だが、江戸時代になって軍記物の流行や講談本などの流布により、真田家は圧倒的な人気を博しております。なかでも徳川家康を相手に二度にわたって戦いをいどんで苦杯をのませた父の昌幸とともに、信繁は「真田幸村」の名で大坂冬・夏の陣で天下の軍勢を向こうにまわして大活躍を演じて、一躍英雄となり戦史に名をとどめている。
そうしたなかで、真田家の逸話も多彩に広がっていて、虚実も含めての真田家のルーツを物語る話や寺社・遺物・遺跡もいくつかがある。
そうしたなかで、真田家の逸話も多彩に広がっていて、虚実も含めての真田家のルーツを物語る話や寺社・遺物・遺跡もいくつかがある。
戦後、多くの歴史研究者によって、真田幸隆以前の真田氏の存在した様々な説が出てきています。
いくつかの説は唱えられているが、真偽は不明のままで、研究上の問題が残されている。
そのひとつに角間渓谷の麓で発見された日向畑遺跡の石塔群があります。
昭和46年(1971)に発掘調査で出土した石塔群の形式が室町から戦国時代にかけてのものと見られ、真田氏に縁のある先祖の墓と考えられている。しかし実際には幸隆以前の真田氏の動向など伝える資料(幸隆の両親・祖父母を祀っていない)もなく、出土したこれらの石塔群と結びつける要素は何もなく、確かなことは分からない。
奇しくも、この角間渓谷は、講談・真田十勇士の猿飛佐助修業の地ともいわれ、真田氏のルーツとして考えたい願望が、地域の人の心に根強くあったのかもしれない。
いくつかの説は唱えられているが、真偽は不明のままで、研究上の問題が残されている。
そのひとつに角間渓谷の麓で発見された日向畑遺跡の石塔群があります。
昭和46年(1971)に発掘調査で出土した石塔群の形式が室町から戦国時代にかけてのものと見られ、真田氏に縁のある先祖の墓と考えられている。しかし実際には幸隆以前の真田氏の動向など伝える資料(幸隆の両親・祖父母を祀っていない)もなく、出土したこれらの石塔群と結びつける要素は何もなく、確かなことは分からない。
奇しくも、この角間渓谷は、講談・真田十勇士の猿飛佐助修業の地ともいわれ、真田氏のルーツとして考えたい願望が、地域の人の心に根強くあったのかもしれない。
やはり幸隆以前の真田氏とは、記録に残ることのない弱小勢力であったと考えられている。
そんな関係から注目することは、地域の史観には、真田氏の先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもあって、直系ではなく、その分かれには違いなかったと思われる。
幸隆のほかにも真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける史料や遺品なりがあってもよいとおもわれるのだが、なぜかそうした類のものは伝存されておらず、ほとんど出てこないのである。
そんな関係から注目することは、地域の史観には、真田氏の先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもあって、直系ではなく、その分かれには違いなかったと思われる。
幸隆のほかにも真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける史料や遺品なりがあってもよいとおもわれるのだが、なぜかそうした類のものは伝存されておらず、ほとんど出てこないのである。
今からおよそ1,300年ほど前の奈良時代の大化改新(645)によって、国造により地方政治は、大和政権から任命された国司・郡司による政治へと変革された。
朝廷が地方を支配するために国府(今でいう県庁にあたる)が各地に設置されました。
地方の研究家の説としては、信濃の政治をおこなう国府が上田近辺(国分寺付近)に置かれ、その国府には政治や軍事のための軍馬・役人の乗馬・物資の輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬を多数備えられる牧場がなくてはならない。
したがって当然この馬を飼育し、それを守る衛士が必要であり、その国府直属の牧経営にあたったのが真田氏の祖であろうというもので、国府兵馬の運営を基盤に、古代から成長してきた家だというのである。
古代の牧場に関係する地名(野馬除・鞍掛・牧内など)や遺跡が多く残されていて、また牧場の守護神といわれる駒形神社や馬頭観音を祀る古代の寺も現存している。
朝廷が地方を支配するために国府(今でいう県庁にあたる)が各地に設置されました。
地方の研究家の説としては、信濃の政治をおこなう国府が上田近辺(国分寺付近)に置かれ、その国府には政治や軍事のための軍馬・役人の乗馬・物資の輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬を多数備えられる牧場がなくてはならない。
したがって当然この馬を飼育し、それを守る衛士が必要であり、その国府直属の牧経営にあたったのが真田氏の祖であろうというもので、国府兵馬の運営を基盤に、古代から成長してきた家だというのである。
古代の牧場に関係する地名(野馬除・鞍掛・牧内など)や遺跡が多く残されていて、また牧場の守護神といわれる駒形神社や馬頭観音を祀る古代の寺も現存している。
今から1,200年前、信濃国に古代の名族大伴氏が栄えていて、牧の経営にかけては比類のない力を発揮したといわれている。
東信濃でも平安初期に書かれた古い書物『日本霊異記』に大伴氏なる豪族が海野郷にいたことが記されている。
また、北佐久郡の有名な望月の牧には「大伴神社」が祀られています。
東信濃でも平安初期に書かれた古い書物『日本霊異記』に大伴氏なる豪族が海野郷にいたことが記されている。
また、北佐久郡の有名な望月の牧には「大伴神社」が祀られています。
この勅旨牧は、信濃・上野・甲斐・武蔵の四カ国に限って32牧が指定されており、信濃国は、一国だけでその半数の16牧が勅旨牧となっている。
