2016年11月16日水曜日
~ 大熊新城の築城 ~
この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。
「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、
「文明十八年丙午御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、
下位殿当郡大熊荒城取立候、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」
とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。
上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の
諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。
しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官
守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。
その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、
上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い
下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、
下社も焼かれてしまった。
城跡のある尾根の南側を流れる権現沢川沿いから登った今回の登城路
文明16年になると諏訪継満は伊那の軍勢(松尾小笠原・知久・笠原氏など)を率いて杖突峠を越えて諏訪へ攻め
込み磯並・前山に陣を張った。翌日には片山古城(武居城)を整備し直し立て籠もった。
これに対し総領家側は干沢城へ籠っているところ、府中小笠原氏が筑摩・安曇郡の軍勢を引き連れ援軍として、
片山の向城(大熊城か?)へ入り伊那勢を挟みこむ布陣を敷いた。
この戦いの結果については伝わっていないが、ふりを悟った継満は伊那へと引き上げていったものと見られている
登っていくとすぐに踏み跡はあるものの笹藪となり苦労をするが構わず登る。
その後、文明18年に荒城の築城となるのだが、「諏訪市史」では、
「(前略)、伊那の旧大祝側と諏訪の総領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加
となったのであろうが、これは伊那へ追放された旧大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう」
とあり、「山城探訪」では、下諏訪ではすでに新しい大祝が立っていて存在感が薄れていく継満は、諏訪への往還
への意志表示とここへ城を築き籠ることによって誰かが取りなしをしてくれることを期待しての築城であったので
はないかとしている。
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