2022年12月25日日曜日

赤沼備中

 『御系譜』は五冊本である。第一冊目は南部家祖光行から第四十代利剛までの事績を記載している。本稿では二十三代安信からの譜を掲載する。但、譜は歴代当主に限り、子弟に付いては割愛するほか、庶系についても除去している

  

二十二代政康の子

 安信 二十三代 南部彦三郎 ─────────────────────┐

   従五位下 右馬允                         │

   永正五戊辰四月五日卒 行年三十三 法号金剛院殿悦山怡公 持国二年 │

                                    │

┌───────────────────────────────────┘

├晴政 二十四代 南部彦三郎 ─────────────────────┐

│  永正五戊辰年継家領、自将軍義晴公賜御諱字称晴政、天文八己亥六月赤 │

│  沼備中就知行処事、晴政公並家老奥瀬安芸含遺恨三戸之居城懸け火、晴 │

│  政公近習四五人召連山の手へ立退、干時法蔵既及炎亡、依是下斗米九郎 │

│  左衛門将家・奥瀬安芸両人煙押分入法蔵、代々之記録等為入皮籠二取出、│

│  亦先祖政行自将軍尊氏公賜処之鞍(世曰腰懸)玄関迄持出処、赤沼備中 │

│  立向、奥瀬安芸を討留立退処、下斗米九郎左衛門是を見懸、直々追懸於 │

│  諏訪の平討留、備中が首晴政公之入実検、此時累代相伝の證文等悉焼失、│

│  残物纔有之、永禄六癸亥年三月十八日卒、故民号四日殿、法号耀山熈公 │

│  大禅定門、持国七十三年                      │

│                                   │

│   補注 『南部根元記』(元文六年写本)は、南部家累代の證文記録類 │

│       の焼亡・四日殿と称された理由を次のように伝えている。  │

│       (前略)信直公を失けるべき御振舞共多かりけるとぞ聞へし、│

│       かかる処に晴政の御子彦三郎晴継公御年十三にして疱瘡を煩 │

│       ひ玉ひしが、忽に墓なく成ら玉ふ、晴政大悲歎し給ひつや、 │

│       物をも分玉わず、常は御物くるをしく御坐ましましけり、既 │

│       に信直には不快になり玉へば、重て家督御相続御沙汰にも及 │

│       はず、御前代にり相伝りし代々将軍家の御教書等其外御家に │

│       伝りし御重宝記録等を見玉ひては、我是誰に譲るべき、徒に │

│       他の宝になされしよりは、不如焼捨にはとて、一所に集、自 │

│       火にかけ、焼捨給ひけり、南部家累代の記録等此時多くは亡 │

│       失す、かく年月晴継の早世を歎き暮し給しかば、物悩しふな │

│       り給ひて終に元亀三年八月四日世をさり給ひけり云々    │

│                                   │

└高信 石川左衞門尉 ────────────────────────┐│

┌──────────────────────────────────┘│

├信直 南部三郎 亦号田子九郎                     │

│  従弟 彦三郎晴継依為早世、信直為継嗣、継其家領          │

├長義 南遠江                             │

├信房 石亀紀伊                            │

└秀範 毛馬内靱負                           │

┌───────────────────────────────────┘

├晴継 二十五代 幼名鶴千代 南部彦三郎 ───────────────┐

│  実晴政六男 天文六丁酉正月二十四日患疱瘡卒 行年十三歳      │

│  法号 芳梢華公大禅定門                      │

├女子 南部大膳大夫信直室                       │

├女子 九戸彦九郎実親執 実親は九戸左近将監政実の弟なり        │

├女子 東 中務朝政室                         │

├女子 南 少弼秀氏室                         │

└女子 北 主馬秀愛室                         │

┌───────────────────────────────────┘

└信直 二十六代 南部大膳大夫 従五位下 ───────────────┐

    母 一方井刑部女 元禄九丙寅年卒 法名芝山公 葬名久井村法光寺 │

   実石川左衞門尉高信嫡子 晴継依早世雖為従弟継其家領、天正十五丁亥 │

   二月十日以前田筑前守利家忠節之旨被言上秀吉公此時一家北左衛門信愛 │

   遣使者、依為乱世節廻所々、四月二日参着加州金沢、則以徳山五兵衛入 │

   道献鷹三十一居、演忠節之旨、此節秀吉公島津為退治九州御動坐故、信 │

   愛八月迄滞留、雖然秀吉公御帰洛延引故、利家被添多田左京亮被送北氏 │

   於南部然八月下旬秀吉公御帰洛故、利家上洛被言上、信直翌年御馬献上、│

   重而御朱印被下、同十六戊子年亡斯波民部領斯波郡六十六郷、同十八庚 │

   寅年久慈右京為信企隠謀横領津軽、欲自立矣信直聞之欲退治之、此時秀 │

   吉公為征伐相州北条門族有下向、依之利家、内堀四郎兵衛為使者、告小 │

   田原参陣、信直無処遁相止津軽発向、為信見気魁信直急駈入小田原、講 │

   礼秀吉公、諸臣服秀吉公、東方属指麾始也、差津軽封為信爾来与南部為 │

   傍輩、信直自加州使者内堀四郎兵衛先立、鷹五十居、馬百疋為牽懸越後 │

   信濃、越碓氷峠参著鉢形陣体面利家、休松山城浅野弾正申合、可参陣旨 │

   蒙秀吉公、命則小田原参陣、以山中吉内被献御馬、折節秀吉公巡見之処 │

   参陣為謁見、則御陣中被召連御盃頂戴、賜梨地鞍金拵来国次御脇指並唐 │

   織御羽織等北条一家退治後之後、出羽陸奥為退治、御名代三好中納言秀 │

   次公蒙大将、命引率数万騎、両国悉被退治、蒲生飛騨守居住会津、木村 │

   伊勢守居住、大崎、同市右衛門居住、葛西此時信直為御迎、発向白川表 │

   則先陣也、浅野長政稗貫郡鳥谷崎下着葛西表悉退治、同名庄左衛門残置 │

   鳥谷崎、奥糠部迄退治而帰洛、然鳥谷崎不人数故、和賀・稗貫者共日夜 │

   押寄攻戦故難持城旨信直伝聞、急馳参致後巻一揆者共悉追払、鳥谷崎暫 │

   在陣雖然城中不人数故、十月下旬庄左衛門同道帰糠部、足澤城被指置、 │

   同十九辛卯年九戸左近政実企私謀、楯籠九戸城、雖攻之城堅容易難潰、 │

   依之就前田利家達秀吉公聴請援兵故、為九戸征伐下遣中納言秀次卿為大 │

   将軍、陣居二本松、先鋒蒲生飛騨守氏郷、浅野弾正少弼長政、堀尾帯刀 │

   先生吉晴、井伊兵少輔直政、各勠力被攻九戸城、信直急馳向共、謀之九 │

