの地、鹿の首を祀る。イル信仰の三輪とバアル信仰の出雲の戦における日本においての第一次終結契の地。


出典
http://sky.geocities.jp/jkenterprise777/profile.html



天文22年(1553)


長沼城(長野市穂保)
 長野市中心部から須坂市方向に向かうと千曲川にかかる村山橋があるが、ここの北1㎞が城址南端。
 完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
 現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。
 北側の貞心寺から南側の勝念寺までの1.5㎞が城域であったという。城下を取り込んだ総構を持っていたといい。現在の長沼の集落内を走る道路も昔のままとのことである。
しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。


始めは島津氏の城であったというが、当主、島津淡路守忠直(月下斎)は天文22年(1553)越後に逃れる。
(その後、月下斎は上杉方の先陣として川中島の戦いに係り、天正10年(1582)遂に長沼城への復帰を果たす。
しかし、上杉氏の会津への移封に同行し岩代長沼で7000石を得る。最後は米沢に移る。)

川中島地方が武田氏の手に落ちると、飯山地方への進出とこの付近の統治の中心地として整備される。
どちらかというと領地支配のための政庁的性格が強い城であったと思われる。
武田氏が織田氏の攻撃で危機に陥ると上杉軍が長沼城に援軍として入る。

島津氏の復帰した時代を経て、江戸時代は松平直輝が松代城に入り、山田長門守が城代として入った。
その後、佐久間氏が入り18000石の長沼藩となるが、元禄元年(1668)廃藩となり、その時点で廃城になった。

出典
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm



広田砦(広田城)(長野市稲里町田牧)
現在の広田集落全体が城域であり、東が昌龍寺付近、西が東昌寺付近までがその範囲であったらしい。
しかし、今はほとんどが宅地になってしまい、東昌寺に土塁が残るのみで、城があったという感じはまったく伺えない。
この城は武田方の川中島中央部の押さえとして弘治年中(1555~1558)に整備されたものという。
東の昌龍寺付近が主郭、西の東昌寺付近が副郭といった感じの双頭の主郭を持ったような感じの城であったようである。

下の写真は国土地理院の昭和50年の広田砦付近の航空写真に現存していた堀及び用水路を含めた推定堀位置を描きこんだものである。
本来は、昌龍寺付近を中心とした部分が村上氏一族、広田氏の館であり、東昌寺付近がその分家、藤牧氏の館であった部分、または後世に増築した部分ではなかったかと思う。
この地は横田城と大堀館の中間点に当たる。
平地とは言え、北から東にかけて旧小島川が流れ、西側には北から古犀川が流れ、両河川に挟まれた微高地上である。

築館は応永4年(1400)広田氏によるという。
北東500mに田牧居帰遺跡があるが、平安時代頃の遺跡という。その発掘報告を見ると発掘した遺跡は末端部分であり、中心部は広田の集落内であると記載されている。
とすれば横田城と同時期の平安時代に、ここに城砦集落が作られていたのではないかと思われる。
ちなみに横田城付近で分岐した街道はこの城付近を通っている。
広田氏は水内郡の芋川氏と姻戚関係にあり、芋川氏が断絶状態となったため、広田氏が芋川に移住し、芋川を継承する。
広田氏こと芋川氏は川中島の戦いでは上杉方として武田氏と戦い、天正10年(1582)武田家が滅亡すると、川中島に復帰、天正12年(1854)正月、芋川親正は飯綱神社に寄進していた小島田の地を再び飯綱に寄進している。
その後、上杉氏とともに会津に去り、重臣として白河小峰城の城代を務めるほどに重用されている。
広田氏が去ると藤牧氏が館を継ぐが、藤牧弥之助は武田氏に追われ、現在の中野市桜沢に移ると、館は無人となる。
その後、この地を占領した武田氏により城砦化され、大日方氏が館主を務めたという。
大日方氏は小笠原一族であり、大町方面の山間の土豪であったという。
昌龍寺は、大日方直家が父の菩提と、領民の繁栄平和を願い、天正5年(1577)建立したという。



