では、建御名方命(を祀る集団)はどのようなルートを経て諏訪にたどりついたのでしょうか。
一般的には、出雲から北陸沿岸を通り、現在の新潟県糸魚川市付近から姫川をさかのぼり、松本を抜けて諏訪に入ったとする説が有力視されています (※注1) 。
しかしその一方で、大鹿村には次のような伝説が語られています。
昔、建御名方神は戦に敗れて神稲村の佐原(現下伊那郡豊丘村)に逃げ、その後今の鹿塩(現大鹿村)に隠れて葦原に住居を定め、毎日山へ狩に出た。 ある日、命は谷間に塩水が湧き出るのを見つけ、獲物の鹿をこの塩水で調理して暫くここに暮らしていた。鹿塩の名はそれから始まった名で、その当時の葦原を今では梨原と呼んでいる。
(岩崎清美『伝説の下伊那』から要約)
天竜川を遡って諏訪に?
大鹿村の葦原神社は建御名方命が住んだ場所とされ、命はその後諏訪湖に移ったのだと伝えられています。また豊丘村佐原には、建御名方命が「これより外には出ない」と誓い、その証に手形を残したという「御手形石」が残っています。
こうした伝説は、先の姫川遡上説と全く矛盾するようですが、実は歴史学者の中にも、建御名方命は天竜川を遡って諏訪に入ったと考える人たちが少なくないのです。
その根拠の一つに、『伊勢国風土記』逸文に記されたこんな神話があります。
出雲と関わりが深く、大和政権(天孫族)に反抗して信濃に逃れた神。ここまでくれば、どうしても建御名方命を思い出さずにいられません。
こうした伝説は、先の姫川遡上説と全く矛盾するようですが、実は歴史学者の中にも、建御名方命は天竜川を遡って諏訪に入ったと考える人たちが少なくないのです。
その根拠の一つに、『伊勢国風土記』逸文に記されたこんな神話があります。
神武天皇は東征で熊野を越えたとき、部下の天日別命(アマツヒワケノミコト)に、伊勢の国を平定せよと命じた。天日別命は東に進んで伊勢に入り、そこに土着していた伊勢津彦に屈服を迫った。同風土記逸文によれば、伊勢津彦命はまたの名を出雲健子命(イヅモタケルノミコノミコト)ともいいます (※注2) 。
はじめは抵抗した伊勢津彦も、殺されそうになってついに観念し、 「私の国を全て天孫に差し上げ、私はここを出て行きます」 と言った。
天日別が 「お前が出て行ったかどうか、どうすればわかる」 と尋ねると、伊勢津彦は、 「私は今夜大風を起こし、波に乗って東方へ向かいます。それで証拠といたしましょう」 と言った。
その夜、天日別が見張っていたところ、はたして大風が起こり波しぶきが打ち上げられて太陽のように輝き、海も陸も昼間のように明るくなった。
こうして逃れた伊勢津彦は、信濃の国に入ったという。
出雲と関わりが深く、大和政権(天孫族)に反抗して信濃に逃れた神。ここまでくれば、どうしても建御名方命を思い出さずにいられません。
また、伊勢津彦が大風を起こして立ち去った、という点も重要です。というのは、そもそも歴史書に諏訪の神が登場するのは、風の神として朝廷により祭られたという記事が最初だからです
(※注3)
。
現在でも諏訪大社には薙鎌という神器があり、これは風を鎮める呪物です。南信濃村の御射山祭も、本来は秋の台風を鎮めるための祭りなのです。
現在でも諏訪大社には薙鎌という神器があり、これは風を鎮める呪物です。南信濃村の御射山祭も、本来は秋の台風を鎮めるための祭りなのです。
天竜川を遡って諏訪に?
天竜川が、古くから文化の交流路だったことは、古墳時代の遺跡や遺物の分布からも確かめられています。三河・遠江に分布する三遠式銅鐸が、塩尻や松本から出土していることも、これを裏付けます
(※注4)。
また、現在の伊那市にあたる伊奈部村は、かつて伊勢に住み伊勢津彦とも関わりの深かった「猪名部氏」が、物部氏との戦いを逃れて移住してきたのではないか、という学説もあります (※注5)。
伊那谷は長野県内の他の地域と比べても諏訪信仰の根強い地域です。天竜水系には諏訪神社が多く、また池や湖の底が諏訪湖とつながっているという伝承も多く見られます (※注6)。
こうしたことから古代史家の大和岩雄氏は、伊勢津彦すなわち建御名方命は伊勢から海を渡って豊川をさかのぼり、現在の佐久間ダムから天竜川に沿って諏訪に入ったのではないか、という説を述べています。
伊勢→豊川→天竜川→諏訪という移動ルートは、伊那谷か遠山谷かの違いはあるにせよ、中央構造線にほぼ沿っています。
建御名方命が居を構えたという大鹿村は、南北朝時代には宗良親王の本拠地でもありました。宗良親王は中央構造線の谷――のちの秋葉街道――を利用して転 戦し、北朝に抵抗した人物です。建御名方命も宗良親王も、中央政権に反旗を翻した存在という点で共通しています。
一歩想像を進めれば、建御名方命が中央構造線に沿って遠山谷を通った可能性も、考えられないことではありません。
また、現在の伊那市にあたる伊奈部村は、かつて伊勢に住み伊勢津彦とも関わりの深かった「猪名部氏」が、物部氏との戦いを逃れて移住してきたのではないか、という学説もあります (※注5)。
伊那谷は長野県内の他の地域と比べても諏訪信仰の根強い地域です。天竜水系には諏訪神社が多く、また池や湖の底が諏訪湖とつながっているという伝承も多く見られます (※注6)。
こうしたことから古代史家の大和岩雄氏は、伊勢津彦すなわち建御名方命は伊勢から海を渡って豊川をさかのぼり、現在の佐久間ダムから天竜川に沿って諏訪に入ったのではないか、という説を述べています。
伊勢→豊川→天竜川→諏訪という移動ルートは、伊那谷か遠山谷かの違いはあるにせよ、中央構造線にほぼ沿っています。
建御名方命が居を構えたという大鹿村は、南北朝時代には宗良親王の本拠地でもありました。宗良親王は中央構造線の谷――のちの秋葉街道――を利用して転 戦し、北朝に抵抗した人物です。建御名方命も宗良親王も、中央政権に反旗を翻した存在という点で共通しています。
一歩想像を進めれば、建御名方命が中央構造線に沿って遠山谷を通った可能性も、考えられないことではありません。