2020年2月16日日曜日

長沼城


長沼城は千曲川左岸の自然堤防上に発達した集落、長沼にある平城である。文献上では至徳4(1387)年に島津太郎国忠が「長沼太郎」として記されているのが長沼の初見である。以降の室町時代には、島津常忠-信忠-清忠が長沼郷の領有者として史料に見え、隣郷の赤沼にも島津忠国-朝国らの存在が確認されている。
これまで長沼城の築城は『甲陽軍鑑』などを根拠に永禄11(1568)年、武田方の馬場信房によるものとされてきた。しかし同年7月の「上杉輝虎書状」には「長沼再興之由」とあり、それがあくまで再建工事であったことがわかる。ところで同6年8月15日の島津尾張守に宛てた「武田信玄書状」によればむしろこれこそ長沼への集住=城下町の建設を示しているものと思われる。
この時期、武田信玄の信濃攻略は川中島八幡原の激戦以後、飯山城から野尻城へと進み、信越国境付近に進出しつつあった。永禄6年4月4日には信玄は「国中之人夫」を動員し、飯縄山山麓に軍用の道路を建設するという大規模な普請を完成していた。まさに、長沼城下の建設は武田氏のこのような大規模な普請の延長線上に行われたものと思われる。しかも室町時代以来、在地に根を張っていた島津氏一門の関係者を媒介としていることは、この永禄6年の武田氏による長沼城下の建設がそれ以前の島津氏によって構築された城を利用したものであったことを示していると思われる。
こうして長沼城は埴科郡松代の海津城と共に天正10年3月まで武田氏による川中島四郡支配の一方の拠点となった。
(日本城郭体系より)
川中島合戦の舞台ともなった長沼城
長沼城は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。弘治3(1557)年、甲斐の武田信玄が信濃攻めのおり、長沼の島津氏が撤退した後、築造した平城である。この城は川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって幾度も改造が行われ、16世紀後半には激しい戦いの舞台となっている。
武田氏滅亡後は、織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣・松平忠輝等の領地へと移り変わった。
長沼藩として独立したのは元和2(1616)年、初代藩主佐久間勝之からである。元禄元(1688)年四代目勝親の時代、故あって改易廃藩となり廃城となった。このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流失している。
(看板資料より)
この図は江戸中期、廃城となる前(1680年頃)の長沼城を数枚の古城図や剣地帳、地籍図を元に現地調査を行い、想定し作成した図である。城域は南北約650m、東西約500mにおよび、約34ヘクタールの面積となる。北端は?笑寺の南、南端は貞心寺の南まで、西端は家並みを通る県道より130mほど西、東端は堤防より約150m東である。
本丸は現在地から堤防沿いを北へ約150mほどの位置となる。天守はなかったと云われている。現在遺構として天王宮の土丘、北の三日月堀、西の三日月堀の一部が見られるのみである。
(看板資料より)

長沼城址
戦国期から江戸初期にかけての平城である。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点であった。元は太田荘地頭の島津氏の居所であったが、戦国初期は長尾(上杉)方に属し、その後武田氏方により改めて築城されている(1566)。
天正6(1578)年、武田勝頼が入城。武田氏滅亡(1582)後は織田信長の将森長可、上杉景勝、旧主島津忠直と変わる。
元和元(1615)年佐久間勝元が長沼藩1万8千石で入った。元禄元(1688)年4代目佐久間氏のときに徐封されて、幕府領となり廃城した。現在地は天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北200mのところにあった。
(看板資料より)

今回の史跡探索の主要な目的地のひとつであったのがこの長沼城でした。長沼城の場所と思われる付近を目的地にして現地に向いましたがなかなか場所が分からず軽トラのおじちゃんに場所を聞きました。それによると千曲川の土手沿いの道を北上していくと左側にたくさん木があるのですぐに分かるとのことでした。土手の道に出て北上していきましたがなかなか見つけることができませんでした。あきらめかけていた時にこれで最後にしようと思いながら土手から下って木の下にある塔や大きな石があるところに行ってみたらなんと長沼城跡と書かれた石を発見しました。なんとか長沼城跡を見つけることができました。
城跡の割にはその形跡を感じることができませんでした。看板の説明資料には「本丸はここから北に200メートルのところにあった」と書かれていたのでここが長沼城ではなかったのかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