2017年5月16日火曜日

矢筒城



お城入口。お城の来歴などが書かれた説明板があった。それによると
・矢筒城、黒川城、牟礼城などの名前を持つ
・内堀は山の中に今も存在しており、外堀は埋められて舗装路になっている
・ただの山城ではない、お城と館が一体化
・大手口はここ
天正の頃の城主は島津権六郎、彼の所領は牟礼村の他三水村まで及んでいた

島津というと大体の人間が薩摩の島津氏を思い出すだろうが、このお城の島津権六郎さんと薩摩の島津さんは親戚なんだそうな。本家はもちろん薩摩だが、たまたま島津氏初代が仕えていた五摂家のひとつ・近衛家の荘園である信濃国太田荘の地頭職になったことから、ここに島津氏が土着することになったらしい。しかし本家のいる薩摩国は遠すぎた。徐々に本家との関係が切れていったようで、戦国時代には交流がなくなっていたみたい。

信州島津氏(信州家)は島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家、初代忠久の次男(越前家)の曾孫にあたる忠秀が信濃に土着してその子孫が赤沼家と称する。この二つの家は仲良く共闘し、最終的には上杉家に士官している。

で、島津権六郎という人はどちらの家の系統なのか分からないが、天文22(1553)年に武田さんに攻められ、滅ぼされてしまったという。何かで見たけど武田は信濃侵攻時、1日5個くらいのお城を落としながら行軍していったとか。なんだそれ凄いなと思ってたけど、こんな小ぶりなお城なら1日5個行けるかも? と思った。

入口すぐの林の中には祠が。ここのお城で命を落とした人たちを慰めるものか。
地図上では、このあたりが内堀らしいが。よく分からない。内堀は空堀、深さ4メートル、V字型だという。登山道から外れた場所は藪だらけ、歩きたくない。

見た目は急な感じだけど、道は上りやすい。

何かあるぞー? 郭か?

こっちが二ノ郭かしら? 北側は川と谷で守られ、南側には五条の帯郭があると書いてあった。回ってきた様子だと、北側には郭なし。北側以外は郭作って守ってるみたい。小さい山だけど、防御にはかなり力入れてる風。

現在は飯縄病院という病院になっていた。館跡を示す、なんだか新しめの石碑があった。病院の建物自体は古く、昭和55(1980)年にこの地に移転してきたらしい。館跡の発掘調査はその前年の昭和54年とあった。この石碑だけはごく最近作ったんだな。


★★★★★
思ったより歩きやすいし、良かった。探せば石積みもあるらしい。


<矢筒城>
築城年 不明
築城主 不明
構造 山城


http://henrilesidaner.hatenablog.com/entry/2016/11/14/113615



二つ引きに左三つ巴



赤松氏

三つ巴
(村上源氏季房流)



 赤松氏は、播磨国赤穂郡赤松の地名を負っている。それゆえに、家紋としては「赤松」を用いることがもっともふさわしい。しかし、家紋には赤い松と表現することは難しい。赤松とは樹皮が赤味を帯びている松をいうからであるが、家紋は多く黒白だからである。
 『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。したがって、赤松氏は定紋として「五三桐」または「二つ引両」を用いる。
 ところが、さらに巴紋も使用する。この巴紋は多く「左三つ巴」である。それは何故か?
 二つ引両は前述の通り将軍下賜で、ひとつに将軍の龍(両)をあらわす。さて巴のいわくは、記録にはないが『禅林諸祖伝』に「赤松円心が北条氏と戦って勝負がつかぬのは三つ鱗(北条)と巴(赤松)とは互いに水だからだ。よって旗に龍(引き両)を用いよ」とのご宣託があって、そのようにしたところ大勝したからだとある。赤松氏の巴は水で故地(赤穂)の水辺を意味するらしい。
 赤松氏の家紋は、巴と二つ引両を合わせて「二つ引きに左三つ巴」にした。『見聞諸家紋』にも赤松兵武大輔として、「二つ引きに左三つ巴【右家紋】」が記録されている。一門の多くも「巴紋」「二つ引両」を使用している。
 ところで、赤松氏には「竜胆丸」紋もある。これは、村上源氏のシンボルでその出自をあらわすための紋である。また、「七曜」紋を用いる支流もある。これは、北斗七星を象ったもので、中国を通ってインドから伝わった妙見信仰に由来する紋である。
 赤松氏の家紋の遺品としては、永禄二年(1559)、龍野城主赤松下野守政秀の寄進によって、書写山円教寺の護法堂が再建されたとき、政秀が記念として堂正面の蛙股の文様の裏に彫り込ませたものがある。それは、二つ引両と三つ巴の紋が並んだもので、古い形式を残しており、赤松氏の家紋とはっきり証明できる数少ない遺品である。 


