出典
http://www.yomono.server-shared.com/yodan/yomono6/
はじめに上グラフを見てください。
これは上杉景勝の時代に、貫高制から石高制へ改める際に作成された『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』から算出したものになります(禄高 3千石未満は「その他」として省略)。「緑色」が大国但馬守(兼続の実弟で、以前は小国と名乗っていた)や甘粕備後守など越後国の重臣で、「赤色」が直江山城守兼続、「黄色」が信濃国の者達になります。これを見て気付くこととして、上杉家は越後国といった印象が強いのですが、上杉景勝の時代では25%程度が信濃国の者達で構成され、直江山城守を中心に越後と信濃の者がほぼ均等にバランスを保つ体制であったことに気付きます。上杉家臣の中でも直江は5万3千石と群を抜いていますが、No2は須田の1万2千石、No5で島津6千石と、他の上杉家の古参者を差し置いて重用されていました。「須田、清野、島津、芋川、市川」?と、聞いたこともないような人物が居並んでいますが、須田が須坂市、清野が長野市松代・東条・西条など、島津が長野市赤沼から豊野など、芋川が飯綱町など、市川が栄村から野沢温泉村などと、皆が現在の長野市より北にあたる地域の小土豪でした。彼等がどのような経緯で上杉家臣となったのかは、主に次の3つに分かれます。
①武田晴信の侵攻に対して反抗し、敗れて上杉を頼った者。
②武田と上杉の抗争に巻き込まれ、最終的に上杉へ降った者。
③武田・織田と仕え、織田信長の死後に上杉へ降った者。
彼等が歩んだ3つのルーツをまとめようとすると、それこそ真に直江兼続を中心に書かれた『天地人』の内容を表すことになります。
遡ること16年前の、上杉謙信が越中国に出陣した際に作成された『上杉家中役方大概』天正5年(1577)において信濃諸将を探すと、御一門衆で「山浦源五」、御評定衆9人のうちで「島津玄蕃」、御奏者番4のうち「島津淡路守」、御組大将衆12人のうち「桃井主税助・高梨源太郎」、御番預衆8人のうち「岩井備中・井上将監」、御将足軽大将7人のうち「芋川勝八」、御先足軽大将16人のうち「市川惣四郎・栗田刑部少・清野高平」、御手眼預9人のうち「小田切半左衛門・諏訪部次郎衛門・清野市兵衛」、御長柄奉行6人のうち「大室源四郎・大滝土佐、清野因幡」、御大目付2人のうち「須田相模守」、御横目付6人のうち「岩井源蔵・西条全人」、道奉行2人のうち「栗林さふ助」と、最低21人を見出すことができます。さすがに御宿老や奉行衆は上条山城守や本庄美作守など越後国衆の者達で占められていますが、山浦国清(村上義清の子)が上杉一門の扱いを受ている点など注目され、その外の者達も評定や目付など中堅クラスの実務職に深く関わっていました。これにより、既に天文22年(1553)川中島の戦いから24年が経った謙信の時代から、信濃諸将が何らかの形にせよ、上杉家の家臣として深く利用されていたことが分かります。
御一門衆として登場してくる村上源五国清については、実のところ詳細が分かっていないのが現状です。しかし通説によると、村上国清は村上義清(元亀4年1573死亡)の子でしたが、上杉謙信の養子の形式により山浦上杉家の名跡を継ぎました。軍役帳でも他の御一門衆を差し置いて上杉景勝の次に列記され、天正7年(1579)には景勝から「景」字を頂戴して山浦景国と名乗りました。景勝は上条入道宜順と山浦景国だけに「殿」を付けて呼んでおり、明らかに他の年寄や家臣達とは別格に扱われていました。このように、謙信時代に主力とまで言えなかった信濃諸将が、上グラフの景勝時代になると、より重要な地位(年寄など)へと上昇しています。それがどのような経緯でなったのか、歴史の中で見てみましょう。
※但し、上杉家の歴史については多くの情報が発信されているので、ここでは要点だけを述べさせてもらいます。不明な方は『天地人』を御覧になるか、他のサイト等を参照してください。
@歴史編:
天正6年(1578)3月13日上杉謙信が病没した時、時代が大きく変化していきます。謙信には実子が無く、跡継ぎも指名しなかった為、養子の景勝と景虎が争いを始めました。ご存知のように旧関東管領上杉憲政の居住していた御館(上越市、おたて)を中心に争われたことから『御館の乱』と言われる騒動です。これにより上杉家中は2分に割れ、信濃諸将も分裂しました。景虎側として、東条佐渡守(長野市)は春日山城下に火を放ち、飯山城代であった桃井伊豆守は守備兵を率いて御館に来援しました。その他、岩井大和守、岩井式部なども景虎側に加わりました。しかし戦いは次第に景勝側が優位となり、天正7年(1579)3月24日景虎は逃げ込んだ鮫ケ尾城(妙高市)で自刃しました。こうして上杉景勝が跡を継ぐことになりましたが、1年余という長期の戦闘で領地や兵を失うなど謙信以前より大きく弱体化しました。そしてこの乱の後に上杉家から氏名が消滅する信濃諸将が見られます。これは、乱で景虎に従って討死したり、領地没収となったり、さらには信濃国上杉領は講和条件により武田勝頼に譲渡されることになったので、信濃国に残留して武田家臣になった者達がいたためになります。
