2023年12月30日土曜日

乞食大名

 東京での会津藩士/幽閉地

 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。

 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。

 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。

 その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。

 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、

  ◇ 飯田元火消屋敷 330名

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  ◇ 小川講武所 700名

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  ◇ 一橋御門内御搗屋 250名

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  ◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名

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  ◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名

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  ◇ 護国寺 314名

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  ◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名

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  ◇ 麻布真田屋敷 若干名

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に、2,870余名が分散して収容・監禁された。

 その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。

 手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。

 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。

 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。

 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。

 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。

 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。

 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。

 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。

 やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。

 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。

http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto.html#kinsinti


小林平格

 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。

 学海先生は林三郎の近況について小林平格に問うた。林三郎は主君松平容保に従って会津に入ったが、その後新政府軍との戦いを経て降伏、いまは護国寺の謹慎所に収容されているという。このたび会津戦争の首謀者が詮議されるにつき、佐倉藩に預け置かれた者たちにも連絡したく思っておりましたところ、林三郎より貴殿を紹介されて参ったとのことであった。

 四月七日に訪ねて来た時には、一枚の絵を持参していた。それは会津藩士少年十七名が集団で自殺する場面を描いたものであった。飯岡山における白虎隊員の割腹自殺の絵である。それを見た学海先生は、あたら若き命がと同情したのであった。

 この日の用件は借金の申し入れであった。会津藩では藩主松平容保が謹慎を命じられた後その跡継ぎがどうなるか最大の懸案だったが、幸いに嗣子容大に家督相続が許され御家は断絶せずに済んだ。ついては近日参内して天子にお礼を申し上げねばならぬが、費用が乏しくその用意をすることができない。ここは貴藩から一千両を借用したいと思うので、まげてお貸し願いたい、ということであった。佐倉藩と会津藩とは特別の関係にあるわけでもなかったが、学海先生には会津藩の窮状に大いに同情するところがあり、ここはひと肌ぬいでやりたいという気持ちになった。そこで参事ら藩の幹部と合議してしかるべく取り計らうと答えた。

 学海先生は西村大参事と相談して、七百両を貸してやることにした。この当時の七百両がどれほどの価値なのか。ちなみにこの年の学海先生の所得は、年末の日記によれば四百三十両である。これは俸米を売却して得たものであるが、この四百三十両のうち八十両を来年の塩薪の費用つまり生活費、六十両を書籍購入費、三十両を借金返済、残りの百両を予備費に宛てると記している。とまれ学海先生の年収と比較しても、七百両という金がそう膨大な金額でないことは明らかである。つまり会津藩はそれほど窮迫していたということであろう。

 佐倉藩はなかなか気前がよくて、駿河藩からも借財を申しこまれて貸している。徳川氏の家臣団も主君が一大名に格下げされた後、俄かに窮乏に見舞われていたのである。

 なお会津藩は容大が家督相続した後、陸奥の下北半島に領地を与えられて斗南藩となった。この措置を会津藩主たちは当初は大いに喜んだ。藩の取りつぶしと藩士たちへの厳罰を予期していたところが、減封されたとはいえ一藩を与えられたからである。だがこの喜びはいくばくもなく絶望に変わる。その事情は学海先生とは全く関係がないのであるが、小生の父方の祖先にもかかわることなので、ここで簡単に触れておきたい。

 会津戦争終了後、藩主松平容保は東京へ護送されて監禁され、会津藩士四千名は東京各地の謹慎所に収容された。新政府は藩主及び藩士の処分をどうするか色々検討し、その結果盛岡藩から下北半島の領地を割譲させ、そこに会津藩を移封することとした。そのため生まれたばかりの容保の子容大に家督を相続させ、その子を新しくできる斗南藩主とした。斗南藩は三万石と言われたが、実質的には七千石しかなかった。

 この小藩で四千名の家臣団を養うことは到底できない。そこで藩では、北海道の開拓を斡旋したり、また藩士にそれぞれ自由な身の振る舞い方を許したが、かなりの規模の家臣団が新領地に移動した。

 その辺の様子は柴五郎の書「ある明治人の記録」に詳しい。会津藩士らは明治三年五月に斗南に入った。船で行くものと徒歩で行くものとに分かれ、順次斗南入りしたようだ。斗南の地は佐幕派の盛岡藩に対する懲罰として二戸、三戸、北の三郡を割譲させてこれを旧会津藩に与えたもので、斗南という名称は「北斗以南皆帝州」からとられたという。

