2015年5月18日月曜日
つまり、古来中国の秦一族では無い。大秦の秦であります。
禹豆麻佐(うずまさ)と云う姓を貰ったのでありますが、太秦の漢字を当て、土地名にした。どう考えても、太秦(うずまさ)とは読めませんな。
奈良法隆寺建設の折り、胡人を雇ったと云う記述が残っている。河勝の一派だったのではないか?河勝は太子を郷に招待したでしょう。太子は仏教に帰依していた。太秦は異教だと解っていたので、そうそう行ったとは思えない。其の為、聖徳太子が基督教だったと云う伝説があります。
聖徳太子、メシアとなりて
河勝は太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建てた。其の寺には、色色な隠しサイン(暗号)が在る。
意味不明な立体三柱鳥居。いすらえ(えすらえ~イスラエル、イスラム?)の井戸。
三柱鳥居は全国に数カ所存在しております。其の1つ東京向島の三囲神社は三井財閥と関係が深い。
出典
http://hachi-style.jugem.jp/?eid=348
中沼〔長沼〕
○ 秦系氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。
(1) 弓月君一族の後裔……応神朝投化。
秦公(録・河内)、秦造(録・左京)、秦連、秦忌寸(秦伊美吉。録・左京、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉。下司-丹波国山国住。なお、散楽の金春、竹田は、大和国十市郡に起り、秦河勝後裔と称するも、本来は別族か〔その場合、結崎、観世と同じ服部連の流れか〕)、太秦公、太秦公宿祢(録・左京)、太秦宿祢(上と同じか。東儀、薗、林-摂州天王寺伶人なり。岡-大和国百済川東岡村林寺村にあり、また、蒲生家臣に近江国蒲生郡木津邑の岡より起る岡氏あり。なお、薩摩で太秦姓を称した牛屎一族については疑問もあり、隼人族の項も参照のこと)、太秦公忌寸、賀美能宿祢、秦下、秦前(秦下、秦前は秦忌寸と併用)、大秦連。
秦宿祢(録・河内。三上-京人御随身。長曽我部-三上支流で土佐に住、元来は当地の古族裔に三上から入嗣か、その一族は三輪氏族を参照のこと。久武-三上同族、土佐住人。横山-三上同族。土山-京官人で近衛府官人。仲村-紀伊人。大平-伊賀国阿拝郡人。羽田-信濃国小県郡人。桑原-同州諏訪郡人。堀井-備前に住。祓川-秦中家忌寸裔、山城国伏見の稲荷社祢宜。以下同族で稲荷社祠官には、西大路、平田、針小路、大西、祓川、安田、東大西、新大路、新小路、松本、森、毛利、南松本、吉田、沢田、中津瀬、鳥居南、橋本、市村など。稲荷社下級社人の秦姓長谷川・山田も同族か)、惟宗朝臣(平井-筑前大宰府執事職。薩隅の島津、対馬の宗などは大いに栄えたが、これらは後に別掲)、伊統朝臣、令宗朝臣。
朴市秦造、依智秦公(依知秦公。湯次-近江国浅井郡人。西野、東野、大矢田、酢村、田根、川道-同上族)、依智秦宿祢。依知勝も同族か。
朝原忌寸、朝原宿祢、朝原朝臣(村田-石見出雲人、刀工鍛冶工)、時原宿祢、時原朝臣(西院-山城国葛野郡人)、秦物集、物集(録・山城未定雑姓)、物集連(録・左京未定雑姓。物集〔物集女〕-山城国乙訓郡人)、物集忌寸。
大蔵秦公(河内国茨田・讃良郡の太秦姓を称する西嶋・大津父・茨木・平田一族はこの流れか)、秦大蔵造、秦大蔵連、秦大蔵忌寸、秦長蔵連(録・左京)、秦中家忌寸、井手、井手公、秦井手、秦井手忌寸、秦子(秦許)、秦原公、秦上、秦人(録・右京、摂津、河内)、辟秦、秦勝(録・和泉)、簀秦画師、寺、寺宿祢、高尾忌寸(録・右京、河内。高尾-河内、近江の人)、高尾宿祢(高尾-備後人)、秦冠(録・山城)、大里史(録・河内。小松-土佐国香美郡人、称平姓)。
秦姓(録・河内)、秦長田、秦倉人、秦首(秦毘登)、秦羸姓、秦調曰佐、秦高椅、高橋忌寸(高椅忌寸)、秦栗栖野、弖良公(録・右京未定雑姓。寺と同族か)、広幡、秦人広幡、広幡公(録・山城未定雑姓)、広幡造、奈良忌寸、秦達布連、秦田村公、秦常忌寸、秦河辺忌寸、秦曰佐。寺史も同族か。国背宍人(録・山城未定雑姓)も、秦同族とされるが、その場合は物集の同族か、しかし、疑問な面もあり、あるいは本来別族で和邇氏族か。古代では国瀬(無姓)も見える。中世の乙訓郡東久世庄の国人、久世・植松・片岡・築山・石倉などは族裔か。
なお、系譜不明であるが、清科朝臣も秦一族ではなかろうか。また、韓国人都留使主の後裔とする朝妻造(録・大和諸蕃)も弓月君とともに来朝したものか、と太田亮博士が記す。朝妻手人・朝妻金作はその族か。系統不明だが播磨国赤穂郡郡領に秦造がおり、寺田氏はその後裔。
これらのうち、特に惟宗朝臣の一族は諸国に分布したが、島津、執印、宗、神保がその中でも大族であった。島津と執印とは比較的近い同族関係にあったものとみられる。
●島津-中世藤原氏を称し後には又源氏を号す、武家華族。薩摩、大隅に住して大繁衍して奥州家・相州家・薩州家などの有力一門のほか、一族の苗字多し。島津支族は若狭、越前、播磨、信濃、甲斐等にもあり。主な苗字としては、
伊集院、石谷、南郷、入佐、町田、飯牟礼、猪鹿倉、有屋田、中村、石原、門貫、今村、麦生田、今給黎、大田、松下、知覧、宇留、宇宿、宮里、給黎、阿蘇谷、山田、伊作〔伊佐〕、津野、恒吉、神代、若松、西田、出水、佐多〔佐太〕、伊佐敷、新納、西谷、樺山、池尻、宮丸、北郷、末弘、神田、大崎、石坂、豊秀、河上〔川上〕、小原、山口、姶良、碇山、吉利、大野、寺山、西川、三栗、岩越、大島、竹崎、義岡、志和池、寺山、桂、迫水、喜入、安山、音堅、梅本、邦永、達山、龍岡、日置、野間、藤島、原、道祖、三崎、村橋、小林、郷原、永吉など-以上は薩摩・大隅に居住の島津一族。
中沼〔長沼〕、角田-信濃国水内郡人。堤〔津々見〕、若狭、多田、三方、井崎〔伊崎〕-若狭国三方郡等住の島津一族。野々山-信濃、三河人。上田-信濃人。
●執印-薩摩国高城郡の新田八幡宮祠官。鹿児島、国分、中島、平野、市来、羽島、吉永、光富、向、馬場、小野田、橋口、河上、川原〔河原〕、下〔志茂〕、角、五代、河俣、河崎、厚地、田口、兼対、東向寺、松村、上松〔植松〕-以上は執印一族で、薩摩国鹿児島郡等に居住。
●宗-対馬の守護、幕藩大名で称平姓。一族は島内各郡主として繁居したが、天文十五年、本宗以外の支庶流(三十超の家)が宗を名乗ることを禁じられて別の苗字を名乗った。それらを含めて庶子家としては、柳川、高瀬、佐須(のち杉村)、久和、内山、古里、網代、大石、三山、宮、岩崎、西山、佐々木、長田(のち幾度)、志賀、皆勝、園田(のち古里)、佐護、久須、長野、大江、島本、瀬戸、仁田、中山、向日、横松、一宮、長瀬、井田、岡村、川上、小森、氏江、中村、川本、大浦、木寺、仁位〔仁伊〕、峰、吉田、波多野、津奈-以上が対馬の宗一族。宗の支族は肥後国山本郡に分る。
●神保-近江国甲賀郡神保庄ないし上野国多胡郡より起り(後者が妥当で、その場合実際の出自は毛野族裔か)、越中紀伊に住。その一族に花田、多胡。
このほか諸国では、飾西、中山、志婆-播磨国飾磨郡人。
(2) 己知部系……欽明元年投化して大和国添上郡山村郷等に居住。太田亮博士は、この己知部の投化は紀臣族珍勲臣に従ったものとみているが、居住地などからみて、その指摘の通りという可能性が強い。
己智(己知、巨智、許知、許智。録・大和)、道祖首、三林公(録・大和)、山村忌寸(録・大和)、山村許知、山村宿祢(京官人で九条家侍の山村氏は末流か。山村は江戸期の下雑色、また大和国城下郡にもあり)、桜田連(録・大和)、紀朝臣(山村忌寸の賜姓)、巨智臣、巨智宿祢。添上郡山村郷の仕己知も同族か。
奈良許知(楢許智)、大滝宿祢、奈良訳語(奈羅訳語、楢曰佐)、長岡忌寸(録・大和。長岡-山城国筒城郡人。山村、市村、井村、宮崎、宮島、徳田、小川、田宮、中村、水取、大富、木村、久保、吉村、内田-以上は長岡の一族)、古曰佐。
磐城村主(石城村主。漢系石寸村主同族との伝承もある)、荷田宿祢(ただし、男系は穴門国造一族の後。羽倉-山城国稲荷社造宮預、東、西、京、北の四家あり。安田-山城国下久我住。伏見-堺町人。石城-摂津人)、磐城宿祢(筒井、佐脇-甲州人)。
(3) 高陵氏高穆後裔……高陵高穆は秦王族高陵君参の後といい、漢土から建安廿二年に百済に入ったが、この子孫はのち二派に分れ、一派は東漢直掬とともに投化して大石村主の祖となり、もう一派は楽浪氏として天智朝に投化し高丘宿祢の祖となった。
大石村主(生石村主。録・左京の大石は村主姓脱漏か。なお、近江国栗太郡大石村を本拠とした大石党は、秀郷流藤原氏の裔と称したが、太田亮博士の指摘のように、大石村主の後裔か。一族に同国甲賀郡の小石。また、大名家浅野氏に仕えた大石内蔵助良雄一族も同流で、一族に小山もある)、大山忌寸(録・右京)、大石宿祢(堀川-京官人、醍醐家諸大夫)、高丘連、高丘宿祢(録・河内。高岡-京官人、のち河内国梶ケ島村に帰農して名主)。百済人木貴の後という大石林(録・右京)、百済人庭姓蚊爾の後という大石椅立(録・右京)もこの同族と推される。
出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
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中国古代の秦王朝が卵生説話をもち、鳥トーテムをもつ部族であったらしいことは、中国神話の研究家白川静氏*33が指摘するところである。秦の卵生説話は『史記』の秦本紀に見え、その祖女脩が機織りをしていたとき、玄鳥(黒い鳥。一説に燕とされるが、それに限らないと思われる)が落とした卵を呑み、子の大業を生んだという。大業の子の大廉は鳥俗氏の祖であり、その玄孫の中衍は身体が鳥で人語をよくしたと記される。
また、『山海経』の海内経には、贏民という鳥の足をした民族もいたと記すことにも注目される。鳥祖卵生説話をもつ秦の姓が氏で、が贏に通じることは、本稿のはじめに記したところである。
わが国の秦氏についても、鳥にまつわる伝承が『山城国風土記』逸文に見える。同逸文によると、二つの伝承があげられる。
まず、『神名帳頭註』による「伊奈利社」についてであり、イナリというのは、秦中家忌寸等の遠祖・伊侶具の秦公は稲・粟などの穀物を積んで富裕であったが、餅を用いて的とし弓を射たところ、餅は白い鳥となって飛び翔け、山の峰にとまり、化して稲が生いたので、遂に社名とした。その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を引き抜いて家に植えて、これを祈り祭った。いまその木を植えて蘇きづけば福が授かり、枯れれば福がない、という。
次に、『河海抄』にあげる「鳥部里」についてで、鳥部というのは、秦公伊呂具が的とした餅が鳥となって飛び去った、その森を鳥部というと記される。
ともに、秦公伊呂具に関する伝承で、当時の秦氏の富裕さがうかがわれる。この伊呂具は山城国深草里の人で、和銅ころに活躍したとされる。伊呂具は、欽明朝に大蔵省を拝命した大津父の玄孫で、その後裔は伏見の稲荷大社の祠官家(大西・松本・森・鳥居南などの諸家がある)として近世に至ったものである。
餅の的を射たところ白い鳥と化して飛び去ったという伝承は、豊後国にもある(『豊後国風土記』速見郡の田野条。「塵袋」所収の逸文によると、大分郡の人が玖珠郡に来住して、そこでの話とする)。こちらのほうは、具体的な人名を記さないが、豊前・豊後には秦氏系統ではないかとみられる人々が多いので、これらにつながる伝承なのかもしれない。この話は単純に奢りをいましめるものであるが、稲の精霊が霊性があるといわれる白鳥に化したということで、鳥トーテムをもつ部族に伝えられたものではなかろうか。
鳥部里は、『和名抄』では愛宕郡鳥戸郷とあげられ、現在の京都市東山区の地域内となっている。その遺称地としては、清水寺の西南の鳥辺山・鳥辺野がある。この地名の由来としては、吉田東伍博士のように、捕鳥または鳥飼の部民の居住地とされるが、鳥戸郷は深草郷の二、三キロほど北にすぎず、秦氏の一族も居住していたとみられる。確実なところでは、鳥部郷の粟田朝臣弓張の戸口の秦三田次が史料に見える(天平十五年正月七日付「優婆塞貢進解」)。
大陸を遠く離れて、しかも秦始皇の時代から千年ほども隔ててなお、わが国の秦氏が鳥トーテムの名残を伝えているとみたら、始皇帝の後裔という出自を全くの仮冒として否定することは、できないのではなかろうか。
秦王朝は中国の西疆たる陜西省の地に興起したが、鳥トーテムをもつ東夷の一派が西遷したものとみられている。秦と同じ姓や同族の偃姓の諸国が春秋時代に山東からその南方にかけて展開したという事情も、その辺の傍証となろう。東夷はツングースとも同系統の種族とみられるから、これらの同種族が朝鮮半島を南下して日本列島に渡来したことは十分に考えうる。
古代の朝鮮関係で秦姓の人が活躍した例もある。『魏略』には、戦国七雄の一の燕が東北方への侵略を行い、秦開という将軍を派遣して箕子の後の朝鮮侯を討伐し二千里の地を奪ったと記される。その時期は燕の全盛時代の昭王(前311~前279在位)のときとみられる。秦開という人物は『史記』匈奴伝にも見え、燕の賢相・秦開はかって人質として東胡にあり、厚い信を得たが、帰国してから東胡を破り千余里を得、その地に燕は五郡を置き長城を築いて胡人を防いだとある。
この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。
『史記』等の秦関係記事にあたってみても、始皇帝の一族が朝鮮半島に来住したことは見られない。当時かなり多かったとみられる秦王族のなかで、史料に名をあげられる者は少なく、始皇帝の兄弟では長安王成が秦王政の八年に叛乱を起こし敗れて自殺したくらいである。始皇帝の子女は多かった模様であるが、長子扶蘇と末子の胡亥(二世皇帝)が名をあげられるのみであり(三代目の秦王子嬰も、年齢的に考えておそらく始皇帝の子であろう)、二世皇帝と趙高の謀りごとで、まず六人の公子が杜の地で、次に公子将閭を含む兄弟三人(これも始皇帝の子か)が処刑されたと記される。二世皇帝は趙高に殺され、秦王の子嬰及び公子・一族は項羽に殺されたと記されるなど、秦王朝の崩壊期に多くの公子・公族が殺害されたとみられる。こうしたなかで韓地に逃れた秦王一族がいたことはありえたのだろうか。この辺の事情は、残念ながら不明であるが、可能性は極めて少ないものとみられる。
従って、敢えて結論をあげれば、次のようなものか。
わが国の秦氏は秦始皇の後という所伝・系譜をもつが、その歴代系譜には世代数が少ないなど問題点もいくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同じ氏族(部族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。秦韓王家が秦王室と同族であったとしても、遥かに早い時期に分岐した支族ではなかったろうか、と考えられる。
2(最後に)
わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦氏一族を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じている次第である。
〔註〕*の数字は「秦羸姓という姓氏」の始めからの番号である。
*33 白川静『中国の神話』(昭和50年刊、後に中公文庫に所収)。
*34 摂津国には秦忌寸・秦人の二氏が『姓氏録』にあげられ、秦一族が豊島郡・西成郡に居住した。豊島郡に秦忌寸・秦井手・秦井手忌寸、西成郡に秦・秦人・秦忌寸が居住したことは、『続日本紀』や『正倉院文書』(天平神護元年の造東大寺司移式部省)に見える。とくに豊島郡には秦上郷・秦下郷があげられ、秦一族の繁衍が知られる。
なお、摂津国有馬郡には幡多郷(現神戸市北区八多町一帯)があり、秦民の居住が伝えられるが、詳細は不明である。
〔秦氏族の分岐状況概観〕
〔註の補充〕
『家系研究』第32・33号では、註の記載がなかったので、ここに併せて記しておく。
*1 『史記』秦本紀では、帝の孫を女脩(じょしゅう)といい、燕が落とした卵を呑んで感精し、子の大業を生み、これが秦の祖となったと記される。しかし、女脩は女性であり、秦の男系の祖は五帝の一にもあげられる帝少昊かその一族ではなかろうか。秦の鳥トーテムは東夷によく見られる風習である。
*2 殷の紂王に仕えた蜚廉の子の季勝の曾孫の造父が、周の繆王に仕えた有名な御者で、趙城に封ぜられて趙氏となり、その後裔が晋の文公に仕えた趙衰で、戦国時代の趙の遠祖となった。秦は季勝の兄の悪来革(おらいかく)の子孫だが、造父が繆王に寵愛されたおかげで、悪来革の子孫もみな趙氏と称していた、と『史記』にいう。
*3 春秋・戦国の諸侯が会盟して署名した名前としては、「国名+名前」という形になっている例が多い。すなわち、「国名=氏の名」とされている。