御館の乱で、謙信時代の重臣を含めた景虎側の者達が多く消えたことで、上杉景勝を頂点とした新体制が生まれました。この時に初めて年寄(家老)となって頭角を現し始めるのが樋口兼続(天正9年に直江家を継ぐ)です。実績の無い20代の直江兼続が政権を手にするには、自分の思い通りになる軍事力が必要となりました。景勝に味方した上杉一門の上条宣順・山浦景国・山本寺景長の地位は重く、須田満親・竹俣慶綱・吉江宗誾・吉江信景らの年寄の存在も大きいものでした。こうした中で直江兼続は、信濃諸将の力を利用することを考え、まず自分の妹と須田相模守満親(みつちか)の子を縁組させました。さらに直江兼続の実父である樋口惣右衛門尉兼豊が、水内郡で最も力を持つ泉弥七郎重蔵の娘を妻としたので、信濃外様衆の力を得ることができました。泉氏(又は尾崎とも言う)一族には、上倉・今清水・上堺・大滝・中曽根・奈良沢・岩井があり、ほぼ水内郡全域と千曲川を挟んだ高井郡の一部まで影響を及ぼすことができました。彼等は御館の乱の後に、武田勝頼への譲渡で信濃国に残留したり、信濃国の領地を失って上杉家臣となる者に分裂しました。そして上杉家臣となった泉一族などは、景勝や直江兼続の直参(上田衆、与板衆など)に吸収されるなど、多岐にわたって上杉家中へと浸透していきました。
天正9年(1581)頃になると、加賀一向一揆を制圧して基盤を固めた織田信長が越中侵攻を本格化させてきます。戦況は悪化の一途を辿り、さらに上杉家の越中国防衛の要であった新川郡松倉城主の河田長親が病死しました。この危機に景勝は、越中国の五箇山一向衆と共闘して織田軍の侵攻を少しでも妨げようとして須田満親を送り込みました。須田氏(本家の井上氏)は鎌倉時代に親鸞へ帰依し、子や家臣6名を弟子にしてもらいました。そして修行を終えた彼等が戻って浄土真宗の寺院を高井郡内に建立するなど、300年以上にわたって一向宗との深い縁を持っていました。これにより越中国内の一向宗と上杉家のパイプとして須田満親は老練に働き、本願寺顕如(11世 光佐)や下間刑部卿法眼頼廉などと綿密に連携しました。しかし次第に越中国の今泉城や木船城を放棄しなければならない状況に陥り、魚津城を最後の防衛拠点として織田軍と熾烈な争いを続けました。
天正10年(1582)織田信長が武田討伐のために信濃・甲斐国へ攻め入り、3月11日武田勝頼が自刃して武田家は滅亡しました。景勝はこの機会に武田へ譲渡した旧上杉領を回復しようと、泉一族の岩井備中守信能などを飯山方面に派遣し、上杉に従うよう各地の土豪を誘いました。武田に残留した泉一族などは景勝に詫びて復帰し、芋川越前守正親は誘いにのり、一揆(主力は北信濃の一向一揆とされる)を率いて織田軍の森長可と戦闘を繰り広げました。しかし海津城と長沼城を占領した森長可の軍は強く、しだいに越後国内まで侵入を許すようになりました。こうして上杉家は、西の越中国と南の信濃国から同時に攻め込まれて危機にありましたが、6月2日織田信長が本能寺で討たれ、森長可は素早く撤退を開始しました。これにより7月を過ぎると、続々と信濃諸将が上杉景勝に降り、謙信も成し得なかった川中島4郡を完全に制圧しました。一方で6月3日越中国の魚津城が織田軍の猛攻によって落城し、籠城していた山本寺景長・竹俣慶綱らは討死しました。これにより家中での直江兼続の力がまた強まったとも言えます。そしてこちらも織田信長の死を伝え聞くや撤退を開始し、柴田勝家が越前国に退いたため、魚津城・小出城は須田満親率いる上杉軍が占拠しました。
上杉景勝は川中島4郡支配について海津城をその中心と定め、武田以前の村上氏による統治により秩序を保とうとしました。※各支配は下記のとおり。
高井郡 海津城(長野市)
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山浦(村上)源五景国
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高井郡 市川城(野沢温泉村)
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市川左衛門房綱
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更科郡 猿ケ馬場城(千曲市)
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清野助次郎長範
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更科郡 牧之島城(信州新町)
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芋川越前守正親
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更科郡 平林城(千曲市)
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平林蔵人佑正恒
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更科郡 稲荷山城(千曲市)
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保科佐左衛門
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水内郡 長沼城(長野市)
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島津淡路守忠直
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水内郡 飯山城(飯山市)
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岩井備中守信能
