2016年1月30日土曜日
秦人
●秦氏も古イスラエル北王国の十支族の末裔だが、秦氏はシルクロードを通って、やや遅れて日本列島に渡来した。
秦氏とは大秦帝国の国名を族称としたもので、本姓は「呂」であり、秦の始皇帝の実父とされる呂不偉一族の末裔である。始皇帝から処罰され、生き延びた呂一族は東方に逃れた。朝鮮半島にたどり着いた呂氏が率いていた集団には、西域民族も多く混じっていた。そこで集団の総称を秦とし、呂氏は秦君、呂一族は秦氏となり、集団は秦人を称する。
秦人は元々商業民なので、当時国際交易特区だった朝鮮半島南端の任那を本拠として、交易を始める。秦氏の居留地は辰韓と任那の国境にあり、秦韓と呼ばれていたが、秦氏は商業民の習いとして、近隣に駐屯していた辰王国の騎馬隊を傭兵とする。
北方民族で、同種に追われて高句麗方面から朝鮮半島に逃げてきた騎馬部族が、軍事キャンプを馬韓の外れに建てて辰王国を称していた。その隊長が辰王である。
大秦帝国は皇帝独裁の軍事国家であったが、秦韓は商業民の秦氏が建てた商業国家であり、秦君が辰王の騎馬隊を用心棒として雇っていた。つまり一種の華僑である。
秦氏は日本にも渡り、豊後の国東半島あたりを拠点として任那と交易していた。現地で宗像三女神を祀っていた縄文海人系の宇佐君は、新来の秦氏を歓迎し、両者は通婚し、宇佐君は実質的に秦氏の血統となる。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/2604.html
海部氏
●日本民族の三大源流は【1】縄文人、【2】弥生人、【3】古墳人である。
【1】縄文人は①土着アイヌ人、②先住海人族「ヘイ」、③渡来シュメル族「タチバナ」
【2】弥生人は①縄文末期に渡来した古イスラエル北王国十支族(海部・物部・秦)、②海部氏が率いてきた倭族。
多神教のイスラエル北王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、十支族は東方に流移する。その末裔は日本列島に渡来し、海部(アマベ)氏と物部(モノノベ)氏と秦(ハタ)氏になった。これが日本に渡来した古イスラエルの御三家である。
【3】古墳人は①崇神天皇以後の渡来系騎馬民族、②応神期に秦氏が朝鮮半島から呼び寄せたツングース系人
●アッシリアの支配から逃れ、ユーラシア大陸の東南沿岸を北上していたアマベ氏は、華南の越の海岸で倭人に遭遇した。倭人は、原郷の雲南から水稲を携えて長江を下り、越民と混血して半農半漁民となっていた。アマベ氏は、ここで配下となった倭人(越人)を率いて船出し、丹後半島に上陸し、日本では海民の支配者となって各地に海部郷を置く。
アマベ氏は、日本に古イスラエル以来のオリエント多神教をもたらし、太陽神ホアカリを祀る神社を天橋立に建て、自ら祀官となる。これが籠(この)神社で、火明命(ホアカリ)と同体の天照国照彦を併せた太陽神を御祭神として、今も続いている。
アマベ&倭人は、水田を各地で開発し、丹後半島から発して近畿地方の内陸部へと進み、稲作集落を形成してイセと称した。これを証する客観的事実は、滋賀県守山市伊勢町周辺から発掘された巨大な集落遺跡である(集落が営まれた時代は縄文後期から室町時代で、最も栄えたのが弥生時代後期の紀元1~2世紀)
アマベ&倭人が渡来したことにより、縄文時代から弥生時代に切り替わる。
アマベ氏は、女系相続民族で女神信仰の強い倭人が受け入れ易いように、太陽神アマテル彦から「彦」を除いてアマテラスと読み替え、女神に転換して内宮に祀る。こうして、アマべ氏がもたらした古イスラエル神道は日本神道の基本的根底を成す。
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2016年1月9日土曜日
赤沼瀬兵衛
真田昌幸・幸村・信之を中心に、天正から元和までの40年間を描いた長編小説です。自らの器量で天下分け目の戦いに参加して所領拡大を狙った謀将・昌幸。天下へ自らの軍略を示すことを望んだ天才・幸村。そしてひたすら真田家の存続を考え、徳川家に従った信之。真田三代のそれぞれの生き様を歯切れよく描いています。そしてもう一つの魅力は真田家の草の者と甲賀忍者との死闘。これらを織り交ぜ、リアリティのある面白さ。これは楽しめます。 | |
■ 主人公 | |
真田昌幸(さなだまさゆき) | 真田幸村(さなだゆきむら) |
真田信之(さなだのぶゆき) | |
■ 脇役 | |
*向井佐平次(むかいさへいじ) | *お江(おこう) |
*壺屋又五郎(つぼやまたごろう) | 徳川家康(とくがわいえやす) |