*4 段玉裁の『説文解字注』によると、春秋時代の諸侯のうち、秦・徐・江・黄・はみな姓であったとのことである。白川静氏によると、「秦と同じ姓の諸侯は、河南の商邱に近い葛、安徽北方の徐、河南南部の黄・江、湖北襄陽の穀、陜西韓城の梁など各地に分散」し、これに趙などをあわせて九国あり、秦はもと江淮の域にあった古族で、鳥トーテムや女系の多いことが注意される、と記される(『中国の神話』258頁)。
*5 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、秦氏について各項で詳しい説明があり、『古代人名辞典』とならんで、秦氏の人々を見ていくうえで基本的な文献である。
*6 秦氏の族的な性格に新羅的要素が強いという判断があり、ハタやウヅマサの名義から、慶尚北道の北部、蔚珍郡海曲県の古名「波旦」の地の起源とし、この地が辰韓12国の一つ優由国とみられ、辰韓(秦韓)の名に因んで、氏族名を「秦」で表したとみることができるという立場がかなり多い(鮎貝房之進、山尾幸久氏などの説)。
これに、『魏志』韓伝以降の中国史書に見える辰韓人を秦の亡人とする説を根拠とし、倭漢氏の所伝への対抗関係から、出自を秦の始皇帝まで架上したものと考えられている。
ハタの名の起源についての前掲の地名説は、いかにもコジツケ的であり、大和岩雄氏は、伽耶の「秦の民」を遠く離れた地域のウヅマサ氏が何故統括したのかという説明が必要と批判する。辰韓人を秦の亡人とする韓伝の所伝もありえよう。しかし、秦氏が倭漢氏に対抗して出自を架上したという説はいかにも憶測的で、何ら具体的な根拠がない。倭漢氏が秦氏に先立って漢を称したということの証明もなしえない。
*7 『姓氏録』で明確に秦氏の一族とする26氏のほか、早くに分岐した等の事情で「未定雑姓」の部におかれている諸氏がある。そうした例として、国背宍人(山城未定雑姓)、物集連(左京未定雑姓)、物集(山城未定雑姓)、弖良公(右京未定雑姓)、広幡公(山城未定雑姓)があげられるので、この5氏を合わせて、合計31氏(あるいは後2者を除いた29氏)が秦氏一族ではないか、と私はみている。
*8 利光・松田両氏は、「古代における中級官人層の一系図について-東京大学史料編纂所蔵『惟宗系図』の研究-」(慶応大学『法学研究』56-1・2、昭和58年1月・2月)という論考を出し、同系図の信憑性を論証した。両氏の論考には貴重な指摘が多い。
*9 秦氏がわが国に渡来した時点で既に正確な系図を失っていた可能性も考えられる。従って、「十」とか「二十」とかという数字の欠落を考えても意味がないともいえようが、本文で掲げた一案のほか、河内諸蕃の秦姓条に見える「始皇帝十三世孫然能解公」の十三を二十三と考える案もあろう。
*10 始皇帝の長子扶蘇は、前212年に上郡(陜西省綏徳県東)に派遣され、始皇帝の死後、その地で丞相李斯・宦官趙高らの策謀による偽詔で自殺させられた。本居宣長は、扶蘇が死を賜ったのにもかかわらず、潜かに逃れ狛に居した可能性を考え、鈴木真年翁もこの説を踏襲した記述を『華族諸家伝』でしている。しかし、こうした想定は想像論であり、それよりもその子とされる胡苑の移住を考えたほうが自然であろう。
*11 『魏志』東夷伝の韓伝にあげるこの記事と同様な記事は、真年翁が編述した『朝鮮歴代系図』や「長岡忌寸系図」に見られるが、これら系図に本来記されていたものか、あるいは韓伝からの転載かは不明である。
なお、秦の亡民に東界の地を割き与えたという馬韓王は、朝鮮王準の後裔で、馬韓が百済の温祚王により滅ぼされてのち答山の麓に居住して韓氏・答氏を号したという。この流れで百済滅亡時にわが国到来した一族は、広海連・麻田連の祖となった。
*12 『三国史記』新羅本紀に記載の王暦は、五世紀前半の訥王以前は、二倍年暦ないし四倍年暦という倍数年暦が採用されていた可能性が大きく、年代や世代の対応等から考えると、新羅の初代国王とされる赫居世の在位は180、90年代頃ではないかと推定される。
*13 『書紀』応神14年是歳条に弓月君が百済から渡来と記され、また、『姓氏録』の未定雑姓右京の弖良公に「百済国主意里都解四世孫秦羅君之後也」、未定雑姓山城の広幡公条に「百済国津王之後也」とある記載とも、秦氏の百済遷住は符合する。
*14 竺達王が三世紀後葉の人として、その四世孫とされる弓月君が五世紀初頭頃の人であるのは、両者の間の世代・年代の対応がきわめて適切だと考えられる。
*15 応神天皇の『書紀』の記事等から、その即位の年とされる太歳庚寅を西暦390年庚寅頃とするのが妥当ではなかろうか。従って、この場合、応神14年は403年ということになるが、実質的にはその数年前の即位も考えられる。
ここまで具体的に年代比定を考えないにしても、秦氏の到来は五世紀初頭頃として特に問題なかろう。大和岩雄氏も、五世紀前半に大和の葛城に渡来したとみている(『秦氏の研究』)。
*16 功満君が仲哀朝八年に来朝したことは、『姓氏録』左京諸蕃の太秦公宿祢条の記事にも見える。
*17 大和岩雄氏は、葛城の長江(長柄)の襲津彦が連れてきた弓月の民が「朝津間腋上」に居を定めるのは当然であると考えている(「秦氏・葛城氏・蘇我氏」、『東アジアの古代文化』36号、1983夏所収)。
なお、腋上の地については、後に秦氏がヤマト政権に関与したころの付会とする見解もあるが、それがなぜ腋上の地だったのかという説明力が全くない。こうした安易な付会論は問題が大きい。
*18 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第四の362頁。
*19 韓国で秦氏が最も多いのは済州島で442世帯あるが、慶尚南道の各地から移住してきたといわれる。済州島を除くと、慶尚南道に最も多く、全羅南道・慶尚北道・江原道に少しいると秦泰俊著『血統□(左はヱ、右側はトの文字)家門』(1976年)を引用して、大和岩雄氏は記述し(『秦氏の研究』41頁)、五世紀代の秦氏の原郷も、かっての加羅の地である全羅南道(註;慶尚南道の誤記か)であったとみるべきであろうとしている。
*20 長岡忌寸の系図は、鈴木真年編の『百家系図稿』(巻9、長岡忌寸)や『諸系譜』(第1冊、長岡忌寸)にほぼ同様なものがあげられ、近世にも及ぶ長大な系図となっている。長岡忌寸氏は『姓氏録』では大和諸蕃となっているが、後に山城国綴喜郡に移遷し、その地で長く続いた。
*21 百済の建国時期と初期の王の在位年代については極めて難解であるが、『三国史記』に記すような、温祚王の漢鴻嘉三年(前18)の建国は、百済の王統系図からいっても、全く信頼できない。
温祚王の治世時期については、高句麗の次大王の治世(西暦121~65)にほぼ対応するという見方もあろうが、百済王統の分析等から、現段階では、二世紀後葉頃に温祚王が在位し、その二代前におかれる都慕王が初代ではないかと一応考えておきたい。
*22 ウヅマサの語義についての佐伯説は、三品彰英氏『日本書紀朝鮮関係記事考証』(上巻231~2頁)に拠るもののようである。
*23 大和岩雄の前掲「秦氏・葛城氏・蘇我氏」
*24 田辺昭三「地域勢力の展開」(京都市編『京都の歴史 一』所収、昭和45年)。
『全国古墳編年集成』山城の項でも、段ノ山に始まり蛇塚までの嵯峨野の5古墳について、五世紀後葉~六世紀末の期間に築造を考えている。
*25 大和岩雄氏も、太秦公は秦氏の族長を示す尊称の名・号と考え、「太秦」を蔚珍の地名とする説は無理であるとしている(『秦氏の研究』49~50頁)。
*26 和田萃氏は、秦下の「下」に注目し、河内国茨田郡に「下」の地を求め、『倭名抄』『古事記』(仁徳段)や茨田堤から寝屋川市太秦を考えて、この太秦の地名の残存に注目している(「山背秦氏の一考察」、京都大学考古学研究会編『嵯峨野の古墳時代』所収)。
*27 河内秦寺の所在地は、旧秦村の産土神八幡宮北方の国松村寺山付近とも、太秦村熱田神社付近ともいわれるが、確証はない(『大阪府の地名』879頁)、とのことである。
*28 畿内とその周辺の地域における秦氏の分布を見ると、山城・河内のほか摂津・近江・播磨でかなり稠密である。このうち、播磨の秦氏については系統が不明であるが、近江の秦氏は葛野の秦河勝の子の田来津が愛智郡に住んで依智秦公の祖となり、同郡大国郷及び浅井郡湯次郷を中心に繁衍したものである。このほか、近江には簀秦画師、秦大蔵忌寸、秦倉人、秦忌寸などの居住が知られる。
摂津国では、豊島郡が秦氏の中心地で、同郡には秦上郷・秦下郷(池田市を中心とした一帯)があったが、葛野に遷住した意美の子の知々古が豊島郡の秦井手忌寸の祖とされる。これらのことから、山城以前の秦氏では河内の幡多郷を重視せざるをえない。
河内の太秦・秦一帯には、後鳥羽天皇に召された刀工秦行綱の宅址と伝える地があり(秦小字鍛冶屋垣内)、大字秦には秦川勝の後裔と称する西島(もと大津父)・平田・茨木の三旧家があり、旧村社八幡神社の宮衆を勤めている(今井啓一著『帰化人』95~7頁)。
*29 今井啓一著『帰化人』。
なお、『続日本後紀』承和十五年三月庚申朔条には、河内郡人秦宿祢が朝原宿祢を賜ったことが見えるが、この秦宿祢氏は茨田郡の支族ではなかろうか。
*30 『姓氏詞典』(王万邦、河南人民出版社)でも、高陵氏について、姓に由来し、秦の昭襄王の弟が高陵に封ぜられ高陵君になったため、子孫が高陵氏を称したとし、漢の時、諫議大夫(官名)の高陵顕が出たと記される。
*31 鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻9の高丘宿祢系図及び『百家系図』巻62の高岡系図。高岡氏の後裔は、河内郡梶ヶ島村に居住して名主職をつとめ明治に至ったと記される。
*32 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第五の436~7頁。佐伯氏も、秦羸姓は「秦」の語に由来するものであろうか、と記している。
出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
インドから来た秦氏
秦野という地名からして、最初に住み着いたのは秦氏の一族と考えられる。
秦氏は、朝鮮半島から来たらしいが、朝鮮人かと言うと、 そうではないらしい。
秦氏は、遠くペルシャあたりから朝鮮半島を経由して日本に来たらしい。
朝鮮半島を経由して日本に来たと言うと例のシルクロード経由で陸路で来たように思われるが、 そうではなくインドを経由してヴェトナムあたりの海路で来たらしい。
秦氏は、インドを経由してヴェトナムあたりの海路で来た訳だから、 一部は朝鮮半島の南岸に辿り着き、一部は日本の九州か山陰海岸あたりに辿り着いたと思われる。
ペルシャは、昔はアッシリアと呼ばれており、当時、アッシリアにはイスラエルの10部族が 捕らえられており、現在のイラク北部あたりに強制的に移住させていたと言う。
秦氏は、アッシリアに捕らわれの身になっていたイスラエルの10部族の末裔ではないかと言うのである。
彼らの宗教は、景教と呼ばれるものであった。
出典
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index4.html
信州諏訪大社
長子をルベン。イスラエルを逃れたルベン族はコーカサス「高」を越え山(主)として石川に漂着。岐阜県飛騨高山へ。白山菊理媛に見る象徴を菊花こと太陽。ゆえに日本の国旗は太陽を表し、ミ印を菊とする。飛騨高山の首長を山本氏。大嘗祭には高山の山本家が一位の木の笏を天皇に授けた。飛騨より北上したルベン族はユダ族、ベニヤミン族と合流して日本最初の国、大倭日高見国へ融合。古の日本語で太陽をチダという。水乞山に本家千田氏イスラエルの日本における首長。安倍氏奥州藤原氏等諸侯を輩出する。岩手を南部という。源氏では天皇を皇命(スメラミコト)という。大倭とはオオユダすなわち大いなるイスラエル。奥州源氏であり陸奥(みちのく)を言う。陸奥は首都を岩手県北上市水乞山とする東北地方。早池峰山より水乞山。国見山、江刺、丹沢、平泉へと変遷する。1.200年前には38年戦争が行われ、北イスラエル王国の後裔平家の祖桓武天皇に南ユダ王国の後裔日高見天皇アテルイがやられる。その後平家の支配が続いたが、源義経が壇ノ浦合戦で平家を降伏させ、日本の始めの総頭首、判官となる。分かりやすく言えば諸大名の頂点に立った。亦、平家総大将平時忠の娘蕨姫を妻にもらい、源平の合戦は終息する。しかし、奥州討伐に朝廷が動き1189年に源頼朝の侵攻奥州合戦で奥州国は滅ぶ。義経の一族は以降、歴史の表舞台から消える。そして時代は応仁の乱に火蓋を切り、戦国時代に突入。源氏を武田として平家長尾(上杉)と戦い、源氏徳川家康の治世によって葵(賀茂)のもとに日本における骨肉のイスラエル戦争は鎮火。天草の乱で完全に終結する。オランダとの強い絆によって、徳川時代は長く続いた。徳川家康は妙見北極星摩多羅神、秦河勝を山王として上座に祀っている。
(中略)
秦氏は珍しいものではない。飛鳥時代にはじめて来朝したというのは誤りの認識。紀元前2世紀にはすでに日本で秦のネットワークが存在した。卑弥呼(日弥呼)が九州からすんなり山都入りできたのはこのため。秦は日本全国に分布している。白(シロ、シラ、ハク)という。秦の新羅は、日本で更木、白木、新城と表記する。ホシオリの地三輪山平等寺の多聞の方向乾(イヌイ)北に巻向穴師は兵主八千鉾を大己貴(オオナムチ)これはソロモン王を表す秦の権威のこと、丹後や三輪にはじまる酒作り。大酒とはダビデ王のこと。八坂(イヤサカ)の拝所を磐境(イワサカ)これが本義、八坂神社の神体もそう呼ばれるのですが、地殻変動のこと。この天体地上大地は、大宇宙と鼓動をひとつにしていて、かるがゆえ古代人(日本先祖)は、天体の観測研究を怠らなかった。天香香背男、そして卑弥呼に至るまでも。現代の磐境は吉野に素粒子研究所としてあります。ユダヤ民族が中東において経験した恐怖を忘れない祭祀で精霊的な磐座信仰と異なり学術的な信仰。スサノオ祇園祭りはシオン祭り。渡来人の祭典。烏(ヘブライの兄弟)を従えて大陸より帰還した大王スサノオ。[強くて怖ろしい"エブス(日本における南ユダ中臣、ウブス・蝦夷として畏れられる)"の土地「後にソロモン第一神殿の丘」シオン「イスラエルへの回帰」を独読みではZion、英読みではZion、ヘブライ読みではTziyyon。]の海部の祖を天日矛と言い、彦火明。その子孫を八幡といい応神天皇は誉田(HONDA)。本田善光は推古天皇八年(600)豊浦寺の本尊を難波の堀江より信州へ移転する。信州諏訪大社はモリヤの地、鹿の首を祀る。イル信仰の三輪とバアル信仰の出雲の戦における日本においての第一次終結契の地。
出典
http://sky.geocities.jp/jkenterprise777/profile.html
天文22年(1553)
長沼城(長野市穂保)
長野市中心部から須坂市方向に向かうと千曲川にかかる村山橋があるが、ここの北1㎞が城址南端。
完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。
北側の貞心寺から南側の勝念寺までの1.5㎞が城域であったという。城下を取り込んだ総構を持っていたといい。現在の長沼の集落内を走る道路も昔のままとのことである。
しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。
始めは島津氏の城であったというが、当主、島津淡路守忠直(月下斎)は天文22年(1553)越後に逃れる。
(その後、月下斎は上杉方の先陣として川中島の戦いに係り、天正10年(1582)遂に長沼城への復帰を果たす。
しかし、上杉氏の会津への移封に同行し岩代長沼で7000石を得る。最後は米沢に移る。)
川中島地方が武田氏の手に落ちると、飯山地方への進出とこの付近の統治の中心地として整備される。
どちらかというと領地支配のための政庁的性格が強い城であったと思われる。
武田氏が織田氏の攻撃で危機に陥ると上杉軍が長沼城に援軍として入る。
島津氏の復帰した時代を経て、江戸時代は松平直輝が松代城に入り、山田長門守が城代として入った。
その後、佐久間氏が入り18000石の長沼藩となるが、元禄元年(1668)廃藩となり、その時点で廃城になった。
出典
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm
広田砦(広田城)(長野市稲里町田牧)
現在の広田集落全体が城域であり、東が昌龍寺付近、西が東昌寺付近までがその範囲であったらしい。
しかし、今はほとんどが宅地になってしまい、東昌寺に土塁が残るのみで、城があったという感じはまったく伺えない。
この城は武田方の川中島中央部の押さえとして弘治年中(1555~1558)に整備されたものという。
東の昌龍寺付近が主郭、西の東昌寺付近が副郭といった感じの双頭の主郭を持ったような感じの城であったようである。
下の写真は国土地理院の昭和50年の広田砦付近の航空写真に現存していた堀及び用水路を含めた推定堀位置を描きこんだものである。