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武田滅亡の際に飯山城を守備していた、武田家臣の市川左衛門、河野因幡守、大滝土佐守、須田右衛門大夫は進んで城を引渡しました。それにより市川氏は、武田氏から安堵されていた領地(千曲川東の飯山市木島以北)をそのまま認められました。また、降伏した屋代左衛門尉秀正(千曲市)は、かつて村上義清の重臣であった縁をもって「榊木(坂城町)3ケ村」を安堵され、山浦景国の副将として海津城二ノ丸に配置されることになりました。こうして信濃国上杉領は松本城を拠点とする小笠原貞慶、岩櫃城(群馬県)の真田昌幸と接し、両者が徳川家康に臣従していたので、初めて徳川家と対立するようになりました。この時の支配は山浦景国に全ての権限を与えるのではなく、あくまでも上杉家の郡司にすぎないというものでした。さらに長沼城の島津と飯山城の岩井も同様の郡司に任命されたので、その権限が及ぶ範囲は水内郡の河北(浅川か裾花川と推定)以南、高井郡(市川が郡司であった可能性が高いが不明)、更科郡、埴科郡であったと推定されます。そして郡司は領内の公事・夫役の賦課と徴収権を持っていましたが、基本的に武田統治時代と同じようにするよう命令が下されました。
やがて天正12年(1584)山浦景国と屋代秀正が不仲となり、屋代は徳川家康の誘いを受けて、塩崎衆・室賀兵部などと荒砥城(千曲市)に立て籠もりました。屋代秀正は、上杉景勝が川中島4郡を制圧した時に、自身の荒砥城を対徳川に必要だとして上杉直轄(清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の交代在番)とされたので、元々不満を持っていました。徳川家康の後ろ盾を得た屋代秀正は、上杉軍の猛攻を2度耐え凌ぎ、撤退させました(後に落城して徳川に身を寄せ、徳川忠長の家老となります-小諸城主)。これにより上杉景勝は山浦景国を更迭して一族の上条宜順と交代させましたが、何らかの失敗があったとして更に天正13年(1585)6月須田満親を海津城主としました。徳川との交戦で一々越後国まで指示を仰いでいては対応しきれないとして、山浦景国や上条宜順の時とは違って、須田満親には全権が委ねられました。
一.4郡中の者、盗賊、逆心を企てるものがあれば、甲乙人によらず、すぐに糾明し、罪科の軽重について、流罪、死罪の沙汰をすること。一.諸国境のことは勿論、大抵は相談すべきだが、そのほうの分別次第にし、越後国に注進しなくてもよい。一.諸士軍役について、近郡の者は本軍役を2倍増に勤めさせること。
須田は徳川家に不満を持っていた真田昌幸と巧みに交渉し、上杉家に臣従させて真田幸村を人質に差し出させました。その後、裏切った真田を攻めようと徳川軍が上田城に押し寄せましたが、真田に撃退されました。これ以後は上杉・真田、徳川ともに豊臣秀吉の配下となり、その斡旋により両者の争いは終わりました。この海津城主更迭を契機に、一族の上条宜順は不満を持ち、豊臣秀吉に上杉家の人質として差し出されていた子の上条義真(上条宜順は能登守護畠山義隆の子で、上杉謙信の養子として越後へやってきて、景勝の姉を娶っていた。義真はその子)がいる京都へ出奔してしまいました。上条宜順は秀吉に相手にされず、最後に徳川家康の下へと行きました。
こうして上杉一門で力のあった2人が消え、残った信濃諸将の支柱であった山浦景国も取り除かれたので、ますます直江兼続の力が強まりました。そして戦国時代では珍しい、複数の家老職を廃止した直江兼続1人による執政が開始されるのです。これまでの景勝-直江の政治手法を分析すると、それまで信濃国の領主であった村上、高梨、井上などに従っていた小土豪を、上杉家中の各所に取り立てて独立させ、領地を越後国に与えて旧主の力を上手く奪いました。さらに家格を重んじる世の中で、門閥や古参を失脚させて須田など才能のある者を抜擢し、その巧妙の軽重によって知行を与えていくところに、織田信長・豊臣秀吉の手法を見本としているように思われます。
はじめにグラフで紹介した『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』は、ちょうどこの頃に作成されたものになります。ここで「元信州衆」と注記されている家臣を抽出すると、川中島4郡の統治がどのようなものであったかが分かります。統治の構成は、信濃衆として19人(苗字は須田、西条、井上、寺尾、綱島、大室、夜交、尾崎、清野、平田、島津、芋川、市川、岩井、松田、小田切、保科)、その他に長沼衆、葛山衆、奈良沢衆、中曽根衆、塩崎衆、東条衆、牧野嶋衆、小布施衆、須坂衆、尾崎衆、屋代衆、上倉衆、岩井衆、井上衆、上堺衆、市川衆、猿ケ馬場衆、今清水衆、西大滝衆、福嶋衆、飯山衆などから成り立っていました。また、越後衆に29人、五十騎衆に1人が出仕していたので、上グラフにある赤の「直江山城守」部分にも信濃諸将が多くいたことを認識しなければなりません。
それから13年間は平和が続きましたが、慶長3年(1598)上杉景勝は、豊臣秀吉より越後国・信濃国・越中国の領地に代わって会津若松城への移封を命じられました。新たな領地は加増となって「陸奥国の会津4郡(会津郡、河沼郡、大沼郡、耶麻郡)、岩瀬郡、安積郡、安達郡、信夫郡、白河郡、石川郡、田村郡、刈田郡。出羽国の置賜郡(長井郡ともいう)、庄内3郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)。佐渡国」の120万1200石となりました。この移封により、川中島4郡などの信濃諸将も移ることになり、彼等も加増されて各地に配属されました。この時は、信濃国上杉領を武田勝頼へ譲渡した際に行われた残留は許されず、耕作する者以外は全て会津へ移るように豊臣秀吉の直命が下されました。
※主な信濃諸将の配置は次のとおり。
陸奥国 安達郡 塩之松城
