神島鎮祠雅興催
扁舟棹処上瑤台
蓬瀛休向外尋去
萬里雲遥浪作堆
・天主→天之御中主神
・地主→地主神社(祭神は地主神=大山祇神(和多志大神))→大国主命
・兵主→兵主神社(祭神は東夷人の首領・蚩尤)→進雄(スサノオ)
・陰主→イザナミ
・陽主→イザナギ
・月主→月読命。天帝に非あれば、麒麟、月を食す(月食)。
・日主→天照大神。天帝に非あれば、麒麟、日を食す(日食)。
・四時主→大歳神=ニギハヤヒ(熊野神社の速玉男命)=徐福?
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徐福渡航
大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。
記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。
北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。
南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い
中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。
2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。
6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。
10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。
10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。
海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。
徐福の渡航目的
徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。
国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。
「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。
徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。
佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どうしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、先住者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。
徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。
上陸伝承
日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。
徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で,それを手でかき分けながら進んだという。
一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。
しばらく滞在していた徐福一行は,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにした。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では,新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ,共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。
一行は北に向かって歩き始めたが,この地は広大な干潟地であり,とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布」と呼んだ。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために,徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていたが,やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが,阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀った。
徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。
やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生している。
金立山には金立神社がある。祭神は保食神,岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。
徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し,村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが,BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されている。
「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。
全国の徐福伝承地
佐賀に上陸した徐福一行は、日本全国に分散したようである。その分散先に徐福伝承が残っている。以下が徐福上陸伝承地である。
青森県 小泊 徐福の里、権現崎、尾崎神社、熊野神社
秋田県 男鹿市 赤神神社、五社堂
東京都 青ヶ島(織物)、八丈島(織物)
神奈川県 藤沢市(妙善寺)
山梨県 山中湖、河口湖、河口湖浅間神社、波多志神社、太神社、徐福祠、聖徳山福源寺、鶴塚
静岡県 富士山=蓬莱山:不死山、清水市三保松原
愛知県 熱田神宮、莵足神社、本宮山、鳳来寺山、浪ノ上稲荷神社
三重県 波田須、徐福宮
和歌山県 徐福公園、阿須賀神社、徐福宮、熊野本宮大社、那智大社、速玉大社、蓬莱山
京都府 与謝郡伊根町新井崎神社
広島県 佐伯郡宮島町(厳島神社・聖崎蓬莱山)
山口県 豊浦郡豊北町(土井が浜)、熊毛郡上関町祝島
高知県 高岡郡佐川町(虚空蔵山)、土佐市、須崎市
福岡県 筑紫野市(天山)、八女市(童男山古墳)
佐賀県 黒髪山、伊万里市波多津町(焼き物)、武雄温泉、浮盃、金立公園、金立神社、金立山、古湯温泉、武雄温泉、犬走天満宮、吉野ヶ里遺跡
宮崎県 延岡市(蓬莱山・徐福岩)、宮崎市住吉(はまゆう)
鹿児島県 屋久島・種子島、坊津町、いちき串木野市(冠岳)
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