2015年8月26日水曜日

中村常陸守入道宗村、法名念西



一 はじめに - 伊達氏についての概観

  藤原泰衡追討の文治五年(1189)奥州合戦の際、その最大の激戦ともいえる陸奥伊達郡の石那坂で戦功をたてた者に中村常陸入道念西の諸子がある。この一族は、のち戦功の地・伊達郡を与えられて常陸国真壁郡伊佐庄から遷住し、地名に因み伊達氏を名乗った。鎌倉期には、伊達一族の活動は地域的に散見するものの、史料にあまり現れないから実態がよく分からないが、着実に力を貯えていたものであろう。南北朝期になると、伊達宮内大輔行朝行宗ともいう)は南朝方武将として陸奥を本拠とした鎮守府将軍北畠顕家を支えて活躍する。陸奥の多賀国府が足利方によって占拠されると、国府機能は伊達氏の本拠たる伊達郡の霊山城に移され、ここから南朝方は北畠顕家の二度にわたる征西軍を送り出した。行朝もこれに従軍し、また本領のある常陸西南部にも転戦した。
  続いて、十四世紀後半の伊達弾正少弼宗遠、その子大膳大夫政宗の時代になると、次第に伊達郡から周りの地域まで勢力拡大の動きを強くしていく。応永頃に活動し中興の祖とされる政宗は、幕府と結んで鎌倉府と対抗しつつ、信夫・刈田・柴田三郡及び伊具庄、さらには出羽国置賜郡長井荘を領域とする。
  それからほぼ百余年後の大永二年(1522)になると、伊達稙宗政宗の五世孫)は前例のない陸奥守護職を得、その子晴宗は陸奥探題に補せられて、居城を出羽米沢へ移している。この頃から伊達家の子女は多く史料に現れ、近隣の有力諸豪族への婿入りないし嫁入りが多く見られる。伊達一族から他家へ入嗣した例としては、大崎・葛西・村田・亘理・岩城・留守・石川・国分・白石・懸田などの諸氏があげられる。このうち、亘理・白石・留守の諸家は、江戸幕藩期には伊達を称することが許され(順に涌谷伊達・登米伊達・水沢伊達という)、一万石を超える知行高を持つ重臣となっている。
  晴宗の孫・政宗は、二本松畠山氏を滅ぼし、次には豊臣秀吉の停戦命令を無視して、会津の摺上原の戦で芦名義広を破り、会津一円を手中にして、戦国奥州の大勢を決した。これが天正十七年(1589)だから、この間、石那坂合戦から四百年が経過したことになる。その二年後に、秀吉の奥羽再仕置によって、米沢から黒川(会津若松)に移っていた政宗は、岩出山(もと玉造郡岩出山町、現大崎市西北部)へ転封を命じられ、続いて慶長五年(1600)には仙台開府の工事を始める。仙台に入った政宗は、奥州一宮としての塩竈神社を厚く保護・尊崇し、慶長十二年には同社をはじめ大崎八幡社・国分寺薬師堂を修理造営した。

  この伊達氏については、一般に通行する系図では、藤原北家流の中納言山蔭の後とされ、異説を見ないほどである。しかし、その初期段階は系譜等を仔細に検討すると、史料に裏付けがない点や不明な点がかなり多い。その一方で、仙台藩によって作られた資料が、時代の制約もあってか、かなりの疑問点があるのにもかかわらず、定説的に流布しているという問題もある。従って、伊達氏の起源論も含めて様々な角度から、伊達氏の動向・変遷について検討を加えることにしたい。
  この際、各地域の郷土史料や平凡社の日本歴史地名大系『宮城県の地名』『福島県の地名』等、『宮城県姓氏家系大辞典』及び『戦国大名家臣団事典』(高橋健一氏執筆の伊達氏関係)、などの資料が有益な示唆を与えてくれそうであり、これらを充分活用していきたいと考えている。これらの学恩に感謝するとともに、多くの資料を割合簡単に利用できるようになった時代環境の恵みも感じている次第である。  