本来は、昌龍寺付近を中心とした部分が村上氏一族、広田氏の館であり、東昌寺付近がその分家、藤牧氏の館であった部分、または後世に増築した部分ではなかったかと思う。
この地は横田城と大堀館の中間点に当たる。
平地とは言え、北から東にかけて旧小島川が流れ、西側には北から古犀川が流れ、両河川に挟まれた微高地上である。
築館は応永4年(1400)広田氏によるという。
北東500mに田牧居帰遺跡があるが、平安時代頃の遺跡という。その発掘報告を見ると発掘した遺跡は末端部分であり、中心部は広田の集落内であると記載されている。
とすれば横田城と同時期の平安時代に、ここに城砦集落が作られていたのではないかと思われる。
ちなみに横田城付近で分岐した街道はこの城付近を通っている。
広田氏は水内郡の芋川氏と姻戚関係にあり、芋川氏が断絶状態となったため、広田氏が芋川に移住し、芋川を継承する。
広田氏こと芋川氏は川中島の戦いでは上杉方として武田氏と戦い、天正10年(1582)武田家が滅亡すると、川中島に復帰、天正12年(1854)正月、芋川親正は飯綱神社に寄進していた小島田の地を再び飯綱に寄進している。
その後、上杉氏とともに会津に去り、重臣として白河小峰城の城代を務めるほどに重用されている。
広田氏が去ると藤牧氏が館を継ぐが、藤牧弥之助は武田氏に追われ、現在の中野市桜沢に移ると、館は無人となる。
その後、この地を占領した武田氏により城砦化され、大日方氏が館主を務めたという。
大日方氏は小笠原一族であり、大町方面の山間の土豪であったという。
昌龍寺は、大日方直家が父の菩提と、領民の繁栄平和を願い、天正5年(1577)建立したという。
この縁で寺紋は大日方氏と同じ「丸二」である。武田氏滅亡後は大日方氏は上杉氏に従うが、会津には同行せず、小川村に帰農した。
現在もこの地方には大日方姓は多く、子孫であろう。
この寺の高さ15mの四面角塔鐘楼が特徴ある建造物であるが、これは明治初期、松代城の隅櫓を移築したものという。
昌龍寺付近の部分が東西54m、南北90mの広さ、その外郭は東西144m、南北164mほどで、周囲には濠がめぐらされていたというが、内郭自体が昌龍寺の境内そのものである。 昌龍寺周囲の道路が堀跡である。(かつては寺の西側に土塁や堀の痕跡のようなものがあったように記憶しているが・・・。) 外郭の境界部分が東と北側の市道付近である。 一方、東昌寺は周囲を土塁と水堀で囲まれた1辺50m程度の大きさであり、かつては幅7mほどの堀で周囲が囲まれていた。 水堀は昭和50年代末に埋められてしまい、土塁がコンクリートで保護されて残存するのみである。 |
なお、かつては東昌寺から昌龍寺方向に水堀が延びており、その間にも曲輪があったようである。
現在も用水路である「下堰」が集落内を流れているが、この用水路が水堀跡であり、城内の水堀への水の供給源であったようである。
広田集落全体に水堀が張り巡らされたような城であったのであろう。おそらく、イメージとしては横田城と類似していたのではないかと思われる。
現在も用水路である「下堰」が集落内を流れているが、この用水路が水堀跡であり、城内の水堀への水の供給源であったようである。
広田集落全体に水堀が張り巡らされたような城であったのであろう。おそらく、イメージとしては横田城と類似していたのではないかと思われる。
東昌寺は元文4年(1739)松代藩主真田氏により観音堂が建てられ、正式に宝暦9年(1759)東昌寺が建立された。
ここに寺を置き、館時代の土塁、堀に手を付けなかったのは、松代まで平地で全く防衛施設が存在しないのを考慮した措置であったという。
ここは小生の実家の南500mの位置にあり、その水堀は釣のメッカであった。始めて釣をしたのはこの堀であった。
航空写真を見て気付いたのであるが、南西隅に丸馬出のような地形が道路となっているのである。これは果たしてなんなのだろうか?
最近の航空写真でも道の形はこのままである。今度、確認してこよう。
ここに寺を置き、館時代の土塁、堀に手を付けなかったのは、松代まで平地で全く防衛施設が存在しないのを考慮した措置であったという。
ここは小生の実家の南500mの位置にあり、その水堀は釣のメッカであった。始めて釣をしたのはこの堀であった。
航空写真を見て気付いたのであるが、南西隅に丸馬出のような地形が道路となっているのである。これは果たしてなんなのだろうか?
最近の航空写真でも道の形はこのままである。今度、確認してこよう。
この城は、川中島の合戦では武田方の城であったはずであるが、合戦にどのような役割を演じたのかは何の記録もない。
永禄4年(1561)の激戦の地という八幡原は南東1㎞、武田方の武将、両角豊後守の墓は北東1㎞、狐丸塚は南400mに位置し、かつて首塚が多数存在したということから、この城も戦いに巻き込まれたのであろう。
と言うより、永禄4年の大激戦自体がこの城を巡っての攻防戦、主役ではなかったのかと思う。
つまり、上杉軍の主攻撃目標が、大堀館、広田城、横田城と3城並んだ真ん中のこの城ではなかったのか?
永禄4年(1561)の激戦の地という八幡原は南東1㎞、武田方の武将、両角豊後守の墓は北東1㎞、狐丸塚は南400mに位置し、かつて首塚が多数存在したということから、この城も戦いに巻き込まれたのであろう。
と言うより、永禄4年の大激戦自体がこの城を巡っての攻防戦、主役ではなかったのかと思う。
つまり、上杉軍の主攻撃目標が、大堀館、広田城、横田城と3城並んだ真ん中のこの城ではなかったのか?
小田切館は、内後館の南南東1.5km、信越線今井駅の南西500mの今井神社がその跡という。
この今井神社の名前は木曽義仲の家臣、今井兼平から採られている。
なんとこの神社の西側に「今井兼平の墓」まである。
勿論、滋賀の粟津で戦死した今井兼平の墓そのものではなく、今井兼平の部下、岩害形部が供養のために建立したものという。
解説板によると横田河原の合戦の時、今井兼平が率いる木曽軍の別働隊がここに隠れ、側面から挟撃したという。
この地の西側は若干低くなっており、そこが犀川の支流、御弊川の跡である。この付近は薄の原野であり、兵を隠すには絶好の場所であったという。
これに係る駒止め石、馬洗いの池、縁切橋などの伝承の場所がこの付近にいくつかあるので、信頼のおける話かもしれない。
神社の周囲には土塁の痕跡を伺わせる土の盛り上がりがある。境内は南北70m、東西40mほどであるが、その外側に外郭が存在していたらしい。
今井集落が若干の微高地にあるので、集落がその外郭ではないかと思う。
この小田切館であるが、この付近を北国街道が通っており、このルート上、直ぐ南で第1回川中島合戦、御弊川の合戦が行われている。多分、この時の上杉軍の陣もここだろう。つまり、最初と最後の戦いで上杉軍の陣となったのではないだろうか。上杉謙信としてはおなじみの場所ということになる。
川中島合戦最後の戦い(対陣)である永禄7年(1564)年の第5回戦においては、上杉軍がここに本陣を置き、塩崎城(川柳将軍塚古墳?)に本陣を置いた武田軍と60日間、にらみ合った場所という。
当時、街道筋にある館であり、上杉軍が南下するのにも妥当なルートである。
平林館(長野市松代町豊栄字平林)
松代の東、西に皆神山が聳える豊栄地区にある諏訪神社一帯が館跡。
最近まで土塁が存在していたという。
「政所」「花立」「大門」「堀内」「内堀」という小字が付近にあり、館の名残という。
この付近は英多庄という荘園の中心であり、その管理者である平林氏の居館であったという。
平林氏は鎌倉時代にここを支配していた者であが、詳細はかよく分からないが、九州まで領地を有していたという。
なお、この付近は平林姓は多く、その子孫であろう。
小森館(長野市篠ノ井小森)
篠ノ井東中学の東500mにあった小森氏の居館であるが、館の真ん中に千曲川の堤防が築かれ、堤防の内側となった遺構はかろうじて堀跡が推定できるに過ぎない。
遺構らしいものといえば、堤防北下にある土塁の一部だけである。
ここは方形館の隅の櫓台であったらしく、ここには慶安4年(1651)と年号が刻んだ石祠があり、「小森云々」との文字が確認できるという。
館は70m四方の内郭と西方へ30m、東方へ40mが外郭であったというので二重輪郭式の館であったようである。
諏訪氏一族の小森遠江守の館跡といわれる。
この小森氏も多くのこの地方の武家同様、武田氏の侵攻を受けると武田氏に従属し、武田氏が滅びると、織田氏、上杉氏に従い、最後は上杉景勝にしたがって会津に移ったという。
なお、一部はこの地に残りその子孫が健在である。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)
保科氏館(長野市若穂保科)
白虎隊で有名な会津松平家発祥の地がここである。
会津松平家は元々は保科家であり、武田軍の中で勇名を謳われた「槍弾正」こと、高遠城代、保科弾正忠正俊の末裔である。
保科弾正忠正俊は武田家中においては、信濃先方衆として騎馬120騎持ちの侍大将であった。
高遠城は織田氏の攻撃で落城するが、当主保科正直(正俊の子)は落城時に城を脱出し、本能寺の変に乗じて城を奪回し、その後、北条氏さらに徳川家康に仕え大名となる。
そこに養子として向かえたのが秀忠の子、保科正之である。
その保科氏発祥の地がこの保科の谷である。
菅平高原の西の谷筋の末端にあり、狭く余り豊かな土地とは思えない。
保科氏は井上一族と言われ、この保科の谷に住み、保科氏を称したという。
この円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利(正俊の祖父)を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院であるが、ここが保科氏の館であったといわれる。
館と寺は永正10年(1513)村上氏との戦いで焼失するが、館の地に寺が再建され、焼け残った館の裏門が現在の寺の総門という。
広徳寺の西の裏山が霜台城であり、保科氏の詰めの城であった。
この城には石垣があるというが、比高300mの険しい山で道もなく、熊も生息しているとのことで未攻略である。
いつかは行って見たいものである。
保科一族は、村上義清に従い武田信玄と戦い、武田氏の勢力が伸びると他のこの地方の武家同様、一族を武田方と上杉方に分け生き残りを図る。
武田方についた一族の末裔が徳川氏に仕え、後に会津松平家となるが、保科正則の弟左近将監正保は、上杉氏に属し、保科を領し、稲荷山城の城代となり、会津に移る。
なお、この地に残り真田氏に使えた一族もいる。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)
清野氏館(長野市松代町清野)
松代町の清野の大村地区にある古峰神社付近が、村上氏一族、清野氏の館であったという。
この地は南に鞍骨城のある山があり、西側の妻女山と東側の竹山(象山)が両腕で包み込むような場所の最奥地である。
古峰神社の地が居館とは言うが、居館はこの背後の大村集落一帯であり、館の主要部は民家の敷地になっているようである。
遺構はほとんど分からないが、集落自体、北側の低地より一段高く、神社北側の水田が堀跡のような感じである。
館主であった清野氏は村上氏の一族として現在の松代全域から屋代付近を領土にしており、当時の館が現在の海津城であったという。
海津城の本丸自体が100m四方ほどと非常に小さいが、この本丸こそが、清野氏の居館そのものの縄張りを踏襲しているという。
前海津城とも言うべき前清野氏館の詰めの城として存在していたのが鞍骨城であり、天城、鷲尾、唐崎、竹山を含めた鞍骨城砦群を整備したのが清野氏と言われる。
その清野氏も天文年間になると村上氏とともに武田信玄の侵略にさらされ、始めは村上義清とともに戦い、越後に逃れるが、永禄2年(1559)ころ武田氏に降伏し、この地に帰ったという。
この時、居館であった海津城に改修されたため、移転した場所がこの館であったという。
その後、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、清野氏は織田氏、次いで上杉景勝に属する。
そして慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に多くの川中島地方の武家同様、清野氏も同行し、この地を去ったという。
館跡には宝永年間(1704~1710)、古峰神社(当時は、日枝神社)が建てられ、松代藩の倉庫「酉の蔵屋敷」が置かれた。
なお、この大村集落は、宝暦7年(1757)と天保11年(1840)に火災に会い全滅し、村人は清野氏のたたりとおそれ、弘化3年(1846)古峰神社境内に「清野氏遺愛之碑」を建てて供養したという。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)
横田城(長野市篠ノ井会)
なぞに包まれた城郭である。
完全な平地にあるため、宅地化が進み、残念ながらほとんど隠滅状態である。
南長野運動公園の西、国道18号線を挟んで反対側、厚生連篠ノ井病院の南が城址に当たる。
城砦集落として知られ、当地では「会村」(あいむら)と通称される。
集落内を多くの用水路が流れ、かつては水堀への給水用であった。
小生の親戚宅がここにあり、今はどこがそれだったのか分からなくなっているが、30年ほど前には幅5mほどの堀があったことを覚えている。
現在は、土塁または土壇が残っているのみであるが、かつての堀の場所は大体分かる。
かつて、会の集落の周囲は一面の水田やりんご畑であった。
今は水田は宅地となりかなり無くなっているが、旧集落と新興住宅街は容易に区別がつき、その境界がかつての堀跡であり、幾分、窪んでいる。
唯一残る土塁に掲げられた説明版には次のように書かれている。
『平安時代末ごろの築城で、養和元年(1181)木曾義仲が越後の城氏の軍と戦った時に利用し、また北陸を攻め上がるについても、この城を根拠地の一つにした。
応永7年(1400)信濃守護小笠原長秀が、村上氏や大文字一揆らと戦った大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもっている。
川中島の戦いの時は甲将原大隈守がこもったと伝える。
外堀は南北約180m、東西約230mの短形をなし、その内部が、いわゆる環濠集落になっている。
内城の部分は約55m四方で、殿屋敷といわれ、その西北隅(現在地)に南北10m、東西12m、高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷神社が祀られている。
稲荷社の北には、近年まで6m以上の堀があった。
この殿屋敷の部分が本郭である。
外堀内の西半分を、宮内(くねうち、郭内の意)といい、東半分を古町という。
大和地方の環濠集落によく似た屋敷割がみられる。土塁の南に馬出しの地名があり、東には土居沢の地名がある。
古代末期から戦国期に至る館跡として、また防備施設を持つ環濠集落の遺跡として貴重である。(長野市教育委員会)』
以上のようにかなり古い歴史がある城であり、この城を巡っての戦いが起きている。
この地にこのような城郭が築かれたのは、北国街道が西を通り、そこから分岐した街道がこの城付近を通り、北東に延びているなどの交通の要衝にあることによる。
このため、この地は何度か戦乱の舞台となっている。
始めに記録に登場するのが、源平の横田河原の合戦であり、大塔合戦にも関係する。
川中島の合戦との関係も明確な記録はないものの当然係わっているはずである。
第1回の合戦の舞台である布施の戦いの舞台はこの城の西1km、JR篠ノ井線篠ノ井駅付近である。
恐らく北国街道沿いで武田、上杉(当時は長尾)両軍が衝突したものであろう。
北東に「合戦場」という地名があるが、地名が合戦に関わったものであることは容易に想像できるが、どの合戦か特定することはできない。
三池純正氏の「新説川中島合戦」では永禄4年の第4回合戦はこの城を巡って戦端が開かれたとしているが、これも否定はできない。
昔、子供の頃、『本当の八幡原(例の一騎打ちがあった場所)はここではなく、もっと西、南長野運動公園の地にあった勘助宮の位置だ。』という話を聞いたことがある。
唯一残された土塁のみが真実を知っている。
栗田城(長野市栗田)
長野駅東口から南東に600mの位置に日吉神社がある。ここが城址である。
この城も市街化の波を受けてほとんど姿を留めないが、2つの郭からなる輪郭式の城であったようであり、日吉神社が本郭の北西部に当たる。
城域は東西709m、南北1090m程度の規模があったというので巨大な城である。
この城の近くに管理人の母の実家があり、母の実家に行った時の従妹達との遊び場がここであった。
その当時はまだまだ水田が広がっていた記憶がある。多分、その水田が堀の跡であったと推定される。
日吉神社の社殿は20m径、高さ3mほどの土壇の上に建つ。
これが栗田城の本郭の土塁の一部である。
