2017年5月24日水曜日

三戸


教科書的には鎌倉幕府の滅亡以降は南北朝時代となるが、厳密に二つの朝廷が同時出現する時期は幕府滅亡から2年後の建武2年(1335)8月15日に光明天皇が即位してからとなるので、その間は「建武混乱期」と命名した。

1333 5月25日、後醍醐天皇は光厳(こうごん)天皇を廃して年号を元弘に戻した(建武親政開始)
1333 5月、師行、三戸より上洛 奥羽南北朝史 484
1333 5月 六波羅陥落
1333 6月、後醍醐天皇京都に帰還。6月5日、尊氏を鎮守府将軍に。23日護良親王を征夷大将軍に。北条領没収。七月、尊氏が外浜や糠部に地頭職を得、ただちに一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣。8月5日、顕家が陸奥守になる。
1333 7月 新田義貞上洛か 政長は奥州へ帰り、義貞には時長・師行が従ったのではないか
1333 8月5日顕家を陸奥守、尊氏を武蔵守 東国の南北朝動乱 24
1333 冬。大光寺の曽我氏惣領曽我道性が名越時如、安達高景を奉じて、大光寺楯で挙兵。
陸奥国府は、庶子系光高、安藤五郎太郎高季、尾張弾正左衛門尉、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行などに、大光寺楯を攻めさせた。(12月~翌年1月) 安東一族 92 まだ顕家派と尊氏派この時点では協力している
1333 11月 顕家、義良親王を奉じて奥州に下向
1333 12月、師行、糠部郡奉行兼検断として下向か 奥羽南北朝史 484 師行は、得宗地頭代として三戸などに若干の所領を持っていたが、この時は工藤氏に代わって郡の中心である根城に入ったと思われる。ただし、根城の大々的な改築は行っておらず、工藤氏が使っていた施設を流用する形だったと思われる。
1333 時長、師行、政長が武行を訴える 青森県史 19
建武元 1334 1月、大光寺楯落城。曽我光高は所領安堵を願い出たが認められず。 安東一族 93
師行、外ヶ浜明師、湊孫二郎祐季を揺さぶる。湊は青森。
安東入道は、宗季らしい。 安東一族 97
1334 阿曽沼朝兼、信長を恃む。 南部史要 八戸系図にもでてくる
元弘4 1334 久慈郡が闕所になったのを二階堂行珍に与える文書あり
もとは北条氏の所領だったと推定 奥羽南北朝史 91 一戸氏系の在地勢力がいたのかもしれない
1334 2月、師行、三戸早稲田の土地を毘沙門堂に個人名で寄進 奥羽南北朝史 53 師行と顕家の接点は何だったのか?
4月
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
    同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
又二郎は信長、又次郎が師行? 奥羽南北朝史 96 又二郎が信長、又次郎が師行だとすると、信長はこれにより糠部に分散的な所領を得ることができたのか
四戸、五戸、六戸の給主は不明。 三戸南部氏の当初の所領は六戸と三戸に散らばって存在し、義政、政盛の菩提寺の高雲寺が百石にあったことから根拠は六戸ではないか?(四天王の小笠原安芸系と争った赤沼氏も十和田と三戸に分散して領地があった)
馬淵川沿いの三戸よりも奥入瀬川沿いの方が平地も広く、開発しやすく住みやすい気がする。
櫛引八幡が最初は十和田にあったことから六戸西側は小笠原長清の系、東側は南部氏が治めたのではないだろうか。
四戸は小笠原長清の系統の櫛引氏が入っていたか?
島守氏の祖が早くから入部していたという伝承がある
蕪島には工藤氏がいたか?工藤氏と櫛引氏は仲良し?工藤秀信が浅水を攻めたのも櫛引と手を組んでのことか?
1335 3月10日、工藤貞行に外ヶ浜の野尻郷、鼻和郡目谷郷が与えられ、師行とその一族に、内摩部郷、泉田、湖方、中沢、東津軽郡の真板、中目郷、中津軽郡の左比内が与えられた。
内摩部郷は、もと安東宗季の本拠地のひとつ。湖方は後潟。 安東一族
北の環日本海世界 101
191
建武2 1335 7月25日鎌倉落城(中先代の乱)(挙兵は7月14日)
1335 8月15日 光明天皇即位、二朝並立となる
1335 信長の弟信行、顕家に従い戦功あり。 南部史要 14
1335 8月19日・征東大将軍足利尊氏が北条時行を破って鎌倉を奪回 (中先代の乱の終結)
1335 8月30日尊氏、斯波家長を奥州総大将に抜擢 中世奥羽の世界 105
1335 10月15日・足利尊氏が帰京命令に従わず、鎌倉に留まる
1335 11月26日・朝廷が足利高氏・直義の官位を剥奪
1335 信長の兄甲斐守義重、新田義貞に従う。 南部史要 14
建武2 1335 12月顕家、第一次西上
1336 3月 顕家が鎮守府大将軍になり再度下向 中世奥羽の世界 104
延元元 1336 4月 武者所詰番事 一番 南部甲斐守時長 建武記 山梨県史


68 近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、五月二十五日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した一年九ヶ月前に引き戻された。 17日?
69 後醍醐は六月四日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、四十六歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。 "『増鏡』P.485では六月六日に東寺から内裏に入った
『公卿補任』では、4日に入洛し東寺、5日に内裏。関白停職は17日となっている
『保暦間記』P.57では、4日に東寺、5日に内裏"

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