2019年8月5日月曜日
井深 大
井深 大 (いぶか まさる) の略歴
独自の製品開発に徹し電子技術者として、世界のソニーを築いた創業者。
本田宗一郎氏と並ぶ、戦後日本を代表する技術系創業者でもある。
生涯は、3つの時代に分けられる。
◇ 人格形成の時代
幼く父を亡くし、栃木から愛知へ。
物心が付く頃に東京に転居し、再び愛知に戻り小学生時代を過ごす。
母の再婚により兵庫に移り、中学生時代を過ごす。
各地に移り住むが、その地を理解できる期間を過ごしている。
様々な風土、対人関係などを身に付け、様々な視点から見れる土壌が形成される。
◇ 天才技術者として開花
大学在学中に「走るネオン」を発明し、天才発明家の片鱗を発揮し始める。
会社を設立するや、一般消費者の利便性を追求した研究に没頭、次々に商品化。
日本が電子化立国となる礎を築く。
◇ 幼児教育に尽力
事業が軌道に乗ってからは、幼児教育に邁進する。
娘さんが知的障害児として生れたことも、契機だったのかも知れない。
世界的な起業家にもかかわらず、著書の多くは幼児教育に関するものであった。
胎児教育から、超能力への研究まで広げていった。
明治41(1908)年
4月11日
父/井深甫と母/の長男として、古河鉱業日光製銅所の社宅で誕生。
栃木県 上都賀郡 日光町 字清滝 (日光市) 。
父/甫 (たすく) は古河鉱業の技師で、若い頃に日本最古の一つである静岡県御殿場の発電所を設計している。
明治43(1910)年
父が死去したため、愛知県安城市に住む祖父/井深基 (旧/会津藩士) に引き取られる。
2歳 (数え3歳)。
戊辰の役での基は、18歳のため白虎隊に入れず朱雀隊で奮戦し生き残れたが、その後も西軍からの差別は想像を絶し、北海道で官吏などを転々とするなど苦労をしている。
石山家の養子となり飯盛山で散った白虎隊士/虎之助は、基の実弟である。
重用されていた北海道知事/深野一三が愛知県知事になった際、請われて愛知に移り、商工課長や郡長などを歴任している。
引き取られる時は、教育に従事していた。
祖父の会津魂は、井深大の人間形成の基礎を築いたといわれている。
日本女子大学を出ていた母は、武士道を貫く義父/基と合わなかった。
母に連れられ、5歳から1年2学期まで東京に転居する。
日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら、井深を育てた。
母方の祖父が病気になったため北海道苫小牧に転校するが、2年生で再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校 (安城市立安城中部小学校) を卒業する。
母が山下汽船の課長と再婚したため、しばらく祖父母の手で育てられる。
この期間に、祖父から科学者だった父の話しを聞き、次第に科学への興味が芽生える。
小学五年生になると、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区 (中央区) に転居し、兵庫県立第一神戸中学校を卒業する。
大きくなるにつれ、無線機製作などへ没頭していったという。
昭和8(1933)年
第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業。
卒業論文は、「変調器としてのケルセル附 光線電話」であった。
在学中に「光るネオン」を発明するなど、天才発明家として名が知られていた。
「光るネオン」は、後のPCL時代に出品してパリ万国博覧会で金賞を獲得している。
写真化学研究所 (Photo Chemical Laboratory、通称 PCL、現/東宝) に入社。 25歳。
井深大は、「ケルセルに関する研究成果」の特許申請手続きのため特許庁に出向いた。
内容を見た審査官が、PCLの入社を勧め、自ら連れて行った。
即座に採用は決まったが、井深大には入りたい会社があった。
希望の東京芝浦電気 (東芝) の入社試験を受けたが、不採用だった。
PCLからは、
「責任を持たせて、好きにことをやらせるから、早くこい」
といわれ、気持ちは決まった。
東京帝大卒並みの月給60円、その年末には90円になった。
昭和10(1935)年
自動車の免許を取得し、当時としては珍しいオーナー・ドライバーとなった。
中古の「ダットサン」だったそうだが、1つの夢を叶えた。
27歳。
昭和11(1936)年
日本光音工業株式会社に移籍。
28歳。
昭和12(1937)年
日本光音工業株式会社の無線部長に就任。
出品した「光るネオン」が、パリ万国博覧会で金賞を獲得。
29歳。
昭和15(1940)年
日本測定器株式会社の設立に参画し、常務に就任。
日本光音工業が出資した軍需電子機器 (熱線誘導兵器) の開発に従事。
32歳。
昭和16(1941)年
早稲田大学理工学部専門部工科講師として教壇に立つ。