   戸降参後、其族徒悉被誅之、其後浅野長政被致仕置之次、自利家内堀四 │

   郎兵衛為使者、弾正長政被仰遣信直忠功の仁有之条、斯波・遠野依為本 │

   領不申及、和賀稗貫支配之内被相渡可然、其子細此度鳥谷崎城主及難儀 │

   節、信直急馳参相働救、彼難其上兼日忠功今度手柄無比類、為津軽替地 │

   相添、本領可渡旨達上聞、秀吉公被仰遣条、長政点頭被相渡也、故信直 │

   早速上洛御礼被仰上、帰国後居福岡城、領内悉静謐、文禄元壬辰年秀吉 │

   公為征伐朝鮮国遣兵到肥前名護屋御下向、此時就干其触状参供奉、慶長 │

   四己亥十月五日於福岡城卒、寿五十四歳、法号常住院殿江山心公 菩提 │

   所聖寿寺住持石門導師 治国十有餘年                │

                                    │

    工藤補注                            │

     『封内郷村志』                        │

    福岡村                             │

     葬地 信直公御葬送之地云、有市中西、元禄之初、郡官佐々木三郎 │

     兵衛点検於其地、立小祠、以圍一頃、              │

     信直公慶長四己亥年十月五日薨、碑名高山心光大禅定門、導師三戸 │

     聖寿寺石門、焼香師二戸浄法寺邑福蔵寺、後改葬干三戸聖寿寺矣  │

                                    │

○古伝云、三戸聖寿寺の元祖は三光国齊国師也、国師の号は禅家限る、禅僧最 │

 上の極官なり、天子の法の師なるを以、人皇九十五代後醍醐天皇より始て国 │

 師の号を賜る、三光国師は正平十六辛丑五月二十四日入滅(正平は南帝の年 │

 号・九十五代後光巌院康安辛丑年に当)。三光国師入滅以後住持も或は尼杯 │

 住けるを、信直公代々臨済宗也、宗門寺中絶して中興の僧なし、依之奥州仙 │

 台領石巻松島の関山派瑞巌寺住僧実堂和尚の弟子石門名僧の聞得有に依て、 │

 信直公宗門破壊に及ぶ所を甚だ歎敷思召、文禄二癸巳年岩館右京義矩・宮永 │

 左月吉玄両使として招請すといへども及遅参、又々右京・左月両使として石 │

 巻瑞巌寺へ参着し、利害を解候故、不得止事同年三戸到着し、平良崎に住す、│

 万年山聖寿是なり、石門和尚は元和四戊午年二月六日遷化也、関山寺派と云 │

 事は水上の太祖を関山禅師と云、其派故関山派と云也、三光庵と云事は三光 │

 国師開祖故の号也、三光国師入滅の正平十六辛丑年より二百三十三年目、文 │

 禄二癸巳年石門和尚聖寿寺の住持となる、是を聖寿寺中興開山とす、是より │

 代々住職の僧相続す(現在聖寿寺は盛岡市北山にあり、三戸三光庵は寺号を │

 改め三光寺と号す)                          │

                                    │

○不来方之事                              │

 一書云、迂志方(こじかた)太郎同類居城と有、又云、不来方の城主福士五 │

 郎政長、明徳二辛未九月五日に卒と有(福士淡路が子未詳)、今の烏帽子石 │

 の所は日戸内膳館、今の淡路丸は福士淡路館也(福士淡路、信直公の背命事 │

 可有誅伐由略聞之、密秋田領へ落行けるが、数年の後被召返鵜飼村にて百五 │

 十石知行賜り、家名を鵜飼と改、八戸御分の時鵜飼宮司と云しを直房公の御 │

 家臣に被仰付被附遣、子孫八戸に有之)                 │

                                    │

追加                                  │

 福士五郎政長位牌、三ツ石の松峯山東顕寺に有之、墓所石牌        │

    左 明徳二辛未暦                        │

    前 源翁心公大禅定門                      │

    右 俗名福士五郎政長                      │

      九月初五日                         │

    後 不来方殿也と有                       │

   明徳は人皇百一代後小松院の年号也                 │

   南朝には元中八年辛未に当る                    │

                                    │

   不来方図あり 割愛                        │

                                    │

○古伝云、上方の諸将九戸帰陣の節、不来方にて信直公へ談じて云う、福岡は │

 伊達領へ遠く、和賀・稗貫境無心元候之間、古中野に居城可然とて、慶長六 │

 辛丑年九月十日浅野以下の諸将縄張要害し、太閤え言上普請有可然と評議也、│

 不来方の館主は日戸内膳・福士淡路(或は玉山と云)、米内蔵前は米内左近 │

 館の由                                │

  補注 太閤秀吉は慶長二年に死去、従って年号の誤りか或は慶長六年に徳 │

     川家康に利直再許可云々                    │

     との説(『たけたからくり』)もあり              │

○自光坊事                               │

 岩手郡は頼朝公より以来面々自領して南部へ不随有けるを一方井刑部・米内 │

 左近・栗谷川仁左衛門、信直公の御味方に参り、謀略を巡して日戸・玉山・ │

 下田・渋民・乙部・大釜を信直公へ参礼いたさせ、中にも一方井刑部娘は石 │

 川左衛門高信信直公の御母儀なり、信直公は天公の御室にて、天文十五丁午 │

 年一方井村に於て御誕生、依之一方井村の自光坊と云山伏(天台本山派聖護 │

 院支配)、信直公の御加持祈祷の師にて、此度に御家督有て弐百石被下、山 │

 伏頭に被仰付、外祖父一方井刑部が一心の働きにて岩手郡は南部の御手に入 │

 けりと古老の伝記なり                         │

   補注 「信直公の御味方に参り(中略)岩手郡は南部の御手に入けり」 │

     とあるが、物語は信直誕生以前の事であり、年代矛盾がある。   │

     信直公は晴政公の誤りか。                   │

                                    │

    家老                              │

                    剣吉左衞門尉愛正子       │

                       北 尾張信愛       │

                                    │