現在はコンクリートで一部固められているが、かつては土剥き出しであった。
土壇の北側と西側には堀跡がくっきり残っている。大正時代までは神社の南側に東西に土塁が延びていたという。
土塁に囲まれた本郭は120m×100mほどの大きさがあり、その周囲を水堀が回っていたという。虎口は南西端部にあったという。
その周囲に外郭があったらしいが、外郭の周囲に土塁が存在したのかは分からない。
おそらく裾花川の開析した微高地が外郭であったのではないかと思われる。
この外郭部には家臣団の屋敷など根小屋地区であったものと思われる。その点では城砦集落とも言えるであろう。
現在、1km西を南流する裾花川は当時はこの城のすぐ南を南東方向に流れていたといい、裾花川が外堀の役目を果たしていた。
城主は善光寺の堂主、栗田氏と言われる。
栗田氏は村上蔵人顕清の子村上判官代為国の子寛覚が栗田郷に居住し、栗田氏を名乗り、戸隠権別当としてその子孫は北信濃の有力国人領主に成長となった。
記録では鎌倉時代の『吾妻鏡』の治承4年9月の条に栗田寺別当大法師範覚(栗田禅師寛覚の誤記)として初登場する。
治承4年(1180)9月、木曽義仲の挙兵に平家方の笠原平五頼直が侵攻、栗田範覚は村山七郎義直らとともに木曽義仲に味方し笠原勢を市原で迎撃、戦闘となったが決着がつかず、 越後から城助職(長茂)が加勢に駆けつけることで横田河原の合戦へと発展し木曽方の勝利に終わる。
その後、栗田氏も木曽義仲に従い京まで上ったのではないかと推定される。
鎌倉時代となると当主、寛覚は戸隠山別当に加えて善光寺別当にも任じられ、以後、栗田氏は戸隠山と善光寺の別当職を代々務める。
源頼朝が建久8年(1197)に戸隠山と善光寺に参詣した時は、寛覚の屋形に宿泊し、栗田ノ御所と名づけたという。
源氏滅亡後、信濃守護となった北条得宗家も善光寺に庇護を加えたため、善光寺と戸隠山の別当を兼帯する栗田氏の地位も安定していたと推定される。
この栗田城を築いたのは寛覚の長子栗田太郎仲国といい、戸隠山の別当職は弟の栗田禅師寛明が継承した。
これにより仲国の系を里栗田、寛明の系を山栗田と称して栗田氏は二つの流れに分かれた。
次に栗田氏が歴史に登場するのが、応安3年(1370)10月、信濃守護上杉朝房の栗田城を攻撃である。
これが栗田城の初めての記録への登場である。
この戦いは朝房に従わない栗田氏を攻めたものであり、栗田城の西木戸口あたりで合戦となり、上杉軍を撃退したという。
次に登場するのが応永6年(1399)の大塔合戦である。栗田沙弥覚秀の名が国人領主の中に見える。
永享10年(1438)の永享の乱が起こると、 守護小笠原政康の鎌倉進攻に従った信濃国人たちの名の中に「栗田殿代井上孫四郎殿」の名が見える。さらに『諏訪御符礼之古書』の文明3年(1471)の「御射山明年御頭足」に栗田萱俊の名が登場し、文明9年の「五月会明年御頭足」に栗田永寿の名が見える。
このころ、戦国時代に突入し、栗田氏も隣の漆田秀豊を降している。
戦国時代は栗田氏は宗家にあたる村上氏に属し、始めは武田氏の北信侵攻にも村上氏の下で戦うが、 天文22年(1553)、村上義清が越後に落去すると、栗田寛安も一度、義清とともに越後に行くが、のちに武田方の調略に応じて信濃に復帰した。
これは信玄が越後侵攻のルートとして戸隠往来の道筋を押さえるため、 戸隠神社別当職の栗田氏を調略したものと言われる。
弘治元年(1555)、第2回川中島合戦では寛安は武田方に属して旭山城を守り、 上杉勢を牽制。このとき、信玄は旭山城の栗田氏に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送ったという。
両軍の対陣は今川義元の仲裁で講和となり両軍は兵を引き上げた。
このとき信玄は善光寺本尊を甲府に移して甲府善光寺を建立し寛安も甲斐に移った。
この時、栗田城も破却されたらしい。ただし、大正時代まで土塁に囲まれていたというので城としての機能は喪失しておらず、川中島の戦いでは、位置的に見て、上杉軍の部隊が入ったのではないかと思う。
寛安のあとは鶴寿(寛久)が継ぎ、永禄11年(1568)、信玄から甲府善光寺の支配と水内郡の旧領も安堵されたという。
しかし、勝頼が長篠の合戦後、高天神城を拡大・整備し、 今川氏の旧臣岡部元信(真幸)とともに栗田鶴寿も守将の一人となる。
しかし天正9年、徳川家康の攻撃で高天神城は落城し栗田鶴寿も戦死。
栗田氏は子の永寿が継いだが幼少であったため弟の寛秀(永寿=国時)が後見する。
天正10年、武田氏が滅亡すると 永寿は家康に従い領地を安堵されるが、家康が関東に移封されると上杉氏に従うが、慶長3年、上杉景勝が会津に移封となると、栗田永寿もこれに従い信夫郡大森城八千石を与えられた。
しかし、豊臣秀吉が病没、徳川家康との対立が深まると、家康に内通じて会津から出奔したが、討手に攻められて討死。
永寿の遺児寛喜は慶長8年に善光寺に帰り、善光寺別当復帰を画策するが、善光寺本尊を甲府に移し、善光寺を衰退させた栗田氏を地元民が嫌い、復帰は叶わず、寛喜は善光寺御堂のあとに屋敷を構え、寛慶寺の再興をはかったと伝えられる。
長野市教育委員会 発掘調査報告書「栗田城2」、宮坂武男「信濃の山城と館」、武家家伝を参考
出典
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm
松代城(海津城)お膝元の長野市松代町の小中学校では、運動会に「真田節」を踊ります。中学校の時も白い鉢巻をして白扇を持ち踊りました。真田まつりに訪れると城跡や街に「花な~らば~、花な~らば~」とか「仰ぐ不滅の至誠こそ 燃える真田の心意気」などという歌詞の真田節が流れ、踊りも見られます。
その整備された松代城址ですが、昭和40年頃は海津城址と呼び石垣以外はなにもない寂れた古城でした。たしか城内に檻があって近隣の山で捕らえられた月の輪熊が一頭、手持ちぶさたにグルグルと狭い檻の中を廻っていました。フリークライミングよろしく石垣をよじ登って遊んだものです。
海津城の起源については、清野村誌の記述により清野氏という説があります。
●清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷
村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言ぅ。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。(清野村誌)
●清野氏について(清野氏については、「清野氏と戦国時代」をお読みください。)
清和天皇の皇子貞純親王五代の後裔仲宗は京都の院の庁に仕え、殿上人として栄えていたが、白河上皇の関する事件で、仲宗は讃岐へ、子の惟清、顕清はそれぞれ伊豆、信濃に流された。顕清の弟盛清は惟清の養子となり、顕清の子の為国は信濃国村上郷に住み、為国の子惟国が清野に住み清野氏と称したという。(埴科郡誌)
関東管領の職についた上杉憲実は伊豆にいたが、幕命によって鎌倉に入り、弟の清方と上杉持朝に命じて結城城攻撃に当らせ、自らも兵を率いて鎌倉を発した。
憲実は信濃守護小笠原正透に陣中奉行を命じた。正透はこれにより信濃国中の諸士を三十番に分かち、陣中の取締りや矢倉の番をさせた。この中に、屋代、雨宮、生仁、関屋、寺尾、西条氏等があった。こうして正透らの攻撃により結城城は落城した。1441年(嘉士口元)のことであった。清野氏は永寿王を送り届けると、清野へ帰ったようであるが、その後の行動については詳らかでない。その頃の足利尊氏以来の年初恒例の射場始めの射手選びとか、諏訪社の流鏑馬や御射山頭役などに屋代氏、村上氏などが見えるが清野氏の名は見あたらない。
1467年(応仁元)清野正衡は入道して徳寿軒といい鞍骨城を築き、後1510年(永正年間)頃同城の鬼門除けに離山神社を創建したという。
1488年(長享2)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。
1495年(明応4)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されている。16世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てた。
1540年(天丈九)武田信虎は信濃国を攻略しょうと始めて佐久郡に攻め入り、小県郡毎野棟網を攻めた。海野氏は敗れて棟綱と子の幸隆は上野国に逃れ、関東管領上杉憲政に頼った。憲政は武田氏の勢力を佐久地方から排除し、海野氏を故地に還してやるために兵三千を率いて佐久に攻め入った。村上義清はこれを聞くと直ちに諏訪頼垂と武田暗信に急報し救援を求めた。諏訪頼重はさっそく兵を率いて小県郡に入り上杉陣に対した。しかし義清、晴信は頼重を助けようとしないので、頼重は単独に憲政と講和しそれぞれ領国に帰った。晴信は頼重が単独講和したことを怒り、諏訪郡に入り頼重を攻め滅し、続いて伊那、筑摩方面を攻めてこれを征服した。 (埴科郡誌)
●信州に進出した武田信玄は、上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて1560(永禄3)年頃に「海津城」(後の松代城)を完成させたようです。『甲陽軍艦』には、1553(天文22)年に山本勘助が構築したとありますが、当時この辺りが武田氏の勢力下にあったことはなく、1555(弘治元)年影虎、晴信が長く対陣した際にもこの城を利用した記録はないそうです。ただこのすぐ後に、北信濃攻略の足がかりとして清野氏館跡に目をつけ「海津城」を築城したものと思われます。
信玄は重臣・高坂昌信(香坂弾正虎綱)を完成した「海津城」に置き、上杉謙信に対峙しました。第四次川中島合戦ではここに本陣を置き、有名な啄木鳥(きつつき)戦法で戦ったといわれています。啄木鳥戦法は、江戸時代の命名です。確認された史実ではありません。啄木鳥戦法については、「啄木鳥戦法の検証」をお読みください。
1578(天正6)年高坂昌信が没すると、春日信達が二代目の城将となります。
●武田氏滅亡後、1582(天正10)年、織田信長の部将・森長可が2ヶ月のみ在城。しかし、信長の急死(同年)により、芋川氏らの一揆により、京に逃げ帰らざるを得ず手放します。
本能寺の変後は上杉景勝の領するところとなりました。
上杉方の春日信達(武田氏の旧臣・春日弾正忠)が治めましたが、北条氏への内通の嫌疑を掛けられ上杉景勝に殺されました。
北条氏直の小県侵入で、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、春日信達は真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとしました、しかしこれは事前に発覚し。弾正忠は捕えられ殺されました。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(妻女山)に陣したとも伝えられています。
すると上杉景勝は村上義清の子、国清(景国)に任せました。
しかし、1584(天正12)年に国清の副将屋代秀正が家康に内通して出奔したため罷免されます。
そして景勝の一族・上城宜春(義春・宣順)が入りました。
しかし、秀吉が景勝に人質を要求したため景勝は妹婿である上条義春の子を人質に出すことにし、その代りとして義春の諸役をゆるめ、海津城将としての勤務を免除しました。義春の後役として、景勝は越中国に在陣していた須田相模守満親を城将としました。
1585(天正13)年から入った須田満親は、1598(慶長3)年までと比較的長く治めます。
●1598(慶長3)年、上杉景勝が秀吉の命で会津移封となり、この地方が豊臣秀吉の蔵入地となると、田丸直昌が海津城主に封ぜられました。
このとき景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、牧島城の芋川越前守親正らが在職していましたが、これらの諸将にはそれぞれ会津藩の新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給しました。
このとき海津城将だった須田満親には二万三千石、清野助次郎長範には一万四千石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられています。 北信濃四郡からは、この地の地名を有する土豪とその家臣が全ていなくなりました。須田満親は、上杉氏とともに国替えで会津に行った後になぜか自害しています。
●豊臣秀吉から徳川家康へと政権が移り、家康は1600(慶長5)年に森長可の弟忠政を入れます。忠政は「海津城」を改修し、兄の長可が自分が来るのを待っただろうと「待城」と改名したのですが、領地に過酷な総検地を行ったため農民の恨みを買いました。度重なる出陣や城の改修で家臣への俸禄が充分に払えず、上田の陣では、足軽たちが暇を請うという事態に発展、家老・林為忠が自らの具足櫃から俸禄を出して引き留めたといいいます。(先代実録)
1603(慶長8)年、森忠政が美作へと加増転封されると、家康の六男・松平忠輝の領地となり、「松城」と改名されました。
1610(慶長15)年、花井吉成。1613(慶長18)年、花井義雄。1616(元和2)年、松平忠昌。1618(元和4)年、酒井忠勝。と城主が転々と代わります。
1622(元和8)年に徳川秀忠の命で上田城から真田信之が移封され、1711(宝永8/正徳元)年、孫の幸道のときに「松代城」と改名されました。以後明治まで10代真田氏十万石の領地となりました。真田信之の霊屋は、城の西方の長国寺にあり、破風の鶴は左甚五郎作と伝えられています。
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2015年5月14日木曜日
長野の歴史
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ここには日本武尊(やまとたける)が蝦夷(えぞ、えみし)を平定したが、ただ越国と信濃国が従わないと書かれています。これまで蝦夷といえば東北地方を指しているものと思っていましたが、信濃国が蝦夷だった時代があったとは驚きでした。それから数百年経った同じく『日本書紀』皇極元年(642)に、「越辺境の蝦夷数千人が帰服」とあり、その頃になると蝦夷との軍事境界線が新潟県北部(または山形県)まで北上していたことを物語ってくれます。その6年後には越後国に「蝦夷に備えて磐舟柵をつくり、越と信濃の民を選んで柵戸」としました。柵戸(きのへ、さくこ)とは、平時は砦で農業を営み、外敵が押し寄せたときには武器を手にして戦う屯田兵のようなものだったと云われています。やがてこの蝦夷境は更に70年程を経て秋田県や宮城県より北へ達することになります。
しかし 日本武尊より以前でも『日本書紀』崇神天皇11年に、「四道将軍を東国に派遣して平定した」との記載があり、崇神天皇48年には「豊城命に東国を治めさせ、上毛野君と下毛野君の始祖となった」ともあるので、この頃既に畿内→岐阜県-長野県-群馬県-栃木県にかけての地域は、大和朝廷の影響下にあったと考えられています。さらにそれを裏付けるものとして、平安時代に編纂された『国造本紀』に興味のある記載があります。ここには、三濃前国(岐阜県)→科野→須羽(諏訪)→上毛野(群馬県)→那須(栃木県)の順で、開化天皇から景行天皇の間に、誰々が国造(くにのみやつこ)を賜ったと書かれています。以上のことから整理すると、日本武尊が長野県に入った頃は科野国造がおり、反乱する可能性のあった蝦夷と呼ばれる人々と共存していたことになります。その後、成務天皇5年諸国に詔して国郡に造長(みやつこおさ)を任命し、山河を境として国県を分けたとあります。これにより現在の長野県内のいずれかの範囲で、科野国造やその他集団の勢力範囲が定められました。そして時代は古墳築造へ本格的に突入していきます。
『日本書紀』、『古事記』には、歴代天皇在位年数や崩御年記されていますが、これを西暦に換算するとある問題に遭遇します。それは先に記した日本武尊の時代を年数のはっきりしている天皇から逆算すると西暦110年頃となり、中国の歴史書から正確に判定できる卑弥呼の時代239年頃より100年以上も前の事象となってしまいます。『日本書紀』は養老4年(720)に完成したもので、そうすると600年以上昔の事柄を記していることになり、現在の私達が戦国時代の頃の国史を書くという恐ろしく不正確なことに相当します。100歳以上存在していた天皇もおり、初代の神武天皇から第9代開化天皇までの天皇は実在しなかったとする説もあり、多くの研究者が年数の変更などを試みています。その方法としては、つぎの代表的なものがあります。
①在位年数を平均して各自に割り当てる。②干支年から推定する。(丁酉→397or457など)③在位年数を比率で再配分する。