この縁で寺紋は大日方氏と同じ「丸二」である。武田氏滅亡後は大日方氏は上杉氏に従うが、会津には同行せず、小川村に帰農した。
現在もこの地方には大日方姓は多く、子孫であろう。
この寺の高さ15mの四面角塔鐘楼が特徴ある建造物であるが、これは明治初期、松代城の隅櫓を移築したものという。
昌龍寺付近の部分が東西54m、南北90mの広さ、その外郭は東西144m、南北164mほどで、周囲には濠がめぐらされていたというが、内郭自体が昌龍寺の境内そのものである。
昌龍寺周囲の道路が堀跡である。(かつては寺の西側に土塁や堀の痕跡のようなものがあったように記憶しているが・・・。)
外郭の境界部分が東と北側の市道付近である。
一方、東昌寺は周囲を土塁と水堀で囲まれた1辺50m程度の大きさであり、かつては幅7mほどの堀で周囲が囲まれていた。
水堀は昭和50年代末に埋められてしまい、土塁がコンクリートで保護されて残存するのみである。
なお、かつては東昌寺から昌龍寺方向に水堀が延びており、その間にも曲輪があったようである。
現在も用水路である「下堰」が集落内を流れているが、この用水路が水堀跡であり、城内の水堀への水の供給源であったようである。
広田集落全体に水堀が張り巡らされたような城であったのであろう。おそらく、イメージとしては横田城と類似していたのではないかと思われる。
東昌寺は元文4年(1739)松代藩主真田氏により観音堂が建てられ、正式に宝暦9年(1759)東昌寺が建立された。
ここに寺を置き、館時代の土塁、堀に手を付けなかったのは、松代まで平地で全く防衛施設が存在しないのを考慮した措置であったという。
ここは小生の実家の南500mの位置にあり、その水堀は釣のメッカであった。始めて釣をしたのはこの堀であった。

航空写真を見て気付いたのであるが、南西隅に丸馬出のような地形が道路となっているのである。これは果たしてなんなのだろうか?
最近の航空写真でも道の形はこのままである。今度、確認してこよう。
この城は、川中島の合戦では武田方の城であったはずであるが、合戦にどのような役割を演じたのかは何の記録もない。
永禄4年(1561)の激戦の地という八幡原は南東1㎞、武田方の武将、両角豊後守の墓は北東1㎞、狐丸塚は南400mに位置し、かつて首塚が多数存在したということから、この城も戦いに巻き込まれたのであろう。
と言うより、永禄4年の大激戦自体がこの城を巡っての攻防戦、主役ではなかったのかと思う。
つまり、上杉軍の主攻撃目標が、大堀館、広田城、横田城と3城並んだ真ん中のこの城ではなかったのか?



小田切館(長野市川中島町今井)
小田切館は、内後館の南南東1.5km、信越線今井駅の南西500mの今井神社がその跡という。
この今井神社の名前は木曽義仲の家臣、今井兼平から採られている。

なんとこの神社の西側に「今井兼平の墓」まである。
勿論、滋賀の粟津で戦死した今井兼平の墓そのものではなく、今井兼平の部下、岩害形部が供養のために建立したものという。

解説板によると横田河原の合戦の時、今井兼平が率いる木曽軍の別働隊がここに隠れ、側面から挟撃したという。
この地の西側は若干低くなっており、そこが犀川の支流、御弊川の跡である。この付近は薄の原野であり、兵を隠すには絶好の場所であったという。

これに係る駒止め石、馬洗いの池、縁切橋などの伝承の場所がこの付近にいくつかあるので、信頼のおける話かもしれない。
神社の周囲には土塁の痕跡を伺わせる土の盛り上がりがある。境内は南北70m、東西40mほどであるが、その外側に外郭が存在していたらしい。
今井集落が若干の微高地にあるので、集落がその外郭ではないかと思う。