*向井佐助(むかいさすけ) | 鈴木右近(すずきうこん) |
*奥村弥五兵衛(おくむらやごべえ) | |
■ 登場する武将 | |
*立木四郎左衛門(たちきしろうざえもん) | 武田勝頼(たけだかつより) |
小山田信茂(おやまだのぶしげ) | 土屋惣蔵(つちやそうぞう) |
矢沢頼康(やざわよりやす) | 矢沢頼綱(やざわよりつな) |
真田信伊(さなだのぶただ) | 沼田平八郎(ぬまたへいはちろう) |
金子新左衛門(かねこしんざえもん) | 織田信長(おだのぶなが) |
滝川義太夫(たきがわぎだゆう) | 滝川一益(たきがわかずます) |
豊臣秀吉(とよとみひでよし) | 鈴木主水(すずきもんど) |
*師田頼母(もろたたのも) | *樋口角兵衛(ひぐちかくべえ) |
中山九兵衛(なかやまくへえ) | 池田恒興(いけだつねおき) |
本多忠勝(ほんだただかつ) | 上杉景勝(うえすぎかげかつ) |
大久保忠世(おおくぼただよ) | 鳥居元忠(とりいもとただ) |
北条氏政(ほうじょううじまさ) | 北条氏直(ほうじょううじなお) |
山中長俊(やまなかながとし) | 猪股能登守(いのまたのとのかみ) |
石田三成(いしだみつなり) | 渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ) |
宗義調(そうよししげ) | 山中俊房(やまなかとしふさ) |
*安田新右衛門(やすだしんえもん) | 柳生五郎右衛門(やぎゅうごろうえもん) |
大谷吉継(おおたによしつぐ) | 柳生宗厳(やぎゅうむねよし) |
小西行長(こにしゆきなが) | 加藤清正(かとうきよまさ) |
前田利家(まえだとしいえ) | 前田利長(まえだとしなが) |
池田綱重(いけだつなしげ) | 石田正澄(いしだまさずみ) |
佐竹義宣(さたけよしのぶ) | 宇喜多秀家(うきたひでいえ) |
島左近(しまさこん) | 堀尾吉晴(ほりおよしはる) |
黒田長政(くろだながまさ) | *赤沼瀬兵衛(あかぬませべえ) |
横山長知(よこやまながとも) | 本多正重(ほんだまさしげ) |
藤田信吉(ふじたのぶよし) | 直江兼続(なおえかねつぐ) |
福島正則(ふくしままさのり) | 鳥居元忠(とりいもとただ) |
京極高次(きょうごくたかつぐ) | 長束正家(ながつかまさいえ) |
本多正信(ほんだまさのぶ) | 井伊直政(いいなおまさ) |
中村一氏(なかむらかずうじ) | 湯浅五助(ゆあさごすけ) |
樫原彦右衛門(かしはらひこえもん) | 平塚為広(ひらつかためひろ) |
毛利輝元(もうりてるもと) | 増田長盛(ましたながもり) |
小早川秀秋(こばやかわひであき) | 島津義弘(しまづよしひろ) |
小山田茂誠(おやまだしげまさ) | 富田信高(とみたのぶたか) |
福島高晴(ふくしまたかはる) | 村越直吉(むらこしなおよし) |
織田秀信(おだひでのぶ) | 木造具康(きつくりともやす) |
前田玄以(まえだげんい) | 滝川三九郎(たきがわさんくろう) |
池田輝政(いけだてるまさ) | 島津豊久(しまづとよひさ) |
徳川秀忠(とくがわひでただ) | 本多忠政(ほんだただまさ) |
*木村甚右衛門(きむらじんえもん) | *鴨屋甚左衛門(かものやじんざえもん) |
戸田勝成(とだかつしげ) | 伴長信(ともながのぶ) |
湯浅五助(ゆあさごすけ) | 浅野幸長(あさのよしなが) |
吉川広家(きっかわひろいえ) | 平岡頼勝(ひらおかよりかつ) |
竹中重門(たけなかしげかど) | 松野主馬(まつのしゅめ) |
毛利秀元(もうりひでもと) | 榊原康政(さかきばらやすまさ) |
石田正継(いしだまさつぐ) | 石田正澄(いしだまさずみ) |
田中吉政(たなかよしまさ) | 水野勝成(みずのかつなり) |
福原長尭(ふくはらながたか) | 安国寺恵瓊(あんこくじえけい) |
横田村詮(よこたむらあき) | 中村一忠(なかむらかずただ) |
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか) | 福島正之(ふくしままさゆき) |
*鎌田兵四郎(かまたひょうしろう) | 飯田覚兵衛(いいだかくべえ) |
平岩親吉(ひらいわちかよし) | 豊臣秀頼(とよとみひでより) |
片桐且元(かたぎりかつもと) | 真田大助(さなだだいすけ) |
大野治長(おおのはるなが) | *伴野久右衛門(ばんのきゅうえもん) |