赤松家


尊卑分脈』などによると、赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨佐用荘に配流され、その後裔の則景建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われている。しかし、季房から則景まで7代もあることから、名和氏同様に信憑性に関する賛否がある。また、三河国作手奥平氏は赤松氏の末裔と称した。
近時、赤松則村(円心)が北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説が浮上しており、地域に根付いた土豪悪党の類で、瀬戸内海海上貿易海運業で財を成した。その一方、在地の御家人の出身である説や、円心や三男の則祐鎌倉時代には既に従五位に相当する僧綱にあり、軍事面で一大勢力を築いていた事から、古くからの名家だった説もある。
円心は元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨守護職に補任された。しかし、有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚するのに前後する形で播磨を没収されたことから、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く遠因を作った。
円心の3男・則祐は室町幕府2代将軍足利義詮管領細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。その功により坂本城を守護所として播磨1国の守護に任じられると共に、室町幕府では京極氏一色氏山名氏と並ぶ四職の1つとなって幕政に参画した。
円心の長男・範資には摂津、次男の貞範には美作、三男の則祐には備前の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となる。但し、摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は庶流となり七条家を称した。七条家は後裔の赤松義村赤松政則の後継となり、宗家への復帰を果たすこととなる。

嘉吉の乱

15世紀に入ると、永享元年(1429年)に播磨の土一揆が発生するなど、その支配力に次第に翳りが見え始める。更に6代将軍足利義教赤松満政赤松貞村といった庶流を優遇し、本家である赤松満祐教康父子を冷遇し始めた。嘉吉元年(1441年)、満祐父子は義教を自邸で暗殺し、播磨に帰国した。この嘉吉の乱により山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐は城山城で自害し教康も殺された。三国の守護職は山名氏が承継した。また、1444年に満政が宗全に討たれ、1455年には赤松則尚が挙兵したが宗全に敗れ自害して果てた。
長禄元年(1457年)、赤松氏の遺臣が禁闕の変(嘉吉3年(1443年))で後南朝に奪われた三種の神器神璽を取り返して南朝皇胤を討った(長禄の変)。これにより赤松政則(満祐の従孫)の時に加賀半国守護となって再興を果たした。応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲き、長享2年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐した。本拠を置塩城に移したのもこの頃である。

