『尊卑分脈』などによると、赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨佐用荘に配流され、その後裔の則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われている。しかし、季房から則景まで7代もあることから、名和氏同様に信憑性に関する賛否がある。また、三河国作手の奥平氏は赤松氏の末裔と称した。
近時、赤松則村(円心)が北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説が浮上しており、地域に根付いた土豪や悪党の類で、瀬戸内海で海上貿易や海運業で財を成した。その一方、在地の御家人の出身である説や、円心や三男の則祐が鎌倉時代には既に従五位に相当する僧綱にあり、軍事面で一大勢力を築いていた事から、古くからの名家だった説もある。
円心は元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨守護職に補任された。しかし、有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚するのに前後する形で播磨を没収されたことから、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く遠因を作った。
円心の3男・則祐は室町幕府2代将軍足利義詮や管領の細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。その功により坂本城を守護所として播磨1国の守護に任じられると共に、室町幕府では京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職の1つとなって幕政に参画した。
円心の長男・範資には摂津、次男の貞範には美作、三男の則祐には備前の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となる。但し、摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は庶流となり七条家を称した。七条家は後裔の赤松義村が赤松政則の後継となり、宗家への復帰を果たすこととなる。
嘉吉の乱
「嘉吉の乱」も参照
15世紀に入ると、永享元年(1429年)に播磨の土一揆が発生するなど、その支配力に次第に翳りが見え始める。更に6代将軍足利義教は赤松満政や赤松貞村といった庶流を優遇し、本家である赤松満祐・教康父子を冷遇し始めた。嘉吉元年(1441年)、満祐父子は義教を自邸で暗殺し、播磨に帰国した。この嘉吉の乱により山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐は城山城で自害し教康も殺された。三国の守護職は山名氏が承継した。また、1444年に満政が宗全に討たれ、1455年には赤松則尚が挙兵したが宗全に敗れ自害して果てた。長禄元年(1457年)、赤松氏の遺臣が禁闕の変(嘉吉3年(1443年))で後南朝に奪われた三種の神器の神璽を取り返して南朝皇胤を討った(長禄の変)。これにより赤松政則(満祐の従孫)の時に加賀半国守護となって再興を果たした。応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲き、長享2年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐した。本拠を置塩城に移したのもこの頃である。
戦国時代と下剋上
成長した義村は官僚機構を整備し、独自の権力を強化していく政策を実施して赤松家の戦国大名化と大名権力の強化を図った。しかし備前守護代の浦上村宗との間に確執が生まれ、永正15年(1518年)から義村と村宗の間に内紛が起こった[5]。この内紛は村宗が勝利し、義村は村宗の圧力を受けて嫡子の晴政に家督を譲らされた[6]。義村は大永元年(1521年)9月に村宗によって暗殺され[7]、晴政は村宗の傀儡として利用され赤松家は没落の道を辿り出す。
以後10年弱は村宗の専権が続き、播磨では浦上派と反浦上派が武力闘争を起こすなど大混乱となった[8]。享禄4年(1531年)、晴政は大物崩れによって村宗を討ち果たした[9]。これにより晴政の大名権力は一時的に高まったが、赤松領内では浦上氏の残党勢力による抵抗もあり[註 1]、赤松家の直接支配が及ぶ範囲は西播磨方面に限定され、赤松家当主が分国の守護代や郡代に与える命令系統はこの頃になると無効化していた[9]。
天文6年(1537年)からは出雲の戦国大名である尼子晴久の侵略も始まり、晴政は領国を追われて淡路に逃亡した。このため家臣の大半も尼子氏に寝返るが、東播磨守護代の別所村治のみは晴政と通じて抵抗した[10]。また晴政は幕府の支援を得て領国奪回に乗り出し、苦戦の末に播磨から尼子勢力を追放した[11]。