新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬を出すことで「望月の駒」として詠にも多く詠まれたことはよく知られているとおりである。
だが、信濃の国牧の牧名に真田らしき名が見あたらないことから、これは海野・望月氏らは「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という違った性格をもっていたからではなかろうか。
やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化され、そのころから真田氏を名乗ったのではなかろうか。真田氏は、この私牧を基盤として地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
また信濃国牧のなかにも牧名がなく、南北朝の争いの頃の信濃の武士の中にも名が見られないことからも、これまでに確証されるには至っていなく、推測の域を出ません。
新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬を出すことで「望月の駒」として詠にも多く詠まれたことはよく知られているとおりである。
だが、信濃の国牧の牧名に真田らしき名が見あたらないことから、これは海野・望月氏らは「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という違った性格をもっていたからではなかろうか。
やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化され、そのころから真田氏を名乗ったのではなかろうか。真田氏は、この私牧を基盤として地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
また信濃国牧のなかにも牧名がなく、南北朝の争いの頃の信濃の武士の中にも名が見られないことからも、これまでに確証されるには至っていなく、推測の域を出ません。
このほかに、真田氏を日本武尊の末裔の綾公という説。また『真武内伝』には、仁明天皇のころ来朝した百済国の王の子孫とする説まである。
真田家系図
さらに、その海野氏に証明できる清和天皇に繋がる伝承があります。
清和天皇の第四皇子貞保親王を始祖とするものです。
貞保親王は、音楽の名人だといわれ、そのため「南宮管絃仙」と呼ばれていました。
ある日、御所で管絃が行われ、貞保親王は琵琶を弾じていました。
その音色に誘われて、燕が一羽室内に飛び込んできました。親王はツバメに目を向けたそのとき燕が糞を落とし、それが親王の眼の中に入り、親王はそれが原因で重い眼病を患ってしまう。
しかし都の名医に診せても一向に治らない。
ある人が「信濃国の加沢温泉(現在の群馬県嬬恋村)に眼病が治るそうです」と聞き、そこで親王は信濃国に赴き、深井という家に滞在して湯治に努められた。
眼の痛みは消えたが視力は回復しなかった。結局盲目になってしまった。
そのため親王は都には帰ることなく、小県郡海野白鳥庄で暮らすこととなった。
やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生れ善淵王と称し、初めて滋野姓を賜るという。
善淵王の玄孫にあたる滋野則広の子・重道の代には海野氏を名乗るようになり、その子の代には祢津氏・望月氏へと分かれていく。一族を滋野三家とも称され、信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも栄えていった。
また「新撰姓氏録」によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔ともいわれている。
清和天皇の第四皇子貞保親王を始祖とするものです。
貞保親王は、音楽の名人だといわれ、そのため「南宮管絃仙」と呼ばれていました。
ある日、御所で管絃が行われ、貞保親王は琵琶を弾じていました。
その音色に誘われて、燕が一羽室内に飛び込んできました。親王はツバメに目を向けたそのとき燕が糞を落とし、それが親王の眼の中に入り、親王はそれが原因で重い眼病を患ってしまう。
しかし都の名医に診せても一向に治らない。
ある人が「信濃国の加沢温泉(現在の群馬県嬬恋村)に眼病が治るそうです」と聞き、そこで親王は信濃国に赴き、深井という家に滞在して湯治に努められた。
眼の痛みは消えたが視力は回復しなかった。結局盲目になってしまった。
そのため親王は都には帰ることなく、小県郡海野白鳥庄で暮らすこととなった。
やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生れ善淵王と称し、初めて滋野姓を賜るという。
善淵王の玄孫にあたる滋野則広の子・重道の代には海野氏を名乗るようになり、その子の代には祢津氏・望月氏へと分かれていく。一族を滋野三家とも称され、信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも栄えていった。
また「新撰姓氏録」によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔ともいわれている。
また、江戸時代に幕府の求めに応じて作成された『真田家系図』によると、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡海野郷(現在の長野県東御市)の海野棟綱の子である幸隆が小県郡真田の庄を領し、松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったとしている。
当時、戦国大名家の系図づくりの際、出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とするのは疑わしいものです。