*神田対馬守(かんだつしまのかみ) | *山田又八郎(やまだまたはちろう) |
*馬場彦四郎(ばばひこしろう) | *小川治郎右衛門(おがわじろうえもん) |
*赤沼瀬兵衛(あかぬませべえ) | 本多正純(ほんだまさずみ) |
織田常真(おだじょうしん) | *小島庄兵衛(こじましょうべえ) |
織田有楽(おだうらく) | 速水守久(はやみもりひさ) |
板倉勝重(いたくらかつしげ) | *原蔵人(はらくらんど) |
福島丹波(ふくしまたんば) | 浅野長晟(あさのながあきら) |
伊木七郎右衛門(いきしちろうえもん) | 高梨内記(たかなしないき) |
青柳清庵(あおやぎせいあん) | 後藤基次(ごとうもとつぐ) |
毛利勝永(もうりかつなが) | 本多政重(ほんだまさしげ) |
渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ) | 本多忠朝(ほんだただとも) |
松平忠直(まつだいらただなお) | 明石全登(あかしてるずみ) |
真田信吉(さなだのぶよし) | *山崎瀬兵衛(やまざきせべえ) |
木村土佐守(きむらとさのかみ) | 土井利勝(どいとしかつ) |
酒井忠世(さかいただよ) | *金子虎太郎(かねことらたろう) |
■ その他の登場人物 | |
山手殿(やまてどの) | *姉山甚八(あねやまじんぱち) |
*久野(ひさの) | *小助(こすけ) |
*お徳(おとく) | *もよ |
*山田弥助(やまだやすけ) | *鞍掛八郎(くらかけはちろう) |
*栄子(えいこ) | *柏木吉兵衛(かしわぎきちべえ) |
*心山和尚(しんざんおしょう) | *住吉慶春(すみよしけいしゅん) |
小松殿(こまつどの) | *於順(おじゅん) |
*杉坂重五郎(すぎさかじゅうごろう) | *五瀬の太郎次(ごせのたろうじ) |
*猫田与助(ねこたよすけ) | *田子庄左衛門(たごしょうざえもん) |
*横沢与七(よこざわよしち) | *瀬戸伴蔵(せとのはんぞう) |
*佐久間峰蔵(さくまみねぞう) | 淀の方(よどのかた) |
*池の脇の藤左(いけのわきのとうざ) | 西笑(さいしょう) |
*おくに | 松子(まつこ) |
*伏屋太平(ふせやたへい) | 高台院(こうだいいん) |
*小竹万蔵(こたけまんぞう) | 於菊(おきく) |
*宮塚才蔵(みやのつかさいぞう) | *はる |
小野お通(おののおつう) | *半兵衛(はんべえ) |
*お才(おさい) | *中原丈助(なかはらじょうすけ) |
海北友松(かいほうゆうしょう) | *平谷伊平(ひらたにいへい) |
*曾根十蔵(そねじゅうぞう) | *永井養順(ながいようじゅん) |
*迫小四郎(はさまこしろう) | *慈海(じかい) |
*片山梅春(かたやまばいしゅん) | *三津(みつ) |
大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね) | 常高院(じょうこういん) |
千姫(せんひめ) | *伊佐(いさ) |
*宮下藤兵衛(みやしたとうべえ) | *小佐(こさ) |
*田中三蔵(たなかさんぞう) | *徳之助(とくのすけ) |
*亀之助(かめのすけ) http://kazusanosukede.gozaru.jp/book/sanadataiheiki.htm |
羽田治郎左衛門幸清
羽田治郎左衛門幸清 | *1520~1554年 |
秦幸清、秦幸信ともいう。
秦幸清(羽田治郎左衛門幸清)は和田城主の大井信隆(大井修理)の家老として仕えたが、天文14年(1545年)に武田晴信に攻められ大井信隆軍は全軍討死したとされる。 大井五騎の一将と称された羽田氏(秦氏)は、主家大井信定に従うかたちで武田氏に抵抗しつづけていたと思われる。 およそ10年後の天文23年(1554年)6月15日、武田晴信の信濃侵攻により落城。秦幸清は下和田の矢崎城において、主君大井信定とともに戦い、武田軍に討たれたという。 秦幸清は法名を亭秦院幸清正雲居士とされ、墓は下和田の若宮八幡社境内にあるという。
