2015年5月5日火曜日

伴八矢



彦三一番丁洩野川小橋の近漣なり。有滞武貞の金滞細見回 鵠にいふ。小橋の縮りの震に一伴八矢屋敷を此地に賜ふと。 =一州志来因概覧附録にも、覚永十二年の悶践に町制大に改 る時、演野川大橋の銀の箆め久保市乙剣枇跡に西尾隼人長 昌第を置き、小橋の銀の錆め伴八矢の第を置き、東本願寺 末寺の銀の需めに永原左衛門を置かる L事、此割合皆此時 に在りといへり。



氏は、本国近江に τ、共の組を伴無理兵衛と一一ひ、織田 ハ宋enE促沼田目白骨三ム、 v 信長公に奉仕す。三子あり。長男無理兵衛と稽し、慶長四
年兄と共に利長卿に仕へたり。三男八矢長之もまた兄と同 じく利長卿に仕へ‘兄弟三人同時に奉仕する中にも、八矢は度々・加恩 K預り、四千五百石賜はり、人持組と成り、明 暦元年宛寸。共の子二子あり。長男雅楽助、後八矢と稀す。 新知千石賜はり、父の遺知共五千五百石を領し、共の子源 八後八矢と稀す。五千石を領し、五百石は弟数馬民配分す。 是より後子孫世々五千石を家織とす。

一容に云ふ。闘今回肌合 戦の時、加州より伴八矢とて.十五歳怠るを使者とたし出 されたり。松平伊豆守備の前を、馬上にていかにも静々と 通りける底、瓦州見 τ、彼は加資家の若者也とて、使者を 以て、陣中飛道具多く‘左様に静かに衆被v申候ては怪我 可v有。随分念ぎ被v申可v然哉と被昌申入吋八矢承り.甲を白 ぎ‘御心添之段近頃恭しと返答し、猶以て前方よりは一き は静かに遇りけり。豆州被v見、天晴能き勇士也と被v感し と也。また混見摘おに云ふ。伴八矢は発の侍也。或時傍軍 安見隠岐方にて灸を設しけるに、互に武功の勇士たれば. 古き箪物語り武道の食議共注しけるに、灸をすゆる若侍‘ 此物語を面白く訟もひも灸所を不v守、うかと噌を聞いて灸 の落ちたるを不v知。切灸のした Lかたるが落ちて、腰骨に 燃付き、煙立って不弘問。八矢少しも不hh幹也。哨終りて‘
 茶を呉れ候へと見返り、そとった男、先から火が落ちて腰 骨が燃ゆるが、何を見て居るぞと被v申ければ、若侍肝を消 し‘周章てもみ消しけり。八矢打笑ひ、軍明に聞きとれた
 るは殊勝なれども‘夫程うろたへては嬉しから宇という・・・・




http://www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kosekishi/kosekishi_942.pdf


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