2017年8月18日金曜日

結城陣番帳


10)結城合戦と信濃武士
 大井持光は、「永享の乱」後の永享11(1439)年、自害した鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸・後の古河公方足利成氏(しげうじ)を信濃で庇護した。永寿王丸は持氏の末子で、当時5才であった。初代鎌倉公方足利基氏が中興開基した鎌倉の瑞泉寺の僧が、2人の被官に庇護され乳母に抱かれる永寿王丸を、岩村田に隣接する安原(佐久市)の安養寺に連れ逃れてきた。この寺が信州味噌発祥の地と謂われている。安養寺の住僧が、乳母の兄で、その伝手(つて)を頼って逃れ、大井持光の庇護を期待したようだ。

  永享の乱後、上杉氏は勝利に驕り、強引な所領の拡大を図り、圧迫された在地豪族の反発が、後の関東大乱の遠因となった。永享12(1440)年3月、幕府と関東管領上杉氏に反発する諸豪族が持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、下総の結城城(茨城県結城市結城)に立て籠もる。幕府は急遽、これを越後守護上杉房方の子で、越後の上条城主上杉清方や小笠原政康に鎮圧を命じた。結城合戦の始まりである。

 『鎌倉大草紙』は全3巻で構成され、著者・成立年代とも未詳あるが、戦国期から近世初頭まで、康暦元(1379)年より文明11(1479)年までの百年間を越える関東の政治動向を各年毎に記したものである。それには「大井持光が家臣芦田・清野をつけ」永寿王丸を送ったと記している。持光は6歳の永寿王丸を結城城へ送り籠城させた。
 38年後の文明10(1478)年の「御符礼之古書」に「右頭、岩村田大井政朝代初、御符礼三百貫三百文(中略)、寄子葦田(芦田)・根々井・塚原」とあり、芦田氏が独立した郷を領有できぬまま、大井氏の寄子(配下)になっていた事が知られる。
 芦田氏は『庶軒目録』の文明16年10月23日の条に「大井氏は千騎を以て大将たり。今19才。(中略)大井の執事足田(芦田)殿・相木殿(下略)」とあり、大井氏の主人に近侍し家政に当たっていた。
 永享12年7月、幕府軍による結城城への攻撃が激しくなると、持光は結城方に味方するため上信国境の臼井(碓氷)峠まで出陣した。上杉憲実の弟重方が上野の国分(こくぶ;群馬県群馬町)まで出馬し牽制すると、軍を引いている。
 永享8年3月、将軍義教は小笠原政康に芦田征伐を命じた。その際、幕府政康軍の全面的支援により、大井持光は芦田氏を攻め、芦田氏をその傘下に加えた。その持光が、なぜ反幕府軍に加わったのか?故足利持氏との親密な関係が想定される。『持光』は『持氏』の偏諱を下賜されたのか?
 結城氏朝は小山泰朝(おやまやすとも)の子で、下総結城満広(みつひろ)の養子となった。応永23(1416)年ごろ家督を継承した。下野守護職であった祖父結城基光が死去した永享2年(1430)以降、結城家当主としての活動を開始した。前代から敵対していた上杉氏との対立が激化したため、永享の乱に際し、足利持氏を支援した。持氏の遺児安王丸、春王丸が挙兵すると、これを結城城に迎え、関東諸家の宇都宮、小山氏の一族や那須、岩松氏らを糾合して関東管領上杉清方が統帥する幕府軍と抗戦した。
 小笠原政康は、再び信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記されている。
 「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として諸国の諸士を指揮した。
 信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿同名河内守殿同名対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで109名の武将の名が記され、信濃勢3千余騎とある。大井持光と依田一族は不参加であったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。佐久武士の参加者は27番の3氏のみで、大井一門であっても守護小笠原に属した。他の佐久勢がみられないのは、大井持光の勢威に屈していたからで、当時の実力の程が測られる。
 結城氏朝は、翌嘉吉元(1441)年4月16日敗れ、嫡男の持朝(もちとも)らと共に自決し落城した。安王丸、春王丸の兄弟は捕らえられ、京都への護送途上、美濃の垂井(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺で殺害された。政康は結城城を陥落させ、安王丸、春王丸を捕らえる抜群の武功を挙げた。将軍義教から感状を与えられ、太刀一腰(ひとこし)が下賜された。この合戦での奮戦により、政康の兄長将が戦死し、子の宗康が負傷している。政康は将軍義教の命に従い諸所で軍功を立て、小笠原氏の旧領を回復してきた。
 『喜連川判鑑』『上杉略譜』『足利系図』『永享後記』『足利治乱記』『永享記』など、いずれも永寿王丸は密かに逃れ大井持光に庇護されているとしている。当時、武蔵や上野国にも所領があった持光の懸命な救助活動が功を奏したようだ。『結城戦場物語』には「そののち持氏の末の御子、信濃国安養寺と申す寺に深くしのびてましますを、東国の諸侍たづねだして奉り、成氏と申して鎌倉に御所をたて、京都・田舎(鎌倉)和談して末はんじゃうとさかえり」と記す。『上杉略譜』には、「永寿王は信濃大井持光の家にかくまわれていたが、これを知る者がなく、幕府軍の総大将上杉清方も鎌倉に帰り、諸国の軍もみな帰国した」と記す。
 結城合戦から僅か2か月後、嘉吉元(1441)年6月24日、将軍義教は「結城合戦平定の祝賀」として招かれた赤松亭の祝宴の席で、首級を挙げられる無残な死を遂げた。
 小笠原政康も翌嘉吉2(1442)年8月9日、結城合戦後の事後処理を完了し、信濃の館に戻る途上、小県郡海野で病没した。享年67であった。