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山浦(村上)景国
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6,500石
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2.9倍
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市川房綱
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6,700石
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2.0倍
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陸奥国 会津郡 伊南城
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清野長範
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11,000石
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2.6倍
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陸奥国 白河郡 白河城
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芋川正親
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6,000石
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1.3倍
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平林正恒
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3,000石
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1.1倍
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陸奥国 信夫郡 宮代城
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岩井信能
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6,000石
|
2.0倍
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陸奥国 信夫郡 大森城
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栗田刑部少輔国時
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8,500石
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陸奥国 岩瀬郡 長沼城
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島津忠直
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7,000石
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1.1倍
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陸奥国 伊達郡 梁川城
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須田長義
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20,000石
|
1.7倍
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上表のように、新たな上杉領の7城が信濃諸将に与えられました。家臣の石高は、No1、2と直江・大国兄弟が占めますが、No3は須田長義、No6は清野長範となりました。石高の増加率を見ると、山浦景国、清野長範、岩井信能、市川房綱が倍増して、これまでの活躍の程や直江の配慮が窺えます。
既に須田満親は海津城で死亡(一説によると自刃とあり、謎)していたので、息子の須田長義が跡を継いで梁川城(やながわ)に入りました。また、直江兼続の妹を妻としていた須田右衛門太夫景実(満胤、右京大夫ともある)は、慶長2年(1597)に景勝のお叱りを受けて浪人になったとあり、その後の様子は不明です。しかし『米沢御引移後分限帳』寛永8年(1631)には須田右衛門500石 三番衆とあり、これは慶長19年に許された子の須田満統(みつむね)になります。
岩井信能は景勝の信頼が厚く、会津3奉行の1人に任命されました。また、山浦景国はこれ以後史料に登場しなくなり、その後の様子は不明ですが、2代藩主 上杉定勝の時に、「別の者をもって山浦家を再興した」とあるので、既に死亡断絶していたと思われます。