7年間、続ける。
33歳。
11月
陸海軍の要望であった周波数選択継電器を開発。
海軍は磁気による潜水艦探知機に応用し、航空機に搭載した。
海軍901航空隊は、台湾やフィリピン海域で多くの潜水艦を撃沈する戦果をあげている。
軍官民合同の科学技術の委員を委嘱される。
この縁で、兵器研究の技術者交流である官民共同「戦時科学技術研究会」にて、海軍技術中尉/盛田昭夫氏と運命的に出会う。
昭和20(1945)年
8月
海軍技術将校で終戦を迎える。
敗戦の数日後、長野県須坂町に疎開していた「日本測定器」を戻すため上京する。
日本橋大通りで、完全武装した米軍の自動車の行列に出会う。
その時、痛感した。
「日本は科学技術で負けたのだ。科学技術で日本を立て直すしかない」
37歳。
10月
行動は、素早かった。
東京日本橋の旧/白木屋店内の3階配電盤室に、ソニーの前身である「東京通信研究所」を個人企業として設立。
昭和21(1946)年
5月
「東京通信研究所」を株式会社に改組し、「東京通信工業株式会社」に改称。
終戦まで文部大臣をしていた義父の前田多門を社長とし、井深が賀技術担当の専務、盛田昭夫が営業担当の常務に就任した。
盛田はGHQの公職追放で職が無く、偶然にも読んだ朝日新聞のコラム「青鉛筆」に東京通信工業が掲載され、会社設立に合流したのである。
前田多門も、公職追放されていた。
資本金19万円で、社員20数人でのスタートであった。
新しい技術開発にチャレンジし、ユーザーの生活を豊かにする新商品を造り出し、世界的な大企業に成長していく。
「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
~~~
会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、~~~」
38歳。
昭和22(1947)年
10月
NHKを統括していた米軍の将校からテープレコーダーを試聴し、製作することを決心。
39歳。
昭和25(1950)年
東京通信工業の社長に就任。
8月
苦難の開発の末、国産初のテープレコーダー「G-1型」を発売。
小売価格16万円 (現在の3百万円位) と高価のため販売不振。
どんな便利なものでも消費者の立場が必須と悟り、小型の普及機に方向転換する。
全国の小中学校から、注文が殺到しはじめる。
さらに、占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され、全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。
42歳。
昭和27(1952)年
3月
米国でのテープレコーダー普及状況を調査するため渡米。
車の洪水を目の当たりにして、米国の国力を痛感する。
最先端技術を開発しなければ、日本の再生は無い、と悟る。
実用化は無理と考えられていたトランジスタの開発を決意。
帰国後、時期尚早との周囲の反対を押し切り、開発を着手し推し進める。
後に井深は、「よそにないものをつくる」の夢に賭けたが、この時代が最も苦しかったと振り返っている。
44歳。
昭和30(1955)年
米国で開発されたトランジスタの国内生産に成功。
8月
本格的なトランジスタ・ラジオ「TR-55」を、商品名「SONY」として発売。
電子立国である現在の日本の基礎を築くスタートであった。
47歳。
昭和31(1956)年
トランジスタ・ラジオを改良し、イヤフォン方式やハンディタイプなど次々に新製品を出荷。
乾電池で聞けるトランジスタ・ラジオは、台風シーズンには瞬く間に完売した。
48歳。
昭和32(1957)年
3月
スピーカー付きポケットラジオ「TR-63型」を発売。
世界最小で感度も良く、消費電力も従来の半分であったため、 大人気のヒット商品となる。
米国の雑誌「ポピュラーサイエンス」に取り上げられるや、米国でもヒット商品となり、クリスマス商戦では完売が続き、チャーター便で納品するほどだった。
電気製品での輸出の第1号といわれている。
49歳。
昭和33(1958)年
商標名であった「SONY」を、正式な社名「ソニー」に改称。
社員20数人でスタートした会社は、4千人を超えていた。
トランジスタの大成功にもかかわらず。開発への挑戦は衰えなかった。
輸入に頼るゲルマニウムから、無尽蔵にあるシリコンのトランジスタ開発に向かう。
50歳。
昭和34(1959)年
ソニーに、全国の小学校を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」を設ける。
51歳。
昭和36(1961)年
トランジスタテレビの開発に成功。
翌年の4月に、世界初の5インチ・テレビを発売する。
53歳。
昭和37(1962)年
日本映画・テレビ録音協会の初代名誉会員に選出される。
54歳。
昭和39(1964)年
