2015年12月28日月曜日

上越市史別編1


島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
 史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分かります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六日の両日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
 また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
 景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があります。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際のものとされていましたが、『上越市史別編1』では弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八月四日現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ねていないので、弘治三年説に従いたいと思います。


http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html

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