  二 伊達氏の発生と初期段階の人々 

  中村常陸入道念西という人物 
  伊達氏の初祖、中村常陸入道念西の四子(常陸冠者為宗、次郎為重、三郎資綱、四郎為家)が奥州伊達郡で先駆けをして、石那坂で佐藤庄司らを討ち取る戦功をあげたことは、『東鑑』文治五年(1189)八月条に見え、信夫佐藤庄司一族との関係でも注目される。ところが、この始祖中村常陸入道念西なる者については、疑問が相当に多い。
  一般に、この念西の実名については朝宗とされ、藤原北家の中納言山蔭の後裔に位置付けられる。これは、江戸期の伊達家が『伊達正統世次考』(元禄十五年〔1702〕頃完成)や『寛政重修諸家譜』で称している系譜であり、またこれを承けた諸系図史料でも多く記述されてきた。
  これに対して疑問を提起したのが、太田亮博士である。太田博士は、「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」ことから疑問として指摘する。そのうえで、伊達氏を桓武平氏常陸大掾平維幹の子為賢の後とするほうが穏当だと考えると記す。この太田亮説を妥当と考えるのは、管見に入った限りでは、近藤安太郎氏(『系図研究の基礎知識』)くらいである。
  しかし、本稿の検討にかかってからじっくり考えてみると、藤原北家の朝宗後裔説はやはり疑問であるという感が次第に強くなってきた。このため、先ず中村常陸入道念西とは何者かを具体的に調べる必要がでてくる。

  常陸入道念西の実名を朝宗とする史料は、その出現が年代的に見てかなり遅いようで、古い時代の史料には殆どが宗村という名で記される。朝宗と宗村との関係については、伊達初祖を朝宗とする場合には、宗村は朝宗の子に位置づけられる取扱い(この場合、宗村は次郎為重と同人とされ、その子に義広をおくものが多い)とされている。これに対し、『福島県史』や『福島市史』は、「朝宗―為重―義広」説を決定的な定説であるかのように持ち出し、それを定着させようとしているが、この説は間違っており根拠に乏しい、と松浦丹次郎氏は著書『伊達氏誕生』で批判をしている。
  史料から念西をみると、常陸入道念西の娘・大進局は、頼朝の寵愛を受け貞曉を生むが、『東鑑』文治二年(1186)二月廿六日条には二品若公(貞曉のこと)の誕生をあげて、その母を常陸介藤原時長の娘と記し、次いで建久二年(1192)正月条には頼朝が寵愛した女房大進局は伊達常陸入道念西の息女と見える。『尊卑分脈』では、源頼朝の子の貞曉に註して、その母を伊達蔵人藤原頼宗女とする。これらの記事が全て正しいとすると、常陸入道念西は常陸介藤原時長及び伊達蔵人藤原頼宗と同一人物であることが知られる。
  なお、『東鑑』の記事からは、常陸入道念西の生存期間は一切不明であり、文治五年の奥州征伐にも従軍者のなかには挙げられていないし、頼朝妾の大進局の父として引用されるのみであることに注意しておきたい。
  
  伊達初祖を宗村とする史料については、『福島県史』(第一巻、通史編1)などでは、次のようなものがあげられている。
① 『駿河伊達文書』(京都大学所蔵)のなかの「伊達氏系図」では、朝宗の子・宗村の代に奥州征伐に従って功あり、伊達郡を賜った、とする。新井白石は『藩翰譜』のなかで『伊達正統世次考』の示す系図を疑い、この文書と同様の説を採っている。
② 『伊佐早文書』の天文十五年(1546)成立とみられる「伊達家譜」では、第一の先祖を中村常陸守入道宗村、法名念西として、文治五年初めて伊達へ下着以来の当家代々の系図を掲げる。このなかで、朝宗という名の者は伊達第六代にあげられているが、第六代は通常、行宗とか行朝という名で見える人物であることに注意したい。
③ なお、『古今著聞集』には東宮帯刀中村常陸介宗村の名が見えると『伊達正統世次考』に記されるが、これは同書の誤解であってその事実はない、と松浦丹次郎氏が前掲書で指摘する。
  
  このほか、鈴木真年翁関係資料でも、宗村を中村常陸介出家念西として、為宗・義広ら兄弟の父とする(『百家系図稿』巻十四の伊達系図。なお、『諸系譜』巻卅の伊達系図もほぼ同様)。 