      工藤補注                          │

      『篤焉家訓』一之巻                     │

      信直公より以来御代々御家老被相勤候名面           │

                      法名松斎          │

      一、慶長十八丑年八月十七日歿   北 尾張信愛       │

      一、元和二年  月  歿     東 彦左衛門朝政     │

   補 『東家系図』                         │

     直義  中務丞 彦八郎 彦左衛門               │

         初直時、朝政 重康 中務丞嫡男 妻 南部晴政女    │

         元和元年九月五日歿 天岩意公大禅定門 葬 法光寺   │

                                    │

┌───────────────────────────────────┘

├利直 二十七代 初名彦九郎 利正      南部信濃守 ───────┐

│   母泉山出雲妹 寛永十七庚辰九月九日卒 法名慈照院殿鑑江紹明   │

│  文禄四乙未十二月十八日叙従五位下任信濃守、慶長二戊戌年自秀吉公雲 │

│  次太刀並粮料千斛賜之、同四己亥年自家康公賜肩衝茶入(世之曰 道阿 │

│  弥)、同五庚子九月石田治部少輔三成逆意故、上杉景勝外応依之景勝謀 │

│  近国諸将、此時最上出羽守義光任山形城然上杉以使者送黄金数千義光受 │

│  之、雖応一且家康公依為昵懇集近国諸将欲自米沢攻入、是故蒙家康公飛 │

│  命利直引率五千援兵発向出形、然処上方依起逆徒従諸国騒動、是故於旅 │

│  陣之跡和賀郡司蜂起岩崎監城之輩、以事飛報最上利直、謂干義光急帰馬、│

│  驀直(ただちに)押詰岩崎城外打囲四面、雖兵権臘天積雪難決戦故先退 │

│  陣、翌年春再出陣、此時伊達正宗家臣白石若狭・鈴木将監一揆輩雖合力 │

│  終不得勝利、四月五日岩崎落城、同十七壬子十二月二十日将軍秀忠公江 │

│  府桜田邸御成、時白銀五百枚、猩々皮一枚(横一間、竪八間)呉服五十、│

│  大純三十巻、御夜着五拝領、帷子権平出御礼、干時賜御腰物(新藤五国 │

│  光也)、献上物白銀吹金五十枚、鹿毛馬(五才三戸立也)、作之鞍(葛 │

│  籠切付三階紅之中総)又黒毛馬(三才唐織馬衣)此両疋也、御相伴浅野 │

│  弾正 少弼・本多佐渡守・古田織部正也、同十九甲寅年冬豊臣秀頼公籠 │

│  城摂州大坂干時大御所家康公御出馬、諸国奉命悉馳上、利直公参陣立旗 │

│  於茨木郷、元和九癸亥七月十三日秀忠公御上洛備供奉、寛永三丙寅年重 │

│  而御上洛供奉、天子行幸二条城、此節叙従四位下同九壬申八月十八日卒、│

│  干江府五十七歳、法号南宗院殿月渓清公、菩提処東禅寺住持大英宗筬導 │

│  師(東禅寺中興)、殉死岩館右京義矩、五十三 牌那覚岸定正     │

│                                   │

│ ○或書曰、内堀四郎兵衛は不有家臣、出入りの客人分なり、兼て医術杯好 │

│  ゆへ被召抱、始は五百石を賜、後為加増五百石、都合賜千石      │

│                                   │

│ ○雲次の太刀 雲生の太刀とあり                   │

│   補注 『御刀剣御鎗御鉄砲御判帳』 盛岡市中央公民館所蔵     │

│                        (南部家旧蔵文書)  │

│       太閤秀吉公より御拝領                  │

│       長さ弐尺四寸八分、中心七寸               │

│    一、雲生鞘巻御太刀   一腰                 │

│       直刃小足有、表裏大樋■連有、御鍛金着せ一重地鑢銅台桐御 │

│       紋散 御鍔三枚赤銅地七々子御柄金入切包御柄糸兼猿手有  │

│       御鞘金梨子地足緒啄木地七々子桐御紋散柏桐金太刀小尻惣金 │

│       物赤銅御太刀袋緞子                   │

│                                   │

│ ○古伝云、利直公は加賀利家公烏帽子親に御頼、依之御諱利の字并百本鑓 │

│  之内拾本猩々皮雨革等被相贈、家臣内堀四郎兵衛頼式・宮永左月吉玄両 │

│  人請取之                             │

│                                   │

│ ○天正十九辛卯正月三日新羅三郎義光公以御吉例、利直公初陣(干時十六 │

│  歳也)、桜庭安房が館に御門出有、明きの方なれば金田一え御馬被出、 │

│  館主大光寺以下屋え下城して金田一の城へ奉入御一宿有て翌四日三戸ぇ │

│  御帰城也                             │

│                                   │

│ ○古伝云、古伝云、九戸退治の後、蒲生氏郷帰陣之砌、利直公不来方迄見 │

│  送給ふ、此節二戸郡沼宮内領中山にて岩鷲山を氏郷尋給ふ、又不来方を │

│  利直公の居城に被成、尤、盛岡と改給ひ被仰談也、慶長二丁酉三月普請 │

│  始り、盛岡城御築有、三戸より御移、しかるに中津川度々洪水有之、其 │

│  外御差支の事共有て、寛永始頃に又三戸の御城え御引移、盛岡の城は為 │

│  御番手持小笠原美濃・野田内匠相勤也、九戸退治の後、信直公為御名代 │

│  御領内の悪党悉く令退治、先ツ糠部には椛村の領主小笠原氏、志和犬吼 │

│  森の領主志和孫三郎(孫三郎先祖は、清和天皇十六代後胤足利左京大夫 │

│  直時奥州の探題たり、其子左京大夫詮持、此子孫志和に居住す、其後数 │

│  代を経て嗣子無、越前倉谷の御所依為一家、是より詮基と云人下向、打 │

│  続て孫三郎迄七代也、斯て御所と称し来る事は将軍尊氏公の遠孫居住故、│

│  所の里民尊敬して斯は云けり、雫石の御所、袰綿の御所、志和の御所三 │

│  ヶ所共信直公の武に依て南部御領と成る故、世俗南部の壱斗五升と云) │

│  同郡長岡の館主氏家又太郎其外退治                 │

│                                   │

│ ○中津川三橋之事                          │

│  御先祖遠江守政行公禁裏より、依勅許三戸熊原川黄金橋擬宝珠を中津川 │

│  へ被移(黄金橋之擬宝珠鋳崩し多くの銅を足加為鋳給ふ)、擬宝珠銘曰、│

│  慶長十四己酉六月吉日源朝臣                    │

│  利直と有、橋渡は同年十月也、三ツ割村左京と云百姓、九十一歳、孫彦 │

│  数十人、大豆門の権現(獅子頭に似て狛犬の頭之伝)、橋渡御祝儀厳重 │