 現地入りした者は田名部と野辺地に分割宿泊し、田名部に藩庁を置き、大参事山川大蔵を中心にして藩務を行った。

 藩務と言っても、現地は痩せた台地で、冬は雪に覆われる。そこを開拓しようにも見返りが期待できないし、藩の領民たちも貧しい暮らしをしている。そんななかでどうしたら藩士たちの生活が成り立つか、あまり明るい見込はなかった。藩務どころかみな自分が生きるのに精いっぱいだったのだ。

 柴五郎自身は、父親と共に現地の商人から借りた掘立小屋に住んでその年の冬を過ごした。この冬は餓死と凍死をのがれるだけで精いっぱいだったと柴五郎は言っている。栄養不良のために痩せ衰え、脚気の傾向が出てきて寒さが身に染みたという。空腹のあまり死んだ犬の肉を食ったこともある。その際に五郎はおもわず吐きそうになった。するとそれを見た父親が、

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言って、いさめられた。

 この苦しさは会津から斗南に移って来たすべての人が味わった。その窮状を自ら体験し、また人の苦しむさまを見た柴五郎少年の目には、これは新政府による残酷な仕打ちに映った。彼は言う、

「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて喜びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」

 柴五郎の少年時代のこの怨念が、西南戦争のときに西郷を相手に戦う情熱を支え、西郷が死んだときには泣いて喜ばしめたのである。もっとも西郷自身は会津戦争には直接かかわっていない。西郷は王政復古のあとすぐ薩摩に引き上げ、政治的にも軍事的にも表立った活動をしていない。会津戦争を直接指揮したのは土佐の板垣退助である。にもかかわらず会津人は、西郷を自分たちの仇敵と思い込んでいたのである。

 とまれ藩主の容大がまだ生まれたばかりの嬰児だったので、藩務は大参事山川大蔵が中心となった。その山川にも学海先生は小林平格の仲介で会ったことがある。その際に、金を貸してやったことに対する感謝を言われた。この金は戻ってくることはなかったようだ。また学海先生もそれを期待してはいなかったようである。

 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は、田名部で山川大蔵の直属の下僚となって、藩士たちの生活の面倒を見ていた。とはいっても自分自身も天涯孤独の身になって、頼るべきものがない状態で、他人のためにできることなどほとんどない。そんな状態で、ほうぼうに掛け合って米の買い付けとか借用に奔走した。また荒廃地の開拓を試みたりした。しかし米の買い取りに際して仲介人に騙されたり、荒廃地の開拓はほとんど絶望的な試みだとわかったり、全く意のようにならぬのに苦しんだ。

 だから脱落して江戸や会津に移り住むものも多かった。斗南では全く未来の展望が切り開けないような気がしたからだろう。しかしそのうちに藩そのものが消滅し、藩士としてここにいる動機がなくなった。廃藩置県が行われて、従来の藩が全く意義を失ってしまうのである。

 山川や藩の首脳は、廃藩置県で藩がなくなったことで、斗南にいる理由がなくなったので、続々と斗南を脱出し、江戸に移り住んだり会津に戻ったりした。小林平格は会津に戻って帰農した。この小林と学海先生は明治六年に最後に会っている。小林が東京に出てきて先生を訪ねてきたのだった。その折に小林は会津藩を襲った運命について感慨深く語った。学海先生はそれを聞いて、やはり深い感慨に打たれるのを禁じえなかった。佐倉藩と比較しても会津藩の運命があまりに過酷に感じられたのである。

 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は山川大蔵と行動をともにして東京に移住し、やがて設立されたばかりの陸軍に奉職した。彼はやがて陸軍兵士として鹿児島に赴き、憎き西郷と戦うのである。その戦いにはあの柴五郎も、また山川大蔵も加わった。

https://hix05.com/gakkai/gakkai46.html

御搗屋

 