  こうした資料による限り、常陸入道念西の実名を宗村と考えざるをえない。そうすると、宗村は朝宗と別人となるが、これでよいのだろうか。伊達氏の祖という朝宗は、はたして『尊卑分脈』の藤原氏山蔭流のなかに見える朝宗(「高松院非蔵人」とのみ譜註がある)と同人なのだろうか。伊達初代を宗村とする説でも、宗村を朝宗の子として山蔭流とする系譜は疑わないが、先ずこの辺りから検討していかねばならない。
  『尊卑分脈』の掲げる系図は、公家藤原氏については概して信頼性が相当高いといえよう。同書には、藤原氏系図の山蔭流では朝宗の子には誰も掲げないし、「伊達」という苗字も、前掲貞曉の外祖父の号として唯一見えるくらいである。いいかえれば、同書による限り、山蔭流の藤原朝宗という者から伊達氏が始まったとはみられないということである。
  同書の編著者たる南北朝期の洞院家の人々が、北畠顕家のもとで南朝方として大きな役割を果たした伊達氏を知らなかったとは思われない。そのうえに、藤原朝宗周辺の一族にいて具体的に活動年代が知られる人々、すなわち実宗(朝宗の四世祖で常陸介・肥後守等を歴任)、有通(朝宗の従兄弟で隠岐守等に任)、永光(朝宗の従兄弟の子で丹後守等に任)の活動年代から考えると、高松院非蔵人としての朝宗は、宗村入道念西とほぼ同時代の人ではなかったかとみられる。『尊卑分脈』には、朝宗の父・光隆は待賢門院(1124年院号宣下、1145年崩御)に非蔵人として仕え、朝宗の弟・業守は上西門院(1159院号宣下、1189崩御)に蔵人として仕えたと記される。

  それでは、平安末期の藤原朝宗という人物は、信頼すべき史料にはどのように現れているのであろうか。
  筆者の管見に入ったところでは、『兵範記』の仁安二年(1167)正月六日条の叙位記事に蔵人藤原朝宗が見え、従五位下に叙されている。この朝宗に当たる人物としては、年代的に二人考えられる。一人は前掲の山蔭流藤原氏の高松院非蔵人の朝宗であり、もう一人は『尊卑分脈』師尹公孫に見える朝仲(師尹の七世孫)である。後者は正五下太皇大后宮大進、蔵使で「本朝宗」と註されている。問題の「高松院」とは、鳥羽天皇の皇女子内親王のことで、二条天皇の中宮となった女性であり、応保二年(1162)に院号を宣下され、安元二年(1176)に三十六歳で崩御されている。この高松院に、前者の朝宗は非蔵人として仕えたとされ、一方、後者の朝宗は単に蔵人とあるだけであるが、祖先から子孫にかけて七代にわたって蔵人をつとめたと記されており、『尊卑分脈』の記事からは、『兵範記』の朝宗がどちらかは判断がつき難い(蔵人という肩書きからは後者のほうが妥当か)。いずれにせよ、平安末期に蔵人藤原朝宗という中下級の公家がいたことだけは、確かである。
  これらの事情から考えていくと、伊達氏が先祖として藤原朝宗にこだわることも理解できそうである。すなわち、藤原氏山蔭流の公家たる朝宗と伊達氏とのつながりが断たれると、伊達氏の出自がまったく不明になるのである。伊達氏にあっては、その始祖に朝宗という名の人物がいたかどうかの確認がまだできないうえ、仮に存在したにせよ、この朝宗は中納言藤原山蔭の後裔ではなかった、という結論にどうも導かれそうである。

  これに関連して、角田文衛氏に「高松院非蔵人・藤原朝宗の母」という論考がある(『姓氏と家紋』第43号、昭和60年9月)。角田氏は、『寛政重修諸家譜』伊達家系図に伊達朝宗の母が六条判官源為義の娘と記載されることに着目し、為義が政略的に待賢門院の側近グループにのめり込み、同じ待賢門院グループに属する女院非蔵人の藤原光隆(非蔵人朝宗の父)に娘の一人を娶せたことは極めて自然であったといえようとし、為義の子の義朝も待賢門院・上西門院グループから嫡妻(熱田大宮司藤原季範の娘)を選び、同じグループの藤原能保が義朝の嫡女を娶ったとみている。こうした流れのなかで、頼朝は、父方の従兄弟の朝宗に娘を参仕さすよう求め、こうして奥向きに仕えた大進局に手をつけた、と解している。これは、伊達氏の祖として高松院非蔵人藤原朝宗を認める見解といえよう。
  しかし、伊達氏の祖朝宗の母が実際に源為義の娘であったかどうかは、不明である。管見に入ったところでは、江戸期の『寛政譜』以外にそうした記事は見えず、『尊卑分脈』等には記されないからである。気のついた点では、『張州雑志』所収の「伊勢尾張氏系図」には、熱田神宮の祭主権宮司尾張奉成の姉妹に伊達常陸蔵人朝宗妻と見えており、頼朝が母方の熱田大宮司関係で伊達朝宗の娘を得たことが推される。同系図には他に伊達氏関係記事が見えないから、貴重な記述として信頼してよいように思われる。それとともに、伊達氏の祖の宗村はやはり朝宗という名も持っていたことがわかり、前掲『尊卑分脈』の伊達蔵人藤原頼宗の「頼」は似た字形の「朝」の誤記であろうと推される。
  ただ、朝宗が蔵人と号したからといって、必ず中央の藤原氏の出であったことは意味しない。常陸入道も、常陸前司入道の意味であっても、信頼できる史料には、常陸介として朝宗の名も宗村の名も見えていない。あるいは、常陸権介の前歴だったのかもしれないし、常陸掾・目くらいの級の常陸国司であった可能性はないではない。
  それでは、太田亮博士の指摘のように、伊達氏は実際に桓武平氏常陸大掾の一族から出ていたのであろうか。しかし、伊達氏が時により藤原姓や源姓を称するなど、そうとは思えない事情もある。陸奥の名取郡熊野新宮寺にある文安三年(1446)の鐘銘文には「大檀那源朝臣大膳大夫持宗」と記されても、伊達氏の人々で平姓を名乗る例は史料に見られないからである。