│  荘物等格式のごとく、上の橋は御城の追手、且他国よりの往還故如斯規 │

│  式有                               │

│      大奉行      七戸隼人                │

│      御普請奉行弓頭  野田弥右衛門              │

│      同 鉄炮頭    目時佐馬介               │

│      杖突御徒       数十人               │

│      大工棟梁      美松長門               │

│    中の橋 慶長十六辛亥八月渡り初                │

│      御普請奉行弓頭  田代治太夫               │

│      同 鉄炮頭    工藤権太夫               │

│      杖突御徒       数十人               │

│    下の橋 慶長十七壬子九月渡り初                │

│      奉行       波岡八左衛門              │

│               田代治太夫               │

│      杖突御徒       数十人               │

│  下の橋にも擬宝珠有之処に、寛永中利直公三戸へ御引移被遊盛岡城は御 │

│  番手持に被指置処に、其間中津川度々洪水、上中両橋斗早速に御普請前 │

│  之通下の橋は御城え可通の通路故、用心旁船也            │

│                                   │

│ ○御預人之事                            │

│  因州鳥取城主 五万石 父善祥坊 宮部兵部少輔長房         │

│   寛永十一甲戌十一月十八日病死、其子宮部兵蔵は南部にて出生、寛文 │

│   四甲辰正月二日病死、兵蔵子千勝、後図書大猷院様(将軍家光)御大 │

│   猷院様(将軍家光)御法事、寛文七丁未四月二十日於上野御修行、此 │

│   節直々南部の家臣可仕之旨有公命、此節宮部を改め多賀と号す    │

│  岸田伯耆守 一万石 元和元乙卯年十二月十日其子右近        │

│   寛文元辛丑五月病死                       │

│    註                              │

│    慶長五庚子年関ヶ原陣上方一味、翌六辛丑九月御預        │

│    ・岸田伯耆守 関ヶ原石田治部少輔依一味、改易         │

│       一説曰 伯耆守子右近、寛文三癸卯二月二十三日卒     │

│       法性院了清、葬法誓寺、此寺内に有柳は右近が墓処也    │

│    ・御預の寺院                         │

│       中台院  行寿院  萬寿院               │

│     松浦安太夫 病死    石川備前 帰参           │

│     大久保右京亮教澄  十一万三千百二十九石余         │

│   父相模守忠隣有故、慶長十九甲寅年配流江州彦根、此節三月十五日右 │

│     京教澄配流、武州河越、元和三丁巳年配所転而配流奥州南部、寛 │

│     永五戊辰年蒙赦免帰参なり                  │

│   右四人、本多佐渡守・西尾隠岐守・片桐市正・津田小平太連名之奉書、│

│   慶長六辛丑九月二十三日附にて南部え御預也            │

│                                   │

│  【参考】奉書写     『篤焉家訓』十之巻            │

│   為御意申入候 宮部兵部少輔 岸田伯耆守 石河備前守 松浦安太夫 │

│   右四人之事 其方え御預被成候条領内に可被差置候 御扶持方以下重 │

│   ねて得御意可申入候 恐惶謹言                  │

│     九月二十三日          西尾隠岐守吉次       │

│                     津田小平治親治       │

│                     片桐市正且光        │

│                     本田佐渡守正純       │

│      南部信濃守との                      │

│                                   │

│ ○鹿角金山之事                           │

│  慶長十三戊申年、領内於鹿角郡金山出来、自先年段々掘来候処、一両年 │

│  以来悉く金出来、同年四月右之趣達上聞、且運上金差上処、利直領内宜 │

│  上聞之趣神妙之旨依被下返之                    │

│   白根金山奉行北十左衛門愛正 直吉 一人也            │

│                   直吉は勤中之印形也       │

│ ○元和元乙卯五月七日大坂落城、落人之内南部十左衛門愛正擒而利直公へ │

│  生来を尋給ふ(愛正勢州於松坂にて日向半兵衛に生捕れ家康公へ差上け │

│  る)、利直公御答は、某が家従に北十左衛門と申者有りしに、先年小枝 │

│  越中失ひ乱心之様子に罷成、引込居申候が、其後出奔仕行方不知、以前 │

│  は家従に候得共、南部と可称謂れ無之由言上被成ければ、将軍家許容有、│

│  十左衞門を斬罪すべき由にて利直公へ被下誅戮す           │

│                                   │

│ ○南部十左衛門斬罪之節、今の仙北町寺の辺に指置、一日に一指宛切て於 │

│  大清水野田掃部実検相勤、或書曰、南部十左衛門大坂籠城、姫君供奉有 │

│  功、身帯可被下処、南部家にて大罪有之者にて利直公頂拝訴、被召出□ │

│  不叶金銀賜(ママ)或書云、南部久左衛門事左門為詮儀為御登、此時大 │

│  坂騒乱に付諸司人改有之、一夜も京大坂に逗留不叶、何某を為証人逗留 │

│  之内大坂に組て左門に和談、依此咎左門申請、京引渡火炙と成と云   │

│                                   │

│ ○虎之事                              │

│  大坂落城、依て将軍家康公(ママ)駿府御帰陣、此節利直公将軍家に拝 │

│  謁、干時虎の子を賜る、此虎は慶長十九甲寅年八月東甫塞(かんぼぢや)│

│  より二疋駿府へ献上す、其二疋を賜るなり              │

│                                   │

│ ○越後高田城之事                          │

│  慶長十九甲寅正月越後国高田城を新に築御取立被遊候に付御手伝被仰蒙 │

