蓮城は、飯山市蓮城や間にある比高65mほどの山城です。千曲川が大きく曲がる左岸にあり、小布施から飯山に至る最短距離を行く長嶺道の千曲川渡河点の腰巻の渡(『飯山市史」では蓮の渡or壁田の渡)のすぐ北側の独立した山上にあります。
城址へは、上信越道豊田飯山ICから国117号を飯山方面に向かい、約2kmで右折して蓮駅を目指します。駅の手前の三叉路に上組集落センターがあり、その南側の小山が城址です。集落センターの駐車場を借用させていただきました。
蓮城の築城主体や築城時期は、史料などがなく定かではありません。ただ、当地が南北期には高梨氏一門の所領の可能性が高く、小布施と飯山間を繋ぐ交通の要衝の「腰巻の渡」(現古牧橋)の監視・警備や渡しの駄賃徴収のための砦か設けられていたものと思われます。河川の渡し場を抑えることは、軍事的なものもありますが、それ以上に駄賃などの交通課税が膨大な権益で、国人の経済基盤として重要だったようです。
戦国期になり、武田氏の北信濃侵攻により弘治3年(1557)3月頃高梨氏が本拠地中野高梨館を退去して飯山城に入ってからは、飯山城の南の境目として重要視されていたものと思われます。永禄期に入るとさらに武田方の攻勢が強まり、永禄7年頃飯山口の陣地が武田方に占拠され、それが当城だったのではないかと宮坂氏は推定しています。永禄11年7月に武田氏が飯山城を攻め、当地の北方の上倉まで制圧し云いますので、この頃には完全に武田の支配下に置かれ、同年11月に赤沼島津氏の島津弥五郎が信玄から新地として蓮200貫を宛行されています。(武田信玄判物『戦国遺文武田氏編』第1326号)
出典
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/26962300.html
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