11)小笠原氏の内紛嘉吉の内訌
 政康は小笠原氏の全盛期を築いたが、死後間もなく内紛が生じ、伊那小笠原と府中小笠原が対立する。政康の嫡子宗康を推す一揆と、政康の兄長将の嫡子持長を推す一揆が対立する。小笠原氏の内紛の源は政康の父長基に始まる。長基には長幼順に長将・長秀・政康の3人の子がいた。長基は惣領職の譲状を若い17才の長秀に与えた。実兄長将より長秀の器量が勝っていたからと思われる。長基の所領の配分は、長秀が12か所、兄長将が2か所、弟政康が3か所、比丘尼浄契1期分2か所の計19か所であった。但し書きに兄長将と弟政康に子が無ければ、両人没後は長秀が相続する。長秀に子が無ければ、政康が譲り受けるとした。
 長秀は大塔合戦に敗れ、子もなかったため、39才の時、実弟政康に「所々朝恩之本領、恩賞之地等事」と一括譲与する譲状を渡した。但し、長秀に実子ができた場合は無効とし、さらに弟政康に実子ができない場合を想定し
 「任亡父清順(長基)之置文旨、政康可令(申せられる)相続一跡、次政康以後無実子者、自政康手、舎兄播磨守長将之嫡男可譲与彦次郎者也」と、兄長将の子彦次郎、この時9才の持長に譲与されるとした。持長は当時父長将と共に、その所領地塩尻郷にいた。
 政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と、京都にあって将軍家の奉公衆を勤める持長との間で相続争いが起きた。これを「嘉吉の内訌」といい、小笠原氏凋落の始まりとしてよく知られている。持長は、結城合戦にも将軍の命を受けて出兵し父長将戦死の痛手を受けていた。しかも将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。管領畠山持国と外戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわした。
 『小笠原文書』に政透の花押がある政康の置文が遺る。
  「こんといからへこへ候事、目出度候、諸事についていからの事は六郎(光康)にまかせ候、あいはからい候へく候、さうちて、当家の事は五郎(宗康)・六郎両人ならてはあいはからい候ましく候」とある。伊賀良は弟の六郎光康が相続し、兄五郎宗康は安曇・筑摩を伝領する意味と解される。
 嘉吉2年8月政康が没すると、持長は所領相続の権利を主張し幕府に出訴し裁断を仰いだ。
 文安2(1445)年11月24日の幕府奉行人連署意見状は「長秀譲与持長之由、雖申、不出帯証状、宗康又譲得之旨雖申、同無譲状」事を前提に、政康が宗康・光康に宛てた書状から、総じて当家の事は五郎(宗康)・六郎(光康)の相計らいに任すとあり、「宗康可領掌之条勿論」と、結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も2派に分裂して対立抗争が続いた。
 小笠原一族の赤沢満経が水内郡栗田朝日山(善光寺西方2k;川中島から北方犀川を越え安茂里の北隣り)に城を築き、持長を迎え入れた。宗康は母方の春日伊予守盛定を頼った。文安3(1446)年、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。
 足利将軍義教は前年嘉吉の乱で赤松満祐の家臣に首級をあげられている。幕府管領細川持之は、義教の嫡子9才の義勝を7代将軍にすえ、赤松満祐一族を討伐し嘉吉の乱が終結すると出家引退した。かつて持長は京都にあって将軍家の奉公衆の一員であり、持之後任の幕府管領畠山持国とは外戚関係にあった。元々信濃小笠原家は京都小笠原家が出身母体である。一族と、その有力家臣団は、京幕府の重鎮を権威とし、その出生も五畿周辺とみられる。持長が小笠原氏後継を主張する事自体に無理があり、当然幕府の裁許に敗れた。その後も強硬に出られたのも、畠山持国との縁戚関係があったためとみられる。しかし持国や幕府には、最早、諸国守護大名の内紛を統御する実力が失われていた。

