2016年4月29日金曜日

嶋左京亮津泰忠


http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10290498.html


戦国信濃島津氏は千曲川の西岸善光寺付近から豊野町飯縄町一帯を領した戦国大名で、甲越の川中島の戦いの境目に位置した信濃の国人領主です。
 信濃島津氏は九州島津氏と同根で、忠久が承久三年5月(1221)大田庄地頭職に補せられ、文治二年(1186)正月8日、塩田庄の地頭に補せられました。安貞元年(1227孫の高久が大田庄の地頭職を継いで、長沼に住しました。
 室町期、元中元年(1387)4月、漆田の戦、応永六年(1399)、大塔の戦いでは守護に抗し、守護軍と戦い破った記録があります。永享十三年(1440)3月に起きた結城合戦では、長沼島津氏は時の信濃守護小笠原政康の指揮下、茨城結城城を攻め、結城陣番帳十三番に島津氏の名が見えます。永正(1504-1520)頃には、埴科葛尾城主村上氏に属したようです。
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 戦国期島津領は本拠とした長沼館、詰めの要害と思われる大倉城、飯縄地方の中心とした矢筒城を拠点としました。
 
 武田が北信濃に侵攻を始めると、島津阿波守は、天文二十二年八月、村上義清と共に上田原において武田晴信と戦い、これを破りますが、天文二十二年(1553)葛尾城が落ち、村上氏は越後の長尾氏を頼ります。弘治元年(1555)には、長沼城が武田に攻略され島津安房守は越後に走りますが、上杉が取り返し争奪があったようです。弘治三年葛山城が落ちると島津月下斉は大倉城に退き、後、島津安房守は越後に落ちます。月下斉、安房守、後述する淡路守は、同一人物島津忠直のことと思います。 
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矢筒城 飯綱地方の拠点 
病院が建っているあたりに館があり、運河を利用した物資集散する基地としての機能と城下町を備えていた。
        
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大倉城 
 長沼は島津時代は館程度のもので、大倉城を詰めの城としたのではないだろうか。
 飯山の高梨氏とは緊張関係にあった時代もあり、飯山方面への備えの意味もあったと思います。
大倉城の様子はこちらに http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10311370.htmlまとめました。
 
 
 
 永禄四年九月の第四回川中島合戦では、島津勢は上杉軍の先陣として死闘を繰り広げたことでしょう。しかし第四回川中島合戦以降は、長沼は武田の支配するところとなり、長沼館は武田の北信における一大拠点城として改修されていきます。(替佐、壁田、若宮は最前線であり、長沼城が一歩後方の一大拠点) 前線の各城はこちらを御覧ください。替佐城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10086589.html、壁田城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10117498.html、若宮城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10226597.html
 
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            長沼公民館に掲示されている長沼古城図です

  武田により、永禄四年十月、掻揚、何倍もの大きさとした。
        永禄十一年さらに大規模に拡張された。 
 上の図は 江戸時代元和二年(1688)から元禄元年(1688)までこの地を領した佐久間時代以降の城下の図です。外郭は佐久間時代、内郭(三日月掘りの中)が武田時代の城郭と考えます。
イメージ 6南方から見た現在の推定城域です。
貞心寺から守田神社の間に長沼城がありました。天王社に長沼城の碑と説明版があります。
 
 
 
 
 
 
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貞心寺前から見た城内方向。道はお馬道といわれる城時代の道筋です。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8天王社の石祠と長沼城の碑
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9長沼城の北端付近にある守田神社
 守田は大田庄の 田を守るといういわれがあるらしい。
 境内には島津氏が祀っていた天神宮が石祠として残っています。
 
 
 
 
 
イメージ 16守田神社境内
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10島津氏の菩提寺と伝わる玅笑寺
 
現、長沼歴史研究会の中心として、長沼城の研究を進めておられます。
 
妙笑寺には長沼城のものと伝わる門扉が残されてます。
 
 
  
 
 
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妙笑寺様から頂いた研究資料中、明治28年の地籍図には、三日月堀の痕跡が残ります。鋭意、研究中ということでしたので、今後の長沼歴史研究会の研究に期待します。どのような姿が顕れるのか、楽しみですね。発掘、研究会、発表会の際は私にもお声掛けいただけますようお願いしてきました。
 
 
 
 
 
 信濃島津氏ですが、甲越の争いに際し、当主安房守は後越後上杉を頼りますが、武田を頼った分家が他にあったようです。川中島戦以降も安房守は同じく越後に身を寄せ、後の謙信死後の御館の乱では景勝につき、武田を滅ぼし川中島に入った織田の森長可が本能寺での変で上方へ去ると、上杉軍の一員として信濃を回復し、長沼城に復帰します。文禄三年定納員数目録では信州侍中に知行6190石371人の軍役を担い、さらに二十五人の桂(葛)山衆も抱える大身として島津淡路守の名があります。その後も会津、米沢と上杉に従い、明治の初期に東京へ出、家門を伝えています。
 