また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾してしまう。海野氏からの改称も、自らを信濃の名族、滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証できていない。
当時、戦国大名家の系図づくりの際、出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とするのは疑わしいものです。
また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾してしまう。海野氏からの改称も、自らを信濃の名族、滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証できていない。
真田系祭神
伝承の域を出ない起源譚は、京都山科に伝わる貞保親王説話が信濃で在地化されてきたものと考えられるが、これが海野・真田氏の氏神、白鳥神社の祭神伝承であり、松代藩の編纂した『真武内伝』に伝わる滋野一族のおこりである。
やがて親王が延喜2年(902)4月に死去され、法名「海善寺殿」とし、のちに海野氏居館の鬼門に建立された海善寺の開基と伝えられている。
その後、真田昌幸の上田築城のときに城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社とともに遷され「開善寺」と改称されて、今日に至っております。
その後、真田昌幸の上田築城のときに城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社とともに遷され「開善寺」と改称されて、今日に至っております。
また親王を祀っている宮嶽山稜神社(現在東御市祢津)が建立された。
その後、江戸時代に松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録がある。
真田家当主により「先祖」としているところが研究者の興味を引くのである。
その後、江戸時代に松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録がある。
真田家当主により「先祖」としているところが研究者の興味を引くのである。
こうした点から、真田氏が海野氏らの滋野一族と深いかかわりがあると考えるのは、なにも不自然なことではない。ここでいう滋野一族とは信濃の小県から佐久方面に、また西上州方面にも勢力のあった名族の総称であることから、まず滋野一族の流れから海野・真田氏を考察してみよう。
滋野氏と海野氏
滋野姓そのものの名は古く、平安時代の『六国史』に滋野朝臣貞主とある。
その父は楢原造東人なる人物で、ゆかりが深いとされる大和国葛上群楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある地名である。
ここに駒形大重神社が鎮座し、祭神は二座で一座は滋野貞主が祀られている。
全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物と考え、楢原東人の先祖の地を推察するに信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)にも何らかのつながりがあるのだろうか。
その父は楢原造東人なる人物で、ゆかりが深いとされる大和国葛上群楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある地名である。
ここに駒形大重神社が鎮座し、祭神は二座で一座は滋野貞主が祀られている。
全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物と考え、楢原東人の先祖の地を推察するに信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)にも何らかのつながりがあるのだろうか。
楢原貞主は、奈良の平城京から大同元年(806)5月18日平安遷都により、平安京の滋野という地 (京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって滋野貞主となったと思われる。
この貞主の孫が滋野恒蔭、その恒蔭の子恒成は清和天皇の皇子貞保親王の家司となっている。
妹は貞保親王に嫁いだ。
滋野恒成の子恒信は、天暦4年(950)2月に信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
海野の一族で他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者は共に牧の管理者として居住していた。
その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家とよんでいる。
その中でも海野氏は早くからその頭角をあらわし、もっとも勢力さかんで、当主は代々信濃守を称した。
鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏が出て、騎手の名手として名をはぜ、このころから海野氏は各地に支族をひろげ繁延していった。信州筑摩郡に移住したものに、会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下尾・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だといわれ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。
この貞主の孫が滋野恒蔭、その恒蔭の子恒成は清和天皇の皇子貞保親王の家司となっている。