 遂に、文安3(1446)年3月、善光寺表の漆田原で小笠原両軍と激突となり、数に優る宗康が当初優勢であったが、この戦闘で宗康は重傷を負った。宗康は回復は無理とさとり、同月11日付けの書状を伊賀良の弟光康に送り、惣領職と所領の一切を子国松(正秀・政貞)に譲るべきであるが、幼少のため成人するまで光康に預けると伝えた。
 持長は宗康を敗走させたといえ、家督の実権は光康に譲られているため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に安堵した。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いは強めていった。

 室町時代の外記局官人を勤めた中原康富の日記『康富記(やすとみき)』に、将軍義勝は、嘉吉3(1443)年6月19日、義教の弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見、その年7月21日に死去、在任わずか8ヶ月、享年10であった。赤痢による病死が有力視されている。後任の将軍には同母弟で8歳の義政が選出された。義勝・義政と幼少の将軍が2代続き、その間、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らいだ。常に幕府権力を背景に復活した小笠原氏も低迷し、政康の死後、下剋上の風潮に晒され、伊那と府中に割れ同族相争う過程で、全信濃的勢力から局地的勢力へと転落した。
 文安3(1446)年、善光寺表の漆田原合戦(現長野市後町;長野県庁の東隣)で持長は宗康を敗走させたが、家督相続争いは泥沼化した。宗康の子国松は光康に擁され伊那郡伊賀良を領有し、政貞・政秀と名乗り鈴岡に在住した。鈴岡城は竜丘駄科(だしな)地区の毛賀沢川と伊賀良川に挟まれた川岸段丘の突端部にあり、室町時代、松尾城の小笠原貞宗の2男宗政が築いた。標高490m、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60mの谷を隔てて松尾城址と相対していた。光康はその松尾城を拠点とした。結果、前者が鈴岡小笠原、後者光康が松尾小笠原を称した。善光寺平で戦勝した持長は、筑摩郡林城を拠点とし、井河に館を構えた。ここに小笠原は3家に分流した
。 
 宝徳元(1449)年9月細川勝元が管領職を辞した。勝元は、名門意識と強大な権力を背負って、細川惣領家に永亨2年(1430)、持之の子として生まれた。幼名は聡明丸で13歳のとき父・持之の死で家督を相続し、わずか16歳で管領に任命された。以後、死ぬまでに勝元は、通算20年以上も管領の座にあった。


 北信への進出拠点舟山郷も『諏訪御符礼之古書』から、漆田原合戦の3年後の宝徳元年には海野持幸が、その12年後の寛正2(1461)年には屋代信仲が、それぞれ御射山の頭役を割り当てられている事から、小笠原氏はその所領を失っている事が知られる。

http://rarememory.justhpbs.jp/ogasawara/oga.htm

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