  宗村の後継といわれる義広 
  初期段階の伊達氏の系図を考えると、その混乱要因の一つが、宗村の後継としてあげられる義広の位置付けである。義広については、次に掲げるような諸説(考え方も含む)があり、判断がなかなか困難である。

① 宗村の子で、次郎為重と同人とする説
② 宗村の子で、三郎資綱と同人とする説……「駿河伊達系図」では宗村の三男に資宗をあげて、「蔵人大夫、資綱共云又義広共云同兄高名康元五年(1260)…略…卒廿三法名覚仏」と記す。
③ 宗村の子で、為重・資綱とは別人とする説……「雲但伊達系図」では為宗(ママ。伊達始、法名念西と譜註)の子に為宗以下九人をあげ、さらにその弟に与一時綱と次郎蔵人義広をあげる。一方、「寛政呈譜」では宗村を次郎為重と同人として、その子に時綱と粟野次郎義広をあげており、『福島県史』及び『福島市史』等でも同様の立場である。
④ 宗村の子とするが、上記三説のどれとも不明なもの……伊佐早文書の「伊達家譜」では、第一代の中村常陸守入道宗村・法名念西、第二代に粟野次郎九郎殿義広・法名覚仙、と記す。
⑤ 宗村の孫で、為重の子とする説……松浦丹次郎著『伊達氏誕生』では、時綱と義広は為重の子で、祖父念西の養子になったと考えられると記す。
⑥ 宗村の孫で、資綱の子とする説―結論的に、私はこの立場をとりたい(理由は後述)。
⑦ 念西の孫か曾孫とする説……新井白石『藩翰譜』では、念西の卒年が正治元年(1199)、義広の卒年が康元元年(1256)という所伝や『東鑑』の記事等から、このように考えている。
  
  これらの説のうち、どれが妥当なのであろうか。前掲史料のうちでは、信頼性がかなり高い駿河及び雲但の伊達系図、伊佐早文書から考えていくべきであろう。これに、卒年や称号などを考慮すれば、なんらかの結論が導き出せそうである。
 念西の卒年については、正治元年(1999)が正確でなくとも、その子女が源頼朝とほぼ同世代ということからみて、1200年頃としてよかろう。一方、義広の卒年については、伊佐早文書では建長三年(1251)、『諸系譜』巻卅所収の「伊達系図」では康元元年(1256)とするが、概ね1250年代としてよさそうである。両者がほぼ同じくらいの享年で死去したとすれば、念西の孫世代が義広とみるのが妥当となろう。
  それでは、何故に義広と時綱が「雲但伊達系図」では念西の子にあげられるのか。同系図では、念西の子に為宗以下の九男子と一女子(頼朝妾の大進局)に続けて、与一時綱・次郎蔵人義広の二人をあげる。この二人が兄弟で念西の実子であれば、義広の呼称は与二(余二)となるのが自然である。義広の呼称について、伊佐早文書では次郎九郎と記すのは、後ろの九郎は蔵人(くろうど)の訛伝という説がよさそうで、念西ではない誰かの次男であったものか。義広の兄・時綱は、念西の子のいずれかの長男であったが、なんらかの事情で祖父念西の養子となって、与一と号したとみられるのである。こうしてみると、時綱・義広兄弟は本来は念西の孫であったのが、父に関するなんらかの事情で祖父の子にもおかれるようになったと考えられる。