これ以降、秦氏は羽田氏を名のったとされている。『秦氏家譜先君伝』によれば家紋は「ぶっちがえの鷹の羽」を使用していたとされる。 秦幸清の長男として生まれた秦竹久(羽田筑後守竹久/羽田雅楽之介武久)は武田晴信の信濃侵攻で降服し従い、 武田氏滅亡後は武田遺臣として真田氏を頼っている。 真田軍功家伝記『真武内伝』によれば、真田家の重臣について、「羽田筑後は長野信濃守一家なり。甲州衆なるが甲州崩れのとき房州様へ従い数度覚えあり」とし、武田家滅亡のときに真田昌幸に仕え数度の戦功をあげた。 大阪の陣では、秦幸清の長男羽田竹久、次男羽田房幸、三男羽田幸正は真田方として参陣し、長男羽田竹久は戦死、他の兄弟たちも戦死か行方知れずとなっている。 四男羽田信久、五男羽田吉久は徳川方へつき兄弟別れて戦った。現在残っている羽田氏は徳川方に与した羽田吉久の後裔にあたる。 真田信幸(真田信之)時代『寛文十年分限帳』に羽田六右衛門(300石)、真田幸専時代の『文政二年分限帳』に羽田忠左衛門、羽田雄助の名がみれる。 武田氏滅亡後に真田氏を頼った理由としては、羽田氏が上州侵攻に加わっていたことがあげられる。 また『真武内伝』にある「長野信濃守一家」という文言や『戦国草津温泉記』『箕輪城と長野氏』からは、羽田氏が上州で盛大な勢力を誇った山内上杉氏家臣長野業政と何かしらの深い関係があったこともうかがえる。 『秦氏家譜先君伝』『戦国草津温泉記(湯本善太夫「箕輪城と長野氏」)』によれば秦幸清の妻は上州箕輪城主長野業政(長野信濃守)の妹とされており、主家滅亡後に妻の兄を頼って上州へ逃れたとする説が有力。 長野業政の配下として安中の後閑城を治め、のちに鷹巣城へ移動した依田氏の一族もいるため、依田氏と長野氏が関係していたことは明白となっており、 武田氏に追われて長野氏の配下に属していた同族(依田氏)を頼り、長野氏が滅亡後に武田氏に属した可能性もある。 いずれにしても長男羽田竹久(羽田彦太郎)は長野業政の妹の子であり、さらに長野業政の娘婿であるため、「長野信濃守一家」と記されたのであろう。 吾妻郡に羽田城(大柏木城、芳ノ城ともいう)が天文年間(1532~1555年)に羽田康文によって築城されており、武田家臣(もしくは長野氏が滅亡して後に武田家臣となり)として活躍後、真田氏に属したとみられる。 羽田城は、のちに浦野滋野氏大戸真楽斎が居城としている。
泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのがそのはじまりとされている。 泰氏は山城国の葛野郡一帯を領し、太秦の地を本拠に勢力を拡大していった。 飛鳥時代、推古天皇の御世にあらわれた泰河勝(秦川勝)は、聖徳太子に仕えて朝廷内における秦氏の地位を向上させ、 京都・広隆寺を創建したことで知られている。
秦河勝は聖徳太子の信頼に応えて多大な功績をあげ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、秦河勝の長男秦広国を派遣して信濃国の統治にあたらせた。 以後、泰氏は信濃国に住して豪族に成長していく。 『更級郡誌』によれば、保元の乱に際して秦能俊が村上為弘、平正弘らと崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡したという。 阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久郡、更級郡、東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。
『元親記』には「秦川勝の末葉、土佐国司となり、長曽我部・江村・廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とある。 また、後三条天皇の延久年間(1069~1074年)に、秦能俊が信州から入部したとするものもある。 さらに、鎌倉時代初期に起った承久の乱に幕府方に属した秦能俊は京方の仁科氏と戦い、その功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説もある。 いずれにしても土佐に移った秦能俊は国分川沿いにある岡豊山に城を築き、代代の居城と定めた。 そして、鎌倉時代、江村氏、久礼田氏、広井氏、中島氏、野田氏、大黒氏、中野氏らの庶子家を分出。 長宗我部氏はこれらの庶子家を指揮下におき、惣領制のもと発展をしていった。甲浦惟宗氏、金剛界寺氏、瀬本氏、西和田氏、蒲原氏、益田氏、香川氏などにも分かれ、 長宗我部氏は津野氏、一條氏、吉良氏、香宗我部氏、島氏、戸波氏、比江山氏なども一族に引き入れるなど拡大していった。
秦氏は長宗我部氏のほか、惟宗氏の流れを汲む島津氏などにも分かれており、信濃国でも島津氏は長沼島津氏や赤沼島津氏に分かれて勢力を広げている。
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