①の研究を元に上記事象を西暦に換算し直すと、崇神天皇の事柄が340年頃、日本武尊(景行天皇御代)が370年頃、成務天皇が390年頃に想定されていますが、私の想像ではこの研究でもズレが+-50年相当は生じていると思われます 。人間が等しく同じ年数を生きているわけはなく、発掘結果と照らし合わせても矛盾が大きいので①は採用できません。そこで②③や中国史料を交えて修正している研究があるのでそれを引用すると、崇神天皇が290年頃、日本武尊(景行天皇御代)と成務天皇が335年頃となります。今回の余談では、これを参考に最近の研究を関連付け、次のように長野県の古墳時代を展開しました。
弥生時代が終わろうとする頃、長野県には千曲川流域に「赤い土器のクニ」、松本平と諏訪湖のクニ、伊那谷のクニの3勢力が土器の分布から存在していたと言われています。その後、ここに北から北陸地方の土器が長野県南端へ、南から東海地方の土器が長野県北端へ運ばれ、東日本一帯で大きな繋がりがあったことが分かっています。ある研究によると、「3世紀前半、東海、北陸、関東など東日本各地では、前方後方形墳丘墓が盛んに営まれ、東日本各地における地域性の顕著な弥生土器が土師器に転換するのは、基本的に濃尾平野を拠点とする勢力の影響によるものである。これらのことから東日本では、濃尾平野の狗奴国(くなこく)を中心に、関東までおよぶ広大な地域に狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合が形成されていた可能性が大きい」としています。そして、卑弥呼の晩年、邪馬台国と狗奴国の間に争いが始まり、「この争いの帰結は、その後の状況から邪馬台国側の勝利に終わった」とされます。
そして崇神天皇の西暦290年頃、四道将軍が東国に攻め込み、その後「神八井耳命孫 建五百建命(たけいおたけのみこと)」が神野国造(文献上の初見)に定め賜わりました。その理由として『国造本紀』には「既にして初めて橿原に都し、天皇の位に即き、勅して其の功能を褒めて国造に寄さしたまひ、其の拒逆者を誅して、また県主(あがたぬし)を定む、即ち是れ其の縁なり(中略)」とあります。後の西暦478年、有名な宋へ朝貢した倭王武の上奏文には次のようにあります。「昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国・・・」。まさに四道将軍を含めた大和朝廷による蝦夷 (拒んで逆った者)征伐の歴史を指しています。さらに『日本書紀』神武天皇に、「えみしをひたり、ももなひと、ひとはいへどもたむかひもせず」と、蝦夷は強い兵だというが全く抵抗しなかったと書かれています。大和朝廷は蝦夷を征伐すること以外を考えなかったのでしょうか?、後の718年『養老令』には次のようにあります。「辺境の国司は蝦夷に対して、饗給、征討、斥候」とあり、大和朝廷の意向を「拒む者が誅」されたのであって、蝦夷の出方によっては飴と鞭を使い分け、生かされた蝦夷もいたようです。
四道将軍が攻め込んだ頃に築造された東日本で最も古いと言われる古墳が松本平にあります。弘法山古墳66m(国指定史跡)と呼ばれる前方後方墳で、美しい松本平を一望できる山頂にあります。この古墳からは朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)で5枚が出土した、獣帯鏡と呼ばれる鏡が埋葬されていました。『漢書』には紀元前1世紀に倭人が楽浪郡に朝貢していたとの記録があるので、約400年間にも及ぶ朝貢関係の中で賜った鏡がここに存在していることになります。楽浪郡は313年に滅亡したので年代の目安にもなり、大和朝廷に派遣された将軍の墓所ではないかと考えられています(東海地方西部の土器が出土していることから、そこから出兵した軍とも云われています。また前方後方墳の発生地を東海地方とみている研究もあります)。その将軍がどのような目的で派遣されたのかを説明している研究は、今のところ拝見した事がありません。しかし多くの発掘調査から、弥生時代後期に県内各地で繁栄していた集落が、この将軍の派遣と同時期に殆ど消え去ることが判明しています。これにより将軍の目的がこの地域に住む蝦夷の征伐であったことが推定できます。いずれにしろ弘法山の近在では、中山36号墳という中規模な円墳築造が続いてから忽然と途絶えました。
その他県内には同じ前方後方墳(前方後方形周溝墓5基を除く)が10基存在し、その分布を示すと善光寺平3、中野地域1、飯山地域3、飯田地域3基になります。いずれも松本平で古墳築造が途絶えた後の300~340年頃のもので、さらに数十年遅れて東北地方の米沢市(山形県)や会津市(福島県)まで前方後方墳が造られるようになりました。また前方後方墳は新潟県の新潟市や三条市など信濃川下流域にも築かれ、善光寺平→中野→飯山→三条と軍団が信濃川を下って行ったことが予想されます。前方後方墳の分布は弥生のクニとも一致しているので、まさにこれらを狙っていたことが分かります 。しかし善光寺平の集落だけは壊滅と言えるような大きな減少がみられないことから、弘法山の科野国造に降伏(従順)したのだと考えられます。これは善光寺平の古墳の規模が30~40mと弘法山より劣っていること、弥生時代後期からの前方後方形周溝墓の継続とみられる同地域での前方後方墳の築造が理由になります。
しかし弥生の集落を壊滅させて、広大な長野県にたった50~100戸程度の人間がやって来ても、それは全体でみると散らばる点にしかすぎません。当然他の大部分の地域に散住する蝦夷の人々の中にはそれに従わない者もおり、天竜川流域にかけての日本武尊の再軍事遠征もそのような理由から行われたと考えられます。千曲川流域で5基の前方後方墳が築造された頃、飯田地域では代田山1号墳(前方後方墳61m)が造られました。科野国造の弘法山と代田山の古墳は、大きさがほぼ同じなので権力の差はそれほど無かったかと考えられます。この頃、日本武尊の軍が通過したと云われる天竜川流域に、景行天皇(335年頃)の命によって須羽国造が置かれました。普通は誰でも須羽とあれば現在の諏訪地域を考えますが、この頃の諏訪に大型古墳は1基も無く(前方後円墳は6世紀後半の下諏訪町青塚古墳67m1基のみ)、代田山1号墳(上伊那の前方後円墳は6世紀後半の箕輪町60m1基のみ)に最初の須羽国造である○○大臣命が埋葬されたと考えられます。270年以上後の聖武天皇の頃に、『続日本紀』の養老5年(721)「信濃国を割いて諏方国を置いた」、天平3年(731)には「諏方国は廃されて信濃国に併合された」という出来事がありました。これは須羽国造という前例があったからこのような事が行われたとも想像できます。その後、飯田地域でも代田山2号墳42m、北本城古墳35mと中規模な前方後方墳の築造が続いて途絶しました。このことから須羽国造はたった数十年(又は3代)で途絶したのではないかと考えられます。そして、それを待つかのように善光寺平で県内でも最大規模の前方後円墳が造られていきました。
弘法山古墳に被葬者が埋葬されてから50年程が経った西暦340年頃に前方後方墳は造られなくなり、それに代わるようにこれまでない規模の大型古墳が善光寺平で築造されました。前方後円墳の森将軍塚古墳98m(国指定史跡)になります。古墳には三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が埋葬されており、もしもこれが約100年前に邪馬台国が魏国から賜った本当の鏡であれば、卑弥呼と関連する国によって派遣された将軍になりますが、その真実は永遠に明かされません。県内の研究論文では、「森将軍から始まる埴科郡の土口→倉科将軍塚→有明山将軍塚古墳の4代と、千曲川を挟んで同年代に造られた更科郡の姫塚→川柳将軍塚→中郷古墳の3代のものを合わせた7代埋葬者(研究推定350~490年頃)がこの一帯を支配し、これが後に推定650~690年頃の科野評(郡の前身)の成立につながった」とされています。しかしこれは間違いで、2000年以降の分析などにより姫塚と中郷は切り離され、他の古墳年代にも修正が加えられ、森将軍→川柳将軍93m→倉科将軍73m・有明山将軍32m→土口67mが一連の関係ある古墳だと判明してきました。さらに『日本書紀』と整合させようとすると450年を越えることに関してどうも不一致だと感じていたところ、これら5基の築造年も修正されて350~440年頃と言われるようになりました。また、ここで注意しなければならないのが、この頃は5代の前方後円墳だけが築かれたのではなく、中野(中野市)の高遠山55mや七瀬双子塚61m、埴科(長野市若穂)の和田東山古墳群50m前後(大室18号、大星山2号など含む)、さらには方墳ですが上田平の大蔵京35m(上田市)と続く中曽根親王塚古墳52m(東御市) が造られていたことを知らなければなりません。
それまでの善光寺平は、千曲川と聖川が合流する地域(長野市南部~千曲市北部)を中心に、湿地帯に多くの田が作られていました。このことから当然それにともなう蝦夷も多数居住しており、この物資と人を支配するために、松本平ではなく「赤い土器のクニ」を母体とした善光寺平へ拠点を置いたと考えられます。科野(神野)国造 建五百建命の祖父である神八井耳命は神武天皇の第2皇子で、これは善光寺平に皇族を頂点とした科野国造が君臨したことを意味します。西暦335年頃の成務天皇4年「国郡に君長なく県邑に首渠のないため、今後は国郡に長をたて県邑に首をおき、各地の有力者をとって国郡の首長にあてよと詔された」と『日本書記』にあります。これにより首長(国造)に森将軍塚から始まる4代(有明山将軍は倉科将軍とも重なり、古墳規模も小さい事から恐らく違う)がなり、蝦夷とみられる前方後方墳以来従う中野地域と水内地域(善光寺平北部の地附山古墳)の系統を引く埋葬者は、国郡の長か県首(県主)に任命されたのだと考えられます。ただし、方墳築造だけを許された上田平における異質性の謎が残ります。あくまで推測の域を脱しないのですが、上田平は後に小県郡と、郡名に「県(あがた)」の名残を残します。また後に述べますが科野国造の領域とは違った要素を持つ地域になるので、上田平は県主に任命され、前方後方墳時代と重ならない前方後方形周溝墓だけが造られた佐久平も、この県主の領域であったとみることもできます。こうしたことからこの約100年間は、「各地の有力者をとって」とあるように、善光寺平の南部を中心に、北は中野地域から南は佐久平までを支配する連合体のような国家が存在していたことになります。よってこの頃は、科野国という国があったのではなく、数人の国郡の長や県首(県主)の中で、弘法山の系譜を引く最も有力な善光寺平の長が科野国造という位に任命されていたという程度だったのです。これらの古墳からは、いずれも内行花文鏡などの鏡が発掘されていることから、「鏡」というのは大和朝廷を通じて科野国造から与えられた国郡の長か県首(県主)の印だったのかもしれません。ただし高遠山古墳からは鏡が出土しておらず、森将軍よりも古いと言われることから、 国郡の長や県首(県主)の任命が行われ始める前に亡くなった被葬者と推定されます。また前方後方墳ではないかとの説もあり、地形図の見方によっても前方後方墳に見え、方墳の四隅が長い年月に雨風によって削られた可能性もあります。
やがて450頃になると、善光寺平の大型古墳の築造は忽然と終わり、代わりに天竜川流域の伊那谷南部にあたる飯田地域(飯田市)で築造が始まりました。ある研究によると「この終焉は善光寺平の勢力が大和朝廷の攻撃を受けて屈服し、郡(評)の前身とも言われる県主などに堕ちたためである」と主張しています。しかし、「西暦430年頃から100年間、日本は寒冷期に入った」と言われるので、北部の善光寺平から飯田地域へ国造が移ったのではないかと考えています。森将軍塚から始まる善光寺平で造られた大型の前方後円墳の周りには、その後100年以上にわたって無数の小型方墳や小型円墳が築かれました。これはこの地域における森将軍塚の系譜を引く者達の権勢が落ちたことを意味しています。
480年頃になると諏訪大社上社を見下ろす山上にフネ古墳(方墳20m)、松本平に桜ケ丘古墳(円墳30m)、上田平に王子塚古墳(帆立貝51m)、佐久平に北西ノ久保古墳群(方墳35m他円墳)、善光寺平に中郷古墳(前方後円墳53m)や越将軍塚古墳(円墳32m)、須坂に八丁鎧塚古墳(積石円墳23m)、中野に金鎧山古墳(円墳21m)などが築造されました。これらの地域にはさらに数基の中小規模の円墳や方墳が築造され、先に権力の象徴として与えられた鏡は、各地の古墳に埋葬されていました(盗掘によって確認できないものもあります)。ただし中郷古墳は50m級の前方後円墳なことから、この古墳の被葬者の時までは国造の血族など有力な者が残されたか、この古墳への埋葬をもって飯田地域へ移住したとも考えられます。さらに、百済人や高麗人の墓所として知られる積石塚古墳が造られていくのもこの頃で、善光寺平を取り巻く水内地域の地附山古墳群、埴科地域の大星山古墳群と大室古墳群などが代表的(中野地域、松本平、上田平、佐久平にも存在)です。このように上田平、佐久平、松本平、諏訪地域などの、これまで古墳の築造が無かった地域に変化がみられることから、科野国造が飯田地域に移るのと同時期に、これら各地にも人間が分散していったのだと考えられます。
現在、長野県各地に県(あがた)地名が13箇所残っています。ある研究によると、それが県主の所在であったと言われ、その分布を見ると松本平、 安曇地域、諏訪地域、上田平、佐久平で、伊那谷には1つもありません。そこで私は、科野国造は雪が多く寒冷で穀物収穫量の少なくなった善光寺平を出て、寒冷の影響の少ない伊那谷を直轄として畿内との連絡に便利な御坂峠に近い飯田地域を本拠にしたのだと考えています。残った伊那谷以外の地域には、先にも述べた古墳を築造した国郡の長か県首(県主)の勢力があり、科野国造を頂点に各々が独立していたと考えられます。また、この分布を別の見方からすれば、科野国造と共に伊那谷に移住した長 (首)も、自身の勢力地に僅かな人数を残し、穀物を伊那谷へ輸送させるなど支配力を残したのだと考えられます。
奈良県の藤原宮跡出土の木簡「科野国伊那評□贄」(650~700年)からは、更に200年以上経たないと科野国という国が成立していたことを証明できません 。しかし飯田地域に科野国造と国郡の長や県首(県主)が移っても、それは彼等の前方後円墳がほぼ同じ規模なので、変わらずに単なる連合体にすぎなかったと考えられます。飯田地域に移った科野国造の古墳として候補に挙がるのが、桐林にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(飯田最古で県宝眉庇付冑が埋葬されていた妙前大塚古墳は円墳なので否定)になります。先程も述べた任命鏡としての二神二獣鏡、画文帯神獣鏡、四神四獣鏡、内行花紋鏡の4鏡が埋葬されており、その後飯田地域で大量に造られた前方後円墳の先駆けとなる古墳でした。このように西暦450年頃に行われた科野国造の移住は、ほぼ長野県全域の主要な平地を有力者が掌握するきっかけになったことが分かります。
西暦520年頃になると長く続いた寒冷期は終わり、西暦580年頃に科野国造は再び善光寺平へ移りました。また、この頃を境に前方後円墳は造られなくなり、飯田地域だけの特殊性は殆ど薄れ、県内の各盆地へ分散するように小規模の方墳や円墳が100基単位で築造されるようになりました。全国的にも十数万基ある古墳の99%が、この西暦500~690年頃に造られたと言われています。『日本書紀』天智天皇5年(666)に「以百濟男女二千餘人居于東國」と、百済人2千人余が東国に住むことになったとあります。この頃の人間の動きは再び千曲川流域へ 戻っていき、佐久平や善光寺平では数百~千戸を超える新たな住居が各所で造られるようになりました。こうした百済人も含む多くの民の移住が国策として進められていたのだと考えられます。そして時代は大化の改新を経て、律令国家への道を歩んでいきます。 ※このあたりの話しは後ほど補足します。
以上、『日本書紀』を中心に 古墳時代を紹介しました。
長野県内の古墳は開発で破壊されたり、天災で失われたり、形が変わってしまったものもあり不正確ですが、ある研究から引用すると大小全部で3,100基以上あると言われています。その内、千曲川流域1,900基(61%)、天竜川流域980基(32%)にのぼります。また古墳の副葬品として貴重な鏡については千曲川流域23枚(28%)、天竜川流域60枚(72%)と逆転します。そして円墳より造るのに労力を要し、有力者が埋葬されたと言われる前方後円墳にしても千曲川流域19基(42%)、天竜川流域26基(58%)となり、いずれにしても両地域で90%以上を占めています。また天竜川流域の古墳からは日本でも有数の馬骨や馬具が発掘され、短甲と呼ばれる鎧や鉄剣も数多く出土していることも特徴の1つになります。