  次に、時綱・義広兄弟の父は誰かという問題になる。「駿河伊達系図」には資綱と義広とを同人として資宗の別名とするとともに、資宗が時綱の父に置かれることを考えると、
①三郎資綱がその子・次郎義広と合体し、一人としてみられたのではないか、
②資宗が義広の別名とみると、資綱の子に時綱・資宗(義広)がいて、自然である、
③義広が粟野次郎とも称したことが伝えられるが、「粟野家譜」にその祖とあげる越中国目代従六位下刑部丞粟野新三郎資国は、年代的にみて粟野次郎義広(=資宗)の子に置かれるのではないか、
④「雲但伊達系図」には資綱に中村庄本主と註されており、これは伊達本宗を継いだことを意味しよう、
  
と考えられるのである。資綱が後になって伊達本宗の歴代から消えたのは、おそらく父宗村に先立って死去したからで、こうした事情のため、その子の時綱・義広兄弟を祖父宗村が養ったのではなかろうか。

  義広が伊達郡桑折郷粟野大館に住んで粟野次郎と称したのは、本来歴代に数えられる人ではなかったとみられ、伊達本宗の当主は宗村→(資綱)→時綱→政綱(政依とも。義広の子)の順で伝えられたのではなかろうか。
  時綱は先にあげたように、応安元年(1368)閏六月十二日の鹿島文書「室町将軍家寄進状案」では伊佐郡(真壁郡伊佐庄)平塚郷に越前前司時綱跡とみえ、この地にあったことが知られる。時綱の跡を甥の甲斐守政綱が継いだことで、政綱の父・義広が後世歴代にあげられるようになったのではないか、とみられる。『東鑑』の寛元元年(1243)正月条に、御弓始射手の「伊達中村太郎」が見えており、続いて正嘉二年(1258)三月一日条には「中村甲斐前司」が見えるが、おそらく両者は同一人物で政綱にあたるのではなかろうか。してみると、伊達氏歴代は鎌倉中期までは主に常陸中村にあって国司職名を称号としていたことが知られる。
  政綱以降の伊達歴代はとくに異伝がないようで、その子甲斐太郎宗綱-甲斐孫太郎基宗(盛綱)-宮内大輔行宗(行朝)と続いて、行宗が南北朝前期の人にあたる。

  伊達氏にあっては、その初祖宗村が山蔭流藤原氏の朝宗の子とされて、系図がつなげられたという系譜仮冒が先ずあり、また、初期伊達氏の相続の複雑さ、複数の名前をもつ者などもあって、初期伊達氏の系図が一層難解なものとなったと考えられる。伊達本宗の居住地も鎌倉期においては、むしろ常陸国真壁郡から下野国芳賀郡にかけての中村の地であったろう。
  以上の事情からみて、伊達氏の出自探求のためには、一族の分布や古くからの家臣、居住地・奉斎神など関連する各種資料を、様々な角度から丁寧に検討していく必要がありそうである。

出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/datekei/date1.htm

常陸入道念西諸説


伊達氏伊達家の祖は『常陸入道念西』という人物だと確認できるのだが、 この人物の出目がはっきりとしていない。常陸入道念西が朝宗とする説もあれば、政宗そんな伊達氏の歴史が大きく動くのは奥州合戦の頃だ。
https://books.google.co.jp/books?isbn=4838723989


伊達家の系図には、二代宗村が常陸介に任じ、常陸入道念西と号し、義経が平泉にいるとき生ませた子亀若丸を養子にしたと記載されている。義経が平泉を脱出するとき、 亀若丸を二代念西に預けたというのである。
https://books.google.co.jp/books?id=ar4qBQAAQBAJ


中納言山蔭6代目の子孫実宗が常陸国伊佐荘中村に住して伊佐または中村と称し,始祖朝宗はその玄孫と伝える(図)。1189年(文治5)の奥州合戦で源頼朝に従軍した中村常陸入道念西(伊達朝宗)の子息らは,陸奥国伊達郡石那坂の合戦で平泉藤原方の信夫(しのぶ)荘司佐藤一族らを破った。戦後念西は功により伊達郡を与えられ,次男以下を従えて常陸から移り伊達氏を称した
https://kotobank.jp/word/伊達朝宗-1089697



常陸入道念西



常陸入道念西(ひたちにゅうどう ねんさい)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。通説では伊達氏の初代当主である伊達朝宗に比定されている。
文治5年(1189年)の奥州合戦石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で息子の為宗為重資綱為家と共に功を立てたことが『吾妻鏡』に見出される。源頼朝伊達郡を与えることで報い、念西はこれまでの伊佐、或いは中村の姓を改め、以後、伊達を称することになった。これが伊達氏の勃興である。
娘の大進局は頼朝の寵を受けて貞暁を産むが、彼女のことを『吾妻鏡』は常陸介藤原時長の息女と記し、『尊卑分脈』は清和源氏の項にて伊達蔵人藤原頼宗の息女と記していることから、時長・頼宗という名を持っていたことが分かる。
念西は歴代伊達氏のいずれの当主に該当するのか、以下に述べるように諸説がある。