戦国時代と下剋上

置塩城跡地(城山)
長福山松安寺跡地にある赤松晴政、義祐の墓
戦国時代に入ると政則が従三位に昇進するなど全盛期を迎えた。しかし明応5年(1496年)4月に政則は急死した[4]。跡を継いだのは赤松分家の七条家出身の婿養子である赤松義村であったが、幼少のために守護代の浦上氏別所氏らの実力が高まり、赤松家当主の大名権力に蔭りが見え出した。
成長した義村は官僚機構を整備し、独自の権力を強化していく政策を実施して赤松家の戦国大名化と大名権力の強化を図った。しかし備前守護代の浦上村宗との間に確執が生まれ、永正15年(1518年)から義村と村宗の間に内紛が起こった[5]。この内紛は村宗が勝利し、義村は村宗の圧力を受けて嫡子の晴政に家督を譲らされた[6]。義村は大永元年(1521年)9月に村宗によって暗殺され[7]、晴政は村宗の傀儡として利用され赤松家は没落の道を辿り出す。
以後10年弱は村宗の専権が続き、播磨では浦上派と反浦上派が武力闘争を起こすなど大混乱となった[8]享禄4年(1531年)、晴政は大物崩れによって村宗を討ち果たした[9]。これにより晴政の大名権力は一時的に高まったが、赤松領内では浦上氏の残党勢力による抵抗もあり[註 1]、赤松家の直接支配が及ぶ範囲は西播磨方面に限定され、赤松家当主が分国の守護代や郡代に与える命令系統はこの頃になると無効化していた[9]
天文6年(1537年)からは出雲の戦国大名である尼子晴久の侵略も始まり、晴政は領国を追われて淡路に逃亡した。このため家臣の大半も尼子氏に寝返るが、東播磨守護代の別所村治のみは晴政と通じて抵抗した[10]。また晴政は幕府の支援を得て領国奪回に乗り出し、苦戦の末に播磨から尼子勢力を追放した[11]
天文23年(1554年)、摂津の戦国大名・三好長慶の東播磨侵攻もあり、別所氏は三好軍の侵攻に抵抗するが東播磨一帯はほぼ三好軍に制圧された[11]。また天文21年(1552年)には備前・美作の守護職が尼子晴久に与えられるなど[註 2]、名目上とはいえ晴政は2か国の守護職を失った[11]。さらに永禄元年(1558年)には晴政と嫡子の義祐と対立するなど家中で内紛が起こり、この対立に敗れた晴政は家督を義祐に奪われ[12]、自らは娘婿の一族である赤松政秀に庇護される事になる[13]。以後、晴政は義祐と対立しながらも政秀と共同して西播磨を辛うじて支配しながら、当時中国地方で勢力を大幅に拡大しつつあった毛利元就に接近して体制の再建を図ったが、実現せずに終わった。

衰退と没落

晴政の死後、名実共に赤松家の当主となった義祐は赤松家の勢力を取り戻そうと努力するが、この頃になると赤松家の勢力は播磨国内ですら及ばなくなっており、別所氏や宇野氏は独自の権力を確立して戦国大名として自立するなど、最早赤松家に従う有力重臣は小寺氏のみという有様であった[14]。赤松家の勢力が及ぶ範囲は西播磨だけで、それさえも重臣の助力なくしては保てないほど衰退していたのである。
永禄11年(1568年)に美濃織田信長が上洛すると、翌年には織田氏の勢力が東播磨に及び、別所安治は信長に従属した。西播磨で義祐を擁しながら大勢力を誇っていた赤松政秀は娘を将軍・足利義昭の侍女として送り信長と通じたが、義祐は信長に従わず織田軍の西播磨平定を妨害した[15]。このため柴田勝家ら織田軍主力が播磨平定のために進出し、播磨は結果的に信長の強い影響下に置かれる事になった。信長の支配下に置かれた播磨では赤松家の大名権力は完全に有名無実と化し、実質的には赤松一族の別所氏や宇野氏がそれぞれ信長に従う事になる。なお、義祐は永禄13年(1570年)を最後に史料から政治活動が確認できず、天正4年(1576年)に没したとされており、既に赤松家当主には何の政治力すら無かったようである。
天正年間になると播磨は信長の家臣・羽柴秀吉に与えられ、義祐の嫡子・則房は羽柴秀吉に従って播磨を転戦した[16]。則房は播磨置塩に1万石を与えられて存続を許された。後に則房は阿波板野郡に所領を移されている。かつて3か国を支配した赤松家は、家系・素性が明らかでない成り上がりの秀吉の家臣となり、1万石にまで零落したのである。

宗家滅亡と一族のその後

龍野赤松家(大名赤松家)

秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされた。 同じく赤松一族で但馬竹田城城主・赤松広秀は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払った事を理由として、徳川家康から自害を命じられた。この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い。西軍から東軍に寝返った大名で殺されたのは唯一広秀一人だけである。その後広秀の子孫は但馬国で代々宵田村の村長をし、藩主より70石を与えられていたと言う。
政広の弟の赤松祐高は兄の死後、全国を流浪したのちに大坂の豊臣秀頼に仕えた。しかし大坂の陣により戦死した。 これにより大名としての赤松氏は滅亡したのである。

旗本赤松家

赤松範資の後裔・氏満は石野城を与えられたことで表向きは石野氏を称し、別所長治の部将として羽柴秀吉麾下の猛将古田重則古田織部の兄)を三木城攻防戦で討ち取るなど活躍。落城後銃撃の腕を評価されて秀吉、前田利家に召しだされて3,000石余を与えられる。
氏満の子の氏置は徳川家の旗本となり上総に2,000石余を得て、宝永年間の遠国奉行範恭の代に赤松姓に復して5,000石余の寄合旗本として幕末まで存続。氏満から数えて10代目に当たる幕末範忠書院番頭講武所奉行・御側御用取次外国奉行等を歴任した。範忠の子の範静軍艦奉行を務めた。上総下湯江に陣屋を築き[17]、菩提寺の了真寺(品川区)に氏置の室だった長安院参勤交代の折りに開創したという記録が残っていることから、江戸中期まで交代寄合だったと推定されている。

有馬家

赤松則祐の五男・有馬義祐の後裔で摂津有馬氏当主・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の役においても徳川方で功を挙げたことにより筑後国久留米に21万石を与えられて国持大名となり、宗家と明暗を分けている。また、久留米藩のほかに、享保年間には徳川吉宗御側御用取次を務めた分家出身の幕臣有馬氏倫伊勢国伊勢西条藩の大名に昇格する[18]など繁栄した。
また、旗本赤松家の分家の旗本だった石野則員の子・則維は嗣子のなかった久留米有馬家に養子に入り、家督を相続した。赤松家と有馬家の縁の強さを象徴している一幕といえよう。

赤松男爵家

赤松義則の庶流の苗裔則良は幕末から明治にかけて活躍し、日本造船の父として男爵に叙され、貴族院議員を務めた。祖父は龍野藩御用達の干鰯問屋を営み、名字帯刀を許された赤松良則、父は良則の子で町奉行・筒井伊賀守の目安方・吉沢久之進の娘婿となった吉沢雄之進である(参考:東洋文庫 赤松則良半生談)。

赤松氏

母方の実家が赤沼ですが、亡くなった祖父からの話によると、祖先は元々、諏訪に住んでいて、赤沼大膳と言ったそうです。武田信玄が諏訪を支配下に置いた時に武田の家臣になったと聞きました。武田氏が滅んだ時に秩父に逃げて商人になり、江戸時代は荒川の水運で本庄を拠点として繁栄しましたが、やがて没落しました。

諏訪に土着する前は播磨の赤松氏の一族で嘉吉の乱で赤松氏が討たれた時に諏訪に逃げて来て、赤沼姓を名乗るようになったと聞いています。諏訪の回りには赤沼とか青沼とか言う苗字が多いのは赤松氏の末裔であることを隠すためだったようです。

播磨の赤松氏もさらに租を辿って行くと村上源氏に遡れます。
どこまで本当かわかりませんが、昔は家系図を祖父から見せてもらったことがあります。
しかし、残念ながら、そういうことに興味を持っていたのは、外孫の僕だけだったので、このことを知る者は今では僕一人です。
そこでこのサイトに投稿しておこうと決めました。

