2021年3月16日火曜日

不破家系譜の諸説

 

不破家系譜の諸説


(1)不破郡垂井町宮代の南雲大社社家の不破家説

 壬申の乱の折、大海人皇子を助け、不破の関を固め、大津宮に遷都された天智天皇の御子・弘文天皇に味方するために駆せ参じた関東からの軍勢を止め、大海人皇子・後の天武天皇よりその功績を認められ、不破大領(不破郡)に任んじられた「不破勝木実」の系統。この不破家は南宮大社社家の不破家で、全国の不破家の惣領として間違いなく、現在も宮代の不破家として繋がっている。


(2)西保(にしのほ=現在の神戸町)の戦国武将の不破家説

 西保不破家は織田信長の要職を務めた不破河内守光治の系統。西保不破家の系図は「不破家家譜」として「金沢市立近世史料館」にある。南宮大社社家の不破家を先祖としている系譜。

 不破河内守光治は西美濃4人衆(氏家卜全・安東守就・稲葉良通)と称せられ、先祖はは長碌年間(1457~1459)垂井府中城主・不破河内守直道-小太郎-孫左衛門道廣(神戸の西保城)-彦左衛門通直-不破河内守光治につながる。光治は元々守護大名の土岐頼芸(よりなり)の臣下であったが、土岐家滅亡後は斎藤氏に仕えた。織田信長が永禄10(1567)年斎藤龍興を滅ぼし、この時から信長の幕下に入る。天正3(1575)年は前田利家・佐々成正とともに信長の命で柴田勝家の目付として越前の一向門徒との戦いに従軍。

  光治は嫡子・不破彦三直光に家督を譲り、天正10年ごろ、能登の一向宗門徒との戦いで、能登・羽咋で流れ弾に当たり落命したとつたえられる。。光治嫡子・彦三直光により高野山の菩提寺・遍明院に葬られた(今は遍明院は消滅して跡形もなく、不破河内守光治の墓所は、高野山の何処にあるのか不明になっている)

 その後、嫡子・不破彦三直光は、信長亡き後の天下取りを狙う羽柴秀吉と柴田勝家側の反秀吉軍に組して、賤ヶ岳の戦いに出陣し、秀吉と敵対する立場を取った。 秀吉が天下統一後、浪人していたが、前田利家にその武勇を認められ、2万3000石で召し抱えられた。金沢城の鬼門にあたる北東の浅野川河畔に至るまでの広大な土地を与えられ、今も金沢市に「彦三町」として名前も残っている。


(3)東濃の遠山刑部丞正元の子孫とする説

(4)垂井青墓長者大炊兼遠の末流とする説

(5)岐阜県では「松井蔵人直家」を出自とする説・・・不破郡史(下記)


https://www.fuwaiin.com/fuwaiin-stage-2-5(history).htm


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