 武田を頼った分家は尾張守を当主とする一族だったようです。永禄六年八月に武田晴信が嶋津尾張守に宛、戦乱で逃亡した住人を呼び返すよう命令する文書が残っています。
「長沼地下人并従先々在嶋之族□悉集、可遂居住長沼地者也。仍如件、永禄六年亥癸八月十五日」
また、設楽ヶ原の戦い後、武田勝頼が軍役強化をはかり川中島の土地調べをした際、嶋左京亮津泰忠が知行地を書き出した文書も嶋津泰忠知行注文として残っています。
 上杉に従って会津へ行ったは別に、島津家が当地に現在も伝わっています。
 以下現地の方々からの聞き取りと文献からの私の推論です。
 赤沼の島津家が武田についた尾張守で、武田家中として牟礼三水を安堵され、上杉の会津移封には従来の経緯からついて行かず半帰農し江戸期は飯山藩に仕えたのではないでしょうか。
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赤沼の島津館跡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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浅野に伝わる島津屋敷
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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島津家家紋 丸に十の字
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 長沼村史を参考に、長沼歴史研究会、長沼公民館、浅野郵便局、赤沼郵便局の皆様にお話を伺って作成しました。


長沼神社


長野市内の北国街道沿いにある神社を見学しようと訪れた神社の一つ。北国街道はアップルラインから少し奥まったところを走っていて、古い家屋敷や土蔵が続いている。このあたりはリンゴの栽培で知られ、大きな果樹園のそばを通るときはリンゴの甘いい香りが漂ってくる。訪れたのは10月中旬で、収穫を待つリンゴが真っ赤にいろづいていた。
長沼神社境内にある由緒書きによると、創建は長沼の里が開かれた平安時代とある。御神体は奇石で、厄を取り払う御神石として崇敬を集めているという。御神体がこうした自然物であるということからみても、相当古い神社と思われる。
永禄11年(1568)には、武田信玄が神殿を再建し、木像、笛、獅子頭とともに薙鎌を奉納したという。薙鎌といえば、諏訪大明神。武田信玄の軍神でもある。『長野市誌』には、もとは長沼でなく諏訪大明神と名乗っていたとある。祭神は健御名方命。ほかに天照大神、大物主命、イザナギ、イザナミ、保食神を祀る。

http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/nagano-jin/naganuma.html

北国街道



http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2012/05/index.html

北国街道松代道②(長沼宿→神代宿→北国街道追分)