赤沼の家紋は左三つ巴です。

http://www2.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%B5%A4%E6%B2%BC

富田漏祐






富田漏祐
土豪・新領主つながり
会津の大名蘆名氏の重臣の内、松本・平田・佐瀬・富田の四氏は「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は、古代の安積臣の後胤・直継の子孫など諸説があり、いずれも未詳。『伊東家譜』に、享禄三年秋に富田郷に拠った伊東大和守祐盛が「富田伊東氏」とし、藤原南家伊東氏に関連付け、富田氏代々の名乗りは工藤氏と同じく通字「祐」が用いられた。『旧事雑考』に、会津の古刹・耶麻郡磐梯山慧日寺(当時法相宗、現:恵日寺は真言宗豊山派)の寺侍と伝えられ、僧兵数千の慧日寺武力の一翼を担ったとされる。一族から、養和2(1182)年木曾義仲追討のため信濃国へ出陣した城長茂に加勢し、横田河原の戦いで戦死した乗丹坊がおり、城氏の一族という説もある。
とみた・のりすけ。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代前期の会津の豪族。

富田氏の継嗣で、幼名は吉祥丸。慧日寺の僧兵が木曾義仲に敗れたため衰退し、会津地方は奥州平泉の藤原氏が支配した。富田氏は会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築き、慧日寺衰退後も一族郎党が多く、軍事力を保持した。

文治5(1189)年源頼朝の奥州征伐に従軍した城長茂が、阿津賀志山の柵(福島県伊達郡厚樫山)を攻めた際、城氏の越後勢に混じって参加し、勝利した。奥州を平定した頼朝は、平泉で戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連に会津を、相模の豪族・山内通基に会津郡伊北郷を、下野国の小山氏一族・長沼宗政に南会津一帯の長江庄を、長沼一族・河原田氏に伊南郷を与えた。会津国人領主は入植した山内氏や長沼氏と対立した。佐原義連・盛連父子は代官をおいて衝突を避け、鎌倉から追従した陰陽師・赤沼内膳を神職とし、占いと調伏は効き目があると噂を流し、佐原氏自らも参詣したため土民や地侍らの尊崇を集め、土豪の蜂起を鎮めたという。以来、会津黒川に寺が建立され、10年間で約23箇所に及んだとされる。

承久の乱鎮定後の貞応元(1222)年3月、会津小田山城主となった盛連の子・蘆名光盛は弟・加納盛時と共に慧日寺に花見に出かけ、富田漏祐と出会い宿坊でもてなされた。光盛は自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子・千松を出仕させると約束した。千松は5月5日光盛の側小姓として出仕し。千松の元服に、重臣・平田益範を烏帽子親とし、「範」の字をもらい、範祐を名乗った。

https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/nrbbkbeebfmjaaa1a1a4da4ja4aca4ja47a4ja4ha4j?offset=8510

2017年4月25日火曜日

真浄寺

「真浄寺の歴史  親鸞聖人から法名を賜った明慶安坊が建暦2年(1212年)信州赤沼(長野市)に堂宇を建立した。川中島合戦など度々の戦火で各地を転々とし、慶長2年(1597年)新潟に移住、元和元年(1615)当地に移転した。本堂は天明6年(1786年)10月、200両の工費で建立され、西堀寺町での中では最古級に属する。」と山門前の案内板に書いてあります。

慶長2年とありますから慶長の役(挑戦出兵)の始まった年に新潟に移転したのですね。翌3年、豊臣秀吉が死去します。
本堂が建立されたのが天明6年(1786年)と云うと田沼意次が解任された頃です。天明の大飢饉が起こりました。天明3年には浅間山の大噴火がありました。天変地異が続き政治は混迷していました。どうも、今の時代に似ていますね。

http://sekinan.air-nifty.com/blog/2013/04/post-6b83.html

2017年4月12日水曜日

桜沢如一


経歴

和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士家系に生まれる。流布される京都生まれは間違いである。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1]石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年無双原理講究所滋賀県大津市に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウムカリウムのバランス論」を易経陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリVrinフランス語: Librairie philosophique J. Vrin)社より『Le Principe Unique de la Philosophie et de la Science d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインドアフリカ欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュヴァイツァー博士と会見し、西洋医学栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、NaKの低温低圧原子核転換の成功を述べている。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫大森英桜岡田周三菊池富美雄ポルトガル語: Tomio Kikuchi)らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