2015年7月11日土曜日

三つ引両


盛時の系は鎌倉幕府の滅亡、南北朝の内乱期をよく生き抜き、戦国時代に出た三浦義同(導寸)・義意父子は三浦半島の新井城・岡崎城を拠点として領国の拡大を図った。同じころ、小田原城を奪った北条早雲の勢力が相模を蚕食、三浦氏は北条氏と対立、相模を舞台に戦いを繰り返した。しかし、三浦氏は次第に劣勢に追い込まれ、永正十三年(1516)、新井城は陥落して滅亡した。そのとき、義同の子という時綱が安房に逃れて里見氏に仕えた。時綱は正木を名乗って里見氏の有力武将となり、乱世を生き抜いた。 子孫は紀伊徳川家に仕えて家老となり、江戸時代に三浦に復して幕末まで続いた。 
軍旗 三浦氏の嫡流は、鎌倉時代の宝治合戦で滅亡したが、三浦一族は全国に根を下していた。 
 美作の戦国大名であった三浦氏は、三浦氏の名跡を継いだ三浦介盛時の弟にあたる横須賀時連の流れで、時連の子に杉本下野守宗明の次男貞宗が美作高田に下向、高田城を築き勢力を蓄えていったものという。戦国末期の貞勝・貞広兄弟は毛利氏と戦いを繰り返し、貞勝は戦死、貞広は毛利の軍門に降った。 貞勝の室は宇喜多直家の庇護を受けたが、のちに愛妾となり宇喜多秀家を生んでいる。 
 奥州会津に拠った葦名氏も三浦氏の流れで、三浦介盛時の子光盛が葦名を名乗ったことに始まる。光盛のあとは婿となった甥の泰盛が継ぎ、会津を拠点として次第に勢力を拡大、戦国時代の葦名盛氏は南奥州を支配下におく戦国大名となり、幕府から伊達晴宗と並ぶ奥州の大名と認められる存在となった。 葦名氏からは猪苗代氏・北田氏・藤倉氏・加納氏・新宮氏らが分かれ出て、会津の中世史に足跡を残している。 
 戦国時代、中国地方から北九州までを支配下においた大内氏に属し、有力武将であった周防の三浦氏は三浦平大夫為通の子久良三郎次長の後裔という。しかし、「武蔵七党系図」などから、横山時広の子平子野内広長の後裔とするのが正しいようだ。周防の三浦氏は源頼朝の旗揚げに参加して活躍、 周防国吉敷郡内仁保・深野・長野・吉田・恒富の地を賜って下向し仁保を称したが江戸時代のはじめに三浦を名乗ったものである。 
 江戸時代、美作高田二万三千石の大名であった三浦氏は、三浦義澄の後裔を称しているが系譜的には疑問が残る ものである。家伝によれば三河から出た三浦正重は土井利勝の妹を娶って正次をもうけた。正次は将軍家光に仕えて 活躍、下総矢作に知行を与えられ、ついで下野壬生二万五千石に加増され大名となった。以後、子孫は日向・三河を 経て美作高田に落ち着いた。美作高田は戦国時代にも三浦氏が治めていたところで、よほど三浦氏と縁があったようだ。 
 このように三浦氏の一族は全国に広まったが、その共通の家紋となっていたのが「三つ引両」であった。これは三浦氏の幕が黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられていたことと、三浦の名字にかけて「三つ引両」を用いるようになったのだという。三浦氏嫡流はもちろんのこと、美作の三浦氏、安房の正木氏、会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、肥前の深堀氏、 織田信長に仕えた佐久間一族も三浦氏の分かれで「三つ引両」を用いたことが知られる。 
 いま、三浦を名乗り三つ引両の家紋を用いられている場合、まず相模三浦氏と関わりがあるものと思われる。また、 三浦ではないが三つ引両の家紋を用いているという家も、おそらく三浦氏となんらかのゆかりがあるもと推測される。 

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/miura.html

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