戊辰戦争で敗れた会津藩は領地没収、藩士は捕虜として越後高田や東京に送られることになった。柴家の三男・五三郎ら一行が「戸の口原」まで来ると白虎隊少年の死骸があった。村人が埋葬しかけたが新政府軍につかまった話を聞いて、五三郎は一命にかけてもと埋葬の交渉に向かうが通行切手がなく捕まった。しかし岡山藩の三宮耕庵が見過ごしてくれた。
 五三郎らは費用を出し村役に頼むと夜の闇に紛れて埋葬してくれた。戦に負けると野ざらしの死骸を憐れみ埋葬しても処罰されるのだ。

 いっぽう五男の五郎少年は「乞食の大名行列としか思われず」の惨めな行列に従い、負傷した長男・太一郎が乗る戸輿の後ろを猪苗代から東京まで歩いた。時には雨に濡れ十日あまりの苦しい旅の末、蒸暑い東京に着くと一橋門内の御搗屋(おつきや)に収容された。

 この御搗屋は幕府糧食倉庫で江戸城中ご用の米や餅をつくためのもの、250人が押し込められた。現在の毎日新聞本社(千代田区一ツ橋)地下鉄竹橋駅を降りてすぐの所。

 会津藩士は東京七カ所に分けて収容され、柴家も父佐多蔵は講武所、五三郎は真田邸、四男・四朗(東海散士)は護国寺に送られた。それでも監視つきながら外出でき、家族ばらばらに収容された柴家の五人は互いに行き来した。皮肉なことに、父子は収容されたこの時だけ近くで顔を合わせられたのである。

 佐多蔵ら700名が収容された小川町講武所は、JR水道橋駅から三崎神社日本大学一帯にあった。講武所は幕末に軍政改革のため、旗本や御家人の武術修練のため講武場として設置され、教授には男谷精一郎、榊原健吉、桃井春蔵らがいた。

 護国寺文京区大塚)には柴四朗ら314人が収容された。 護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院によって建立され、三条実美、大隈重信、山縣有朋、河野広中らの墓がある。

 山川大蔵(浩)もいた飯田橋火消屋敷は330名ほど。
 やがて会津藩事務所の新設を許され、旧藩の役員などで連絡統制に当ることになった。下北半島・斗南藩庁の前身とも。歩けるようになった太一郎はこの藩事務所に移り、松島翠庵と名を変え医者の姿になって行動した。京都・江戸詰時代の他藩の友人知人を訪ねて回り、会津藩の措置について助力を求めて歩いた。

 この火消屋敷跡(千代田区富士見町)はJR飯田橋駅から徒歩10分、靖国神社にほど近い九段高校や日本歯科医大などに囲まれた文教地区の辺り。

 ほかに山下門内松平豊前守屋敷(日比谷公園内)700人、神田橋門外騎兵屋敷(錦町)250人、芝増上寺350人、麻布真田屋敷など総勢2800人ほどであった。

参考: 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』2008年(中井けやき)/ 『紙碑・東京の中の会津』1980年 牧野登(日本経済評論社)


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2023年12月28日木曜日

三浦義連随身の像

 神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?

創設 建久2年(1191年)~?

この町の西頬にあり。

神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。

https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/240.html

2023年12月10日日曜日

神武天皇

 神武天皇が、幼少時を過ごしたと言われる宮崎県高原町に鎮座する「狭野(さの)神社」。

「狭野尊」は神武天皇の幼名だが、稲作ができる貴重な土地という意味だと、当社の宮司さんが説明されている。

(『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞出版)

実際に、えびの市や都城市の遺跡からは国内最古級の水田跡が見つかってるそうで、北九州とは別ルートで稲作が伝来した可能性も考えられているという。これは興味深い。

それにしても狭野神社、やけにカッコいい社殿だなーと感心していたところ、いただいたパンフレットに「明治40年に宮崎神宮の旧社殿を移築した」と書いてあり、一瞬にして全てを完全に理解した。

日南市の「駒宮神社」。

神武天皇が、最初に娶った吾平津媛(あひらつひめ)と暮らした宮の跡だと伝えられる。 

伝説では、神武天皇には「龍石(たついし)」という愛馬がいたとされるが、大陸から馬が伝わったのは4世紀末の応神天皇の御世とのことで、それはさすがに後世の作り話だろう。

ビックリしたのが社殿の裏手にある「御鉾の窟跡」という巨石だ。神武天皇が鉾を納めた場所として信仰の対象になってるそうだが、南九州で巨石の祭祀を見るとは思わなかった(他にもあるのかも知れないが・・・)。

