2016年4月20日水曜日

泉田氏



泉田氏
二つ引両
藤原南家二階堂氏流


 泉田氏の家伝によると、文治五年(1189)の奥州平定の功績で河内五郡二保を、泉田・四方田・渋谷・狩野の四氏が賜った。四家はのちに河内四頭と称さ れたが、泉田氏は泉田の地に拠ったので泉田と号したのだという。南北朝の後、大崎家の客将になったといい、この泉田氏の分かれが伊達氏家臣となった泉田氏 であると伝える。

泉田氏の遍歴

 一方、『泉田家系譜』によれば、河内四頭の一とするものの、源頼朝に仕えた二階堂行政の裔孫行秋が康暦二年(1380)岩瀬・安積の二郡を領し、須賀川に城を築き、行時のとき葦名氏に属して、会津泉田に拠り名字となしたとある。
 それによれば、行秋は二階堂貞宗の嫡男で、応永元年(1394)に死去した。行秋は因幡守を称して、法名道欽と伝える。ちなみに、『群書類従』所収の 「二階堂氏系図」の一本をみると、下総守光貞の子に行秋がみえ、受領は因幡守、法名は行欽とあることから、この行秋が泉田氏の祖にあたる行秋であろうか。 行秋のあとを継いだ行雄には男子が無かったため、一族の二階堂遠江守の三男行信を養子に迎え、行信のあとは次男の行時が継いだとある。
 行時は、岩瀬郡泉田城に住し、泉田を家号となしたという。ところが、文明二年(1470)行信が会津の葦名盛信と合戦となり、敗れた行信は白河結城氏の 仲裁を頼んで葦名氏と和睦したが、人質として行時は会津に送られ、そのまま盛信に属するようになり会津泉田城に居住するに至った。
 天文九年(1540)、行時の孫行胤は葦名盛舜と不和になり、ついには合戦におよんだが、大敗を喫し一族の多くを失った。敗れた行胤は伊達稙宗を頼って 会津から出奔し、以後、泉田氏は伊達氏に属するようになった。行胤の孫泉田景時は、天正四年(1576)、伊達輝宗に従って相馬合戦に出陣した。ついで天 正十二年、景時の嫡男光時と次男の重光は輝宗に従って相馬表の伊具の戦いに出陣したが光時は戦死してしまったため、泉田氏の家督は重光が継いだ。家督を継 いだ重光は二本松城攻略などに活躍したが、天正十六年(1588)、大崎合戦で大きな危機に見舞われることになる。

大崎の陣

 伊達輝宗のあとを継いだ政宗は奥州の覇者たらんとして近隣を切り従え、反伊達連合を組む最上義光や芦名義広、常陸の佐竹義宣らと合戦を繰り返していた。そんな政宗にとって、伊達領の北方に割拠する大崎氏は、早い段階に掃討すべき存在であった。
 大崎氏は南北朝期より奥州管領として権勢を誇っていたが、戦国時代になると内訌を繰り返し次第に勢力を衰退しつつあった。天正十六年、大崎氏の重臣氏家 吉継が政宗に救援を求めてきた。政宗にとっては願ってもない好機であり、ただちに浜田景隆を陣代とし軍監には小山田筑前を任じ、留守政景・泉田重光を大将 に大崎領に攻め入らせたのである。
 大崎攻撃軍の軍評定において泉田重光は留守政景と口論となり、あわや乱闘騒ぎになるという事件があったが、先陣と後陣に分かれて出陣することに決した。 先陣を率いたのが泉田重光で、大崎氏の主力が拠る中新田城に攻め寄せた。重光率いる伊達軍の攻撃は強烈だったが、大崎平野に大雪が来襲したことで、攻守は 逆転し重光軍は新沼城に逃げ込んだ。一方、後陣の留守政景勢も黒川月舟斎の指揮する大崎軍の攻撃にさらされ、小山田筑前が戦死するなど散々な敗北を喫し た。
 大崎における伊達軍敗北の報に接した政宗は、最上・葦名・佐竹氏らの存在もあって、援軍を出すことができなかった。新沼城に籠城した泉田重光らは、次第に食糧もなくなっていき、ついに泉田重光と長江月鑑斎らの諸将が人質となることで伊達軍の帰還が認められた。
 その後、泉田重光と長江月鑑斎らは最上氏のもとに送られ幽閉の身となった。その間、重光は最上義光から最上氏に仕えるように誘われたが、ついに首を縦にふらず、伊達氏と最上氏の和睦が成立してのち、帰還することを得た。

その後の泉田氏

 天正十七年、伊達政宗は葦名氏と雌雄を決するため、摺上原に出陣したが、このとき重光は安子ケ島に出陣した。翌十八年の「小田原の陣」には政宗に従って 小田原へ供奉し、翌年の「九戸の陣」にも出陣、つづいて「大崎・葛西一揆」の鎮圧にも出動して一揆鎮圧に活躍した。文禄元年(1590)の「文録の役」に も従軍するなど、連年にわたり政宗に従って戦陣に明け暮れた。
 そして文禄四年、東山薄衣に所替えとなり、慶長元年(1596)に波乱の生涯を閉じた。重光は男子がなかっため、亘理重宗の次男重時を娘婿に迎えた。重時は元和元年(1615)の大坂の陣に出陣して戦功をあげている。以後、子孫は薄衣を領して幕末に至った。
 泉田氏の家紋は、家譜の虎時(重時の曾孫)の条に、「二ツ引両ノ紋ヲ改メ三ツ引両ノ紋ヲ賜フ」とあることから、戦国時代においては「二つ引両」を家紋として用いていたものと思われる。

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