東京での会津藩士/幽閉地
開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。
負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。
西軍の医者/英人ウルリスが担当していたが、とても手が回らなかった。 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に収容され惨状を呈していた。
その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。
護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、
◇ 飯田元火消屋敷 330名
◇ 小川講武所 700名
◇ 一橋御門内御搗屋 250名
◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名
◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名
◇ 護国寺 314名
◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名
◇ 麻布真田屋敷 若干名
に、2,870余名が分散して収容・監禁された。
その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。
護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。
御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、治癒すると東京に移送された。
歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。
山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。
一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。
米も普通の米ではなく、総て南京米だった。
犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。
各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。
やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。
斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。
http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto.html#kinsinti
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