2017年5月16日火曜日

富田漏祐






富田漏祐
土豪・新領主つながり
会津の大名蘆名氏の重臣の内、松本・平田・佐瀬・富田の四氏は「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は、古代の安積臣の後胤・直継の子孫など諸説があり、いずれも未詳。『伊東家譜』に、享禄三年秋に富田郷に拠った伊東大和守祐盛が「富田伊東氏」とし、藤原南家伊東氏に関連付け、富田氏代々の名乗りは工藤氏と同じく通字「祐」が用いられた。『旧事雑考』に、会津の古刹・耶麻郡磐梯山慧日寺(当時法相宗、現:恵日寺は真言宗豊山派)の寺侍と伝えられ、僧兵数千の慧日寺武力の一翼を担ったとされる。一族から、養和2(1182)年木曾義仲追討のため信濃国へ出陣した城長茂に加勢し、横田河原の戦いで戦死した乗丹坊がおり、城氏の一族という説もある。
とみた・のりすけ。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代前期の会津の豪族。

富田氏の継嗣で、幼名は吉祥丸。慧日寺の僧兵が木曾義仲に敗れたため衰退し、会津地方は奥州平泉の藤原氏が支配した。富田氏は会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築き、慧日寺衰退後も一族郎党が多く、軍事力を保持した。

文治5(1189)年源頼朝の奥州征伐に従軍した城長茂が、阿津賀志山の柵(福島県伊達郡厚樫山)を攻めた際、城氏の越後勢に混じって参加し、勝利した。奥州を平定した頼朝は、平泉で戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連に会津を、相模の豪族・山内通基に会津郡伊北郷を、下野国の小山氏一族・長沼宗政に南会津一帯の長江庄を、長沼一族・河原田氏に伊南郷を与えた。会津国人領主は入植した山内氏や長沼氏と対立した。佐原義連・盛連父子は代官をおいて衝突を避け、鎌倉から追従した陰陽師・赤沼内膳を神職とし、占いと調伏は効き目があると噂を流し、佐原氏自らも参詣したため土民や地侍らの尊崇を集め、土豪の蜂起を鎮めたという。以来、会津黒川に寺が建立され、10年間で約23箇所に及んだとされる。

承久の乱鎮定後の貞応元(1222)年3月、会津小田山城主となった盛連の子・蘆名光盛は弟・加納盛時と共に慧日寺に花見に出かけ、富田漏祐と出会い宿坊でもてなされた。光盛は自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子・千松を出仕させると約束した。千松は5月5日光盛の側小姓として出仕し。千松の元服に、重臣・平田益範を烏帽子親とし、「範」の字をもらい、範祐を名乗った。

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