念西の本名とその系譜[編集]

一般に、念西は山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗(母は源為義の娘という)に比定され、朝宗の曽祖父である常陸介実宗の代に伊佐、若しくは中村と称したと言われる。『伊達正統世次考』や『寛政重修諸家譜』では念西を伊達氏初代の朝宗であるとし、念西の次男・為重は後の2代当主・宗村に比定される。
ところが、伊達氏の古い記録・文書では宗村を伊達氏初代当主とするのが多く見られることから、古くは新井白石が『藩翰譜』で念西の本名は宗村という説を出し、近代では松浦丹次郎が『伊達氏誕生』で同様の見解を採っている。なお、朝宗と念西=宗村との関係では親子とする系譜の他、従兄弟とする系譜も見受けられる(『会津史』(巻之二・第三篇伊達氏の項) 。
いずれも、念西の本名を宗村という説でも山蔭流藤原朝宗に出自を求める点では一緒である。しかし、『尊卑分脈』では藤原実宗が伊佐・中村と号したという記述が見出されず、また朝宗から伊達氏が発生したという系譜も見出すことが出来ない(同じく、清和源氏の項でも為義の娘が光隆に嫁いだと言う記事を見出せない)。これらのことから、太田亮は念西の系譜を常陸大掾一族伊佐為賢の末裔とする説を出している。
最近では、宝賀寿男は初期伊達氏の系譜・文書の称号及び頼と朝の字の類似から、念西、朝宗、宗村は皆同一人物であるという説を展開している。また、その系譜を『新編常陸国誌』を基に、伊佐実宗-中村秀宗-助宗-念西とし、念西と言われた朝宗と山蔭流藤原朝宗を別人とであるとし、本来の系譜を毛野氏に求めている。『吾妻鑑』に見出せる、伊佐行政朝政は念西の弟という。
念西を朝宗とする文献・研究者等
  • 『伊達正統世次考』『寛政重修諸家譜』『永禄伊達系図』『福島県史』『福島市史』『仙台藩祖実録』
  • 「当午山満勝寺の比丘知恩の文」
  • 伊達宗家の当主、仙台藩士斎藤竹堂
念西を宗村とする文献・研究者等
  • 『寛永諸家譜』『南豫史』『伊佐早本系図』『駿河伊達文書』『藤氏飯田系譜』『藩翰譜』『伊達氏誕生』『会津史』『百家系図稿』『諸系譜』『伊達政宗の研究』
  • 「中村城、中村神社の伝承」(『伊達氏と中村八幡宮』)
  • 新井白石、太田亮、鈴木真年、松浦丹次郎、小林清治
念西を為宗とする文献・研究者等
  • 『雲但伊達家系図』(長男の名前も為宗となっている為、誤記の可能性あり)
念西と朝宗と宗村を同一人物とする文献・研究者等
  • 宝賀寿男

嶋津泰忠


信濃島津氏ですが、甲越の争いに際し、当主安房守は後越後上杉を頼りますが、武田を頼った分家が他にあったようです。川中島戦以降も安房守は同じく越後に身を寄せ、後の謙信死後の御館の乱では景勝につき、武田を滅ぼし川中島に入った織田の森長可が本能寺での変で上方へ去ると、上杉軍の一員として信濃を回復し、長沼城に復帰します。文禄三年定納員数目録では信州侍中に知行6190石371人の軍役を担い、さらに二十五人の桂(葛)山衆も抱える大身として島津淡路守の名があります。その後も会津、米沢と上杉に従い、明治の初期に東京へ出、家門を伝えています。
 
 武田を頼った分家は尾張守を当主とする一族だったようです。永禄六年八月に武田晴信が嶋津尾張守に宛、戦乱で逃亡した住人を呼び返すよう命令する文書が残っています。
「長沼地下人并従先々在嶋之族□悉集、可遂居住長沼地者也。仍如件、永禄六年亥癸八月十五日」
また、設楽ヶ原の戦い後、武田勝頼が軍役強化をはかり川中島の土地調べをした際、嶋左京亮津泰忠が知行地を書き出した文書も嶋津泰忠知行注文として残っています。
 上杉に従って会津へ行ったは別に、島津家が当地に現在も伝わっています。
 以下現地の方々からの聞き取りと文献からの私の推論です。
 赤沼の島津家が武田についた尾張守で、武田家中として牟礼三水を安堵され、上杉の会津移封には従来の経緯からついて行かず半帰農し江戸期は飯山藩に仕えたのではないでしょうか。
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赤沼の島津館跡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


