2023年12月3日日曜日

会津藩士墓地 宗谷・利尻島

 文化3、4年のロシア船による択捉・樺太・利尻島襲撃は、南部・津軽藩兵の防御が砕かれたことから外国による軍事攻撃の恐怖心を日本国内にもたらした。それにより文化5年には、津軽・南部藩が各250名、仙台藩2,000名で箱館、国後、択捉を、会津藩は1,633名の藩兵で樺太、宗谷、利尻島、松前を警固した。

会津藩の樺太詰745名、宗谷詰370名、利尻島詰252名、松前詰266名で文化5年1月9日から4回に別れて鶴ヶ城を出発した。4月19日に樺太久春古丹に到着した樺太詰隊は、会津から持参した油単(合羽)を張った仮小屋を建てた。周囲に柵を巡らした陣屋と見張り台、山腹に台場をつくり大砲を備え付け、ロシア武装船に備えた。また、久春古丹より海上西方三里の要所である留多加(るうたか)に98名の分遣隊を派遣した。利尻島では運上屋のある本泊に陣屋をつくり駐留した。ウエンヒタという海岸とポンモシリという小さな島に遠見番所を立て、日中は組士1人足軽2人、夜中は組士2人で当番し、陣屋周辺の海岸は組士2人足軽3人で昼夜関係なく見回った。しかしこうした会津藩の警固地にはロシア武装船の来襲がなかったので、7月に入ってから警固引き揚げの幕命がだされた。利尻島にある三ヶ所八基の会津藩士の墓のうち4人は利尻島警固で亡くなった藩士、残りの4人は樺太警固を終えた帰りの船で亡くなったり、海難し漂着したが利尻島で亡くなった藩士の墓である。

北の海を護る、その背景

文化元年(1804年)9月6日、クルーゼンシュテルン率いる世界探検隊とともに、ナデジダ号に同乗したロシアの遣日全権使節レザノフが長崎港外に到着した。寛政4年(1792年)にラックスマンが松前で受けた信牌※2と来航趣意書をもって、幕府に通商を求めたのだ。当時のロシアにおける大きな課題は、北太平洋およびアメリカ北西岸の植民地への食料・日用品・資材の供給であった。これら必需品を日本から輸入することとあわせて、露米商の主要産物である毛皮の市場拡大も視野に入れていた。幕府はレザノフを半年に渡り隔離状態とした後、国書の受け取りを拒絶し、長崎からの退去を命じた。その後、ロシアは日本に交易を認めさせるための武力行使を命じ、ロシア武装船の択捉島・樺太島・利尻島襲撃が行われたのだ。

このような日露の緊迫した中で、文化4年3月、松前・西蝦夷地一円が幕府に召し上げられ、松前・蝦夷地全域が初の幕領となった。そして東西蝦夷地の巡見が幕吏によって行われた。文化4年に西蝦夷地を巡見した小人目付田草川伝次郎が記した『西蝦夷地日記』がある。そこに書かれている宗谷場所の産物は鯡(にしん)、煎海鼡(いりこ)、塩鱒、鱒〆粕(ますしめかす)、魚油、鮭塩引(さけしおびき)である。利尻場所の産物は鯡、鱈子(たらこ)、煎海鼠、干蚫(ほしあわび)、昆布、布海苔(ふのり)と記されている。鯡や鱒の〆粕とは本州の水田稲作、綿、煙草などの田畑の肥料として需要の高い製品であった。煎海鼠は俵物として長崎から中国に輸出された。その他は食糧として北前船航路で本州各地に運ばれていた。ロシアの武力行使に対して会津藩など奥羽諸藩による蝦夷地・樺太・択捉島警固は、豊富な海産物を必要とし守るため、北の海を国境・領海として強烈に意識したことによって生じた対外政策だったのである。

海は外交史の舞台になっており、いつの時代も海が人や物の行き来する道であると同時に、そこが国境で閉ざされると、人や物の行き来が途絶えてしまう。その時代時代において、海の関門をどう乗り越えてゆくのかが課題である。会津藩が蝦夷地警固してから200周年を迎え、会津若松市では7月4日に歴史シンポジウムin會津が開かれ、8月29、30日には蝦夷地警固に殉じた会津藩士を偲ぶ旅で宗谷・利尻島の墓参と記念講演会が行われた。会津藩士の墓を見守りながら、近世の海の有り様を様々な角度から日本史・ロシア史として捉えてみたい。(了)

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