│  候大名、松平筑前守・米沢中納言・松平下野守・最上駿河守・松平陸奥 │

│  守・真田伊豆守・村上周防守・溝口伯耆守・仙石越前守・佐竹右京大夫・│

│  南部信濃守也、各越後へ詰る也、或は代官を遣之、利直公御名代として │

│  八戸左近直政、楢山五左衛門直隆并人夫百餘任を遣之、三月十五日より │

│  普請始て有之に、八戸左近病気にて高田之内尻崎と云所へ引込居しに、 │

│  終に病死す、楢山五左衛門壱人にて始終相勤、城御普請成就し将軍家よ │

│  り腰刀(義助)、時服十、五左衛門へ賜る也             │

│                                   │

│ ○慶長十七壬子十二月二十日将軍秀忠公桜田亭へ御成の時、将軍家へ拝謁 │

│  の老臣八戸三五郎直政(後号左近)、北九兵衛直継、桜庭兵助直綱也、 │

│  此時御紋内幕御免                         │

│                                   │

│ ○同年禁裏御普請御手伝被仰付、同年十二月十二日吉日にして御普請始り │

│  御用懸り、最上出羽守、榊原遠江守、里見安房守、奥平大膳大夫、松平 │

│  摂津守、佐竹左京大夫、米沢景勝、松平飛騨守、加藤肥後守、浅野左衛 │

│  門大夫、井伊兵部大輔、羽柴左近、羽柴越中守、南部信濃守等也、此外 │

│  築地の役、仙洞御普請方二十餘人、大方西国大名也          │

│                                   │

│ ○寛永三丙寅七月天子(人皇百九代後水尾院諱政仁)二条御城へ御幸、此 │

│  時利直公被補四品、家臣石井伊賀叙従五位下伊賀守、此説不知真偽   │

│                                   │

│ ○寛永六己巳年大槌孫八郎(閉伊郡大槌に居住す、八百石を領す、幕紋藤 │

│  巴)、奢りの餘り我威を振ひ、私に魚類海草の買船を為登御下知に背く、│

│  よって誅伐として宮永三右衛門久吉、足軽三十人其外数人召連発向し、 │

│  大槌表悉く退治す                         │

│                                   │

│ ○岡部藤治事江戸溢者大鳥居逸兵衛同類之由にて慶長十七壬子九月南部へ │

│  御預                               │

│                                   │

│ ○世称芳長老寛永年中御預り、万治元戊戌四月二十三日帰参       │

│                                   │

│ ○舟越三郎四郎御預、後帰参候由、栗山嘉伯御預の年号事績不知     │

│                                   │

│     家老                            │

│  北主馬秀愛早世依て隠居と雖も家老再勤               │

│                 北 松斉 信愛           │

│                 野田内匠 直盛           │

│                 桜庭安房 直継           │

│                 楢山五左衛門 直澄         │

│                 石亀七左衛門 直徳         │

│                 南 遠江 直義           │

│                 七戸隼人 直時           │

│                 石井伊賀 直弥           │

│                 毛馬内三左衛門直次         │

│   工藤補注                            │

│   『篤焉家訓』壱之巻                       │

│      信直公より以来御代々御家老被相勤候名面          │

│   二十七代信濃守利直公御治国三十四年 御法号南宗院殿、寛永甲年八 │

│   月十八日御卒去                         │

│               後に松斎と改              │

│   一、慶長五年より      北 左衛門信愛           │

│                   一書に左衛門佐         │

│    慶長十八年丑八月十七日歿、法号叟忠公大禅定門、花卷雄山寺に  │

│    葬る                             │

│   一、元和元年より      野田内匠直盛            │

│     承応元年辰歿                        │

│   一、一書に元和元年より   桜庭安房直綱            │

│     元和六申年没                        │

│   一、慶安二丑年歿      楢山五左衛門直隆          │

│                初彦七                │

│   一、慶安四年より      石亀七左衛門直徳          │

│   一、寛永三寅年没      南 遠江直義            │

│   一、            七戸隼人直時            │

│   一、慶安三年六月五日   石井伊賀直彌  なおみち       │

│   末期書あり、此節病死                      │

│   一、承応元年歿 同三年共 毛馬内三左衛門直次          │

│   右何れも御一字拝領                       │

│                                   │

├女子 八戸弾正直家妻                         │

└女子 秋田忠次郎季隆室 羽州比内城主城之助弟也            │

┌───────────────────────────────────┘

├経直

├重直  二十八代

├政直 南部彦九郎

├女子    毛馬内権之助則氏妻

├女子 伊登 北 左衛門佐直慶妻

├女子    東 彦七郎妻 依彦七郎早世後嫁毛馬内左京妻

├女子 七姫 出羽国山形城主最上源五郎室 

│    婚約中源五郎没落故、嫁中野吉兵衛元康

├利康 南部彦八郎

├重信  二十九代 

├利長 山田主水 

└直房 南部左衛門佐  八戸藩初代




出典

https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/komonjo/komonjo_view.cgi?mode=details&code_no=114