福岡県北九州市の「岡田神社」。

「古事記」が、東征中の神武天皇が一年滞在したと書く「岡田宮」の候補地だ。

「日本書紀」だと「岡水門」に約50日滞在とのことで、神武天皇が船団で移動した点から見れば書紀のほうが妥当という気もするが、まぁどっちでもいい話か。

肝心なことは、なぜ神武天皇は瀬戸内海を離れて、わざわざ日本海側に回ってきたのか、だろう。

そもそも神武天皇が東征を決意した要因の一つには、饒速日命(ニギハヤヒ)なる人物が「この国の中心地」に降臨していることを、塩土老翁(シオツチ)から聞かされたことにあった。



日本書紀によると、ニギハヤヒは古代からの有力豪族「物部氏」の先祖にあたり、畿内に降臨すると土豪の「長髄彦(ナガスネヒコ)」の妹を娶って、君主の座におさまっていた。

しかし、ニギハヤヒは神武天皇の畿内入りを知ると、抵抗を続けるナガスネヒコを殺害して、皇軍に帰順した。

ニギハヤヒは、神武天皇と同じ「天つ神の表(しるし)」を持つ人物だった。

皇室の正史が、皇室と物部氏は同じシンボルを持つグループの一員だと言ってるわけだ。その上で、はじめから両者の上下関係は決まっていたのだと。

北九州の物部氏

剣神社

福岡県直方市で、そのニギハヤヒを祀る「劔(つるぎ)神社」。

社伝によると、成務天皇のとき筑紫国造の「田道命」が、筑紫物部を率いて神々を祀らせたことが創建の由来だという。

「田道命」は、皇族で四道将軍の「大彦命」の5世孫にあたり、初代の筑紫国造だ。

『日本の神々 神社と聖地 1 九州』によると、劒神社が鎮座する遠賀川(おんががわ)一帯には「剣神社」や「八剣神社」など剣霊を祀る神社が多数あって、現在では揃ってヤマトタケルと草薙剣を主祭神としているものの、元々は物部氏が一族の「兵仗」を祀っていた地域だろうということだ。

北九州の物部系神社

上はその『日本の神々』で、北九州の物部系神社としてあげられている、「剣神社」「八剣神社」「六ヶ嶽神社」「古物神社」「天照神社」「高倉神社」などを、赤でマークしてみたGoogleマップ。

「古事記」の岡田宮(緑のマーク)にしても、「日本書紀」の岡水門(河口)にしても、物部のエリアにかなり近い。

物部氏といえば、のちに朝廷の武器庫を管理した軍事氏族で、鉄器製造にも長けていたという。

東征に当たって神武天皇が、総帥のニギハヤヒが同じシンボルを持つ物部一族に、協力を要請しに行った可能性はないんだろうか。

河内の物部氏

石切劔箭神社

こちらは東大阪市でニギハヤヒを祀る、式内社の「石切劔箭神社」。

ここ旧河内国の一帯も、物部氏の一大拠点として知られる地域だ。あまり語られないことだが、安芸に2ヶ月、吉備に3年滞在した神武天皇は、河内にも2ヶ月のあいだ留まっている。

そして、いよいよと生駒山からの奈良入りを目指したところで、待ち構えてたナガスネヒコの反撃を受けて、敗退。退却の憂き目に遭われたのだった。

熊野の物部氏

熊野速玉大社

(熊野速玉大社)

生駒ルートを断念した皇軍は、南下して和歌山の紀の川ルートを利用するかと思いきや、危険極まりない熊野灘に進む。で、案の定というか、ここでは神武天皇の二人の兄が溺死してしまうという大惨事に。

そうまでして皇軍が目指した熊野にも、やはり物部氏がいた。

まず、高天原の聖剣「ふつのみたま」で皇軍の窮地を救った「高倉下(たかくらじ)」なる人物は、物部氏の史書といわれる『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの実の息子だ。

