2020年2月16日日曜日

大熊新城の築城



この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。

「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、

「文明十八年丙午御射山明年御頭足


一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)

一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、

下位殿当郡大熊荒城取立候
、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」


とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。

~ 築城の経緯 ~

上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。

しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。

その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、下社も焼かれてしまった。


大熊新城の遠望

大熊新城は、いかがだったでしょうかこの城の廃城時期については、資料は存在しないものの、「諏訪市史」には、天文12年(1543)頃、武田氏により諏訪全域の支配がかたまり、高遠氏の諏訪支配の望みが断たれた頃、これに伴って高遠側の出城であった大熊新城も廃城になったのではなかとしている。

これほど詳しく城の歴史が分かるものも珍しいので大切に整備して欲しいものですね。
(現地に、標柱・説明板など城跡を示すものは設置されていないので。。。。。)



~参考資料~
山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)
諏訪市史        (諏訪市史編纂委員会  昭和51年)    


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