嶋津久長



元亨三 嶋津久長、子ほうしゆに、水内郡太田庄神代郷内の田地を譲る、、、
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常陸入道


越後時代(文禄年間)
知行高記載名備考順位越後序列天正年間
直江兼続53217石山城守樋口兼豊の子、直江継嗣1 3
須田満親12086石相模守信濃衆、満(直江兼の継嗣)の父2 22
小国実頼9041石但馬守継嗣、直江兼続の弟32016
甘糟景継7696石備後守里見一族、上田衆、登坂清高の子4  
長沼忠直6190石淡路守信濃衆、島津一族5  
泉沢久秀5643石河内守上田衆622 
色部光長4868石龍松丸秩父一族7217
芋川親正4486石越前守信濃衆8  
清野長範4177石助次郎信濃衆、旧蘆名家臣の子9  
水原親憲3414石常陸介大見一族102326
斎藤景信3367石三郎右衛門上杉譜代、1198
市川房綱3349石長寿丸信濃衆、竹俣利綱の継嗣12  
木戸範秀3282石元斎旧古河公方家臣137 
本荘繁長3210石越前守秩父一族14  
岩井信能2983石備中守信濃衆15  
楢沢2983石主殿信濃16  
尾崎2992石三郎左衛門信濃17  
柿崎憲家2861石弥次郎大見一族、18254
上堺2850石平九郎信濃左近19  
藤田重信2808石能登守旧北条武田家臣204 
高梨頼親2665石薩摩守信濃衆213 
上倉2500石治部大輔信濃22  
安田能元2474石上総介毛利一族、23625
黒金景信2349石上野介上田衆24  
中曽根2333石子左衛門信濃25  
春日元忠2308石右衛門信濃衆、旧武田家臣26  
本庄2298石豊後秩父一族272 
村上国清2277石山浦源五信濃衆2815
山岸2277石中務少輔 292639
千坂景親2176石対馬守上杉譜代30 36
大石綱元2150石播磨守上杉譜代3111 
平田常範?2075石尾張守旧蘆名家臣32  
勝田1913石与太郎旧北条家臣?3313 
須田満胤1902石右衛門太夫信濃衆、、直江兼続の継嗣345 
大滝1889石甚兵衛信濃35  
中条三盛1865石与次三浦一族36814
小倉資信?1799石喜八 3714 
今清水1795石掃部信濃38  
下条忠親1734石釆女河田長親の子391837
甘糟長重1717石近江守上杉譜代40  
黒川為実1665石左馬頭三浦一族412412
福島季重?1634石掃部助 42  
松本助義1580石大炊助信濃衆43  
篠井泰信?1563石弥七郎直江一族44  
志駄義秀1563石修理亮上杉譜代・直江兼続の義理の甥45  
山内氏清1458石式部少輔旧蘆名家臣46  
下吉忠1458石新兵衛旧北条家臣、沼田一族47  
駒木根利政1251石肥後守 48  
大崎1251石九郎左衛門 49  
江戸1251石彦五郎 50  
安田与親1232石筑前守大見一族511012
須田1228石左衛門信濃衆52  
松本1225石左馬助 5312 
黒金尚信1201石安芸守上田衆   
大山1200石内膳正    
井上達満1200石左衛門太夫信濃衆   
須賀盛能1173石修理亮    
高津1117石長尾平太長尾一族   
島倉泰明1111石孫左衛門    
堀川1060石左兵衛    
山本寺勝長?1060石九郎兵衛上杉一族、   
武藤989石大宝寺出羽守秩父一族本荘長の子・   
千坂長朝984石与市上杉譜代、景親の子 16 
香坂昌能963石与三郎信濃衆、   
清水958石内蔵助    
宮島950石三河守    
竹俣利綱921石左京亮佐々木一族 19 
新津秀資911石丹波守上杉譜代 15 
山岸秀能895石民部少輔上杉譜代   
荻田長繁884石主馬丞  27 
西条尚胤878石喝食丸信濃衆   
奈良沢858石主殿助    
沢根856石源四郎本間一族   
里見850石兵部少輔里見一族   
小国850石日向守    
本間844石潟上本斎本間一族   
寺尾828石百龍丸上杉譜代   
樋口兼豊809石伊予守上田衆、直江兼続の父   
松田763石織部佐信濃衆   
樋口景兼761石与惣右衛門上田衆、直江兼続の弟   
綱島736石豊後守    
丸田711石周防守    
670石豊前千葉一族   
桜井晴吉667石三助信濃衆   
加地景綱662石 佐々木一族 17 
安田信清628石武田三郎旧武田家臣、武田晴信の子   
558石左近信濃衆   
保科540石佐左衛門信濃衆   
大藤537石太郎兵衛旧北条家臣?   
安中537石七郎太郎上杉譜代   
赤沼泰忠537石常陸入道信濃衆、島津一族   
市川信房530石左衛門房綱の父   
長尾525石右門長尾一族   
秋山定綱490石伊賀守    
       
狩野宣久?444石中務越中国人?   
       