これまで古墳だけから史実を探ろうとする研究には自ずから限界がありました。しかし、その後文化財保護法の制定により埋蔵文化財調査が各地で行われるようになり、多くの調査結果から古墳以外の視点でこの時代を推測することができるようになりました。しかし、長野県内で「遺跡発掘調査結果」、「古墳」、「文献」の3類を交えた研究は殆ど無く、これまでの後2類による研究では、1980年代と2000年代で50年以上も古墳の築造年代が前後したケースが発生する始末でした。これにより今回の余談作成においては、その研究毎の整合と、矛盾の修正に大変苦労させられましたが、3類によって長野県内の古墳時代をより詳しく見ることができました。次にその詳細サンプルとして、飯田の古墳時代を中心に紹介します。
古墳時代を考えるには、「弥生時代後期、どこにどの位の人間が住んでいたのかを」知らなければなりません。ある日突然に古墳時代が始まるわけはないので、その発生する要因となった時代背景を把握しなければ、歴史の方向を見誤ります。県内でその軸となるのが善光寺平と飯田地域で、科野国成立過程をみるには善光寺平以外の地域の状況を知らなければなりません。そこで天竜川流域の飯田地域に着目しました。
弥生時代後期の飯田地域には、現在の伊賀良付近(アップルロード~鼎(かなえ)) と、市を南北に分断する松川以北の飯田駅~座光寺(ざこうじ)付近に集落が集中し、その他全域にも集落が拡散するなど、ほぼ現在の中心市街地と重なった地域に生活していました。しかし、弘法山古墳が築造され、須羽国造が現れた西暦300年頃を境に、これら集落は忽然と消滅しました。松本平や佐久平でも同様の傾向で全滅と言っていい程の状態です。しかし古墳時代の人骨は殆ど原形が判明できないほど風化してしまうので、発掘調査から戦闘の痕跡などが確認できません。可能性を示すならば、それまで住んでいた蝦夷人は、上毛(群馬県)や越(新潟県)など新天地に後の柵戸のように連れられたか、畿内へ奴隷として連れ去られた事も考えられますが、減少した分の増加が見出されないことから殺害とした方が矛盾がありません。どの位減少したかというと、発掘された竪穴式住居数だけでみると95%以上減となります。しかし全滅した集落が多くある中で、座光寺の恒川遺跡だけは規模を大きく縮小して、それから80年近く経った380年頃まで生活痕跡がみられるので、代田山1号墳(松尾)の被葬者である須羽国造は座光寺を拠点にしていたと考えられます。
須羽国造が途絶えてから50年間近く、飯田地域における人間の生活痕跡は閑散としていましたが、日本が寒冷期に入った430年頃を過ぎると科野国造が多くの民を率いて善光寺平から移住して、集落が増加していきました。新たな集落は川路(かわじ)を中心とした地域で、閑散としていた座光寺の恒川遺跡にも再び人が集まり、鼎(かなえ)には拠点となる集落が造られました。これによって弥生時代後期の50%程度まで回復しました。これらの箇所については、発掘調査によって明らかにこれまで住んでいた者達とは違う集団の集落だと言われています。しかし鼎の中心となる大集落はこれから100年程経って突如姿を消すので、座光寺~川路の天竜川沿いの集落とは違う性質の一団ではなかったかと言えます。古墳に関しては、桐林(きりばやし)にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(けんせいづかこふん)が早く、続いて座光寺~川路の南北10km以内(東西0.5km程度なので5km2以内)に30~80m級の前方後円形古墳が集中的に造られました。 これは5年に1基築造されるようなペースで、ここに住む人々が延々と古墳に使役されていたことが予想されます。通常、首長が約5年毎に次々と死亡することはありえないので、ある研究では「少なくとも8つの小規模な地域集団の長が、ともに同じような政治的位置についた」としています。そして、飯田地域の古墳は3~5代の連続する系統が幾つかに分けられることも報告されているので、これらの説を総合すると「科野国造に従って他地域の長も、寒冷によって移住してきた」と考えることができます。また、ある研究によると「これは大和朝廷の有力な諸豪族から、それぞれ送り込まれてきた集団である」と主張しているものもありますが、その根拠が示されていません。8程度の集団を推定すれば、善光寺平の科野国造、高井地域(中野、須坂)、水内地域(地附山、飯山)、埴科地域(松代、若穂)、上田平、松本平、佐久平などになります。これを裏付けるには、各地域と飯田地域の古墳を今後比較検討することが必要になります。
その後、鼎と川路の集落はさらに肥大化して弥生時代後期に匹敵する興隆をみせるようになり、松尾には新しい拠点集落が造られました。この頃の古墳からは馬歯と馬骨、馬具が著しく出土していることから、多くの研究者が飯田で馬の飼育が行われていた可能性を指摘しています。ある研究によると、馬が埋葬されていた土壙(どこう、単に土へ開けた埋葬穴)が全国192基発見され、その内長野県で41基 (全国の21%)、内飯田では28基(全国の15%)が発見されています。その内26基が座光寺と松尾だけから発見され、全て440~490年頃のものと推定されています。篠ノ井遺跡群(長野市)では中部地方で最古となる380年頃の馬歯が発見されており、既に蝦夷集落を壊滅させた集団が、馬を用いていたことを推定できます。また古墳に馬具が埋葬されていた数を見ると、群馬県300、福井県270に次いで長野県は240基となり、その内飯田地域は93基になります。上郷別府の宮垣外遺跡10号の馬骨は牡馬11歳前後ですが、ただでさえ小さな木曽馬より小柄であったようで、当時の馬がどのようなものであったかを知ることができます(飯田市立上郷考古博物館蔵)。
平安時代になると、朝廷に収められる馬の半分は信濃国産でした。その前身ともなる「牧」 のようなものが、この時代から存在していてもおかしな話しではありません。『日本書紀』天智天皇元年(662)に「牧を置いて馬を放つ」とあり、500年代での存在に可能性を与えてくれます。さらに『大宝令-厩牧令』からどのような 「牧」であったかを参考にすると、「毎日上馬に栗1升、稲3升、豆2升、塩2斤。11月上旬からは乾草、4月上旬からは青草を与える。乗馬に堪え得る牧馬は軍団に渡して兵馬に用いる」とあります。また「厩に附属する馬戸を設け、馬戸に附属する正丁は200囲(周長600尺)、次丁は100囲、中男は50囲の草を調達する」ともあり、座光寺~川路に住む集落の人々が「牧」に使役されていたと考えられます。何故飯田で馬の飼育が行われたのか疑問が湧きますが、次のように考えられます。馬の飼育場は天竜川沿いと考えられ、これらの地域には後の条理遺構が無く、当時から良田と言えるような水田がありませんでした。そこで馬に稲を踏み荒らされず、さらに東西を天竜川と段丘崖に挟まれ、南北に幾つもの支流が形成した谷が走り、ある一定の広さをもつ丘陵地のもとで、馬の移動を容易に制限できたから適地とみなされたのだと思われます。「牧」の位置をもう少し具体的に推定すると、継体天皇の頃の畿内における「牧」は淀川水系の氾濫原にあったと云われています。これをこの地域で探すと、座光寺(松川、土曽川合流点)、松尾(毛賀沢川合流点)、川路(久米川合流点)の天竜川沿いに広い氾濫原がありました。また、これら支流は頻繁に土石流をおこし、天竜川合流まで流れて荒涼とした石原の風景が広がっていたと思われます。
この馬を埋葬するという行為について『日本書紀』大化2年(646)に興味のある記事があるので紹介します。「凡人死亡之時。若経自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或為亡人蔵宝於墓、或為亡人断髪刺股而誄。如此旧俗、一皆悉断。」ここには、「おおよそ人が死亡した時、若い人は首をくくって自ら殉死し、或いは人を絞りて殉死させ、及びあながちに亡人の馬を殉死させ、或いは亡人の為に宝を墓におさめ、或いは亡人の為に髪を切り股を刺して偲びごとす。この如き旧俗を一に皆悉くに断めよ。」と、孝徳天皇の命としてあります。この1文から、馬を古墳に埋葬することを禁止するとともに、生きている人間を殺して埋葬していたことが分かります。長野県の古墳時代に大きな人口増がみられないのは、多くの人間が古墳の被葬者と共に埋葬されていたからかもしれません。この文は近代になって学者が名付けた有名な「薄葬令(はくそうれい)」と言われるもので、実際に「薄葬令」という名の令があったわけではないので注意してください。この文の前には、人を疲弊させる古墳築造を「悪習」とし、位に応じて大きさを制限する命令も書かれていました。それだけ人民を強制に使役していたとみられ、森将軍塚古墳の築造には延5万5千人使われたと云われています。
そして継体天皇の西暦530年頃になると、全国に馬具が普及していきました。この頃から580年頃まで、松尾に築造された前方後円墳は代田獅子塚61mを最大に8基になります。竜丘(川路含む)では塚越1号72mを最大に10基となり、帆立貝式や円墳なども加えると、この地域に20~50m級が更に7基以上造られました。さらに、これまで松川以北に大型古墳は造られていませんでしたが、座光寺(上郷含む)に雲彩寺74mや高岡1号古墳72mを最大に5基の前方後円墳が築造されました。そして円墳になりますが、座光寺の畦地第1号墳からは銀製長鎖式耳飾という珍しい物が出土し、戦前の研究では「国造家の治所がここに存在していた」と報告されています。そしてこの座光寺は、奈良時代になっても飯田地域の中心であり、伊那評衙を経て伊那郡衙(伊那郡の役所)になったと推定されています。これまで各長(首)が築造できた古墳が30~40m程度であったのに、飯田地域で60m以上の前方後円墳が造られたのは、馬によって大和朝廷からその権利を認められたのかもしれません(又は継体天皇への軍功か?)。しかし通説では「国造は大和朝廷支配下の6~7世紀頃、全国に設定された地方官である」(それ以前の旧国造とは別の目的を持った初期官僚制度の国造と考えられる)と言われるので、各長(首)の飯田地域への集住と、その後に彼等への国造任命が一斉に行われたため、その位に応じた古墳築造が行われた可能性とも考えられます。
やがて550年頃を過ぎると人口が半減し、人々は温暖化によって暮らしやすくなった北方へ移って行きました。そして580年頃になると約150年ぶりに科野国造が善光寺平へ移住し、飯田では川路、松尾、座光寺にわずかながらの集落を残して再び人間の生活痕跡が殆ど無くなりました。これは西暦290~340年頃と同程度の減少で、鼎にあった大集落は消滅しました。飯田の前方後円墳は先にも挙げたように多数築造されましたが、現在ほとんど6世紀後半に推定されています。しかし、この人口減少は人間を多数要する古墳造りと相反しないことから、6世紀後半でも580年頃にあった減少以前までの築造と逆に確定することができます。この減少は既に国造の治世が確固たるものとなっていたので、征圧など攻撃的なものが原因ではなく、科野国造に従って千曲川流域へ移っていったと考えるのが自然です。
また、この頃どのようなルートで都と繋がっていたのか興味が湧きます。そのきっかけとなるのが、飯田地域の西側方面の遺跡や県内の峠遺跡になります。西暦300年頃、他の地域と同様に須羽国造によって西側山麓の弥生集落も姿を消しましたが、この頃から御坂峠(岐阜県境)~雨境峠(北佐久郡立科町)~入山峠(群馬県境)において、石製模造品(せきせいもぞうひん、石で何かを真似た物)という遺物が用いられるようになりました。これにより既にこの時代から御坂峠ルートによって岐阜県や群馬県を繋ぐ流れがあったことになります。それから150年間近く飯田地域の西側方面で人間の生活痕跡は見られなかったのですが、450年頃から科野国造が飯田地域に移ると、飯田の西玄関にあたる阿智地域や西側山麓(伊豆木、大瀬木など)に小規模な集落が造られるようになりました。この頃になると石製模造品が祭祀道具として佐久平、善光寺平、松本平からも顕著に見つかるようになり、飯田地域を中心に長野県全体(木曽を除く)が1つの連合国家として成立していた根拠の1つになると考えられます。それから580年頃になると、阿智地域や西側山麓の集落は忽然と消えました。しかし700年代に大宝令・養老令によって東山道が定められるのと同時期に、その路線上である阿智地域や西側山麓の集落は再び現れました。これは、科野国造が善光寺平に移ってから、伊那谷は新潟県や群馬県へ向かうただの通過点に過ぎませんでしたが、律令の整備に伴って再び人間が配置されていったことを示しています。
そして西暦580年以降の飯田地域における人口減と連動するかのように、今度は伊那谷北部(箕輪町)、諏訪地域、松本平、善光寺平、佐久平など県内各地で大きな集落が現れ、それに伴ってこの地域で古墳が造られるようになりました。ある研究によると小さいもので数mとなりますが、伊那谷北部では180基、諏訪湖の周囲で95基、松本平で60基以上、佐久平で240基、善光寺平で1000基以上の古墳が造られたと言われています。飯田が西暦580~700年に閑散としている中で、千曲川流域はさらに数百戸以上の集落が次々と造られていきました。
記録によると、ちょうどこの頃の欽明天皇(571年崩御)と敏達天皇(585年崩御)の時に、科野国から天皇の周囲で働く舎人(とねり)が朝廷へ差し出されました。彼等は宮殿の名を取って欽明天皇では金刺舎人(かなさしのとねり)、敏達天皇では他田舎人(おさだのとねり)と呼ばれました。派遣した科野国では、都にいる彼等を養うための民(部)が選ばれたと云われています。そして後の律令制定により、中央との繋がりを持つ彼等が信濃国各郡の郡司大領(郡の長官)として登場してきます。下に『信濃史料』から朝廷との繋がりがみられる信濃国の事象を掲載しました。
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これにより「国造」から「国司」へという制度改変を大化の改新からとすれば(通説では天武朝と推定される)、それ以後に任命された信濃守=信濃国司は、直接信濃国と関係のない従5位下クラスの朝廷の人間が数年単位で任命されていたことが分かります。ここには掲載しませんでしたが、国司の次位「信濃介」も同様で、貞観5年にある科野国造一族の金刺舎人などは郡司までにしか任命されませんでした。こうしてみると、大化の改新~大宝律令施行(~702年)により、古墳築造や殉葬人馬など、これまで各地の国造が持っていた権利が廃止され、朝廷を頂点とした中央集権国家が成立したことが分かります。上表によると、古墳時代に科野国造が在所した伊那(飯田地域)と埴科(善光寺平)の郡司大領に金刺舎人が任命されました。律令の選叙令には、大領は「性識清廉にして、時務に堪える者」で「複数の候補者があって才用が同じならば先に国造をとれ」と規定されていました。また、飯田地域に君臨していた時の勢力範囲であった諏訪も金刺の治める所で、ここではしだいに諏訪大社と関わりを持っていくようになります。あくまで推測ですが、大化の改新以後に「諏方評」という、現在の諏訪郡と上下伊那郡を含む古来からの領域があり、大宝令によって諏方郡と伊那郡に分割されたのかもしれません(『隋書』国造120が、『延喜式』などでは590に増加しているので、国造領域が幾つかの評(郡)に分割・削減されたという研究がります)。
また宝亀4年に「他田舎人蝦夷」という人物が出てきますが、『蝦夷』研究によると、過去に蝦夷から朝廷に服属した一族には「蝦夷」や「毛人」という名が付くそうです。そうなるとこれまで他田舎人は郡司なので、金刺舎人と同様に科野国造の一族だと安易に論じられてきましたが、他田舎人は古墳時代(恐らく崇神天皇の290年頃)に科野国造に服属した有力蝦夷(大和朝廷が言うところの大蝦夷か)であった可能性を挙げておきます。他田舎人が科野国造の一族だという説は、史実を反映した部分もありますが偽系図と言われる阿蘇神社蔵『阿蘇家畧系譜』類だけに根拠を置いているので(ここから他田舎人が伊那郡と関わりがあったという異説がありますが、他の史料には全くありません)、信憑性がありません。上表の史料から、大宝律令成立期に他田舎人が治める所は小県(上田平)と筑摩(松本平)であり、科野国造が在所した伊那(諏訪含む)と善光寺平(埴科、更級)以外の地域になります。あくまで推定ですが、科野国造(金刺の祖先)を「有力者をとって国郡の首長」とし、蝦夷の他田舎人の祖先はそれになれなかった県首(県主)だったと考えられます。そして、西暦480年頃小県地域から筑摩地域に進出して力を持ち始め、飯田地域に居住した頃に国造となって、570年頃には舎人を出すほどまでに成長しました。金刺舎人に続いて出していることから、両者は対抗していた可能性が考えられます。なお、天平勝宝7年にある「国造小県郡他田舎人大島」は、上田平に初めて律令制度に準じて造営された信濃国府に居た者であると考えてしまいますが、国司は別の者(坂合部金網か)がいて、通説では「国造は大化の改新によって郡領となった」とあるので、「小県郡司大領の他田舎人大島」と表現するところを簡略して国造と記載したのだと考えられます。