その後の慶長5年(1600)、上杉景勝は関ヶ原の戦いにおいて、西軍側として伊達や最上と東北で戦闘を繰り広げたので、領地を大幅に削られて今度は米沢城30万石となりました。新たな領地は、出羽国置賜郡(山形県)、陸奥国信夫郡(福島県)、陸奥国伊達郡(福島県)の3郡だけでした。新領地における米沢藩政は続いて直江兼続執政のもとで進められ、慶長6年(1601)奉行兼置賜郡代に元武田家臣の春日右衛門元忠、福島奉行兼信夫伊達郡代に河田平右衛門正親と信濃諸将の平林正恒が任命されました。慶長13年(1608)に春日元忠が死亡すると、その跡を平林正恒が引き継ぎました。平林は後に「直江兼続の後継者」とまでいわれ、兼続死後は与板衆の支配も行いました。平林は米沢城下整備の奉行にも任命され、二ノ丸の東に安田、北に岩井(信濃)、三ノ丸の東に清野(信濃)・中条、北に色部・須田(信濃)などの屋敷を、城を守るかのように配置しました。さらにその後の寛永10年(1633)には、清野長範と島津利忠が奉行に任命され、もはや武田侵攻から約50年近く経ち、江戸幕府の時代では信濃諸将が上杉家の中核となっていました。この頃の米沢藩の構成を『米沢御引移後分限帳』寛永8年で見ると、最高位の侍衆(高家衆)3人のうち清野周防守が3,330石で筆頭、1番衆に芋川備前守・市川土佐守・平林内匠・須田親衛・仁科越中守・夜交弥左衛門、2番衆に岩井大学・芋川弥一右衛門・小倉民部、3番衆に井上宮内・須田右衛門、4番衆に筆頭で島津玄蕃・須田相模守・綱島外記・大室右馬がいました。また、直江兼続と大国実頼も既にいないことから、藩内で最高禄は安田上総4,333石(2番衆筆頭)で、No4清野、No6島津、No7芋川、No8市川と並んでいました。上杉領の本城は米沢城となりましたが、その他に置賜郡の高畠城・掛入石中山城・荒砥城・鮎貝城・小国の5城があり、伊達郡に梁川城、信夫郡に福島城がありました。このうち梁川城は、北にある伊達正宗の白石城(宮城県)に対する備えとして重要で、会津若松城時代から引き続いて須田長義が城代を務めました。梁川城代はこれ以後、寛文4年(1664)まで代々須田氏が世襲していきました。
参考までに現在のどの地が信濃諸将と関係していたのか判断できるように、彼等の知行地(300石以上)を紹介します。これら信濃諸将と由来を持つ地域は、現在の山形県南部にあたる米沢市、南陽市、長井市、川西町、高畠町などの米沢盆地になり、福島県では福島市、桑折町、伊達市など北部の阿武隈川流域でした。下表を見て分かるように、上杉家の信濃諸将は、米沢市域と福島市域にほぼ2分して知行地を頂戴していました。ほとんどが会津時代の3分の1に減らされていますが、江戸時代において大名の家臣で300石以上を与えられていること自体が優遇されています。石高の「3」という数字が多いのに気付きますが、何か縁起によるものでしょうか。
(誤字等ありましたらご容赦を)
清野周防守
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3330石
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置賜郡成田・塩野、信夫郡石茂田・高梨
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島津玄蕃
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2333石
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置賜郡一本柳・竹森、信夫郡荒戸鳥・和田
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芋川備前守
|
2273石
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置賜郡馬頭・中田・川沼・矢ノ目
信夫郡鎌田・平沢新田・上名倉・山田・小嶋田・大森
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市川土佐守
|
2133石
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置賜郡尾長嶋・堀金・小瀬、信夫郡内湯・半田
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須田相模守
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2000石
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置賜郡高梨・郡山・大塚・高豆冠
信夫郡山崎・五十沢
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岩井大学
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1081石
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置賜郡川井・竹井・塩野
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平林内匠
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1000石
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置賜郡山上、信夫郡渡リ
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松木内匠
|
1000石
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置賜郡梨郷・福田・草岡、信夫郡内
