南北朝時代、鎌倉での北條氏敗北が、北條勢力の一掃を意味するわけではなく、全国各地にはなお北條氏に心寄せる武士もいた。
ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月時行は挙兵し、滋野一族の祢津・望月・海野らは、これに応じた。
勢いに乗じた時行軍は、足利直義らの防戦を退け、7月25日鎌倉を回復して、これを中先代と称せられた。
しかし僅か20日ほどの後には足利軍に攻められて破れ、頼重・時継は自害した。
だが、建武新政は同じ年10月の尊氏氾濫で早くも分裂し、宮方(南朝)と武家方(北朝)にわかれて戦闘を始めた。すると時行は使いを後醍醐天皇の吉野行在所に送って帰順を表明し、ここに信濃の中先代党(北條党)は宮方につくこととなった。
しかし武家方の勢力は小笠原氏・村上氏を中心に強力で、諏訪氏・金刺氏を中核とする宮方を圧倒し、暦応3年(1340)に伊那・大徳王寺城で挙兵した時行を討って、その優勢ははっきりとし、文和4年(1355)の桔梗ケ原の戦いで宮方の退潮が決定的となった。
ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月時行は挙兵し、滋野一族の祢津・望月・海野らは、これに応じた。
勢いに乗じた時行軍は、足利直義らの防戦を退け、7月25日鎌倉を回復して、これを中先代と称せられた。
しかし僅か20日ほどの後には足利軍に攻められて破れ、頼重・時継は自害した。
だが、建武新政は同じ年10月の尊氏氾濫で早くも分裂し、宮方(南朝)と武家方(北朝)にわかれて戦闘を始めた。すると時行は使いを後醍醐天皇の吉野行在所に送って帰順を表明し、ここに信濃の中先代党(北條党)は宮方につくこととなった。
しかし武家方の勢力は小笠原氏・村上氏を中心に強力で、諏訪氏・金刺氏を中核とする宮方を圧倒し、暦応3年(1340)に伊那・大徳王寺城で挙兵した時行を討って、その優勢ははっきりとし、文和4年(1355)の桔梗ケ原の戦いで宮方の退潮が決定的となった。
応永7年(1400)7月、念願の信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃に入り各地の豪族(国人)を招集した。しかし長秀の傲慢なふるまいに対して、東信濃や北信濃の古くからの在地豪族が反感を招き、いわゆる信濃の国人たちが団結して立ち上がり、長秀を打ち破って、都に追い返してしまう事件が勃発した。
同年9月のことで、場所は大塔(長野市篠ノ井)の古要害に逃げ込んだ守護方300余騎が、ほとんど自害・討死するという凄惨な結末を戦場としたことから大塔合戦と称せられた。
このときの様子を綴った『大塔物語』には、信濃各地の豪族の動向が記録されている。
その中心人物は村上満信であるが、その戦いには佐久勢(伴野・望月等)は700余騎で雨の宮対岸に、海野宮内少輔幸義ら小県軍勢は300余騎で篠ノ井山王堂に、高梨勢は500余騎で篠ノ井二つ柳に、井上勢は500余騎で千曲川式に、大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に800余騎で布施城後方の芳田崎石川にと、総数3,300余騎が大集結した。
その大塔城攻めで、海野氏のもとに中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏、また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで、合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾氏などの諸氏が参加していたと書かれている。
ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録がみられ、数集落を支配していた小領主と考えられる。
「横尾」「曲尾」も現在、真田地域の小字名に見られるものである。
「実田」は「真田」と読み間違いか、当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いと思われる。
この頃、真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに、真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語るものであり、真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。
海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏とは同族意識があっての行動であろう。
同年9月のことで、場所は大塔(長野市篠ノ井)の古要害に逃げ込んだ守護方300余騎が、ほとんど自害・討死するという凄惨な結末を戦場としたことから大塔合戦と称せられた。
このときの様子を綴った『大塔物語』には、信濃各地の豪族の動向が記録されている。
その中心人物は村上満信であるが、その戦いには佐久勢(伴野・望月等)は700余騎で雨の宮対岸に、海野宮内少輔幸義ら小県軍勢は300余騎で篠ノ井山王堂に、高梨勢は500余騎で篠ノ井二つ柳に、井上勢は500余騎で千曲川式に、大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に800余騎で布施城後方の芳田崎石川にと、総数3,300余騎が大集結した。
その大塔城攻めで、海野氏のもとに中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏、また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで、合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾氏などの諸氏が参加していたと書かれている。
ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録がみられ、数集落を支配していた小領主と考えられる。
「横尾」「曲尾」も現在、真田地域の小字名に見られるものである。
「実田」は「真田」と読み間違いか、当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いと思われる。
この頃、真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに、真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語るものであり、真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。
海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏とは同族意識があっての行動であろう。
この合戦後も信濃では領主の反乱が続いたが、小笠原政康(長秀の弟)は次第に勢力を伸ばし、応永32年(1425)信濃守護となり、永享12年(1440)の3月から翌嘉吉元年(1441)4月にかけて、一年の余も、ここにあった下総の結城城を囲んで大合戦が行われた。
上杉氏との戦いで滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝が室町幕府を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この合戦に信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
このとき作られた『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野幸数があり、27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名がみられる。
その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献されている。つまり、ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏の祖にあたると考えられ、真田郷から参陣した可能性が高いとされる。
上杉氏との戦いで滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝が室町幕府を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この合戦に信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
このとき作られた『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野幸数があり、27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名がみられる。
その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献されている。つまり、ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏の祖にあたると考えられ、真田郷から参陣した可能性が高いとされる。
この時期の海野氏の所領は、海野郷を中心にして、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境付近の祢津氏所領、西は房山・踏入、南は千曲川北岸小田中氏所領までとされており、海野平の海善寺と大平寺の一族は代官として従い、深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたと考えられる。
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。
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