2012年5月2日
柳原駅(長野電鉄長野線)・・・国道406号・・・県道368号・・(村山の一里塚跡あたり)・・・長沼宿・南の枡形・・本陣跡・・長沼神社・・林光寺・越後道道標・・西厳寺・・善導寺・・長沼城侍屋敷跡・・守田神社・・長沼村道路元標・・妙笑寺(千曲川洪水水位標)・・・妙願寺・・大田神社・・・赤沼交差点(国道18号)・・・大道橋(浅川)・・・跨線橋(JR信越本線)・・流死人菩提碑・子育地蔵尊・・多賀神社・・神代宿・・飯山道道標・・問屋跡・・御番所跡・・本陣跡・・脇本陣跡・・観音堂・大日堂・石造三十三観音像・・道標・・油沢川・・神代坂・・大石・馬頭観音・・・白坂峠一里塚跡・・(新)白坂峠・・丹霞郷・・(旧)白坂峠・・・平出地区・・長沼道道標・・平出追分(北国街道合流地点)・・・平出神社・・平出公民館バス停→長野駅
  【ル-ト地図】(18.5km)
 昨日、柳原駅まで進んだので今日の行程は楽だ。途中から風が強まり雨も少し落ちてきたが、神代宿から長い神代坂を上り、難なく丹霞郷の広がる白坂峠へ着いた。峠から緩やかに下ればすぐに平出の追分で、北国街道に合流する。ここは4日前に歩いたばかりだ。平出神社に寄りバスで長野駅に戻った。
 この先は『北国街道⑤』へ続く。
  写真をクリックすると拡大します。
Img_7313千曲川の土手から下りて、長沼宿へと進む。
手前の河川敷内の稲荷社あたりに長沼一里塚跡の標柱が立っているようだが、稲荷社も標柱も未確認。
Img_7312長沼宿入口の枡形 《地図
ここを右折して行く。長沼は南部は宿場、北部は城下町だったため、街道が10か所で直角に折れる。宿場と城下町の面影はなく、枡形にその名残りを見るだけか。
Img_7309本陣跡西島家(右)
長沼の鎮守で、創建は平安時代という。
Img_7304林光寺前
正面に道標(文久元年?(1861))
Img_7302「従是 右ハゑちご道 左ハぜんく王じ道」
松代道は北国街道に合流して越後へ向かう。
Img_7300西厳寺 《地図
蓮如上人が2度滞在している。蓮如上人絵伝を所蔵する。
Img_7284長沼城侍屋敷跡
一茶の門人句碑と説明板、後ろの何お堂だったか。
Img_7287長沼城跡復元図
江戸時代の慶長8年(1603)には森氏の転封によって長沼藩の佐久間氏の居城となったが、元禄元年(1688)に佐久間氏が改易された後、廃城となった。佐久間象山は一族の子孫だそうだ。
Img_7271枡形跡を右折、左折して行く。
Img_7281守田神社 《地図
正保年間(1644~47)に守田島から当地に遷座してきたという。ここは外堀内の大手門の近だ。一時は長沼城の守護社だったか。
Img_7270千曲川洪水水位標(妙笑寺)
戌の満水の時は一番上。本堂にも水位柱を残している。
Img_7258アップルロードか。
明治29年の大洪水では桑の被害が大きく、養蚕に代わってリンゴ栽培が急増した。国道18号はアップルライン呼ばれる。
大田神社の先で赤沼交差点を渡って行く。
Img_7244赤沼交差点でアップルラインを横切る。《地図
赤沼一里塚跡はどのあたりか?
Img_7551流死人菩提碑(左)・子育地蔵尊 【ル-ト地図】の①
碑の高さは戌の満水の時の水位。
Img_7547説明板
Img_7237多賀神社
鎌倉時代に近江の多賀神社の分霊を祀ったという。石殿型庚申塔があるようだ。
Img_7236神代(かじろ)宿に入る。《地図
宿に指定されたのが遅く、それまでは飯山道の宿として本陣が置かれていた。
Img_7226宿場案内図
北国街道の新町宿で分岐した飯山道が、西(左)から来て、東(右)に抜けて行く。
「雨降り宿」とは、北国街道が川留めとなり、矢代の渡し、丹波島の渡しが渡れない時には松代道を通ったのでこう呼ばれた、
Img_7234道標(飯山道と松代道が交差する左の角)
Img_7233「是ハ善光寺ミち」・右側面に「これより右せんく王じミち」で、善光寺へ通ずる飯山道を示している。北隣が旅籠屋跡。
Img_7230御番所跡・神代村道路元標
ここは問屋場跡で、向い側の角が御番所跡。
Img_7228本陣藤沢家跡(左の公民館の所)・脇本陣横地家跡(本陣の向い側) 【ル-ト地図】の②
Img_7222観音堂の石段から神代宿
Img_7221観音堂
右隣に大日堂がある。
Img_7223説明板
Img_7216石造三十三観音像
信濃三十三観音
Img_7215説明板
Img_7214つつじ山道」道標 《地図
ここを左に上って行くのが旧道だが、石垣前の道標に気づかず右の新道をかなり上ってしまい引き返す。
Img_7224「右名勝つゝじ山道」で、左側に「左ハ牟礼道」と付け加えてあるらしい。「牟礼道」は松代道のこと。 「つつじ山」《地図》、
Img_7198聖林寺跡伝承地(新道を上った途中)
観音堂の説明板にある13世紀に創建されたと伝える寺跡だろう。
Img_7210神代坂を上る。 【ル-ト地図】の③
始めは急坂だ。松代道は北国街道の脇街道だが、天正11年(1583)上杉景勝は牟礼より香白(神代)坂、長沼への通行を命じた。善光寺宿を通らないため、この間善光寺の門前は寂れてしまったそうだ。
Img_7206大石の上に馬頭観音
Img_7208説明板
Img_7554坂の途中から豊野の町
この先、旧道はリンゴ畑の間に残っている所もあるがはっきりせず、民家の畑内でもあり新道を行く。
Img_7558新道を白坂峠へ上る。
Img_7565傾斜は緩いが、何度もカーブして行く。
旧道は直線的に白坂峠へと上る急坂の難所だったようだ。
Img_7569けっこう上って来た。
Img_7571白坂峠一里塚跡 【ル-ト地図】の④
左右に塚跡がなんとか残っている。次は北国街道に合流した先の四ツ屋一里塚跡。
すぐ先で(新)白坂峠に出る。
Img_7574説明板
Img_7576(新)白坂峠(582.2m)
峠といっても畑の広がる平坦地。北国街道との合流点の平出の追分は左へ行く。右に500mほど行くと、(旧)白坂峠に出る。
Img_7578案内板
Img_7579丹霞郷(たんかきょう)
今日は曇っていて北信五岳の黒姫山、妙高山の眺めはない。モニュメントは「鳥になった少年」
Img_7582(旧)白坂峠(578.8m) 《地図
江戸時代以前の本来の白坂峠で、昭和42年まで国土地理院の地図には、ここが白坂峠と記されていた。北方の古道沿いの番匠地区には番所があったとも。
Img_7583説明板
Img_7585古道はここから神代に直線的に下っていたのだろう。
Img_7593平出の追分へと緩やかに下る。平出側は標高が高く、峠から下る感じはしない。
Img_7595ここは右へ進み平出の集落に入る。
Img_7599平出追分 【ル-ト地図】の⑤
正面の突き当りが北国街道との合流地点。すぐ先を左に入った民家の敷地内に追分の道標が移設されている。
Img_7600追分にあった長沼道(松代道)道標
「是より左長沼みち」・「是より右善光寺みち」で、「善光寺みち」は北国街道のこと。