天文23年(1554年)、摂津の戦国大名・三好長慶の東播磨侵攻もあり、別所氏は三好軍の侵攻に抵抗するが東播磨一帯はほぼ三好軍に制圧された[11]。また天文21年(1552年)には備前・美作の守護職が尼子晴久に与えられるなど[註 2]、名目上とはいえ晴政は2か国の守護職を失った[11]。さらに永禄元年(1558年)には晴政と嫡子の義祐と対立するなど家中で内紛が起こり、この対立に敗れた晴政は家督を義祐に奪われ[12]、自らは娘婿の一族である赤松政秀に庇護される事になる[13]。以後、晴政は義祐と対立しながらも政秀と共同して西播磨を辛うじて支配しながら、当時中国地方で勢力を大幅に拡大しつつあった毛利元就に接近して体制の再建を図ったが、実現せずに終わった。
衰退と没落
晴政の死後、名実共に赤松家の当主となった義祐は赤松家の勢力を取り戻そうと努力するが、この頃になると赤松家の勢力は播磨国内ですら及ばなくなっており、別所氏や宇野氏は独自の権力を確立して戦国大名として自立するなど、最早赤松家に従う有力重臣は小寺氏のみという有様であった[14]。赤松家の勢力が及ぶ範囲は西播磨だけで、それさえも重臣の助力なくしては保てないほど衰退していたのである。永禄11年(1568年)に美濃の織田信長が上洛すると、翌年には織田氏の勢力が東播磨に及び、別所安治は信長に従属した。西播磨で義祐を擁しながら大勢力を誇っていた赤松政秀は娘を将軍・足利義昭の侍女として送り信長と通じたが、義祐は信長に従わず織田軍の西播磨平定を妨害した[15]。このため柴田勝家ら織田軍主力が播磨平定のために進出し、播磨は結果的に信長の強い影響下に置かれる事になった。信長の支配下に置かれた播磨では赤松家の大名権力は完全に有名無実と化し、実質的には赤松一族の別所氏や宇野氏がそれぞれ信長に従う事になる。なお、義祐は永禄13年(1570年)を最後に史料から政治活動が確認できず、天正4年(1576年)に没したとされており、既に赤松家当主には何の政治力すら無かったようである。
天正年間になると播磨は信長の家臣・羽柴秀吉に与えられ、義祐の嫡子・則房は羽柴秀吉に従って播磨を転戦した[16]。則房は播磨置塩に1万石を与えられて存続を許された。後に則房は阿波板野郡に所領を移されている。かつて3か国を支配した赤松家は、家系・素性が明らかでない成り上がりの秀吉の家臣となり、1万石にまで零落したのである。
宗家滅亡と一族のその後
龍野赤松家(大名赤松家)
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされた。 同じく赤松一族で但馬竹田城城主・赤松広秀は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払った事を理由として、徳川家康から自害を命じられた。この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い。西軍から東軍に寝返った大名で殺されたのは唯一広秀一人だけである。その後広秀の子孫は但馬国で代々宵田村の村長をし、藩主より70石を与えられていたと言う。政広の弟の赤松祐高は兄の死後、全国を流浪したのちに大坂の豊臣秀頼に仕えた。しかし大坂の陣により戦死した。 これにより大名としての赤松氏は滅亡したのである。
旗本赤松家
赤松範資の後裔・氏満は石野城を与えられたことで表向きは石野氏を称し、別所長治の部将として羽柴秀吉麾下の猛将古田重則(古田織部の兄)を三木城攻防戦で討ち取るなど活躍。落城後銃撃の腕を評価されて秀吉、前田利家に召しだされて3,000石余を与えられる。氏満の子の氏置は徳川家の旗本となり上総に2,000石余を得て、宝永年間の遠国奉行・範恭の代に赤松姓に復して5,000石余の寄合旗本として幕末まで存続。氏満から数えて10代目に当たる幕末の範忠は書院番頭・講武所奉行・御側御用取次・外国奉行等を歴任した。範忠の子の範静は軍艦奉行を務めた。上総下湯江に陣屋を築き[17]、菩提寺の了真寺(品川区)に氏置の室だった長安院が参勤交代の折りに開創したという記録が残っていることから、江戸中期まで交代寄合だったと推定されている。
有馬家
赤松則祐の五男・有馬義祐の後裔で摂津有馬氏当主・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の役においても徳川方で功を挙げたことにより筑後国久留米に21万石を与えられて国持大名となり、宗家と明暗を分けている。また、久留米藩のほかに、享保年間には徳川吉宗の御側御用取次を務めた分家出身の幕臣有馬氏倫が伊勢国の伊勢西条藩の大名に昇格する[18]など繁栄した。また、旗本赤松家の分家の旗本だった石野則員の子・則維は嗣子のなかった久留米有馬家に養子に入り、家督を相続した。赤松家と有馬家の縁の強さを象徴している一幕といえよう。
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