後の時代になるが、初代の熊野国造はニギハヤヒの5世孫だ。

何だか、物部氏が皇室に協力するのは最初から決められていることで、神武天皇も当然のようにそれを利用した。

日向神話

 南九州では「日向神話」にまつわる史跡も回ってきた。

「国譲り神話」と「神武東征」の間に位置し、天上界と人間界を繋ぐのが「日向神話」だ。

皇室の正史、日本書紀「正伝(本文)」によれば、「日向の襲の高千穂峰」に天降った天孫ニニギは「荒れてやせた不毛の国(空国)」を丘続きに進み、「吾田の長屋の笠狭の碕」に到着したという。

上の写真は、その地でニニギが娶った大山祇神(おおやまつみ)の娘、鹿葦津姫(かしつひめ)の像。

ところが鹿葦津姫は一夜で懐妊したので、当然のことながら、ニニギは子供の父親に疑念を抱く。

すると鹿葦津姫は、天孫の子なら火でも死なないと言って、産屋に火を付けて出産する。

この時生まれたのが、海幸彦(隼人の祖)、山幸彦(皇室の祖)、火明命(尾張氏の祖)の三兄弟だ。

長じて、山幸彦は海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまい、「海神(わたつみ)の宮殿」に探しに行く。

上の写真は、そのとき山幸彦と豊玉姫が出会った場所とされる、指宿市の「玉の井」。

日本最古の井戸、との伝承だが、ホントかどうかはもちろん不明。


青島神社

宮崎市の「青島神社」は、海神の宮殿に3年住んだ山幸彦が帰還した場所に建てた宮の跡とされる。

亀石

鵜戸神宮

出産のため、豊玉姫が乗ってきたカメが石になったといわれる「亀石」。

断崖絶壁に空いた岩窟の中にある「鵜戸神宮」は、豊玉姫の産屋の跡なんだとか。

豊玉姫はここで神武天皇の父、ウガヤフキアエズを出産したとされるが、本来の竜に戻った姿を山幸彦に覗かれて激怒、赤ちゃんを海辺に捨てて海の道を閉じて帰ってしまった。

宮浦神社

結局、赤ちゃんは出産に同行してきた妹の玉依姫が育てることになる。そして成人したウガヤフキアエズは叔母の玉依姫と結婚して、4人の息子を持つ。

その末っ子が、のちの神武天皇だ。

写真は、玉依姫の住居跡に建つという日南市の「宮浦神社」。

https://www.bokushoki.com/home/jinmu/hyuuga_jinmu

方士

 ウィキペディアの情報によれば、古代中国には「祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術などの神仙方術を行って禍を除き、福を招き入れる能力を持ったヒト」がいたという。

彼らのことを「方士」と呼ぶが、その中でぼくら日本人でも知ってる人物はといえば、まぁ徐福だろう(笑)。

ぶっちゃけた話、徐福の少年少女たちから、のちの皇室と物部氏が出たというのが、現時点でのぼくの想像だ。

そしてきっと彼らには、何らかのヒエラルキーとか役割分担とかがあったんじゃないだろうか。

なに!それじゃお前は、神武天皇のルーツは大陸にあるというのか!

安心していいのは、言語やDNAから考えても少年少女は現地の縄文系と結婚していっただろうから、仮に、神武天皇やニギハヤヒがその末裔だとしても、もはや大陸に祖国があるというような発想もなければ、中国語も漢字も知らんという状態だろう。

まだ日本には、国家も国境もない時代だ。

それに、ざっと計算してみても、長浜浩明さんの計算だと神武天皇はBC96年の生まれで、昔のことなので平均20才で子供が生まれるとしたら、父「ウガヤフキアエズ」はBC116年生まれ。

その父の「山幸彦」はBC136年生まれ。

「ニニギ」はBC156年生まれ。

「天忍穂耳」はBC176年生まれ。

「天照大神」はBC196年生まれ。

そして「イザナギ」はBC216年生まれと、だいたい徐福団が日本に着いたBC210年ごろに、皇室の祖となる赤ちゃんイザナギが誕生した計算になるわけで、かなりの時間が流れている。

仮に今日、日本で生まれた赤ちゃんの7代前が大陸系だったとして、帰化後ずーっと日本で暮らして、日本人と結婚して、日本語しか話せない一族を、あいつらは大陸系だとかいう人はいないだろう。

ぼく自身、平民の出なので、7代前の爺さんなんて顔も名前も知らないし、出身地も知らない。

ま、以上はあくまでも「実在する文献」に残された「文字記録」から想像した、「可能性の一つ」としての話。


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