2016年4月1日金曜日

武田国継



甲斐武田一族から分出し、会津地方に移ったという「武田国継」について知りたい。
回答
(Answer)
大東流合気柔術の幕末までの歴史は、武田惣角および武田時宗から伝わっている巻物と口碑(言い伝え)に基づいており、武田信玄の死後、信玄の一族・武田土佐国継が会津の大名・芦名盛氏に仕え、国継の末孫武田家は会津に定着し、大東流合気の秘奥(小具足)を伝承していったとされている。甲斐武田家の系図や、当館所蔵の武田家、武田信玄関係資料には、「武田国継(または、国次)」、及び「会津武田氏」に関する記述は見つけられなかった。なお、詳細については照会資料をご確認下さい。
回答プロセス
(Answering process)
1.人名辞典、郷土事典、家系図等を調査したが、次のものに「武田国継」の名前は見あたらなかった。
・『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編(新訂増補)』(日外アソシエーツ編・発行 1996年)
・『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編2<1996-2006>(新訂増補)』(日外アソシエーツ編・発行 2007年)
・『人物レファレンス事典 郷土人物編』(日外アソシエーツ編・発行 2008年)
・『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年)
・『福島大百科事典』(福島民報社編集・発行 1980年)
・『姓氏家系大辞典』(太田亮著 角川書店 1963年)
・『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会編・発行 1964年)

2.郷土資料室の武田氏、武田信玄関係資料を調査したが、次のもの等武田関係の資料には「武田国継」の名前及び「会津武田氏」に関する記述は見あたらなかった。
・『武田信玄大事典』(柴辻俊六編 新人物往来社 2000年)
・『甲陽軍鑑:原本現代訳(教育社新書)』(腰原哲朗訳 教育社 1979年)
・『甲斐武田一族』(柴辻俊六著 新人物往来社 2005年)
・『甲州・武田一族衰亡史』(高野賢彦著 新人物往来社 2003年) 
・『武田家臣団:信玄を支えた24将と息子たち(学研M文庫)』(近衛龍春著 学研 2006年)
・「歴史読本」第32巻第9号 特集「名将武田信玄戦国最強の男」(新人物往来社 1987年5月)
・「別冊歴史読本」53号「武田一族のすべて(一族シリーズ)」(新人物往来社 1998年3月) 等

3.武道辞典を調査。
・『武芸流派辞典』(綿谷雪編 人物往来社 1963年)→p242「大東流」の項に、「甲州武田の遺臣、大東久之助。武田家滅亡後、会津にかくれた。武田流柔術をよくし、大東流と称していた。新羅三郎義光を遠祖と仰ぎ、会津藩に伝承。源義光-武田義清-武田信義-武田信満-武田国継…武田内匠頭弥惣右衛門-武田惣角-植芝守高-久琢磨。」とある。
・『図説日本武道辞典(普及版)』(笹間良彦著 柏書房 2003年)[資料番号0104974472]→p7-8「合気道」の項に「大東流合気柔術は伝承によると九世紀末の清和天皇第六皇子貞純親王に発するとされ、これが源氏に代々伝えられ一一世紀の終り頃に八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に伝えられたが、「大東の館」に住んでいたので「大東流」と称したといわれる。」などの記述があるが、武田国継についての記述は見あたらなかった。

4.合気道関係の資料を調査。
・『日本武道全集』第5巻(今村嘉雄ほか編 人物往来社 1966年) [資料番号0100750173]→p503-505「大東流合気柔術の成立」の項には武田惣角について、「武田家は清和源氏の流れをくみ新羅三郎を始祖とする武田一族の系統であるという」と書かれているが国継についての記述はない。
・『合気道開祖植芝盛平伝』(植芝吉祥丸編著 出版芸術社 1999年)→p93-99に「武田惣角氏との出会い」の項があり、p97-98にかけて「大東流柔術は、清和(天皇)源氏の流れを汲む新羅三郎源義光を始祖とする武田一族の武技であると伝えられる。滋賀の大東の館で修練されたのが名称の起こりとされており(異説もある)、代々甲斐武田家によって継承されてきたという。その後、甲斐武田家の名称・武田信玄の血を引く一族で、会津(福島県)の地頭職に就任した武田土佐国次によって会津藩にも伝承され、同藩のいわゆる「御留技(おとめわざ)(藩外不出の秘伝)」として幕末まで伝えられたと聞く。」「惣角氏はその武田国次の末孫である。」との記述がある。

5.大東流合気柔術のホームページを確認。
・大東流合気柔術webサイト( http://www.daito-ryu.org/jp/ ※2011.2.21確認)に、「大東流の歴史」のページ( http://www.daito-ryu.org/jp/bakumatsu-made.html ※2011.2.21確認)があり、「幕末までの大東流の歴史は、武田惣角および武田時宗から伝わっている巻物と口碑に基づいています。」「天正元年(1573)、武田信玄が没すると、信玄の一族武田土佐国継は信玄の遺書を持って翌年2月会津に到着しました。信玄と盟約を結んでいた会津の大名芦名盛氏に仕え、 地頭として会津西青津村田方に50町歩の土地を受け、小池に居住、15騎、足軽10人を召し抱えました。 また坂上田村麿が建立したという清寧寺が老朽していたのを再建して会津天寧寺の末寺とし、西光寺と命名しました。以後、国継の末孫武田家は、 清寧寺の守護神社である伊勢宮の宮司を兼ねて会津に定着し、大東流合気の秘奥(小具足)を伝承していきました。」などの記述がある。 

 
 
 
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000106877
 
 
 

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