石川為隣418石彦次郎上杉譜代   
       
長尾景吉?385石右馬之助長尾一族   
       
       
吉江長忠364石与橘長尾一族、中条三盛の叔父   
       
芋川元親?325石彦右衛門信濃衆、親正の継嗣   
酒井303石新八郎信濃衆   
平林正恒272石蔵人信濃衆   
       
小森沢政秀


http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tora.html
257石又五郎里見一族



2015年8月13日木曜日

斗南の星



私の亡くなった母親がいつも私に、お前の先祖は会津藩士で偉かったと語って聞かされた。そんなこともあって物心ついて私は先祖のことを調べることに夢中になった。
 母方の先祖は、源頼朝に従い藤原氏討伐に参加した千葉胤常の一族佐瀬氏でした。佐瀬氏は会津守護の三浦氏(のち芦名氏)に従い会津に土着します。
 父方の先祖は、大同元年(806)の会津磐梯山の麓に僧・徳一が建立した慧日寺(大寺)の寺侍・富田氏でした。その後、慧日寺は僧兵3000人を要し、富田氏は僧兵頭になり乗丹坊と称していました。
 寿永元年、乗丹坊は越後の平家城氏に従い僧兵と会津4群の兵3万を従えて信州の木曽義仲を打ちに出かけた。信州横田河原で源平合戦の幕開けである寿永の乱がはじまるが、木曽義仲の夜襲にあい討ち死してしまいました。現在も恵日寺の遺跡に乗丹坊の墓があります。
 子孫の富田氏は会津国人領主となり、かなりの兵力を誇示していましたが、鎌倉幕府から派遣された守護の芦名氏(三浦氏あるいは佐原氏)と戦いました。また、芦名氏の分家である猪苗代氏と組んで謀叛を企てたりしましたが、ことごとく討ち死にしてしまいました。
 富田氏の子孫は、その霊を弔うため会津中央盆地(北会津郡下荒井村近くの小出)に荒井と名を改め荒伝山宝光院を建立します。
(トップページの自己紹介に寺のリンクがあります) やがて富田氏及び佐瀬氏は会津守護芦名氏の四天宿老(侍大将)として戦国時代を生き抜いてゆきますが、天正17年(1589)芦名氏が伊達正宗に滅ぼされると、富田氏は下野し荒井と名を改めた。その後、荒井は下荒井、中荒井、上荒井(今の喜多方)と子孫が増えて繁栄しました。
 佐瀬氏は最上氏に仕官していましたが、徳川家光の異母弟・保科正之公が会津藩主になると会津藩に召抱えられ再び会津藩士となります。
 佐瀬氏は幕末、京都守護職となった松平容保公に供奉し、蛤御門の戦いに参戦し、その功績により殿様から金鍔の刀を拝領した(この刀は青森県陸奥の斗南から会津に帰ってきたとき貧苦のあまり手放してしまった)。また京都から会津に伏見稲荷の分身を移し、屋敷に正一位として奉りました。(現在も会津の武田病院の前の店の中に安置されています)。
 戊辰の役では会津鶴ヶ城落城まで西軍と戦いましたが、とうとう落城してしまいした。
 明治政府によって極寒の荒地・斗南藩(青森県陸奥)に流刑され、ムシロの小屋に住み、食事は海岸に流れ着く昆布や草根木皮、そして犬の肉を食べ、会津のゲダカ(毛虫)と蔑まれ、艱難辛苦幾歳月をすごしました。

 青森県陸奥の斗南の丘に立ち南の星を見ながら「いつか会津に帰ることができますように」と祈り、廃藩置県で会津に帰ることができましたが、すでに土地は人手にわたり待っていたのは賊軍の汚名と貧苦の道だけであった。
 私は、この先祖が歩んだ道を振り返り、古文書を紐解き、会津の図書館や歴史書を読み漁り、この斗南の星(会津物語)を書き始めました。我が命が尽きるまでに書き終えることを祈るのみです。

http://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/np5.htm