2021年3月17日水曜日

大伴金村

 榎本という苗字は古くからあり、弘仁6年(815)に編纂された『新撰姓氏録』にも記載される古代姓氏である。「榎本」という字も、過去には江本・榎下・榎元・朴本と表記されることもあった。いずれも読み方は「えのもと」であり、これらの苗字も元は同じ氏族だったと考えられる。

 多くの苗字が地名由来であるのと同様、榎本に関しても山城国乙訓郡榎本郷・武蔵国都筑郡榎下邑・下野国都賀郡榎本邑といった地名が各地に存在する。

 したがって榎本姓にはいくつかの流れがある。大伴朴本連、榎本連(『姓氏録』によれば左京神別。紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模にわかれる。田井-紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本-江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か。土佐陸奥にわかれる。室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬-牟婁郡有馬に起る。産田神社祠官)、丸子連(石垣-紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕-熊野人、下総国香取郡にわかれる)などである。

 榎本連は大伴大連の系統で山背国乙訓郡榎本郷より出て、大和国の金剛山の麓(現・御所市)、紀伊国・熊野国・尾鷲にまで広がる大豪族だったといわれる。

 『新撰姓氏録』には大伴連・榎本連の祖としておおとものむらじさでひこ大伴連狭手彦(生没年不詳)がみえる。大伴連狭手彦はみちおみのみこと道臣命の孫にあたる大伴かなむら金村の子である。大伴佐弖彦・大伴佐弖比古命・狭手彦命などと表記がされることもある。大伴金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇の5代に仕えた大連で、継体天皇の即位を実現させた忠臣として知られる。

 『日本書紀』によると宣化2年(537)10月1日に新羅のみまな任那(朝鮮半島南部地域)侵略をうけて大伴金村の子磐と狭手彦に任那救助の勅命が下された。磐は三韓防衛(百済・新羅・高句麗)のため筑紫にとどまり、狭手彦が任那を鎮め、百済を救済した。欽明23年(562)8月には大将軍として数万人の軍を率いて高句麗を討ち、多くの宝物を天皇に献上した。刺田比古神社(和歌山県和歌山市片岡町2-9)の言い伝えによると、これらの武功により岡の里を賜ったとされる。

 『肥前風土記』や『万葉集』には狭手彦の悲恋が伝えられている。狭手彦は高句麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚する。高句麗出兵のための別れに際し、狭手彦は餞別として鏡を贈った。しかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦の船に向かって手を振りつづけた。このときに餞別の鏡が落ちたという。このことから、岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったという。

 この悲恋は人々の琴線に触れ、『万葉集』巻五に以下の和歌が伝えられている。


   遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名

   山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ

   萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣

   海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣

   行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣


 狭手彦の曾祖父道臣命は大伴氏の祖先神で、「伴氏系図」によれば天忍日命の曾孫である。元の名はひのおみのみこと日臣命となっていて、「太陽の臣下」の意とされる。紀州名草郡片岡邑(和歌山県和歌山市片岡町)の人である。神武天皇の御代に朝廷の軍事を司り、神武天皇の東征の際に武功をあげた。最初に神事を執り行ったことでも知られる。その様子は『古事記』『日本書紀』に詳しく記されている。

http://asagiri8210.blog61.fc2.com/blog-entry-71.html


『古事記』では、皇軍が宇陀(現在の奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)の地に至ったとき、その地の兄宇迦斯・弟宇迦斯が抵抗して天皇の使いである八咫烏を矢で追い返した。さらに兄宇迦斯は天皇に従うふりをして御殿を造り、踏むと圧死するばね(押機という罠)を仕掛け皇軍をだまし討ちにしようとした。しかし弟宇迦斯が策略を告白したので、道臣命と天津久米命(久米氏の祖)は兄宇迦斯に「おまえが作った屋敷にはおまえ自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い詰めた。兄宇迦斯は自らの仕掛けにかかり押しつぶされて死んでしまう。道臣は死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれるようになった。

 『日本書紀』によると、神武即位前戊午年(紀元前663)6月の神武天皇東征のとき、日臣命は大来目部を率いて熊野山中を踏みわけ、兵車で道を開いて皇軍を宇陀まで進めた。この功により道臣の名を賜わった。同年8月、天皇の命をうけ、反逆を企む宇陀の首長兄滑を追いこみ、自滅させた。

 『古事記』では大伴氏と久米氏は同等に記されているが、『日本書紀』では大伴氏が久米氏を率いたことになっている。時代が経つにつれ両氏の勢力が変化したことを示しているのだろう。のちに大伴氏は久米氏とともに軍事を司るが、久米氏は没落とともに久米部として大伴氏に率いられるようになる。

 同年9月、東征軍は宇陀の高倉山に至るが、国見丘の八十梟帥によって男坂・女坂などの要害を抑えられていた。神武天皇は祈誓の夢に天神のお告げを受け、天香山の土で祭具を作り、丹生の川上で天神地祇を祭り、戦勝祈願した。神武天皇が高産皇霊神の神霊の憑人を務めた際に、道臣命は斎主(潔斎して神を祭る役)を務め厳媛と名づけられた。道臣命は男性だが女性の名をつけられたのは、神を祀るのは女性の役目だったことの名残とみられる。

 同年10月、道臣命は大来目らを率い、国見丘の八十梟師の残党を討伐する。忍坂の邑に大室をつくり、精鋭を率いて残党と酒宴を開いた。宴もたけなわになったころ道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。

