2016年1月9日土曜日

羽田治郎左衛門幸清



羽田治郎左衛門幸清*1520~1554年

秦幸清、秦幸信ともいう。
秦幸清(羽田治郎左衛門幸清)は和田城主の大井信隆(大井修理)の家老として仕えたが、天文14年(1545年)に武田晴信に攻められ大井信隆軍は全軍討死したとされる。 大井五騎の一将と称された羽田氏(秦氏)は、主家大井信定に従うかたちで武田氏に抵抗しつづけていたと思われる。 およそ10年後の天文23年(1554年)6月15日、武田晴信の信濃侵攻により落城。秦幸清は下和田の矢崎城において、主君大井信定とともに戦い、武田軍に討たれたという。 秦幸清は法名を亭秦院幸清正雲居士とされ、墓は下和田の若宮八幡社境内にあるという。
これ以降、秦氏は羽田氏を名のったとされている。『秦氏家譜先君伝』によれば家紋は「ぶっちがえの鷹の羽」を使用していたとされる。 秦幸清の長男として生まれた秦竹久(羽田筑後守竹久/羽田雅楽之介武久)武田晴信の信濃侵攻で降服し従い、 武田氏滅亡後は武田遺臣として真田氏を頼っている。 真田軍功家伝記『真武内伝』によれば、真田家の重臣について、「羽田筑後は長野信濃守一家なり。甲州衆なるが甲州崩れのとき房州様へ従い数度覚えあり」とし、武田家滅亡のときに真田昌幸に仕え数度の戦功をあげた。 大阪の陣では、秦幸清の長男羽田竹久、次男羽田房幸、三男羽田幸正は真田方として参陣し、長男羽田竹久は戦死、他の兄弟たちも戦死か行方知れずとなっている。 四男羽田信久、五男羽田吉久は徳川方へつき兄弟別れて戦った。現在残っている羽田氏は徳川方に与した羽田吉久の後裔にあたる。 真田信幸(真田信之)時代『寛文十年分限帳』に羽田六右衛門(300石)、真田幸専時代の『文政二年分限帳』に羽田忠左衛門羽田雄助の名がみれる。 武田氏滅亡後に真田氏を頼った理由としては、羽田氏が上州侵攻に加わっていたことがあげられる。 また『真武内伝』にある「長野信濃守一家」という文言や『戦国草津温泉記』『箕輪城と長野氏』からは、羽田氏が上州で盛大な勢力を誇った山内上杉氏家臣長野業政と何かしらの深い関係があったこともうかがえる。 『秦氏家譜先君伝』『戦国草津温泉記(湯本善太夫「箕輪城と長野氏」)』によれば秦幸清の妻は上州箕輪城主長野業政(長野信濃守)の妹とされており、主家滅亡後に妻の兄を頼って上州へ逃れたとする説が有力。 長野業政の配下として安中の後閑城を治め、のちに鷹巣城へ移動した依田氏の一族もいるため、依田氏と長野氏が関係していたことは明白となっており、 武田氏に追われて長野氏の配下に属していた同族(依田氏)を頼り、長野氏が滅亡後に武田氏に属した可能性もある。 いずれにしても長男羽田竹久(羽田彦太郎)長野業政の妹の子であり、さらに長野業政の娘婿であるため、「長野信濃守一家」と記されたのであろう。 吾妻郡に羽田城(大柏木城、芳ノ城ともいう)が天文年間(1532~1555年)に羽田康文によって築城されており、武田家臣(もしくは長野氏が滅亡して後に武田家臣となり)として活躍後、真田氏に属したとみられる。 羽田城は、のちに浦野滋野氏大戸真楽斎が居城としている。
泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのがそのはじまりとされている。 泰氏は山城国の葛野郡一帯を領し、太秦の地を本拠に勢力を拡大していった。 飛鳥時代、推古天皇の御世にあらわれた泰河勝(秦川勝)は、聖徳太子に仕えて朝廷内における秦氏の地位を向上させ、 京都・広隆寺を創建したことで知られている。
秦河勝聖徳太子の信頼に応えて多大な功績をあげ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、秦河勝の長男秦広国を派遣して信濃国の統治にあたらせた。 以後、泰氏は信濃国に住して豪族に成長していく。 『更級郡誌』によれば、保元の乱に際して秦能俊村上為弘平正弘らと崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡したという。 阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久郡、更級郡、東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。
『元親記』には「秦川勝の末葉、土佐国司となり、長曽我部・江村・廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とある。 また、後三条天皇の延久年間(1069~1074年)に、秦能俊が信州から入部したとするものもある。 さらに、鎌倉時代初期に起った承久の乱に幕府方に属した秦能俊は京方の仁科氏と戦い、その功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説もある。 いずれにしても土佐に移った秦能俊は国分川沿いにある岡豊山に城を築き、代代の居城と定めた。 そして、鎌倉時代、江村氏、久礼田氏、広井氏、中島氏、野田氏、大黒氏、中野氏らの庶子家を分出。 長宗我部氏はこれらの庶子家を指揮下におき、惣領制のもと発展をしていった。甲浦惟宗氏、金剛界寺氏、瀬本氏、西和田氏、蒲原氏、益田氏、香川氏などにも分かれ、 長宗我部氏は津野氏、一條氏、吉良氏、香宗我部氏、島氏、戸波氏、比江山氏なども一族に引き入れるなど拡大していった。
秦氏は長宗我部氏のほか、惟宗氏の流れを汲む島津氏などにも分かれており、信濃国でも島津氏は長沼島津氏や赤沼島津氏に分かれて勢力を広げている。

http://koskan.nobody.jp/teki_nansin.html



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