2021年3月17日水曜日

大伴氏の子孫 

名族だった大伴氏の子孫 

 こちらはかなり困った御仁である。大化前代の名族である大伴(おおとも)氏の末裔である。当時は淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)である大伴親王を憚って、伴氏を名乗っていた。伴氏は古代では「とも」と発音していたが、後世は音で「ばん」と読むようになった。

  その大伴氏の、金村(かなむら)から数えて五世孫に、弥嗣(いやつぐ)という男がいた。先祖の名誉を弥(いよい)よ嗣ぐようにとの父伯麻呂(おじまろ)の願いが込められた名だったのであろう。

 弥嗣の卒伝は、『日本後紀』巻三十一の弘仁十四年(八二三)七月甲戌条(二十二日)に、次のように記されている。

越後守従四位下伴宿禰弥嗣が卒去した。弥嗣は従三位伯麻呂の息男である。延暦十九年に従五位下に叙され、大宰少弐に任じられた。弘仁七年に従五位上、十三年に正五位下、十四年に従四位下に叙された。たいそう歩射(ぶしゃ)に巧みで、若い時から鷹犬を好んだ。邪悪な性格で、人を射ることを憚らなかった。晩年には気持を改め、暴慢の評判は聞こえなくなった。時に年は六十三歳。

 大伴氏の先祖には、継体・欽明朝の「大連」とされる金村をはじめ、大化改新に活躍した咋(くい)や長徳(ながとこ/右大臣)、壬申の乱の功臣である馬来田(まぐた/納言か)・吹負(ふけい)・御行(みゆき/大納言)・安麻呂(やすまろ/大納言)など、錚々たる顔ぶれを輩出している。

  しかし、律令国家がスタートすると、藤原氏に圧され、徐々にその地位を低下させていった(藤原氏以外の氏族は、皆、そうだったのであるが)。七世紀には文筆を表わす「史(ふひと)」という名であった「ふひと」が、並ぶ者がないという意味の「不比等(ふひと/比び等しきはあらず)」と改称し、「たびと」が「旅人」から、どこにでもいるという意味の「多比等(たびと/比び等しきは多し)」という字で表記されるようになったのが、それを象徴している。

 それでも嫡流の旅人は大納言、家持(やかもち)は中納言にまで上っている。弥嗣の系統でも、祖父の道足(みちたり)、父の伯麻呂は、共に参議に任じられた。伯麻呂の子は、名鳥(なとり)は官位不詳で、早世したものと思われる。


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60316

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