 神武元年(紀元前660)、神武天皇が即位後に初めて政務を行う日に道臣命は大来目部を率い、諷歌倒語を以て妖気を払った。諷歌とは他のことになぞらえて諭す歌、倒語は相手にわからないように味方にだけ通じるように話す言葉である。神武2年(紀元前659)から築坂邑(現・橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わったという。

 現在では、初期の天皇が非常に長命であること、紀年が古すぎること、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似していることなどの理由で神武天皇の存在は否定的で、これらは神話とするのが考古学における一般的な理解である。神武東征についても邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルという説もある。したがって道臣命の実在も疑われるところだが、このような伝承が残っているという事実は認識しておいていいだろう。

 ただ、大伴連狭手彦と榎本氏との詳細な関係はわかっていない。


http://asagiri8210.blog61.fc2.com/blog-entry-72.html


石川県の家紋

 家紋分布の特色

石川県の家紋は、わが国の家紋分布上、きわめて特色のある県である。木爪紋と蔦紋がきわめて多く、その両紋を合わせるとその使用比率は実に40%に達する。このことはわが国の家紋分布上、きわめて異例のことである。

このことは富山県にもいえるが、蔦紋はずっと少なくなる。木爪紋が北陸地方に多い理由については次のような諸説がある。



(1)越前国の豪族朝倉氏の影響

朝倉氏は日下部氏族の名族で、但馬国から越前国に移り、勢力を拡大した。日下部氏族の代表家紋は木爪紋であり、朝倉氏は三つ木爪紋が定紋であり、越前国に分布し、さらに北陸地方に広まった。



(2)伴氏の影響

万葉歌人とし知られる大伴家持が天平18年(746)、越中国赴任している。大伴氏は淳和天皇の時(823)、伴氏と改姓した。この伴氏の家紋が木爪紋であったことによる。



(3)一向宗門徒の影響

南北朝以降、越前、加賀、越中の諸国は一向宗の門徒の勢力が強大であった。現在もその門徒の子孫も多く、これらの家は多くが木爪紋を用いている。


また他県に比して少ない家紋がある。それは梅鉢紋、藤紋、鷹の羽紋、である。梅鉢紋は加賀藩主前田家の定紋であるので一般の人が使用を遠慮したものと思われる。



http://www.nihonkamon.com/ishikawa/bunpu.html


木瓜紋

 伴氏は古代豪族大伴氏の後裔にあたる伴善男の子孫だといい、甲賀の伴氏は三河国から移住してきたと伝えている。その真偽はともかくとして、伴氏、大原氏をはじめ上野、岩根、宮島氏ら一族はこぞって「木瓜」を家紋としていた。さらに、伴氏から分かれたという山岡氏・滝川氏らも木瓜紋を用いた。加えて、伴氏の本家にあたる三河の富永氏も「木瓜に二つ引両」を用いていたことは、室町幕府の史料などから知られるところだ。木瓜紋が伴氏に共通した家紋であったことが分かる。


http://www.harimaya.com/o_kamon1/view/view_17.html

伴荘右衛門資芳

 近江商人伴家 主流 伴荘右衛門資芳


https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/40/0/40_41/_pdf


大伴氏

 大伴氏(おおともうじ)、のちに伴氏(ともうじ、ばんし)は、日本の氏族のひとつ。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。


摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で[1]、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。


「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む[2]。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている[3]。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。


古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらしく[4]、大伴金村の「住吉の宅」があったほか[5]、『万葉集』でも「大伴の御津の浜」[6]「大伴の高師の浜」[7]と詠われている。住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府高石市一帯のことである。


一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や[8]、大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される[4]。 また、大伴氏の祖先神大伴武日の古墳が、和歌山県和歌山市の和歌山城(元は金村息子の大伴狭手彦の子孫が所持していた岡城)近くにあり、岡邑を領有していたことからも、和歌山県にもその根拠地がある。実際、和歌山県には大伴氏の系譜を引く一族が数多く残っている。


5世紀後半に現れた大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり[9]、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。


武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた[10]。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し[11]、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。


しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大伴磐・大伴咋・大伴狭手彦は大将軍や大夫(議政官)に任ぜられ、大化の改新の後の大化5年(649年)には大伴長徳が右大臣になっている。また、弘文天皇元年(672年)に発生した壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田・吹負兄弟が兵を率いて功績を立てている。以後も奈良時代までの朝廷において、大納言まで昇った大伴御行・大伴安麻呂・大伴旅人以下、多数の公卿を輩出した。


一方で、大伴安麻呂・大伴旅人・大伴家持・大伴坂上郎女などの万葉歌人も多く世に出している。ほかに、遣唐副使を務めた大伴古麻呂は独断で鑑真を唐から密航させて日本へ導いている


大伴氏は奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わって一族から多数の処罰者を出し、徐々に勢力が衰えていく。


神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、長屋王と親しかった大伴旅人が事件前後に一時的に大宰府に左遷される。その後、奈良時代中期の藤原仲麻呂政権下において、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の乱で、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処される。また、大伴家持は別途藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、天平宝字8年(764年)薩摩守に左遷されている。


その後、家持は天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に連座して解官の憂き目に遭いつつも、最終的に桓武朝初頭に中納言にまで昇った。延暦3年(784年)桓武天皇は長岡京への遷都を実行する。大伴氏はこの政策に不満を持っていたとされ、遷都の責任者であった中納言・藤原種継を暗殺する事件(藤原種継暗殺事件)を起こす。乱後、大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑、直前に没していた家持も除名された。


なお平安時代初期には、初代・征夷大将軍となって蝦夷征討で功績を挙げ従三位に昇った大伴弟麻呂や、藤原種継暗殺事件の首謀者・大伴継人の子として若くして流罪となるも、恩赦後に内外の諸官で業績を上げて参議に任ぜられた大伴国道と公卿を輩出している。また、弘仁14年(823年)淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。


承和9年(842年)に発生した承和の変では伴健岑が首謀者として流罪となり、藤原氏による他氏排斥で伴氏も打撃を受けたとされるが、実際に五位以上の氏人で連座した者はいなかった。


