2016年11月16日水曜日



甲斐・越後VS信濃と長沼城 

  江戸時代以前、わが信州・信濃の国は大きな”国”であるのにかかわらず、戦国
大名の雄を輩出するとがかなわなかった。山を隔てて盆地が分散するという地形的
な要素もあるが、小笠原にしても村上にしても、群雄割拠して、一族間の争いなど
に明け暮れたりしていて、国を統一する技量の将が出てこなかった。そのため草刈
り場のごとく、甲斐の武田、越後の上杉などに名を成さしめただけというのはくや
しい感じもする。

 もっとも村上義清は、小笠原長時などよりははるかに大物で、二度までも武田軍
を打ち破り、信玄自身にも大傷を負わせ、相手の武田軍にもかなりのショックを与
えた...。そして村上軍の勝利は、信濃の各領主たちを奮い立たせたといわれる。
しかし謀略・調略を含めた総合力では、とうてい信玄の敵ではなく、ジワジワと真
綿で首をしめられるようにやられていったようだ。そしてついには、上杉をたよっ
て越後に亡命してしまう。

 もう少し村上義清がリーダシップを発揮し、信濃の諸将をがっちりかためてから信
玄に敵対し、もうひとあわもふたあわも食わせていたら...。川中島合戦では、武
田と上杉は一応引き分けたということになっているが、その前も後も信濃の状況は、
もう事実上武田の支配下になってしまっていたことのようである。

 ところで、カルチャーセンターの歴史講座などを聴いたが、講師の先生の話しで
は、教科書などには書いてないが、戦国時代の戦さは、すざまじかったようである。
略奪暴行・放火、女子供などごっそり連れていかれて売られたりもしたようだ。最近
の研究では、どうも農民達が逃げ込む城というのもあったらしいことがわかってきた
という。戦さは武士同士のものなどとかまえていられない。身をどっかへ隠さなけれ
ばなにをされるかわからない。
 
 さて本題の長沼城だが、長野市、私の実家のある隣の集落に千曲川に沿って長沼と
いう地積がある。近くに赤沼という集落もあり、文字どおり昔から湿地帯だったのだ
ろう。ここに、今のことばでいえばリストラされた西暦1700年近くまで長沼城と、
小さいながらその城下町があった。地名や突き当たりの多い道路になごり を残こして
いるが、今は一面のりんご畑とその間に散在する農家のみで、城郭の跡らしきものは
なにも残っていない。ただ、地元に当時からあるという妙笑寺に大手門の開き戸が残
されている。

 この長沼城を最初作ったのは島津氏の一族で、もちろん最初は、土累をめぐらした
程度のものだったろう。島津氏は、長沼を含む太田の庄(荘園)の地頭職として南北
朝期土着したらしい。

 この城に堀をめぐらし北信濃攻略の要害としたのは武田氏で、伝来の島津氏は武田
支配の間は他へ追われ、上杉支配になってまた立ち戻ったりしたが、この島津氏も結
局のところ秀吉の移封命令により、上杉氏に従い会津に行くはめになった。

 残された昔の絵図面をもとに、こうだっただろうと描かれた城の図を見たことがあ
るが、栗田城なんかよりはずっと大きく立派な城。でも今は城があったとされる場所
は千曲川の堤防沿い、やや円墓状に土が盛り上がり、ブナかなにかの落葉樹の大木が
3,4本立っている下に、五輪の塔と庚申塔が一つづつたっているだけである。
                     UNCLE TELL

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