話しは戻りますが、西暦580年以降の各地における人口増は、単に飯田地域からの移住者だけでは数の説明がつきません。西側からの移民もさることながら、朝鮮半島からの移民も多数いたと推定されています。既に500年頃から善光寺平東部の埴科(若穂、松代)、高井地域(須坂、中野)に百済人が多く住んでいました。百済は660年に滅亡したので、それ以前から日本と朝鮮半島の交流が深かったことが分かります。その他に高句麗の668年滅亡などにより、伽耶人や高句麗人(高麗)の移住も考えられます。後の『日本後紀』延暦18年(799)年には次のようにあります。
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これにより推古天皇の西暦603年から100年間に、高麗人が科野国に移住し、さらに朝廷より位を賜っていた者までいたことが判ります。そして、それから50年以上経った天平勝宝9年(757)、彼等は日本姓に改姓を願い出て完全に帰化しました。このように広い長野県の各地に、長年にわたって海外からの移住者が定着し、西側からの移住者を含めて、各郡(評)の集合体としての信濃国が実質的に成長していきました。また、この文が信濃国=科野国と、小県郡に分けて記載しているところに、先に書いた金刺と他田の2大勢力の存在を強く感じさせてくれます。
長野県ではこの頃の国府がどこに置かれていたのか長い間論争となっています。最も古い説では「筑摩」、次は「上田→筑摩」とあり、最近は「埴科→上田→筑摩」と言われるようになりました。しかし、これまで述べてきたように、西暦300年頃は善光寺平の科野国と飯田地域の須羽国の並立があり、450年頃からは飯田地域に科野国がありました。長野県の歴史では国府の位置問題とともに、「いつ、現在の長野県と同じ程度の規模に相当する科野国が成立したのか?」という問題がよく論じられています。それはこれまで述べてきたように、科野国は多くの勢力が集まった連合体の1つにすぎず、それが国として纏められたのは大化の改新以後(大宝律令)によるもので、朝廷の権力による強制的な制度改変にともなったものでした。
飯田地域から移った科野国造は何処に居たのでしょうか?、その候補となるのが埴科郡の屋代(やしろ、千曲市)です。『日本書紀』推古15年(607)に、「国毎に屯倉(みやけ)置く」とあります。屋代遺跡群から発掘された大型掘立柱建物群がそれに該当するとみられ、さらに鍛冶や紡錘工房、科野国最大規模級の集落も発掘されました。発掘調査の考察では、孝徳天皇~天武天皇初頭(645~680年)にかけて政治体制の整った施設が造られたことを論じています。この件に関して「埴科と更科はこの頃に科野評という1つの領域であった」との説がありますが、私も両郡に別れるのは上田に国府が置かれる西暦700年前後ではなかったかと考えています(それ以降の屋代遺跡群の施設は埴科郡衙)。そして和銅6年(713)『続日本紀』にある「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を著けよ」のように、この頃までには、恐らく科野国から信濃国という字に改変されていたと考えられます。いずれにしろ、この地域で科野国は終わり→信濃国の上田国府(小県郡)→信濃国の筑摩国府(松本平)と国の中心が移っていくのだと確信しています。そして、未だ発見されていない筑摩国府の推定地は、松本市の県町(あがたまち)になります。こうしてみると、金刺と他田の争いは、国府の位置でみる限り他田一族の勝利となったようです。国造から成長した郡司大領は、任期の短い国司と違って、終身官であることから在地で大きな力を持っていました。他田は朝廷との繋がりを太くし、国司を巧みに取り込んで信濃国の官僚のトップとして君臨していったのです。
近年、上田市に現在ある国分寺の北で、国府の外周堀と思われるものが発掘されました。屋代で掘立柱と竪穴式住居に居住していた国造は、上田では四角に整形された堀や塀に囲まれた瓦葺の建物を造ったと推定されています。この遺構はまだ発掘されていませんが、これまでの成果から現在の国分寺本堂の北側一帯が最も有力だと思われるので、今後の発掘に期待します。また、創建当時これより南にあった国分寺(しなの鉄道付近)に使われた瓦には、「伊」「更」の文字が刻まれていました。これは伊那郡と更科郡が瓦の費用を負担した印だと云われ、実際には埴科郡の土井ノ入窯跡(坂城町)で焼かれたものになります。他田の領域ではなく、金刺の領域に瓦の製造を一手に負担させた謎が出てきますが、邪推をすると「権力を持った他田を介した国司命のもと、技術集団を多く保有していた金刺に、瓦や金具類の製造を使役させたのではないか」、または金刺が5~6位であることから「官位を得るために進んで貢献した」とも考えられます。
『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』
出典
http://www.yomono.server-shared.com/yodan/yomono6/
はじめに上グラフを見てください。
これは上杉景勝の時代に、貫高制から石高制へ改める際に作成された『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』から算出したものになります(禄高 3千石未満は「その他」として省略)。「緑色」が大国但馬守(兼続の実弟で、以前は小国と名乗っていた)や甘粕備後守など越後国の重臣で、「赤色」が直江山城守兼続、「黄色」が信濃国の者達になります。これを見て気付くこととして、上杉家は越後国といった印象が強いのですが、上杉景勝の時代では25%程度が信濃国の者達で構成され、直江山城守を中心に越後と信濃の者がほぼ均等にバランスを保つ体制であったことに気付きます。上杉家臣の中でも直江は5万3千石と群を抜いていますが、No2は須田の1万2千石、No5で島津6千石と、他の上杉家の古参者を差し置いて重用されていました。「須田、清野、島津、芋川、市川」?と、聞いたこともないような人物が居並んでいますが、須田が須坂市、清野が長野市松代・東条・西条など、島津が長野市赤沼から豊野など、芋川が飯綱町など、市川が栄村から野沢温泉村などと、皆が現在の長野市より北にあたる地域の小土豪でした。彼等がどのような経緯で上杉家臣となったのかは、主に次の3つに分かれます。
①武田晴信の侵攻に対して反抗し、敗れて上杉を頼った者。
②武田と上杉の抗争に巻き込まれ、最終的に上杉へ降った者。
③武田・織田と仕え、織田信長の死後に上杉へ降った者。
彼等が歩んだ3つのルーツをまとめようとすると、それこそ真に直江兼続を中心に書かれた『天地人』の内容を表すことになります。
遡ること16年前の、上杉謙信が越中国に出陣した際に作成された『上杉家中役方大概』天正5年(1577)において信濃諸将を探すと、御一門衆で「山浦源五」、御評定衆9人のうちで「島津玄蕃」、御奏者番4のうち「島津淡路守」、御組大将衆12人のうち「桃井主税助・高梨源太郎」、御番預衆8人のうち「岩井備中・井上将監」、御将足軽大将7人のうち「芋川勝八」、御先足軽大将16人のうち「市川惣四郎・栗田刑部少・清野高平」、御手眼預9人のうち「小田切半左衛門・諏訪部次郎衛門・清野市兵衛」、御長柄奉行6人のうち「大室源四郎・大滝土佐、清野因幡」、御大目付2人のうち「須田相模守」、御横目付6人のうち「岩井源蔵・西条全人」、道奉行2人のうち「栗林さふ助」と、最低21人を見出すことができます。さすがに御宿老や奉行衆は上条山城守や本庄美作守など越後国衆の者達で占められていますが、山浦国清(村上義清の子)が上杉一門の扱いを受ている点など注目され、その外の者達も評定や目付など中堅クラスの実務職に深く関わっていました。これにより、既に天文22年(1553)川中島の戦いから24年が経った謙信の時代から、信濃諸将が何らかの形にせよ、上杉家の家臣として深く利用されていたことが分かります。
御一門衆として登場してくる村上源五国清については、実のところ詳細が分かっていないのが現状です。しかし通説によると、村上国清は村上義清(元亀4年1573死亡)の子でしたが、上杉謙信の養子の形式により山浦上杉家の名跡を継ぎました。軍役帳でも他の御一門衆を差し置いて上杉景勝の次に列記され、天正7年(1579)には景勝から「景」字を頂戴して山浦景国と名乗りました。景勝は上条入道宜順と山浦景国だけに「殿」を付けて呼んでおり、明らかに他の年寄や家臣達とは別格に扱われていました。このように、謙信時代に主力とまで言えなかった信濃諸将が、上グラフの景勝時代になると、より重要な地位(年寄など)へと上昇しています。それがどのような経緯でなったのか、歴史の中で見てみましょう。
※但し、上杉家の歴史については多くの情報が発信されているので、ここでは要点だけを述べさせてもらいます。不明な方は『天地人』を御覧になるか、他のサイト等を参照してください。
@歴史編:
天正6年(1578)3月13日上杉謙信が病没した時、時代が大きく変化していきます。謙信には実子が無く、跡継ぎも指名しなかった為、養子の景勝と景虎が争いを始めました。ご存知のように旧関東管領上杉憲政の居住していた御館(上越市、おたて)を中心に争われたことから『御館の乱』と言われる騒動です。これにより上杉家中は2分に割れ、信濃諸将も分裂しました。景虎側として、東条佐渡守(長野市)は春日山城下に火を放ち、飯山城代であった桃井伊豆守は守備兵を率いて御館に来援しました。その他、岩井大和守、岩井式部なども景虎側に加わりました。しかし戦いは次第に景勝側が優位となり、天正7年(1579)3月24日景虎は逃げ込んだ鮫ケ尾城(妙高市)で自刃しました。こうして上杉景勝が跡を継ぐことになりましたが、1年余という長期の戦闘で領地や兵を失うなど謙信以前より大きく弱体化しました。そしてこの乱の後に上杉家から氏名が消滅する信濃諸将が見られます。これは、乱で景虎に従って討死したり、領地没収となったり、さらには信濃国上杉領は講和条件により武田勝頼に譲渡されることになったので、信濃国に残留して武田家臣になった者達がいたためになります。
御館の乱で、謙信時代の重臣を含めた景虎側の者達が多く消えたことで、上杉景勝を頂点とした新体制が生まれました。この時に初めて年寄(家老)となって頭角を現し始めるのが樋口兼続(天正9年に直江家を継ぐ)です。実績の無い20代の直江兼続が政権を手にするには、自分の思い通りになる軍事力が必要となりました。景勝に味方した上杉一門の上条宣順・山浦景国・山本寺景長の地位は重く、須田満親・竹俣慶綱・吉江宗誾・吉江信景らの年寄の存在も大きいものでした。こうした中で直江兼続は、信濃諸将の力を利用することを考え、まず自分の妹と須田相模守満親(みつちか)の子を縁組させました。さらに直江兼続の実父である樋口惣右衛門尉兼豊が、水内郡で最も力を持つ泉弥七郎重蔵の娘を妻としたので、信濃外様衆の力を得ることができました。泉氏(又は尾崎とも言う)一族には、上倉・今清水・上堺・大滝・中曽根・奈良沢・岩井があり、ほぼ水内郡全域と千曲川を挟んだ高井郡の一部まで影響を及ぼすことができました。彼等は御館の乱の後に、武田勝頼への譲渡で信濃国に残留したり、信濃国の領地を失って上杉家臣となる者に分裂しました。そして上杉家臣となった泉一族などは、景勝や直江兼続の直参(上田衆、与板衆など)に吸収されるなど、多岐にわたって上杉家中へと浸透していきました。
天正9年(1581)頃になると、加賀一向一揆を制圧して基盤を固めた織田信長が越中侵攻を本格化させてきます。戦況は悪化の一途を辿り、さらに上杉家の越中国防衛の要であった新川郡松倉城主の河田長親が病死しました。この危機に景勝は、越中国の五箇山一向衆と共闘して織田軍の侵攻を少しでも妨げようとして須田満親を送り込みました。須田氏(本家の井上氏)は鎌倉時代に親鸞へ帰依し、子や家臣6名を弟子にしてもらいました。そして修行を終えた彼等が戻って浄土真宗の寺院を高井郡内に建立するなど、300年以上にわたって一向宗との深い縁を持っていました。これにより越中国内の一向宗と上杉家のパイプとして須田満親は老練に働き、本願寺顕如(11世 光佐)や下間刑部卿法眼頼廉などと綿密に連携しました。しかし次第に越中国の今泉城や木船城を放棄しなければならない状況に陥り、魚津城を最後の防衛拠点として織田軍と熾烈な争いを続けました。
天正10年(1582)織田信長が武田討伐のために信濃・甲斐国へ攻め入り、3月11日武田勝頼が自刃して武田家は滅亡しました。景勝はこの機会に武田へ譲渡した旧上杉領を回復しようと、泉一族の岩井備中守信能などを飯山方面に派遣し、上杉に従うよう各地の土豪を誘いました。武田に残留した泉一族などは景勝に詫びて復帰し、芋川越前守正親は誘いにのり、一揆(主力は北信濃の一向一揆とされる)を率いて織田軍の森長可と戦闘を繰り広げました。しかし海津城と長沼城を占領した森長可の軍は強く、しだいに越後国内まで侵入を許すようになりました。こうして上杉家は、西の越中国と南の信濃国から同時に攻め込まれて危機にありましたが、6月2日織田信長が本能寺で討たれ、森長可は素早く撤退を開始しました。これにより7月を過ぎると、続々と信濃諸将が上杉景勝に降り、謙信も成し得なかった川中島4郡を完全に制圧しました。一方で6月3日越中国の魚津城が織田軍の猛攻によって落城し、籠城していた山本寺景長・竹俣慶綱らは討死しました。これにより家中での直江兼続の力がまた強まったとも言えます。そしてこちらも織田信長の死を伝え聞くや撤退を開始し、柴田勝家が越前国に退いたため、魚津城・小出城は須田満親率いる上杉軍が占拠しました。
上杉景勝は川中島4郡支配について海津城をその中心と定め、武田以前の村上氏による統治により秩序を保とうとしました。※各支配は下記のとおり。
高井郡 海津城(長野市)
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山浦(村上)源五景国
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高井郡 市川城(野沢温泉村)
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市川左衛門房綱
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更科郡 猿ケ馬場城(千曲市)
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清野助次郎長範
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更科郡 牧之島城(信州新町)
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芋川越前守正親
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更科郡 平林城(千曲市)
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平林蔵人佑正恒
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更科郡 稲荷山城(千曲市)
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保科佐左衛門
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水内郡 長沼城(長野市)
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島津淡路守忠直
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水内郡 飯山城(飯山市)
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岩井備中守信能
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武田滅亡の際に飯山城を守備していた、武田家臣の市川左衛門、河野因幡守、大滝土佐守、須田右衛門大夫は進んで城を引渡しました。それにより市川氏は、武田氏から安堵されていた領地(千曲川東の飯山市木島以北)をそのまま認められました。また、降伏した屋代左衛門尉秀正(千曲市)は、かつて村上義清の重臣であった縁をもって「榊木(坂城町)3ケ村」を安堵され、山浦景国の副将として海津城二ノ丸に配置されることになりました。こうして信濃国上杉領は松本城を拠点とする小笠原貞慶、岩櫃城(群馬県)の真田昌幸と接し、両者が徳川家康に臣従していたので、初めて徳川家と対立するようになりました。この時の支配は山浦景国に全ての権限を与えるのではなく、あくまでも上杉家の郡司にすぎないというものでした。さらに長沼城の島津と飯山城の岩井も同様の郡司に任命されたので、その権限が及ぶ範囲は水内郡の河北(浅川か裾花川と推定)以南、高井郡(市川が郡司であった可能性が高いが不明)、更科郡、埴科郡であったと推定されます。そして郡司は領内の公事・夫役の賦課と徴収権を持っていましたが、基本的に武田統治時代と同じようにするよう命令が下されました。