世界初の家庭用白黒ビデオ・テープレコーダーを発表し、翌年から発売。
56歳。
昭和40(1965)年
妻/勢喜子と協議離婚し、黒沢淑子と再婚。
57歳。
昭和42(1967)年
トリニトロン・カラーテレビが完成。
クロマトロン方式にチャレンジし失敗の連続であったが、その過程で開発に成功した方式だった。
日本初から世界初の開発力を持つ会社になっていた。
この頃から、技術立国には幼児教育が欠かせないと考えるようになっていく。
さらに、母親の重要性へと打ち込んでいく。
59歳。
昭和44(1969)年
財団法人幼児開発協会を設立し、理事長に就任。
これ以降、残りの生涯を幼児教育の情熱に注ぐ。
「この人の能力はこれだけだと決め付けていたら、その人の能力は引き出せません」
61歳。
昭和47(1972)年
ソニー教育振興財団を設立し、理事長に就任。
「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない< 母親は子供にとって偉大な芸術家であり、医者でありますが、何よりもすぐれた教育者であってほしい」
3月
電子工学関係で世界最大の学会「IEEE (電気電子学会)」からファウンダー賞が贈られる。
米国人以外での受賞は初めてであり、同賞が設けられたから15人目の授賞であった。
64歳。
昭和50(1975)年
ソニー会長に就任。 67歳。
昭和51(1976)年
国鉄の理事に就任。
発明協会の会長に就任。
68歳。
昭和52(1977)年
ソニー名誉会長に就任。 69歳。
昭和54(1979)年
ウォークマンを発売。
日本オーディオ協会の会長に就任。
早稲田大学から名誉博士(Doctor of Science)が贈られる。
71歳。
昭和60(1985)年
ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。
77歳。
昭和61(1986)年
勲一等旭日大綬章を受章。
78歳。
昭和62(1987)年
鉄道総合技術研究所の会長に就任。
79歳。
平成元(1989)年
文化功労者に選ばれる。
81歳。
平成2(1990)年
ソニーファウンダーを創業し、名誉会長に就任。
82歳。
平成3(1991)年
エスパー研究所をソニー社内に設立。
「超能力者」の透視能力やテレパシーの実験、科学的に「気」を検証するなど科学の枠を超えた東洋的な考えに傾倒。
エスパー研究所は、没後の翌年に閉鎖された。
83歳。
平成4(1992)年
産業人として初の文化勲章を受章。
84歳。
平成6(1994)年
ソニーファウンダーの最高相談役に就任。
86歳。
平成9(1997)年
12月19日
東京にて死去。
身体は不自由だったが、逝去直前まで頭脳ははっきりしていたという。
「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」
享年90歳 (満89歳)。
墓は、多磨霊園にある。
同年、勲一等旭日桐花大綬章を没後受勲。
「日本のエレクトロニクス産業などの製造業発展の基礎を作るとともに、若手技術者育成に活躍し、多くの国民に自信と勇気を与えた」
世界のソニーの創業者なのだが、集合住宅に住んでいた。
盟友である盛田の自宅は、大邸宅なのに。
会社設立の目的
一、 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、 日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、 戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、 諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるものの迅速なる製品、商品化
一、 無線通信機類の日常生活への浸透化、並びに家庭電化の促進
一、 戦災通信網の復旧作業に対する積極的参加、並びに必要なる技術の提供
一、 新時代にふさわしき優秀ラヂオセットの製作・普及、並びにラヂオサービスの徹底化
一、 国民科学知識の実際的啓蒙活動
「たわいない夢を大切にすることから、革命が生まれる。」
井深の姓は、会津藩にしかいない。
斗南藩消滅により、藩士たちは全国に散っていった。
井深家も、その1つである。
旧/会津藩士の履歴を隠さねば、生きることかすら困難な時代であった。
井深家の墓域は、大窪山墓地や善龍寺などにある。
大窪山墓地には、7か所ほど広い墓域が点在しており、巨大な墓石が林立している。
飯盛山で自刃した白虎隊士/井深茂太郎や、石山家に養子となった虎之助は一族であり、国際的に著名な井深八重も一族の子孫である。
[閑話]
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