この小田切館であるが、この付近を北国街道が通っており、このルート上、直ぐ南で第1回川中島合戦、御弊川の合戦が行われている。多分、この時の上杉軍の陣もここだろう。つまり、最初と最後の戦いで上杉軍の陣となったのではないだろうか。上杉謙信としてはおなじみの場所ということになる。
川中島合戦最後の戦い(対陣)である永禄
7年(1564)年の第5回戦においては、上杉軍がここに本陣を置き、塩崎城(川柳将軍塚古墳?)に本陣を置いた武田軍と60日間、にらみ合った場所という。
当時、街道筋にある館であり、上杉軍が南下するのにも妥当なルートである。


平林館(長野市松代町豊栄字平林)

松代の東、西に皆神山が聳える豊栄地区にある諏訪神社一帯が館跡。
最近まで土塁が存在していたという。
「政所」「花立」「大門」「堀内」「内堀」という小字が付近にあり、館の名残という。
この付近は英多庄という荘園の中心であり、その管理者である平林氏の居館であったという。
平林氏は鎌倉時代にここを支配していた者であが、詳細はかよく分からないが、九州まで領地を有していたという。
なお、この付近は平林姓は多く、その子孫であろう。

小森館(長野市篠ノ井小森)
篠ノ井東中学の東500mにあった小森氏の居館であるが、館の真ん中に千曲川の堤防が築かれ、堤防の内側となった遺構はかろうじて堀跡が推定できるに過ぎない。
遺構らしいものといえば、堤防北下にある土塁の一部だけである。
ここは方形館の隅の櫓台であったらしく、ここには慶安
4年(1651)と年号が刻んだ石祠があり、「小森云々」との文字が確認できるという。

館は70m四方の内郭と西方へ30m、東方へ40mが外郭であったというので二重輪郭式の館であったようである。
諏訪氏一族の小森遠江守の館跡といわれる。
この小森氏も多くのこの地方の武家同様、武田氏の侵攻を受けると武田氏に従属し、武田氏が滅びると、織田氏、上杉氏に従い、最後は上杉景勝にしたがって会津に移ったという。
なお、一部はこの地に残りその子孫が
健在である。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)


保科氏館(長野市若穂保科)
白虎隊で有名な会津松平家発祥の地がここである。
会津松平家は元々は保科家であり、武田軍の中で勇名を謳われた「槍弾正」こと、高遠城代、保科弾正忠正俊の末裔である。
保科弾正忠正俊は武田家中においては、信濃先方衆として騎馬
120騎持ちの侍大将であった。
高遠城は織田氏の攻撃で落城するが、当主保科正直(正俊の子)は落城時に城を脱出し、本能寺の変に乗じて城を奪回し、その後、北条氏さらに徳川家康に仕え大名となる。
そこに養子として向かえたのが秀忠の子、保科正之である。
その保科氏発祥の地がこの保科の谷である。

菅平高原の西の谷筋の末端にあり、狭く余り豊かな土地とは思えない。
保科氏は井上一族と言われ、この保科の谷に住み、保科氏を称したという。
この円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利(正俊の祖父)を開基とし、延徳元年(
1489)に開創された曹洞宗の寺院であるが、ここが保科氏の館であったといわれる。
館と寺は永正
10年(1513)村上氏との戦いで焼失するが、館の地に寺が再建され、焼け残った館の裏門が現在の寺の総門という。
広徳寺の西の裏山が霜台城であり、保科氏の詰めの城であった。

この城には石垣があるというが、比高
300mの険しい山で道もなく、熊も生息しているとのことで未攻略である。
いつかは行って見たいものである。
保科一族は、村上義清に従い武田信玄と戦い、武田氏の勢力が伸びると他のこの地方の武家同様、一族を武田方と上杉方に分け生き残りを図る。
武田方についた一族の末裔が徳川氏に仕え、後に会津松平家となるが、保科正則の弟左近将監正保は、上杉氏に属し、保科を領し、稲荷山城の城代となり、会津に移る。
なお、この地に残り真田氏に使えた一族もいる。
(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)