その後、国道の子・伴善男が仁明天皇の知遇を受けて頭角を現し、清和朝の貞観6年(864年)には旅人以来130年振りに大納言に昇る。しかし、貞観8年(866年)に発生した応天門の変では善男・中庸父子が首謀者とされてその親族が多数流罪となり、伴氏の公卿の流れは断絶してしまった。


天慶2年(939年)に伴保平が6ヶ国の国司を勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振りに公卿となる。保平は高齢を保ち天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の台頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく。


その後は以下の家が伴氏の後裔を称した。


鶴岡社職家・・・伴忠国が鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承。伴中庸の後裔を称したが[12]、伴保平の弟である保在の後裔とする系図もある[13]。

肝付氏・・・大隅国の豪族。戦国時代には肝付兼続が戦国大名として島津氏と争うが、子孫は島津氏に臣従し薩摩藩士となった。出自は明らかでないが、伴姓を称し、伴中庸に繋げる系図がある[14]。

三河伴氏・・・三河国の豪族。平安時代後期に伴助兼が後三年の役で活躍した。伴善男[15]・大伴駿河麻呂[16]・大伴家持[17]らに繋げる系図がある。

甲賀伴党・・・近江国の豪族。のち滝川氏を称し、戦国時代に滝川一益を出している。三河伴氏の一族[18]。

伊豆伴氏・・・平安時代後期に伊豆掾を歴任[19]。伊豆権守(掾か?)・伴為房の娘は北条時政の母とされる[20]。伴善男が伊豆国への配流後に儲けたとされる伴善魚に繋げる系図がある[19]。

小野家・・・朝廷で主殿寮官人を務めた地下家。江戸時代の極官は従四位上・主殿助。伴保平の後裔を称した。[21]

尾崎家・・・桂宮家の諸大夫を務めた地下家。江戸時代の極官は正四位下・縫殿頭。江戸時代後期に尾崎積興は81歳の長命を保ち従三位に叙せられた。また、尾崎三良は明治維新の勲功により男爵に叙爵されている。伴善男の後裔を称した[21]。

市部氏・・・甲斐伴氏とも呼ばれ、甲斐国にその一族である宮原哲家の系統。支族に金丸氏がある。


伴 善男

 伴 善男(とも の よしお)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。

弘仁2年(811年)伴国道の五男として誕生。生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説[1]、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説[2]がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。

天長7年(830年)に校書殿の官人に補せられ仁明天皇に近侍すると、その知遇を受け次第に重用されるようになる。承和8年(841年)大内記、承和9年(842年)蔵人兼式部大丞を経て、承和10年(843年)従五位下・右少弁兼讃岐権守に叙任された。

承和13年(846年)の善愷訴訟事件では、当時の事務慣例に沿って行った訴訟の取り扱いが律令に反するとして、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を弾劾し失脚させる[3]。また、かつて大伴家持が所有し藤原種継暗殺事件の関与によって没収され、大学寮勧学田に編入されていた加賀国の100町余りの水田について、既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し、強引に返還させたという[4]。


その後は急速に昇進し、承和14年(847年)従五位上・蔵人頭兼右中弁、翌嘉祥元年(848年)には従四位下・参議兼右大弁に叙任され公卿に列す。仁明朝では議政官として右衛門督・検非違使別当・式部大輔を兼ねた。また、同年には 山崎橋の修復のために派遣された安倍安仁・源弘に同行している[5]。


嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い従四位上に昇叙すると、仁寿3年(853年)正四位下、斉衡元年(855年)従三位と引き続き順調に昇進を続けた。またこの間、皇太后宮大夫・中宮大夫を兼帯する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっている[6]。


清和朝に入っても貞観元年(859年)正三位、貞観2年(860年)中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に至る。大納言への任官は天平2年(730年)の大伴旅人以来約130年ぶりのことであった。


しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣・源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣・藤原良房の清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子・中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪[7][8]、死罪とされたが、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。


貞観10年(868年)配所の伊豆で死去した。


生まれつき爽俊(人品が優れている)な一方で、狡猾であり黠児(わるがしこい男)と呼ばれた。また、傲岸で人と打ち解けなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯は矮小であった[9]。


注記のないものは『六国史』による。


時期不詳:正六位上

天長7年(830年) 日付不詳:校書殿官人[10]

承和8年(841年) 2月:大内記[11]

承和9年(842年) 正月:蔵人[11]。8月11日:式部大丞[11]

承和10年(843年) 正月23日:従五位下。2月10日讃岐権介。11月28日:右少弁[11]

承和14年(847年) 正月7日:従五位上。正月10日:蔵人頭[11]。正月12日:右中弁

承和15年(848年) 正月7日:従四位下(越階)。2月2日:参議。2月3日:班河内和泉田使長官。2月14日:兼右大弁

嘉祥2年(849年) 正月:兼下野守[11]。2月27日:兼右衛門督。6月14日:検非違使別当[11]。9月26日:兼式部大輔、止右大弁[11]

嘉祥3年(850年) 3月22日:装束司(仁明天皇崩御)。4月17日:従四位上。4月:兼皇太后宮大夫[11](皇太夫人・藤原順子)

嘉祥4年(851年) 正月11日:兼美作守

仁寿2年(853年) 5月:停検非違使別当[11]。9月兼式部大輔[11]

仁寿3年(853年) 正月7日:正四位下。4月:兼中宮大夫(中宮・藤原明子)

斉衡1年(854年) 正月16日:兼讃岐守、中宮大夫式部大輔如故。

斉衡2年(855年) 正月7日:従三位

天安2年(858年) 8月27日:装束司(文徳天皇崩御)。11月:皇太后宮大夫[11](皇太夫人・藤原明子)

天安3年(859年) 正月13日:兼伊予権守。4月18日:正三位。12月21日:兼民部卿

貞観2年(860年) 正月16日:中納言

貞観6年(864年) 正月16日:大納言、皇太后宮大夫民部卿如元

貞観8年(866年) 9月22日:遠流(伊豆国)