やがて天正12年(1584)山浦景国と屋代秀正が不仲となり、屋代は徳川家康の誘いを受けて、塩崎衆・室賀兵部などと荒砥城(千曲市)に立て籠もりました。屋代秀正は、上杉景勝が川中島4郡を制圧した時に、自身の荒砥城を対徳川に必要だとして上杉直轄(清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の交代在番)とされたので、元々不満を持っていました。徳川家康の後ろ盾を得た屋代秀正は、上杉軍の猛攻を2度耐え凌ぎ、撤退させました(後に落城して徳川に身を寄せ、徳川忠長の家老となります-小諸城主)。これにより上杉景勝は山浦景国を更迭して一族の上条宜順と交代させましたが、何らかの失敗があったとして更に天正13年(1585)6月須田満親を海津城主としました。徳川との交戦で一々越後国まで指示を仰いでいては対応しきれないとして、山浦景国や上条宜順の時とは違って、須田満親には全権が委ねられました。
一.4郡中の者、盗賊、逆心を企てるものがあれば、甲乙人によらず、すぐに糾明し、罪科の軽重について、流罪、死罪の沙汰をすること。一.諸国境のことは勿論、大抵は相談すべきだが、そのほうの分別次第にし、越後国に注進しなくてもよい。一.諸士軍役について、近郡の者は本軍役を2倍増に勤めさせること。
須田は徳川家に不満を持っていた真田昌幸と巧みに交渉し、上杉家に臣従させて真田幸村を人質に差し出させました。その後、裏切った真田を攻めようと徳川軍が上田城に押し寄せましたが、真田に撃退されました。これ以後は上杉・真田、徳川ともに豊臣秀吉の配下となり、その斡旋により両者の争いは終わりました。この海津城主更迭を契機に、一族の上条宜順は不満を持ち、豊臣秀吉に上杉家の人質として差し出されていた子の上条義真(上条宜順は能登守護畠山義隆の子で、上杉謙信の養子として越後へやってきて、景勝の姉を娶っていた。義真はその子)がいる京都へ出奔してしまいました。上条宜順は秀吉に相手にされず、最後に徳川家康の下へと行きました。
こうして上杉一門で力のあった2人が消え、残った信濃諸将の支柱であった山浦景国も取り除かれたので、ますます直江兼続の力が強まりました。そして戦国時代では珍しい、複数の家老職を廃止した直江兼続1人による執政が開始されるのです。これまでの景勝-直江の政治手法を分析すると、それまで信濃国の領主であった村上、高梨、井上などに従っていた小土豪を、上杉家中の各所に取り立てて独立させ、領地を越後国に与えて旧主の力を上手く奪いました。さらに家格を重んじる世の中で、門閥や古参を失脚させて須田など才能のある者を抜擢し、その巧妙の軽重によって知行を与えていくところに、織田信長・豊臣秀吉の手法を見本としているように思われます。
はじめにグラフで紹介した『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』は、ちょうどこの頃に作成されたものになります。ここで「元信州衆」と注記されている家臣を抽出すると、川中島4郡の統治がどのようなものであったかが分かります。統治の構成は、信濃衆として19人(苗字は須田、西条、井上、寺尾、綱島、大室、夜交、尾崎、清野、平田、島津、芋川、市川、岩井、松田、小田切、保科)、その他に長沼衆、葛山衆、奈良沢衆、中曽根衆、塩崎衆、東条衆、牧野嶋衆、小布施衆、須坂衆、尾崎衆、屋代衆、上倉衆、岩井衆、井上衆、上堺衆、市川衆、猿ケ馬場衆、今清水衆、西大滝衆、福嶋衆、飯山衆などから成り立っていました。また、越後衆に29人、五十騎衆に1人が出仕していたので、上グラフにある赤の「直江山城守」部分にも信濃諸将が多くいたことを認識しなければなりません。
それから13年間は平和が続きましたが、慶長3年(1598)上杉景勝は、豊臣秀吉より越後国・信濃国・越中国の領地に代わって会津若松城への移封を命じられました。新たな領地は加増となって「陸奥国の会津4郡(会津郡、河沼郡、大沼郡、耶麻郡)、岩瀬郡、安積郡、安達郡、信夫郡、白河郡、石川郡、田村郡、刈田郡。出羽国の置賜郡(長井郡ともいう)、庄内3郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)。佐渡国」の120万1200石となりました。この移封により、川中島4郡などの信濃諸将も移ることになり、彼等も加増されて各地に配属されました。この時は、信濃国上杉領を武田勝頼へ譲渡した際に行われた残留は許されず、耕作する者以外は全て会津へ移るように豊臣秀吉の直命が下されました。
※主な信濃諸将の配置は次のとおり。
陸奥国 安達郡 塩之松城
|
山浦(村上)景国
|
6,500石
|
2.9倍
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市川房綱
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6,700石
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2.0倍
| |
陸奥国 会津郡 伊南城
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清野長範
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11,000石
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2.6倍
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陸奥国 白河郡 白河城
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芋川正親
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6,000石
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1.3倍
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平林正恒
|
3,000石
|
1.1倍
| |
陸奥国 信夫郡 宮代城
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岩井信能
|
6,000石
|
2.0倍
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陸奥国 信夫郡 大森城
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栗田刑部少輔国時
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8,500石
| |
陸奥国 岩瀬郡 長沼城
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島津忠直
|
7,000石
|
1.1倍
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陸奥国 伊達郡 梁川城
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須田長義
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20,000石
|
1.7倍
|
上表のように、新たな上杉領の7城が信濃諸将に与えられました。家臣の石高は、No1、2と直江・大国兄弟が占めますが、No3は須田長義、No6は清野長範となりました。石高の増加率を見ると、山浦景国、清野長範、岩井信能、市川房綱が倍増して、これまでの活躍の程や直江の配慮が窺えます。
既に須田満親は海津城で死亡(一説によると自刃とあり、謎)していたので、息子の須田長義が跡を継いで梁川城(やながわ)に入りました。また、直江兼続の妹を妻としていた須田右衛門太夫景実(満胤、右京大夫ともある)は、慶長2年(1597)に景勝のお叱りを受けて浪人になったとあり、その後の様子は不明です。しかし『米沢御引移後分限帳』寛永8年(1631)には須田右衛門500石 三番衆とあり、これは慶長19年に許された子の須田満統(みつむね)になります。
岩井信能は景勝の信頼が厚く、会津3奉行の1人に任命されました。また、山浦景国はこれ以後史料に登場しなくなり、その後の様子は不明ですが、2代藩主 上杉定勝の時に、「別の者をもって山浦家を再興した」とあるので、既に死亡断絶していたと思われます。
その後の慶長5年(1600)、上杉景勝は関ヶ原の戦いにおいて、西軍側として伊達や最上と東北で戦闘を繰り広げたので、領地を大幅に削られて今度は米沢城30万石となりました。新たな領地は、出羽国置賜郡(山形県)、陸奥国信夫郡(福島県)、陸奥国伊達郡(福島県)の3郡だけでした。新領地における米沢藩政は続いて直江兼続執政のもとで進められ、慶長6年(1601)奉行兼置賜郡代に元武田家臣の春日右衛門元忠、福島奉行兼信夫伊達郡代に河田平右衛門正親と信濃諸将の平林正恒が任命されました。慶長13年(1608)に春日元忠が死亡すると、その跡を平林正恒が引き継ぎました。平林は後に「直江兼続の後継者」とまでいわれ、兼続死後は与板衆の支配も行いました。平林は米沢城下整備の奉行にも任命され、二ノ丸の東に安田、北に岩井(信濃)、三ノ丸の東に清野(信濃)・中条、北に色部・須田(信濃)などの屋敷を、城を守るかのように配置しました。さらにその後の寛永10年(1633)には、清野長範と島津利忠が奉行に任命され、もはや武田侵攻から約50年近く経ち、江戸幕府の時代では信濃諸将が上杉家の中核となっていました。この頃の米沢藩の構成を『米沢御引移後分限帳』寛永8年で見ると、最高位の侍衆(高家衆)3人のうち清野周防守が3,330石で筆頭、1番衆に芋川備前守・市川土佐守・平林内匠・須田親衛・仁科越中守・夜交弥左衛門、2番衆に岩井大学・芋川弥一右衛門・小倉民部、3番衆に井上宮内・須田右衛門、4番衆に筆頭で島津玄蕃・須田相模守・綱島外記・大室右馬がいました。また、直江兼続と大国実頼も既にいないことから、藩内で最高禄は安田上総4,333石(2番衆筆頭)で、No4清野、No6島津、No7芋川、No8市川と並んでいました。上杉領の本城は米沢城となりましたが、その他に置賜郡の高畠城・掛入石中山城・荒砥城・鮎貝城・小国の5城があり、伊達郡に梁川城、信夫郡に福島城がありました。このうち梁川城は、北にある伊達正宗の白石城(宮城県)に対する備えとして重要で、会津若松城時代から引き続いて須田長義が城代を務めました。梁川城代はこれ以後、寛文4年(1664)まで代々須田氏が世襲していきました。
参考までに現在のどの地が信濃諸将と関係していたのか判断できるように、彼等の知行地(300石以上)を紹介します。これら信濃諸将と由来を持つ地域は、現在の山形県南部にあたる米沢市、南陽市、長井市、川西町、高畠町などの米沢盆地になり、福島県では福島市、桑折町、伊達市など北部の阿武隈川流域でした。下表を見て分かるように、上杉家の信濃諸将は、米沢市域と福島市域にほぼ2分して知行地を頂戴していました。ほとんどが会津時代の3分の1に減らされていますが、江戸時代において大名の家臣で300石以上を与えられていること自体が優遇されています。石高の「3」という数字が多いのに気付きますが、何か縁起によるものでしょうか。
(誤字等ありましたらご容赦を)
清野周防守
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3330石
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置賜郡成田・塩野、信夫郡石茂田・高梨
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島津玄蕃
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2333石
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置賜郡一本柳・竹森、信夫郡荒戸鳥・和田
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芋川備前守
|
2273石
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置賜郡馬頭・中田・川沼・矢ノ目
信夫郡鎌田・平沢新田・上名倉・山田・小嶋田・大森
|
市川土佐守
|
2133石
|
置賜郡尾長嶋・堀金・小瀬、信夫郡内湯・半田
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須田相模守
|
2000石
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置賜郡高梨・郡山・大塚・高豆冠
信夫郡山崎・五十沢
|
岩井大学
|
1081石
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置賜郡川井・竹井・塩野
|
平林内匠
|
1000石
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置賜郡山上、信夫郡渡リ
|
松木内匠
|
1000石
|
置賜郡梨郷・福田・草岡、信夫郡内
|
井上宮内
|
800石
|
置賜郡漆山、信夫郡漆川・岡本
|
芋川弥一右衛門
|
666石
|
信夫郡平沢・山田新田
|
綱島兵庫
|
550石
|
信夫郡島和田・瓦子・矢野目
|
須田親衛
|
500石
|
置賜郡鴨生田、信夫郡五十辺
|
仁科越中守
|
500石
|
置賜郡一漆・信夫郡大舟
|
須田右衛門
|
500石
|
置賜郡安久津・李山
|
岩井右門
|
500石
|
置賜郡口田沢、信夫郡内
|
大室右馬
|
333石
|
信夫郡庄野・瓦子
|
夜交弥左衛門
|
300石
|
置賜郡一漆・信夫郡八島田
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さらに彼等は、戦国武将の常識とも言うべき自らの菩提寺を移転させました。参考までに嶽林寺(上倉氏)、明智寺(今清水氏)、泉秀寺(大滝氏)、常願寺(中曽根氏)、東源寺(尾崎氏)、仏母寺(上堺氏)、常円寺(奈良沢氏)、金剛院(岩井氏)、その他に小菅神社や和光明神も信濃国から会津を経て、米沢へ移されました。米沢市に行くと、まだ続いているお寺があります。これも彼等の足跡を知る一つの指標ともなりましょう。
以上のように、上杉家と信濃国がいかに密接であったか、お分かりいただけたでしょうか。今回、余談による調査に際して、米沢藩上杉家の歴史を知ろうとしたのですが、長野県内では各図書館や書店で全くと言っていい程関係書物がありませんでした。これでは一般の人達もその関わりを知ることができず、ましてやきっかけを得ることもできないので、多くの人に知られていないのは当然だと思います。それにより今回は『天地人』の放送にともなって余談としましたが、これを単に2007年に放送された『風林火山』の続編だと思ってもらえれば、すんなりと作品に入っていけると思います。残念ながら、放送では信濃国の者として真田昌幸と幸村が登場し、もしかしたら岩井信能と須田満親・長義が登場するか程度のものだと思われます。しかし、直江兼続の精神的な「義」という面を強調するだけでは番組として矛盾が生じますし、視聴者も飽きてしまいます。権力を手中していく歴史の本質に、信濃諸将が関わっていることを何らかの形で表現できたらと期待します。また、武田信玄と信濃国の関わりを、「侵略」=悪とするのか「英雄」=正義とするのか、NHKは『風林火山』の表現方法において、迷いを生じたていたと見受けられました。そして今回で『天地人』を選んだのは、その答えを正そうとしているのではないでしょうか。戦国時代では珍しい上杉謙信以来の気風。それを武田信玄より素晴らしいと認めなかった昭和の評価も終わり、正確な歴史が全国に知られようとしています。改めて上杉家には感謝する長野県人でした。
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