妹は貞保親王に嫁いだ。
滋野恒成の子恒信は、天暦4年(950)2月に信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
海野の一族で他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者は共に牧の管理者として居住していた。
その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家とよんでいる。
その中でも海野氏は早くからその頭角をあらわし、もっとも勢力さかんで、当主は代々信濃守を称した。
鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏が出て、騎手の名手として名をはぜ、このころから海野氏は各地に支族をひろげ繁延していった。信州筑摩郡に移住したものに、会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下尾・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だといわれ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。
海野氏としての最古の書見が保元元年(1156)7月に起きた「保元の乱」の記述にある。
8代海野幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士300余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。
以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々、弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。
8代海野幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士300余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。
以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々、弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。
『浅羽本』信州滋野三家系図に記されている。
この系図によると真田氏の祖は、海野氏から早い段階で分かれ一族で、古く鎌倉時代(1,200ごろ)中期とされております。
すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した海野小太郎幸氏の孫で、海野長氏の子に、四男七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
この『真田七郎幸春』が真田氏発生の源流ではあるまいか。
ただし、これも証拠がなく裏づけがとれません。
この系図によると真田氏の祖は、海野氏から早い段階で分かれ一族で、古く鎌倉時代(1,200ごろ)中期とされております。
すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した海野小太郎幸氏の孫で、海野長氏の子に、四男七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
この『真田七郎幸春』が真田氏発生の源流ではあるまいか。
ただし、これも証拠がなく裏づけがとれません。
滋野氏流海野氏の功名の一大起点は木曽義仲の挙兵であろう。
源義朝の異母弟義賢の子として生まれた義仲は、源氏の内紛を逃れ木曽の中原兼遠に預けられ育てられた。
治承4年(1180)以仁王より平家追討の令旨を受けた義仲は、東信濃の馬飼の豪族、滋野一族根井行親らを頼り挙兵する。
8代海野幸親を筆頭に滋野一族の全面的な後楯もあり、さらに北信の源氏も上州武士団も加わり、海野氏の氏神である白鳥神社前の白鳥河原に3,000騎を集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。
源義朝の異母弟義賢の子として生まれた義仲は、源氏の内紛を逃れ木曽の中原兼遠に預けられ育てられた。
治承4年(1180)以仁王より平家追討の令旨を受けた義仲は、東信濃の馬飼の豪族、滋野一族根井行親らを頼り挙兵する。
8代海野幸親を筆頭に滋野一族の全面的な後楯もあり、さらに北信の源氏も上州武士団も加わり、海野氏の氏神である白鳥神社前の白鳥河原に3,000騎を集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。
『源平盛衰記』によれば、海野幸親の嫡男、9代幸広は義仲軍の侍大将として活躍、都落ちした平家の追手として水島合戦に挑むも不慣れな海戦で平家の逆襲を受け討死にした。
その際、海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの州浜から「六連銭」紋を旗印としたと、松代藩編纂による『滋野通記』は伝えている。
その際、海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの州浜から「六連銭」紋を旗印としたと、松代藩編纂による『滋野通記』は伝えている。
http://musha.mobi/index.php?%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A7%8B%E7%A5%96
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