清野氏館(長野市松代町清野)
松代町の清野の大村地区にある古峰神社付近が、村上氏一族、清野氏の館であったという。
この地は南に鞍骨城のある山があり、西側の妻女山と東側の竹山(象山)が両腕で包み込むような場所の最奥地である。

古峰神社の地が居館とは言うが、居館はこの背後の大村集落一帯であり、館の主要部は民家の敷地になっているようである。
遺構はほとんど分からないが、集落自体、北側の低地より一段高く、神社北側の水田が堀跡のような感じである。

館主であった清野氏は村上氏の一族として現在の松代全域から屋代付近を領土にしており、当時の館が現在の海津城であったという。
海津城の本丸自体が
100m四方ほどと非常に小さいが、この本丸こそが、清野氏の居館そのものの縄張りを踏襲しているという。
前海津城とも言うべき前清野氏館の詰めの城として存在していたのが鞍骨城であり、天城、鷲尾、唐崎、竹山を含めた鞍骨城砦群を整備したのが清野氏と言われる。
その清野氏も天文年間になると村上氏とともに武田信玄の侵略にさらされ、始めは村上義清とともに戦い、越後に逃れるが、永禄
2年(1559)ころ武田氏に降伏し、この地に帰ったという。

この時、居館であった海津城に改修されたため、移転した場所がこの館であったという。

その後、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、清野氏は織田氏、次いで上杉景勝に属する。
そして慶長
3年(1598)上杉景勝の会津移封に多くの川中島地方の武家同様、清野氏も同行し、この地を去ったという。
館跡には宝永年間(
17041710)、古峰神社(当時は、日枝神社)が建てられ、松代藩の倉庫「酉の蔵屋敷」が置かれた。
なお、この大村集落は、宝暦
7年(1757)と天保11年(1840)に火災に会い全滅し、村人は清野氏のたたりとおそれ、弘化3年(1846)古峰神社境内に「清野氏遺愛之碑」を建てて供養したという。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)

横田城(長野市篠ノ井会)

なぞに包まれた城郭である。
完全な平地にあるため、宅地化が進み、残念ながらほとんど隠滅状態である。
南長野運動公園の西、国道18号線を挟んで反対側、厚生連篠ノ井病院の南が城址に当たる。
城砦集落として知られ、当地では「会村」(あいむら)と通称される。

集落内を多くの用水路が流れ、かつては水堀への給水用であった。
小生の親戚宅がここにあり、今はどこがそれだったのか分からなくなっているが、30年ほど前には幅5mほどの堀があったことを覚えている。
現在は、土塁または土壇が残っているのみであるが、かつての堀の場所は大体分かる。
かつて、会の集落の周囲は一面の水田やりんご畑であった。

今は水田は宅地となりかなり無くなっているが、旧集落と新興住宅街は容易に区別がつき、その境界がかつての堀跡であり、幾分、窪んでいる。

唯一残る土塁に掲げられた説明版には次のように書かれている。
 『平安時代末ごろの築城で、養和元年(1181)木曾義仲が越後の城氏の軍と戦った時に利用し、また北陸を攻め上がるについても、この城を根拠地の一つにした。
応永7年(1400)信濃守護小笠原長秀が、村上氏や大文字一揆らと戦った大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもっている。
川中島の戦いの時は甲将原大隈守がこもったと伝える。

外堀は南北約180m、東西約230mの短形をなし、その内部が、いわゆる環濠集落になっている。
内城の部分は約55m四方で、殿屋敷といわれ、その西北隅(現在地)に南北10m、東西12m、高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷神社が祀られている。
 稲荷社の北には、近年まで6m以上の堀があった。
この殿屋敷の部分が本郭である。
外堀内の西半分を、宮内(くねうち、郭内の意)といい、東半分を古町という。
大和地方の環濠集落によく似た屋敷割がみられる。土塁の南に馬出しの地名があり、東には土居沢の地名がある。
古代末期から戦国期に至る館跡として、また防備施設を持つ環濠集落の遺跡として貴重である。(長野市教育委員会)』