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井上宮内
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800石
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置賜郡漆山、信夫郡漆川・岡本
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芋川弥一右衛門
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666石
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信夫郡平沢・山田新田
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綱島兵庫
|
550石
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信夫郡島和田・瓦子・矢野目
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須田親衛
|
500石
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置賜郡鴨生田、信夫郡五十辺
|
仁科越中守
|
500石
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置賜郡一漆・信夫郡大舟
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須田右衛門
|
500石
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置賜郡安久津・李山
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岩井右門
|
500石
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置賜郡口田沢、信夫郡内
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大室右馬
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333石
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信夫郡庄野・瓦子
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夜交弥左衛門
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300石
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置賜郡一漆・信夫郡八島田
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さらに彼等は、戦国武将の常識とも言うべき自らの菩提寺を移転させました。参考までに嶽林寺(上倉氏)、明智寺(今清水氏)、泉秀寺(大滝氏)、常願寺(中曽根氏)、東源寺(尾崎氏)、仏母寺(上堺氏)、常円寺(奈良沢氏)、金剛院(岩井氏)、その他に小菅神社や和光明神も信濃国から会津を経て、米沢へ移されました。米沢市に行くと、まだ続いているお寺があります。これも彼等の足跡を知る一つの指標ともなりましょう。
以上のように、上杉家と信濃国がいかに密接であったか、お分かりいただけたでしょうか。今回、余談による調査に際して、米沢藩上杉家の歴史を知ろうとしたのですが、長野県内では各図書館や書店で全くと言っていい程関係書物がありませんでした。これでは一般の人達もその関わりを知ることができず、ましてやきっかけを得ることもできないので、多くの人に知られていないのは当然だと思います。それにより今回は『天地人』の放送にともなって余談としましたが、これを単に2007年に放送された『風林火山』の続編だと思ってもらえれば、すんなりと作品に入っていけると思います。残念ながら、放送では信濃国の者として真田昌幸と幸村が登場し、もしかしたら岩井信能と須田満親・長義が登場するか程度のものだと思われます。しかし、直江兼続の精神的な「義」という面を強調するだけでは番組として矛盾が生じますし、視聴者も飽きてしまいます。権力を手中していく歴史の本質に、信濃諸将が関わっていることを何らかの形で表現できたらと期待します。また、武田信玄と信濃国の関わりを、「侵略」=悪とするのか「英雄」=正義とするのか、NHKは『風林火山』の表現方法において、迷いを生じたていたと見受けられました。そして今回で『天地人』を選んだのは、その答えを正そうとしているのではないでしょうか。戦国時代では珍しい上杉謙信以来の気風。それを武田信玄より素晴らしいと認めなかった昭和の評価も終わり、正確な歴史が全国に知られようとしています。改めて上杉家には感謝する長野県人でした。
上杉家家臣知行高の冒頭のグラフが表示されません。この中に「松田」とあるのが、親戚の方の先祖であるかと思われますので、是非そのグラフを見られるように表示していただけないでしょうか。
返信削除信州の上杉家臣が、どんな経緯で、米沢へ行ったのか、分かりやすい、ご解説 ありがたく拝見。
返信削除今、牧野島、香坂、葛山にいた先祖のこと、勉強中です