以上のようにかなり古い歴史がある城であり、この城を巡っての戦いが起きている。
 この地にこのような城郭が築かれたのは、北国街道が西を通り、そこから分岐した街道がこの城付近を通り、北東に延びているなどの交通の要衝にあることによる。
 このため、この地は何度か戦乱の舞台となっている。

 始めに記録に登場するのが、源平の横田河原の合戦であり、大塔合戦にも関係する。
 川中島の合戦との関係も明確な記録はないものの当然係わっているはずである。

 第1回の合戦の舞台である布施の戦いの舞台はこの城の西1km、JR篠ノ井線篠ノ井駅付近である。
 恐らく北国街道沿いで武田、上杉(当時は長尾)両軍が衝突したものであろう。
 北東に「合戦場」という地名があるが、地名が合戦に関わったものであることは容易に想像できるが、どの合戦か特定することはできない。

 三池純正氏の「新説川中島合戦」では永禄4年の第4回合戦はこの城を巡って戦端が開かれたとしているが、これも否定はできない。
 昔、子供の頃、『本当の八幡原(例の一騎打ちがあった場所)はここではなく、もっと西、南長野運動公園の地にあった勘助宮の位置だ。』という話を聞いたことがある。
 唯一残された土塁のみが真実を知っている。

栗田城(長野市栗田)
長野駅東口から南東に600mの位置に日吉神社がある。ここが城址である。
この城も市街化の波を受けてほとんど姿を留めないが、2つの郭からなる輪郭式の城であったようであり、日吉神社が本郭の北西部に当たる。
城域は東西709m、南北1090m程度の規模があったというので巨大な城である。

この城の近くに管理人の母の実家があり、母の実家に行った時の従妹達との遊び場がここであった。
その当時はまだまだ水田が広がっていた記憶がある。多分、その水田が堀の跡であったと推定される。


日吉神社の社殿は20m径、高さ3mほどの土壇の上に建つ。
これが栗田城の本郭の土塁の一部である。
現在はコンクリートで一部固められているが、かつては土剥き出しであった。
土壇の北側と西側には堀跡がくっきり残っている。大正時代までは神社の南側に東西に土塁が延びていたという。
土塁に囲まれた本郭は120m×100mほどの大きさがあり、その周囲を水堀が回っていたという。虎口は南西端部にあったという。

その周囲に外郭があったらしいが、外郭の周囲に土塁が存在したのかは分からない。
おそらく裾花川の開析した微高地が外郭であったのではないかと思われる。 

この外郭部には家臣団の屋敷など根小屋地区であったものと思われる。その点では城砦集落とも言えるであろう。
現在、1km西を南流する裾花川は当時はこの城のすぐ南を南東方向に流れていたといい、裾花川が外堀の役目を果たしていた。

城主は善光寺の堂主、栗田氏と言われる。
栗田氏は村上蔵人顕清の子村上判官代為国の子寛覚が栗田郷に居住し、栗田氏を名乗り、戸隠権別当としてその子孫は北信濃の有力国人領主に成長となった。
記録では鎌倉時代の『吾妻鏡』の治承4年9月の条に栗田寺別当大法師範覚(栗田禅師寛覚の誤記)として初登場する。 
治承4年(1180)9月、木曽義仲の挙兵に平家方の笠原平五頼直が侵攻、栗田範覚は村山七郎義直らとともに木曽義仲に味方し笠原勢を市原で迎撃、戦闘となったが決着がつかず、 越後から城助職(長茂)が加勢に駆けつけることで横田河原の合戦へと発展し木曽方の勝利に終わる。
その後、栗田氏も木曽義仲に従い京まで上ったのではないかと推定される。
鎌倉時代となると当主、寛覚は戸隠山別当に加えて善光寺別当にも任じられ、以後、栗田氏は戸隠山と善光寺の別当職を代々務める。
源頼朝が建久8年(1197)に戸隠山と善光寺に参詣した時は、寛覚の屋形に宿泊し、栗田ノ御所と名づけたという。
源氏滅亡後、信濃守護となった北条得宗家も善光寺に庇護を加えたため、善光寺と戸隠山の別当を兼帯する栗田氏の地位も安定していたと推定される。
この栗田城を築いたのは寛覚の長子栗田太郎仲国といい、戸隠山の別当職は弟の栗田禅師寛明が継承した。
これにより仲国の系を里栗田、寛明の系を山栗田と称して栗田氏は二つの流れに分かれた。

次に栗田氏が歴史に登場するのが、応安3年(1370)10月、信濃守護上杉朝房の栗田城を攻撃である。
これが栗田城の初めての記録への登場である。
この戦いは朝房に従わない栗田氏を攻めたものであり、栗田城の西木戸口あたりで合戦となり、上杉軍を撃退したという。

次に登場するのが応永6年(1399)の大塔合戦である。栗田沙弥覚秀の名が国人領主の中に見える。 
永享10年(1438)の永享の乱が起こると、 守護小笠原政康の鎌倉進攻に従った信濃国人たちの名の中に「栗田殿代井上孫四郎殿」の名が見える。さらに『諏訪御符礼之古書』の文明3年(1471)の「御射山明年御頭足」に栗田萱俊の名が登場し、文明9年の「五月会明年御頭足」に栗田永寿の名が見える。

このころ、戦国時代に突入し、栗田氏も隣の漆田秀豊を降している。
戦国時代は栗田氏は宗家にあたる村上氏に属し、始めは武田氏の北信侵攻にも村上氏の下で戦うが、 天文22年(1553)、村上義清が越後に落去すると、栗田寛安も一度、義清とともに越後に行くが、のちに武田方の調略に応じて信濃に復帰した。
これは信玄が越後侵攻のルートとして戸隠往来の道筋を押さえるため、 戸隠神社別当職の栗田氏を調略したものと言われる。

弘治元年(1555)、第2回川中島合戦では寛安は武田方に属して旭山城を守り、 上杉勢を牽制。このとき、信玄は旭山城の栗田氏に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送ったという。
両軍の対陣は今川義元の仲裁で講和となり両軍は兵を引き上げた。
このとき信玄は善光寺本尊を甲府に移して甲府善光寺を建立し寛安も甲斐に移った。
この時、栗田城も破却されたらしい。ただし、大正時代まで土塁に囲まれていたというので城としての機能は喪失しておらず、川中島の戦いでは、位置的に見て、上杉軍の部隊が入ったのではないかと思う。 

寛安のあとは鶴寿(寛久)が継ぎ、永禄11年(1568)、信玄から甲府善光寺の支配と水内郡の旧領も安堵されたという。 
しかし、勝頼が長篠の合戦後、高天神城を拡大・整備し、 今川氏の旧臣岡部元信(真幸)とともに栗田鶴寿も守将の一人となる。
しかし天正9年、徳川家康の攻撃で高天神城は落城し栗田鶴寿も戦死。
栗田氏は子の永寿が継いだが幼少であったため弟の寛秀(永寿=国時)が後見する。
天正10年、武田氏が滅亡すると 永寿は家康に従い領地を安堵されるが、家康が関東に移封されると上杉氏に従うが、慶長3年、上杉景勝が会津に移封となると、栗田永寿もこれに従い信夫郡大森城八千石を与えられた。
しかし、豊臣秀吉が病没、徳川家康との対立が深まると、家康に内通じて会津から出奔したが、討手に攻められて討死。

永寿の遺児寛喜は慶長8年に善光寺に帰り、善光寺別当復帰を画策するが、善光寺本尊を甲府に移し、善光寺を衰退させた栗田氏を地元民が嫌い、復帰は叶わず、寛喜は善光寺御堂のあとに屋敷を構え、寛慶寺の再興をはかったと伝えられる。 
長野市教育委員会 発掘調査報告書「栗田城2」、宮坂武男「信濃の山城と館」、武家家伝を参考



出典
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm